第2話 森の主の足跡
――深緑の霊域。濃密な湿気が森全体を覆い、日中でも暗闇に包まれたこの場所は、人々にとって長く〝立ち入り禁止〟の地だった。
アルスは、腕の中で眠るマルタの軽さを感じながら森を進んでいた。少女の無邪気な口調にイライラしつつも、見捨てることができなかった自分を内心で呪う。彼の目的は、この森に巣食う魔獣【影蜘蛛】の討伐だ。それがクエストの報酬に直結する以上、どんな事情があろうと中途半端な行動は許されない。
「……まずは安全な場所を探さないと」
彼は少女を木の根元に降ろし、彼女が目を覚ますのを待つ。目の前の少女――マルタの外見は、アルスの目にも印象的だった。泥と血で汚れてはいるものの、その長い金髪は陽の光が差せば輝くような輝きを放つだろうことが容易に想像できた。その髪は腰まで届くほど長く、絡み合った草や枝が、その小さな体でどれほどの苦境を乗り越えたのかを物語っている。彼女の顔立ちはまだ幼さが残るが、微かに笑みを浮かべる口元は活発さを感じさせた。手足にはいくつもの擦り傷やあざがあり、服は薄汚れ、あちこちが裂けていた。しかし、そんな状況でも彼女の存在にはどこか底抜けの明るさがあった。
アルスはふと、自分の汚れた手が彼女の金髪に触れることを避けたのに気づいた。こんな無骨な自分が、彼女のような小さな命を抱えているのが不思議に思えたのだ。
彼自身の外見も、またその無骨さを体現していた。30代後半の冒険者らしい体は厚い筋肉で覆われているが、派手さはない。その背中には巨大な剣を背負い、肩に掛けた革製のコートは戦いと旅の痕跡で擦り切れていた。短く刈り揃えられた黒髪と鋭い目つきが、彼を冷たく、あるいは不愛想に見せている。口数も少なく、その無愛想さは見た目だけでなく態度にも表れていた。
彼の顔にはいくつもの浅い傷跡が刻まれているが、どれも特別目立つものではない。しかし、それらが彼の長い冒険者としての人生を語る証であることは明らかだった。彼の目には森の暗がりを通して鋭く周囲を観察する光が宿っており、その表情からは隙を見せない緊張感が感じられる。
アルスは何度も言葉を選びかけては、結局黙るという癖があった。誰かと長く話すことを避けてきた結果、口下手で短い言葉しか出てこない。それが、彼自身を孤高の存在にしている理由の一つだった。
マルタが大きく伸びをしながら目を覚ました。
「んー……おじさん、まだ森にいるの?」
「おじさんじゃない。アルスだ」
「でもおじさんっぽいから……まあいいや。それより、ここ何してるの?」
「影蜘蛛を探してる」
「影蜘蛛……? おっきい蜘蛛?」
「ああ。村の近くに現れた魔獣だ。こいつを討伐するのが俺の仕事だ」
「ふーん。おじさん、大変だねー」
能天気な声に、アルスは返答する気を失った。彼は立ち上がり、改めて周囲を見渡す。辺り一帯は静まり返り、風が木々の間を吹き抜ける音だけが響く。しかし、わずかに漂う腐臭と奇妙な形の蜘蛛の巣が、影蜘蛛がこの近辺を支配していることを物語っていた。
「ここから先は慎重に行く。無駄口を叩くな」
「えー、もうちょっと話そうよ」
「黙れ」
「……冷たいなー」
不満を口にするマルタを半ば無視する形で、アルスは先に進んだ。森はさらに暗く、異様な雰囲気を増していく。足元には無数の蜘蛛の糸が絡まり、そのほとんどが毒を含んでいることをアルスは一目で見抜いた。
「おじさん、これ何?」
マルタが近くの木に絡まる糸を指差した。アルスはそれをちらりと見て、短く答える。
「影蜘蛛の巣の一部だ。触るな」
「毒があるの?」
「ああ。軽く触れただけで手がただれる」
「こわっ! ……でも、すごいなー、こんなの作れるんだね」
アルスは一瞬だけ彼女に目を向けた。その目は純粋に驚きと興味に満ちていた。危険な存在だと分かっていながら、それを恐れるよりも「すごい」と言える無邪気さに、彼はどこか呆れたような感情を覚える。
「感心してる場合か。さっさと行くぞ」
アルスはマルタを促しながらさらに奥へ進む。すると、周囲の風景に明らかな変化が現れた。地面には動物の骨が散らばり、蜘蛛の糸が一層密集している。木々の幹には無数の糸が絡まり、いくつかの木はその重みで倒れていた。
「ここまで来ると……」
アルスは言葉を切り、慎重に周囲を観察する。影蜘蛛の巣の中心部に近づいているのは明らかだった。しかし、何かが違う。糸の密度が濃すぎるのだ。
「これ、移動した跡だな」
「移動? 蜘蛛って巣を動かすの?」
「ああ。影蜘蛛は一箇所に留まることを嫌う。一定期間狩りを続けると、食料が尽きる前に住処を移す。それで生き延びてきた魔獣だ」
アルスは地面をじっと見つめた。蜘蛛の巣が不自然に引きずられたような跡が見える。それは、森のさらに奥へと続いていた。
「食料が尽きたから……もっと獲物がいる場所に移動したってこと?」
マルタが首をかしげながら尋ねる。アルスは無言で頷いた。
「どこに行ったんだろうね?」
「それを探しに行く」
「へー。さすが、おじさん!」
「だからおじさんじゃないと言ってるだろ」
不満げに答えながらも、アルスの視線は鋭かった。影蜘蛛がどこへ移動したのか、その痕跡を追うことが、次の戦いへの準備に繋がる。
「ついてこい。足元に気をつけろ」
「はいはい!」
マルタは能天気に返事をしながら、アルスの背中を追いかけた。影蜘蛛がどこに向かったのか――森の奥へと続くその道が、二人に次の難題を突きつける予感を漂わせていた。
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