第十七話
細やかな細工の門扉をくぐり、花々のアーチを抜けた先に妖精はいた。
「ご機嫌麗しゅう、ネルフィナ様。お招きいただきありがとうございます」
招待されたのはアーネスティア邸。ネルフィナ様の御家だ。庭園は高位貴族のオーソドックスに則りつつも爛漫と咲く花が夢見心地にさせてくれる。
「ご機嫌ようエリエス。かたくならないでちょうだい。他の人は招いていないし、灰色頭も登城したから。今日は私とのお茶を楽しみましょう?」
カップを傾けながら白猫を思わせる笑みがこちらに向けられる。
「菓子が好きなのよね。あまり詳しくないのだけれど、ランに用意させたからきっと気に入ると思うわ」
ネルフィナ様の合図とともにテーブルに様々な菓子が並んでいく。チーズパイ、クロカンブッシュ、ホールケーキは互い違いに別のピースで円を描いている。ラムの香りが漂うパウンドケーキは断面からドライフルーツがのぞき、鼻をくすぐる。
菓子舗をそのまま持ってきたかのように所狭しと並べられた菓子に呆然とする。
「数を絞りなさいってランには言われたのだけれど、あなたを驚かせたかったの。ごめんなさいねエリエス」
ジンジャーブレッドに口付けながら微笑んでいるのに妖精の麗姿を保っているネルフィナ様に感服する他なかった。
「私ね。恋の話がしてみたかったの」
嬉々として目を輝かせる姿は女神も裸足で逃げ出すことだろう。その様だけで万難を排し此の世の宝物すべてを捧げたくなってしまう。
「私はキーファが大好きだけど、ランとの婚約があったからお友達と恋の話はしたことがないの」
ザスマン家とアーネスティア家は侯爵同士。家格も高く両家の婚約は一朝一夕で覆せるものではない。当人とその家族だけでなく親類、繋がりのある他家と多岐に影響がある。いくら自由恋愛が昨今の流行とはいえ儘ならぬものはまだある。
「このあいだ博物館でデートをしたのよね。手を握ったり、抱きしめ合ったり?」
胸の前で両の指先を絡めながら問うてくる妖精は実に美しかった。頬は薔薇色でこの様子を垣間見た男性がいればたちまちに恋に落ちていたことだろう。
「あの、ネルフィナ様。ご期待に添えず申し訳ないのですが、私とランヴァルド様は恋人同士というわけではありませんよ?」
途端、ネルフィナ様の顔色が変わる。心苦しいが嘘偽りを申し上げるわけにもいかない。
「どうして!?」
「も、申し訳ありません」
「あなたが謝る必要なんて欠片もないわ。猶予を与えてあげたのに。あの熊鷲、どうしてくれようかしら……」
妖精の美貌が怒りのためか表情を消していく。数瞬、黙されて顔を俯けられた後に絶佳たる笑顔を向けてくださった。お怒りが静まったのだろうか。
「ねえエリエス。私、力仕事は苦手だけれどいざという時は類まれなる力を発揮できると思うの。少しあの男で試してみたいわ?」
「お茶を飲みましょうネルフィナ様!」
その提案に頷いたら最後、ヴァル様に明日の朝日を拝する未来は訪れないだろう。
恐れ多くもネルフィナ様の手を握り、役者不足ではあるが心を落ち着けていただくよう言葉を重ねた。
しばらく眉根を寄せておられたけれど、皿のジンジャーブレッドがなくなる頃には平静を取り戻してくださった。
「私も是非ランヴァルド様とは今よりも親しい関係になりたいと願っているのですが、情けないことに幼なじみとの婚約はまだ続いておりまして」
まずはこの関係の清算からだ。
「ネルフィナ様とランヴァルド様のようにお互いが納得なさっているのなら道理も通ります。ですが、あの子に話を通していないのです」
エルクが言質を取った、とは言っていたが疑似恋愛というあやふやなことに関するものだろう。それとあの子たちは張り合うと突拍子もないことを口走る傾向がある。喧嘩腰の軽口の応酬で言葉尻をとらえたものであることは想像に難くない。
家の展望にも関わる婚約だ。一言も無しに反故にすることはできない。
「真面目ねエリエス。そんなところも素敵だけれど」
真面目なのだろうか。順序を踏まず押し通した場合に訪れる支障を踏み越える力が無いだけの気がする。
「……ネルフィナ様、常々思っているのですが私のどこをお気に召していただけたのですか?」
初対面の時からとてもお優しく、まるで妹のように甘やかしてくれるのは何故なのか。
「あら、教えていなかったかしら。あなた、私が小さい頃なりたかったお姫様のようなのだもの」
自分のことを魔女に例えたことは何度もあるが、お姫様とはいったい。
「すらりと伸びた背丈に均整の取れた四肢。顔立ちも怜悧だけど表情が穏やかだからふとした瞬間が愛らしい。性格も控え目で守ってあげたくなるわ。最も私も昔はもうちょっと大人しかったらしいわ。よく覚えていないけどね?」
こ、この方はほんとうに! 他愛もない一言すらも劇薬になるような、夢のような美貌を持っているのに性格すらも素直で太刀打ちができない。
「でもね、エリエス。道義に反しない程度ならちょっと大胆になってもいいと思うわ」
紅茶を口にしながらネルフィナ様が続ける。
「ある意味あなたは今、我慢をしているわけでしょう?」
ネルフィナ様の言葉に心当たりがあり、俯く。ヴァル様はとても紳士的で、エスコートの際も部下の姉に対する常識的な距離を保つ。早い話、手を取ってくださることはあるが、お互いの指を交わすような繋ぎ方や抱擁をなさってくれることはない。
臙脂の瞳が彼の私への気持ちをこれ以上ないほどに伝えてくるから、その心を疑ったことはないが、私だって少しは欲が出てくる。
「男は骨抜きにするくらいでいいの。それが彼らの幸せよ」
紅茶を飲みながらとんでもないことを仰せられる。
「ネルフィナ様ほど美しければその境地に至るのも頷けるのですが……」
彼女に手玉に取っていただけるというお触れが出されれば男性は大挙をなしてこの屋敷に訪れるだろう。
「エリエス、このことに美しさは関係がないの。容貌で屈服させるのも手ではあるけど、あなたには私にない魅力が既に備わっているわ」
カップをテーブルに置いたネルフィナ様の手がこちらに伸ばされる。レースの手袋に包まれた華奢な指先は職人が心血を注いでも作り出せないものだ。
「素直になって甘えてご覧なさい。迷惑など考える必要なんてないわ。己を律せなかった向こうの過失よ」
大胆な言葉とは裏腹に月女神の可憐な笑顔は保たれている。先日訪れた喫茶店で借りた本の一節が頭をよぎった。
月の光は、ただ人を狂わせるのだと。
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