マクガフィン

 講堂には、普段と異なる緊張感が漂っていた。中間試験が終わったばかりの生徒たちは、結果の良し悪しによる落ち着きのなさを感じさせながらも、壇上に立つ人物を注視していた。


 アレスタ・クローリー――学院長であり、学院そのものの象徴ともいえる存在。その姿は異質ですらあった。銀髪に近い白髪が美しく揺れ、深い碧眼が生徒一人一人を見つめるように巡る。その眼差しには温かさと冷徹さが奇妙に共存していた。


 火星車ひぐるまハルトは初めて学長を見て、感心していた。

(編入してきたから学長をみたのはこれが初めてだけど、思ったより若いんだな……)


「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。中間試験を終えたところで少し肩の力を抜きたいところでしょうが、今日は学院の本質について改めて話させていただきます。おそらく、この場の多くの人が、この学院をただの『異世界体験を楽しむ場所』と捉えていることでしょう。しかし、それは半分しか正しくありません」


 アレスタは一拍置き、会場を静かに見渡した。

 その視線は、彼の言葉のひとつひとつが、生徒全員の心に響くことを確信しているようだった。


「この学院が目指しているもの――それは単なる娯楽ではなく、『可能性の探求』です。異世界体験実習という名のもと、我々がシミュレータ内に再現しているのは、ただの空想の世界ではありません。異世界における経済、政治、文化、科学、魔法――それらすべては、現実世界に存在する問題や可能性の投影でもあるのです」


「では、なぜ異世界を舞台にするのか。それは、現実の常識や制約を超えた発想を育むためです。君たちはこれまで、物理法則に基づいた現実的な問題解決を学んできました。しかし、これからはその枠を超える時です。『マクガフィン』の導入――つまり、現実には存在しない物質や技術、法則を扱うことにより、想像力の限界を広げます。単なる知識ではなく、発想の飛躍を求めるのです」


「たとえば、君たちは今後、現実ではありえない技術や生物を相手にすることになるでしょう。魔法、錬金術、異形の存在……それらは一見、荒唐無稽なものに思えるかもしれません。しかし、それを現実にどう応用できるかを考え、活用する力を養うのが、このカリキュラムの真髄です」


 アレスタはその場で歩を進め、壇上から一段と強い声で語りかけた。


「覚えておいてください。この学院が目指すのは、君たちがただ『異世界でのヒーロー』になることではありません。君たち自身が新しい現実を創造し、未来を切り拓く人材となること。それが『東京I.S.E.K.A.I.転生専門学院』の真の目的です!」


 会場に静寂が訪れる。生徒たちは誰もがアレスタの言葉に圧倒され、深く心に刻むような表情をしていた。


 アレスタは一瞬の沈黙を経て、穏やかな微笑を浮かべた。

「さあ、次のステージへ進みましょう。君たちの想像力と創造力に期待しています。」


 会場はやがて拍手で満ち、講堂全体が未来への希望に包まれた。



 集会が終わると、ハルトたちは教室に戻った。廊下を歩く間も、生徒たちの間ではさっきのアレスタの演説や『マクガフィン』の話題で持ちきりだった。ハルトは自分の席に着きながら、教室に充満するざわめきに耳を傾けた。


 鬼塚先生が教壇に立つと、教室の騒がしい空気が少しずつ静まっていった。彼女はいつもの冷静な視線で生徒たちを見渡し、カツンとヒールを鳴らして注意を促す。


 「静かにしてください。それでは、説明を始めます」

 それだけで教室は一瞬にして沈黙に包まれた。鬼塚先生の存在感は、どんな生徒にも逆らわせない威厳を漂わせている。


 だが、その沈黙の中にも、生徒たちの内心はざわざわとした期待で満たされていた。『マクガフィン』という言葉に聞き覚えのある者はほとんどいない。それでも、その響きには何か特別なものが宿っているように感じたのだ。


 鬼塚は生徒たちの表情を楽しむように軽く微笑むと、静かに説明を始めた。

 「『マクガフィン』――この学院ではそう呼んでいますが、実際には現実世界には存在しない物体、物質、生物、法則、技術などを総称したものです。異世界シミュレータにおけるさらなる挑戦として、この非現実的な要素をミッションに組み込む予定です」


 教室内がざわついた。『非現実的な要素』という言葉に、生徒たちの想像が一気に膨らむのが伝わってくる。


「これにより、皆さんは従来の物理法則に縛られない創造的な思考を鍛えることができます」


 その言葉を聞いた瞬間、みひろが勢いよく手を挙げた。

「先生、それって、もしかして魔法とか魔物とかも含まれるんですか!?」

 彼女の瞳は期待に輝き、体を前のめりにして鬼塚先生を見つめる。


 鬼塚先生は肩をすくめ、少し楽しそうに答えた。

「そうとも言えます。ただし、これは単なるファンタジー体験ではありません。異なる法則や存在にどのように対応し、活用するかが試される『実習ミッション』です」


 みひろはその言葉に「ついに来た!」と小さくガッツポーズをした。隣でハルトが思わず苦笑する。


 みひろの反応を見ながら、美玲が顎に手を添えて小声で呟いた。

 「ふむ……確かに魔法や魔物が登場するとなると、これまで以上に物理や論理が通じない場面が増えるわね。でも、現実世界に還元できる知識がどれだけ含まれるのかしら?」


 黒髪をさらりと揺らしながら、美玲は冷静に目を細めた。彼女にとって、ファンタジーそのものにはさほど興味はない。しかし、それが現実的な知識にどう結びつくのかには強い関心を持っているようだった。


 鬼塚先生が補足する。

「厳密には、これまでの商業都市ミッションでの異世界語や、砂漠ミッションの水路遺跡も、ある意味でマクガフィンの一種でした」

 

