第2話

それでも明けない夜はなく、俺にも朝は訪れる。朝食を食べて準備を済ませたところで、まったりロシアンティーを楽しんでいる菜乃に声を掛ける。

「歯を磨いて、顔を洗ってこい」

「ロシアンティー」

 単語で話すな、単語で。半分寝てるな、こいつ。

「ロシアでもソ連でも良いから、顔を洗ってこい。遅刻するぞ」

「ふむ」

 菜乃はため息を付き、それでもダイニングを出て行った。こちらは朝から疲労感満載で、部屋に戻って布団に潜り込みたいくらいだ。

「これが太郎のお弁当で、これはなっちゃんのお弁当」

「ああ」

 母親から受け取った2つの弁当を自分のリュックに収めて背負う。初めは勿論菜乃に渡していたが、普通に置き忘れて行く事が多いため結局俺が持っていく事になってしまった。

 ああ見えて勉強は出来る方で、運動神経も抜群である。ただ日常生活に付いての素養が、根本的に欠けている気がする。

「なっちゃんの事よろしくね」

「ああ」

 

 洗面台の前でぼんやりと鏡と睨み合いをしていた菜乃を半ば引きずるようにして、俺達はようやく家を出た。

 通学には電車を利用していて、この時間帯は本数が多いため1本2本乗り遅れても問題はない。とはいえふらふらしている菜乃を連れている現状では、多少なりとも余裕を持ちたいところだ。

 ホームへ入ってきた電車へ乗り込み、反対側のドア前に菜乃を立たせる。

 俺達が降りる駅までこちら側のドアは開かないので、言うなればベストポジション。言動はともかく見た目は美少女なので、その辺は気を遣う。

「太郎は窓際が好きだな。将来、そういう願望でもあるのか」

 近くにいるサラリーマンが陰気な顔をするから、そういう事を言うのは止めて欲しい。

 駅を出て同じ制服姿の集団の流れに乗って歩くと、すぐに高校が見えてくる。俺達はここに通う1年生で、菜乃は2学期からの転入生という扱いである。

 教室に到着した所でようやく俺も一息付き、椅子に崩れて天井を見上げる。

「太郎、喉が渇いた」

「ほら」

 大きめの水筒を渡すと、菜乃はそれに口を付けて飲み始めた。

「くっ、殺せっ」

 でもって、にまにましながらほうじ茶を味わっている。

 頼むから、普通に飲んでくれよ。


 そんな事がありつつも午前の授業が全て終わり、ようやく昼休みが訪れる。

「おい」

 思わず弁当にそう声を掛け、じっと凝視する。中が空とか得体のしれない物が入っていたという事ではない。入っていたのは見慣れた食べ物だが、弁当の中身としては珍しい部類だと思う。いや、あり得ないと言った方が正確か。

「うどん?」

 菜乃は俺の弁当を見て、小首を傾げた。まあ、これを見て疑問を抱かない方がどうかしてるか。

 ちなみにつゆはうどんの脇に添えられている金魚のあれに入っているよう。仕方なくわずかなつゆを注ぎ、出来るだけかきまぜてからすする。

「……伊勢うどんか」

 それならつゆが少ないのも道理と言える。弁当にうどんをチョイスした道理は、皆目見当もつかないが。

 ただ弁当の中身について1度文句を付けたら、1ヶ月近く日の丸弁当だった事がある。それ以来、弁当に何が入っていようと母親に告げる台詞は「美味しかった」だけ。実際まずい物は入ってないので、台詞自体は間違えていない。

 根本のところでは、大きく間違えている気もするが。

 では菜乃もうどんをすすっているかと言えば、さにあらず。彼女の弁当箱には白いご飯が入っていて、おかずもごく普通である。小脇にプチトマトが添えられ、彩りにも配慮されている。

 同居している事は一応隠しているので、弁当の中身を変えるのはそのカムフラージュと言えなくもない。俺の弁当に伊勢うどんを入れる理由は、1つとして無いのだが。

「太郎はいつも風変わりな物を食べてるな」

 アスパラのベーコン巻きを食べながら、菜乃が俺の弁当箱を覗き込んできた。こいつはそういう事に疎いので、余計な説明はせずただ頷いておく。

「母親に余計な迷惑を掛けるのは良くないぞ」

 それはむしろ、俺の台詞なんだけどな。


 午後の授業が終わった所で帰り支度をしていると、見知らぬ男子生徒が教室内へ入ってきた。上履きの色からして上級生で、明らかに俺達の方へと歩いてきている。

「菜乃、先に帰ってくれ」

「太郎は」

「すぐに行く」

 男子生徒が入ってきたのとは反対側のドアから菜乃を送り出し、そちらへ向かおうとする男子生徒の行く手をふさぐ。

相手は茶髪を緩くウェーブさせて香水だかコロンだかの匂いをさせた、いかにもといった感じ。目的は間違いなく菜乃で、それを妨害した俺には敵意のこもった視線が向けられる。

 言動はともかく菜乃の容姿は美少女なので、この手の手合いには事欠かない。

「どけよ、ガキが」

 お前もガキだろとは言わず、愛想笑いを浮かべて頭を下げる。

「済みません。俺達、もう帰るところなので」

「お前に用は無いんだ。さっきの女を連れてこい」

「本当、済みません」

 さらに頭を下げ、そのまま腰を落とす。そして男が構わず俺の脇を通り抜けようとしたところで、床に手を付き頭をこすりつける。

「この通りですっ、勘弁して下さいっ」

 あらん限りの声を張り上げ、土下座をしたまま男の足にしがみつく。正直それを振り解くのは簡単で、俺もこの体勢から何かをするのは少し難しい。

 ただ土下座をして足にすがりつかれた経験など、大抵の人間には無いはず。俺を笑い飛ばすのはやはり簡単だが、嫌と言う程注目が集まっている状況である。

 しかも一方的に俺を虐げている構図であり、それでもなお自分の意志を貫ける程この男が強靱な精神を持っているとは思えない。

「は、離せっ」

「済みません、本当に済みませんっ」

「や、止めろっ」

 振り上げた足が軽く俺の肩に当たり、その勢いを使って後ろに転がる。椅子は吹き飛び机は倒れ、悲鳴を上げる女子生徒をも現れる。

「済みません、済みません、済みませんっ」

「うぁーっ」

 最後は男も悲鳴を上げ、俺を置いて教室を飛び出ていった。さすがにこの後で菜乃達を追いかけるとは思えないし、取りあえずは一件落着だ。

 体に付いた埃を払いながら立ち上がり、倒れた机や椅子を元に戻して自分の席へと戻る。クラスメートの反応は様々で、冷ややかだったり失笑気味だったり。

 とはいえまたいつもの事だという態度が大半を占め、大した関心は示されない。つまり俺は何かあるとすぐに土下座をする情けない男というのが、このクラスにおける評価となっている。

 それでも俺をからかえばさっきの男と同じ目に遭うのも分かっているため、余計なちょっかいを掛けられる事はない。

 

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