それでも僕たちはベッドを下りなくてはならない
中川大存
それでも僕たちはベッドを下りなくてはならない
暗闇の中、無遠慮な電子音が鳴り響く。
最初に浮かぶのは、純粋な不快感だ。
なんだろう、この嫌な音は──半秒ほど遅れてその問いに対する答えもまた、曖昧模糊とした意識の奥底から浮かび上がってくる。そうだ、これは目覚まし時計の音だ。そう確信すると同時に、僕は今現在の自分の状態をようやく理解する。僕は今の今まで眠っていて、前夜にセットしておいた目覚まし時計のアラームに起こされたのだ。
その現状認識の次に来るのは、底なしの絶望感である。この快い空間──自分の体温からなる温もりに満たされたベッドから這い出て着替えをし、顔を洗い歯を磨いて、食事をとらなくてはならない。おまけに、と僕はうんざりしながら心の声で付け足す。最悪だ、今日は月曜日じゃないか。
今日は月曜日──日常にありふれたフレーズではあるが、起床直後に出くわすと生きる気力をねこそぎ奪われてしまうことにかけてこれ以上に効果的な言葉を僕は知らない。今日は月曜日、月曜日なのだ。明日は火曜日であり、その翌日は水曜日、さらにその次は木曜日であることを示している。何を当たり前のことを、と呆れないでもらいたい──これはすなわち、目覚まし時計のアラームに気分を害されることなく幸せな夢の世界に滞在できる朝が二日経っても三日たっても訪れないことを示しているのだから。気の遠くなることに、その美しい朝が訪れるのは実に五日後なのである。休日明けが最も休日から遠い、という残酷な現実を、睡眠から覚醒した直後の僕の脳は容易に受け入れようとはしない。
どうにかして今この手に掴んでいる幸せを手放さずに済む方法はないのだろうか。つまり、起き上がって仕事に行く準備をしなくて良い策はないか、と僕は考える。毎週欠かさず同じことを考えているから、思いつく案がすべて実現不可能なことはすでに確認済みだ。何か理由をでっちあげて出勤時間を繰り下げる、仮病を使って仕事を休む、いっそ仕事を辞める──その他もろもろの、もっとひどい案もすべてもう一度検討する。徐々に明瞭になる意識が、結局のところ潔く諦めて仕事に行くのが一番デメリットがない、と結論を出す。他のアイデアはすべて何らかの犠牲を払う必要があるのだ。たった一度の惰眠を得るために捨てなくてはならないものがこうも多いとは、人間社会はやはり大いに間違った方向に進化してしまったに違いない。僕は向ける場所のない大きな憤りを抱えたまま、むくれた表情を浮かべてようやく起き上がる。
捗らない身支度をもそもそと続けながら、僕は頭の中でなおも理不尽さを覚えている。
「どうして?」
その根源的な問いに答えはない。問いを深堀りし精神の深淵に沈むより、考えずただ従うことを社会は求めているのだ。そしてそれに抗う力は今の僕にはない。要するに、出勤しなければならないという現実の前で不貞腐れている僕に構ってくれるほど世界はぬるく出来上がってはいないのである。そこまで考えて、ようやく僕は諦める。殺さば殺せ、というやぶれかぶれな思いを抱きながら愛すべき我が家を出る。
道路、信号待ちの交差点、駅のホーム、電車の車両──あらゆる場面で居合わせる人々がやはりほんのすこし不貞腐れているように見えるのは、僕の願望ゆえだろうか。だとしても、僕はそう認識して少しだけ溜飲を下げる。
出勤を後に控えた月曜日の朝とは大いなる悲劇であり、理不尽な受難であり、一点の曇りもない幸せな人生を送るためにぜひとも撃滅しなくてはならない敵である。あらゆる戦争や紛争がこの地上からなくなることを心から願う僕ではあるが、月曜日の朝とだけは共存できるとは思えないし、したくもない。
それでも、僕たちはベッドを下りなくてはならないのだ。
それでも僕たちはベッドを下りなくてはならない 中川大存 @nakagawaohzon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ありふれた大学生の日記/花空
★3 エッセイ・ノンフィクション 連載中 264話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます