第3話 森の支配者ー〝影蜘蛛〟
――湿った土の匂いが漂い、深い森の中では微かな光さえも奪われるようだった。木々はその枝を絡ませるように広げ、地面に届く日差しはほとんどない。薄暗い空間の中で、アルスとマルタは影蜘蛛の痕跡を追い続けていた。
「……気をつけろ。ここから先は本格的な巣の領域だ」
アルスは険しい表情のまま、背後にいるマルタに短く告げた。彼の声には、これまで以上に緊張感が滲んでいる。
「うん、わかった! ……でも、蜘蛛の巣すごいね! こんなに大きいの作れるなんて、ちょっと感動しちゃう!」
能天気な調子で感嘆するマルタに、アルスは振り返りもしないで低く返事をした。
「感心するな。奴に見つかったら命を落とす」
「うわ、怖いこと言うね……でも、アルスおじさんがいれば大丈夫でしょ?」
「おじさんじゃない」
アルスは眉間に皺を寄せながら、歩みを進めた。影蜘蛛の巣の跡が一層濃くなり、彼の周囲の木々には、どれもこれでも糸が絡まっている。糸の色は黒ずんだ灰色を帯びており、まるで金属のように光沢を放っている。それらの糸が何層にも重なって巣を形作り、その間には骨のようなものが絡まっていた。
「これ……動物の骨?」
「たぶんな」
アルスは地面を見下ろし、細かい骨片が蜘蛛の巣に絡まっている様子を確認した。その中には鳥や小型動物だけでなく、明らかに人間のものと思われる骨も混じっていた。
「……もう引き返したほうがよくない? 危なそうだよ?」
「嫌なら帰れ」
「あーもう! そういうことじゃなくて、アルスおじさんが心配なんだよ!」
アルスは一瞬だけマルタの顔を見つめたが、何も言わずに再び歩き出した。少女の無邪気な発言に対してどう反応すればいいのか、彼には分からなかった。
森の奥へ進むにつれて、空気は一層重くなり、湿り気が増してきた。地面に広がる苔や腐葉土は、ところどころ粘つくような感触を帯びている。
「……ここだ」
アルスは立ち止まり、前方の開けた空間を指さした。その先には、巨大な蜘蛛の巣が広がっていた。幾重にも重なった糸が樹々を繋ぎ、まるで巨大なドームのように空間を覆っている。その中央には大きな穴が開いており、そこから中に入れるようになっていた。
「巣……本当にあるんだね」
マルタが声を低くして呟く。その目には好奇心と恐怖が入り混じっていた。
「ここが奴の住処だ。だが……」
アルスは周囲を警戒するように見渡した。
「……奴がいない?」
「うん? いない方がいいんじゃないの?」
「そういう問題じゃない」
影蜘蛛がいるはずの巣が、空っぽだという事実に、アルスは違和感を覚えていた。魔獣が巣を空けることは珍しいことではないが、ここまで巣が完璧に保たれている状態で主がいないのは不自然だ。
「どこか近くに潜んでいるか、あるいは……」
アルスがそう呟いた瞬間、風が木々を揺らし、微かにカサリという音が聞こえた。それは後ろからだった。
「伏せろ!」
アルスの叫びと同時に、彼はマルタを腕で引き寄せ、地面に身を伏せた。その直後、黒光りする何かが頭上を通り抜け、ドスンと大地に突き刺さった。
「うわっ! な、なに今の!?」
「影蜘蛛だ……」
アルスが振り返ると、そこには蜘蛛のような形状をした巨大な生物がいた。全身を覆う黒い甲殻は鋭い輝きを放ち、その八本の足は槍のように細長く、地面に突き刺さるたびに不気味な音を立てた。無数の目が光を反射し、アルスとマルタを捕らえるように動いている。
「本当に……おっきい蜘蛛だね」
「感心してる場合か。隠れていろ」
アルスは立ち上がり、背中の剣を引き抜いた。その動作には無駄がなく、長年の戦いで培った技術が垣間見える。影蜘蛛は彼をじっと見据え、次の瞬間にはその足を鋭く振り上げた。
「来るぞ!」
アルスが叫ぶと同時に、影蜘蛛は高速で突進してきた。その動きは巨体からは想像できないほど素早く、アルスは剣を盾代わりにして足の一撃を受け止めた。
「……思ったより速いな」
アルスは一瞬の隙も許さない集中力で影蜘蛛の動きを追った。その足は地面に突き刺さるたびに周囲を破壊し、毒を含んだ糸を撒き散らしている。
「アルスおじさん、頑張って!」
マルタが木の陰から声を上げた。その声を聞いて、アルスは小さく舌打ちをする。
「お前は黙ってろ!」
影蜘蛛が再び突進してくる。アルスは剣を振り下ろし、蜘蛛の甲殻に直撃させた。しかし、その硬さは並大抵のものではなく、剣の刃は表面をかすめるだけだった。
「厄介だな……」
アルスは後退しながら次の手を考える。その間も影蜘蛛は糸を吐き出し、周囲をさらに自分の領域へと変えていく。
「弱点はどこだ……?」
アルスがその目を細めた瞬間、影蜘蛛の動きが一瞬止まった。その全身が振動するように揺れ、次の瞬間にはさらに大きな糸を吐き出した。
「まずい、避けろ!」
アルスの叫びが響く中、戦いはさらに激しさを増していく――。
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