第九話
フェルナータ邸から出発した馬車が到着したのは、先日ランヴァルド様と出くわした公園だった。
五日前に手紙が届き、例の菓子舗に一緒に行かないかという誘いが来たのだ。エルクは生憎同行できない日だったが、付添人を同行させるので来てほしいとのことだった。
(ご家族でもいらっしゃるのかしら)
ランヴァルド様の家族のうち、姉君さま方は既に嫁いでいるが全員この国に残っている。この時期であれば王都にもいらっしゃるかもしれない。
馬車の窓がゆるく叩かれる。カーテンを開けるとランヴァルド様の顔があった。
「店の方にも馬車は停めておけますが、気が急くでしょうから。御者には丁度良い頃合いに迎えに来るように頼みました」
なんというか、卒がない。八つ上の彼だが八年後に果たしてこのようになれるのだろうか。
「レディ、お手をどうぞ」
声と共に手を差し出される。礼儀作法に則ったものではない気遣いからのものだった。
「慣れてらっしゃいますね」
胸元で指を組みながら口をついたのは、まったく愛らしくない言葉だった。
やってしまった。ただでさえ真っ赤な頭が長身で目立っているのに。心根の暗さを愛嬌で誤魔化さねばならないというのに。
もっとも、普段から愛嬌はとても危ういのだが。
「いえ、まともに女性をエスコートするのは久し振りです」
笑顔で流してくださったことが有り難いはずなのに、彼の心になんの波風も立てられなかったことにいじけた気分になってしまう。
手をひかれ、生け垣の切れ目から看板も立て札も無い小径を進んでいく。ひとりでは決して踏み入ることが無かっただろう。
「馴染みの客しか知らないのですが、店の裏手に小さな庭園がありまして、中々に過ごしやすい」
薄紅や黄檗の小さな薔薇が咲いている。香りを確かめ、歩みを再開させようとすると頭が引っ張られる。髪をきつく纏めた分、華やかさを足そうと飾りのあるリボンを長めに垂らしていたのでそれが引っかかったのだろう。
「申し訳ありませんが、少々お待ちください」
リボンがあるであろう場所に手を伸ばそうとする。少しの棘はあるだろうが、小さなものだ。気にするほどではない。
「――自分が取ります。エリス、きみはおとなしくしていてください」
薔薇の茂みと自分の背の間にランヴァルド様が立ち、リボンを検める。
「エリス、頭を後ろに傾けてもらっても? そう、ゆっくり……そこで止まって」
お互いの身体がとても近い。リボンと薔薇の棘に集中している彼は気付いていないだろうが、傍から見れば言い訳ができないほどだ。
ライトブルーの、レースが繊細なリボンはその精緻さがお気に入りの由縁ということもあり中々の難敵のようだ。
「……一度、リボンを解いてください。その方が取りやすいでしょうし」
距離に耐えかね、提案した。
「失礼します」
ランヴァルド様の声とともにリボンが解かれた瞬間、赤髪が重力にしたがって肩に落ちる。直前まで結わいていたこともあって、あまり広がらないことが救いだ。
髪を下ろしたままにもしておけないので、後ろ手に整えていく。名ばかりの伯爵家なので、実はメイドがいなくても簡単な身支度くらいはできるのだ。それでも毎朝の支度をカレンにお願いしているのは彼女とのひとときが自分にとってかけがえのないものだから。
「見事なものですね」
あとはピンで後れ毛を留めれば見苦しくない程度には整うだろう。
「メイドには自分の仕事を取らないでくれ、とよく言われます」
カレンとのやりとりを思い出し、少し笑みがこぼれてしまった。
「……私は自分の赤髪が好きではありませんが、それ以上に好ましくないのは赤髪を厭う己自身なのかもしれません」
両親やご先祖から賜った赤髪。弟も色合いこそ違えど似た髪の色をしている。
「この陰気な性格が多くの方に好かれずとも、せめて自分だけでも己を好かなければ」
そうは思っていても中々難しいものがある。特に昨今は快活な令嬢が求められる時勢でもあるし。気にしないように過ごそうとしても思い知らされるものがある。
お前は時代遅れな上に、そんな己を変えることも愛することもできないどうしようも無い存在なのだと。
いつもの自縄自縛に陥り、俯いていると穏やかな声が降ってくる。
「己の何もかもを好く必要はないと、私は思っています」
鳥のような瞳孔の瞳がこちらに向いていた。
「個々人によって好ましいと思うものは様々です。私たちは甘いものが好きですが、そんな味覚すら普遍のものではない」
若葉を手遊びに撫でながら言葉が続けられる。指の先には赤い斑点が散っている。薔薇の棘でついた傷だろう。そのことに後悔が滲む。
「自分の中に何か、良いと思えるものがひとつでもあれば重畳。たとえ何もないとしてもそれは悲観することではない」
誰に好かれずとも、己すら自分の価値を見出せずとも。
言葉は紡がれていく。大仰さはなく、炉端の火のように心を暖めていく。
「生命は存在を脅かされるべきではない。愛されることや価値を理由にすれば、必ず取りこぼされる者が出てきますから」
そんな方々の手助けをするのが、我々公のものでもありますし。
そう続けたランヴァルド様はとても大人びていて、以前幼い笑顔を見せてくれたとは思えないほどだった。
「……長々話しましたが、要は自分に価値を見出そうとするとろくな目に遭いませんよ。という年上の忠告です」
アカデミーの頃、討論の議題として「人間の意味」を話し合いましたが、結論として「人間に意味はない」が覆せませんでしたので。
遠い目で思い出を語る彼の笑顔はなんだかちょっと煤けていた。
薔薇の茂みから少し歩くとヴァル様の言うとおり、小さいながらもよく手入れされた庭が広がっていた。
「エルクは残念ながら予定がつきませんでしたが、絶対に誤解されない立会人もおりますのでご安心ください」
ついと向けられた手にしたがって視線を動かせば白銀に輝かんばかりの美貌の令嬢が紅茶を楽しんでいた。
ネルフィナ様だ。
言葉を交わすのは初めてだが、その存在は貴族子女の憧れであり、あまりにも有名だ。
妖精の姫君のような繊細で優美な佇まい、天上の調べのごとき麗しさのお声、身分のかけ離れた相手にも分け隔て無い御心。
ガーデンテーブルに近づく。ネルフィナ様は私の姿を認めると緩く笑んだ。
「初めまして、エリエス。ネルフィナ・アーネスティアでしてよ。楽になさって」
ひとさし指を下唇に添えながら挨拶する姿すら絵になっていて思わず見とれてしまう。
「は、初めまして。エリエス・フェルナータと申します。お会いできて光栄です」
三つ上の方を形容するには相応しくない言葉だけど、愛らしい!
ビスク・ドールを思わせる肌理の細かい肌にお伽話の姫様のようなあどけなさの顔つき。
美というものには様々な形があるけど、私にとっての美の極致はネルフィナ様だ。憧れずにはいられない。
「……ネルフィナ、ティーポットをこちらに」
「まあ、あなたが給仕をするの? 私がやってもよろしいのに」
「……仮にも君は良家の子女で非力なんですから。テーブルクロスを琥珀色に染め上げたくはないのですよ」
「あら、分かってるじゃない。ティーカップより重いものは要相談よ!」
なんというか、圧倒される。妖精のように愛らしいネルフィナ様が、ちょっとした木よりも背の高いランヴァルド様に臆することなくテンポの良い会話を投げかけている。
「エリエス、あなたもお掛けになって。お茶会をしましょう?」
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