第十四話
舞踏会の次の日の朝、寝過ごしてしまったせいかエルクはもういなかった。
(そういえば早馬の件はどうなったのかしら)
まあ、あの弟のことだから抜かりはないのだろう。鈴を鳴らしカレンを呼ぶ。
「おはようございます。お嬢さま」
「おはよう。ごめんなさい、待たせてしまったわね」
「いいえ、お疲れだったのでしょう。本日御髪はいかがなさいますか」
「そうね、今日も……」
言いかけて、止まる。ほんとうにちょっとした出来心。これで何かが変わるわけでもない。
「今日も、昨日と同じ髪形にしてちょうだい」
私の心が少し変わったから。これはそんな顕れだ。
「かしこまりました」
忠実なメイドは意見を差し挟むこともなく職務を全うしてくれた。
己への嫌悪から解き放たれた間、何を考えよう。長年自分を悩ませた婚約のこと? それとも破天荒な弟のこと? はたまた借金の残る領地のことだろうか。
それでも今朝は臙脂の瞳を持つ彼のことを考えていたかった。いつか手を放されるとしても、今この時が幸福なことは事実なのだから。
「どうしてエリエスと付き合ってないのよこの灰色頭! 本当に信じられない!!」
夜会から数日後。ネルフィナの声が私室に響いていた。
「なんの話だよ。そもそもキーファから聞いていなかったのかい。彼女とはひと夏、そういった風の関係になるだけだと」
「聞いているわよ。聞いてる上で本当になってしまえばいいと思っていたわこの朴念仁!!」
仮にも自分達はまだ婚約者同士なのだがこの仕打ち。
「君とキーファのことは僕だって数年前から了承済みだし、なんの影響もないだろう。何が不満なんだい」
「そんなこと百も承知よ! でも、珍しくあなたが女の子を口説いているのを見てしまってはこっちもその気になってしまうじゃない」
その思惑は薄々感じていたがいよいよ隠す気がなくなったようだ。しかしちょっと待ってくれ。今何を言ったこの娘。
「もしや、聞いていたのか。ダンスホールのあれを……?」
エリスの前でのみ饒舌になる己の醜態を。
「見るに決まってるじゃない。こんな楽しいこと。ついでに言えばバルコニーでも近くに控えていたわ」
悪びれもせずに言うネルフィナに目眩がした。これに関しては己の不用心かもしれない。姉たちとネルフィナの中では二十年以上前から僕の人権は死滅している。
「頼むからそっとしておいてくれ。これ以上はかき回さないで。これから手紙を書くんだから、ほら行った行った」
小さな背中を押し、退室を促す。扉の前に控えていたキーファにネルフィナを引き渡し扉をゆっくりと閉めていく。あまり早すぎるとドレスを挟む恐れがあるからだ。
「これで済むと思わないことね! 精々首を洗っておきなさいな。キーファ、作戦会議よ!」
「仰せのままに、姫……まあ数日は持つだろうけど、それ以降は責任が取れんから。頑張れ、ラン!」
力強くも心許ない友からの言葉を背中に受け、扉は完全に閉まった。
「……今の僕は彼女にとっては年上ってだけだ」
家族には話せない悩みを打ち明けられる、距離を持った顔見知り。
「でも別にこのままでいるつもりはない」
彼らの謀略ともいえないものに乗ったのは自分だ。
手始めに種を手配しよう。あの日、彼女が見ていたコルネアを。芽吹くかも定かでない種を育てよう。彼女から取り上げた、彼女を思う権利を行使して、美しいエリエスを思いながら花を咲かせる。いつか彼女にコルネアのつぼみを贈れるように。
今、彼女は何を思っているのだろうか。それが己のことであればこれ以上に幸福なことはない。そんな有り得べからざることを考えながら、愚か者は手紙を認める。
許されるなら、薔薇の小路を抜け、君との時間を過ごしたい。大春車菊の咲く頃に返事をどうかいただけないだろうか。
菫色の封筒に手紙をしまい、一息つく。言い知れぬ幸福に浸りながら頭を抱えた。遅くに得たはしかは治まる兆しが全くなかった。
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