 美玲は顎に手を添えながら、鬼塚先生の言葉に静かに頷いた。その表情はいつものように冷静だが、目の奥には興味の光が宿っている。


(なるほど、異世界語や水路遺跡もマクガフィンに分類されるのね。確かに、あの商業都市の帳簿や砂漠の遺跡の仕組みを解明する中で、私たちは未知の状況を理解し、それに対処する方法を学んできた。それをさらに拡張した概念がこのマクガフィンというわけか……)


 黒髪をかき上げながら、美玲は軽く息を吐いた。

 ハルトの横顔が視界に入る。彼が何かを考え込むように窓の外を見ているのを見て、美玲はふっと微笑んだ。


「ま、あなたたちにとっては魔法がどうとかの方が重要なんでしょうけど」

 少し意地悪そうな口調でそう言うと、みひろが「何それ、意味深な言い方しないでよ!」と抗議の目を向けてくる。


 「別に深い意味はないわ。ただ、私はこのマクガフィンが単なる娯楽ではなく、どんな学びを提供してくれるのか、そちらに興味があるだけよ」


 一方で、月奈は黙って鬼塚先生の説明を聞いていた。その銀髪が窓から差し込む光を受けて淡く輝いている。彼女は表情を変えず、ただ静かに視線を前に向けているだけだった。


 「……それって、俺みたいな力で物を解決する奴にも関係あるのか?」

 野牛宗冬はハルトに小声で問いかけた。彼の大柄な体躯が教室の机には少し窮屈そうに収まっている。


 「どうだろうな。でも、マクガフィンって現実にはないものってことだろ? それを使って、戦ったり守ったりするのもアリなんじゃないか?」


 ハルトの返事を聞いても、宗冬の表情は曇ったままだった。

(俺に想像力とか創造的な思考を試すミッションなんて、正直無理じゃないか……)

 彼は内心でそう呟いたが、声には出さなかった。


 鬼塚先生が最終的に総括する。

 「これまでのミッションでは、皆さんが現実世界で学んだ知識をそのまま応用できる場面が多かったと思います。ですが、マクガフィンの導入により、既存の知識を応用するだけでは不十分な状況が生まれるでしょう。新しい法則を学び、それを活用するスキルが必要になります」


 その言葉に、教室は再びざわめき始めた。生徒たちの間には期待と不安が入り混じった雰囲気が漂っている。


 ハルトはそのざわめきの中で、鬼塚先生の言葉を反芻していた。

(新しい法則、新しいスキル……これまでのやり方が通じない世界か。けど、俺たちはそこに挑戦するためにここにいるんだよな)


 ハルトは胸の高鳴りを抑えきれず、静かに拳を握りしめた。

 教室の窓の外には夕陽が差し込み、生徒たちの影が長く伸びていた。その影の中で、それぞれの決意や期待が静かに形を成していくのだった。



 その夜、クローリー邸の食堂。

 上品な内装が施されたその空間は、館の他の部分とは少し異なり、どこかプライベートな雰囲気が漂っていた。温かみのある照明が銀の燭台を柔らかく照らし、壁には落ち着いた色合いの絵画が掛けられている。机上には簡素ながらも上質なディナーが並び、食器ひとつひとつが細やかな意匠を凝らしていた。


 アレスタ・クローリーは、銀髪をなでつけた堂々とした姿で椅子に座っていた。


「我が娘ルナよ、調子はどうだ?」

 アレスタが口を開いた。食器を持つ手は動かさず、その碧眼が静かに月奈を見つめている。

「君のは再発動可能か?」


 その向かいには、御船月奈――否、ルナ・クローリーが静かに食事を進めている。二人の間には、一見穏やかだが、どこか張り詰めた空気が流れていた。


 月奈はフォークを置き、少しの間沈黙した後、口を開いた。

「拾ってくれたことには感謝してる。でも、正直に言えば、あまり期待しないでほしい」

 彼女の声は穏やかだったが、その中にはどこか不安と戸惑いが滲んでいた。

「もしかしたら、アレは私の力ではなく、単なる現象だったのかも」


 アレスタはその言葉に対して、何も表情を変えない。だが、彼の瞳には揺るぎない光が宿っている。

「その可能性は低い」

 静かだが断定的な口調でそう言い放つと、ナイフを一度皿に戻した。

「君がそう感じるのも無理はない。だが、私の知識と経験から見て、あれが単なる現象型だとは到底思えない。それに、例えそうだとしても――」


 アレスタはそこで一度言葉を切り、ゆっくりとワイングラスを持ち上げた。その液面が揺れるたび、食堂の光が赤い波紋となって彼の指先を彩る。

「――それならば彼に期待するとしよう」


(彼……というと。ハルト君……?)


 アレスタはワイングラス越しに彼女を見つめ返した。口元には微かに笑みを浮かべながら、声色は変えない。

 月奈の内心の迷いをよそに、アレスタは再びワイングラスを静かに置いた。その音は、月奈にとっては妙に大きく聞こえた。


「ルナ、君が思っている以上に、彼の存在は重要だ。そして、君自身も」

 アレスタはその言葉を残すと、ナイフとフォークを持ち直し、再び食事に向き合った。


 月奈は何も言わず、再びフォークに手を伸ばす。けれども、彼女の頭の中には、アレスタの言葉が繰り返し響いていた。

 食堂に広がる静けさは、むしろ次の瞬間の嵐の予兆を思わせるようだった。


 月奈は視線を落とした。ハルトの存在が学院に何をもたらすのか。アレスタの言葉は期待に満ちていたが、月奈にとって、それは同時に不安を伴うものでもあった。

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