孤独なオッサンと、無邪気な少女のスローライフ冒険譚
Mr.Six
第1話 孤独な冒険者と無邪気な少女
――森を歩く足音が、枯葉の上で小さく響く。風は冷たく湿っており、どこか不吉な匂いを漂わせていた。
アルスは険しい顔を崩すことなく、森の奥深くを目指していた。重たい大剣を背負い、彼は誰とも口を利くことなく黙々と進む。木々に覆われた視界の先で、何かの気配がする。それでも、彼は眉ひとつ動かさない。
この森は【深緑の霊域】と呼ばれる、人里から遠く離れた鬱蒼とした森林地帯だ。その名前の由来は、木々が異常なほどの緑を湛え、常に湿った空気を漂わせていることにある。この森には、古くから霊的な存在や未知の生物が棲むとされ、村人たちには忌み地として恐れられてきた。
今回のクエストは、その森に現れたという【影蜘蛛】の討伐だった。影蜘蛛――闇色の甲殻を持ち、獲物を捕らえるために森全体を巣にしてしまう巨大な蜘蛛型魔獣。すでに村近くの家畜が次々と消える被害が報告されており、このままでは村全体が飢餓に見舞われかねない状況だった。
「魔獣相手なんていつものことだが……また面倒な奴を引き受けちまったな」
アルスは低くつぶやき、背後に背負った大剣の重みをわずかに感じた。影蜘蛛は普通の魔物とは違い、素早い動きと絡め取る糸を駆使して獲物を狩る。さらに毒性を持つその糸は、ちょっとしたかすり傷でさえ命を危険に晒すほどの危険性がある。それでもアルスにとっては、他の冒険者が手を引くようなS級クエストですら〝いつもの仕事〟の一つでしかなかった。
彼が独りでこれらの仕事をこなす理由は単純だ。誰も信用しない。それだけだ。
――かつて、仲間がいた頃の記憶がふと頭をよぎる。背を預け合い、共に笑い合った日々。それが終わったのは、一人の仲間が裏切った瞬間だった。あの夜、自分の背に突きつけられた冷たい刃の感触を、アルスは今でも忘れていない。
「……クソ、クエストに集中しろ」
短く吐き捨てるように呟くと、彼はその思いを追い払うように首を振った。仲間を持たなければ、裏切られることもない。独りなら全ての責任を自分だけで負えばいい。それがアルスが選んだ生き方だった。
森に足を踏み入れた瞬間から、アルスはその異様な雰囲気に気づいていた。常に漂う湿気、妙に青白い苔が生える木々、そして何より、音がない。通常であれば森の中には小動物や鳥の鳴き声が響くものだが、この森にはそれがなかった。まるで、生き物が森そのものを避けているかのようだ。
「影蜘蛛の仕業か、それとも……」
彼は周囲を警戒しながら進む。その途中で目に入ったのは、木の幹に絡みついた不自然な糸だった。それはまるで鉄線のように強靭で、何層にも重なっていた。アルスは指で軽く糸を触れると、細かな刺痛が走った。
「……毒が仕込まれてるな。村人じゃ近づけないわけだ」
森の奥へ進むほどに、その糸はまるで蜘蛛の巣のように一面を覆い尽くし、足元には動物の骨のようなものが転がっていた。アルスは眉をひそめながら、慎重に足を進める。
――しかし、途中で聞こえたのは、予想外の音だった。すすり泣くような声。アルスは立ち止まり、音の方向を探る。
「……なんだ?」
どこかから小さな声が聞こえた。すすり泣くような音。アルスは耳を澄ませ、音の方向を探る。見渡す限り、そこには木々しか見えない。しかし、確かに人の声のようなものが微かに混じっている。
「……面倒ごとか?」
嫌そうに眉をひそめながらも、彼は音のする方へと進んだ。草を掻き分けると、視界に現れたのは――傷だらけで倒れた一人の少女だった。
金髪が泥と血で汚れた姿は、目を引くほど哀れだった。小さな体は震え、衣服はほぼボロ布同然だ。アルスはため息をつきながら近づいた。
「……なんだお前。こんな所で何してる」
彼の低い声に少女が反応した。震えた体を起こしかけて、ぼんやりした目で彼を見上げる。だが、その目には怯えよりも驚きの色が混じっていた。
「んー……? おじさん……誰?」
アルスは口元を引きつらせた。
「おじさん……? 違う。アルスだ。冒険者だ」
「ふーん……アルス、ね。なんでここにいるの?」
「お前に言う必要はない」
「そっか……でも助けてくれる?」
彼女の無邪気な声に、アルスは目を細めた。森の中で怪物に襲われていた可能性があるにもかかわらず、この少女の声はどこか能天気だった。
「助けるも何も、なんでこんな所にいる」
「んー……わかんない! 気づいたらここにいた。ねえお腹すいたんだけど、何かない?」
無邪気に笑う少女に、アルスは頭を抱えたくなった。
「知らん。お前の状況を考えろ」
「えー、冷たいなー。助けてくれたんだから、優しくしてよ」
彼女の軽口に対して、アルスはさらに無愛想な顔を作った。
「……傷だらけだな。立てるか?」
「んー、たぶん無理!」
あっけらかんと言う少女に、彼はしばらく沈黙してからしゃがみ込み、彼女を慎重に抱え上げた。その体の軽さに、彼は眉をひそめる。
「名前は?」
「……ない、かな」
「記憶喪失か?」
「うーん、たぶん?」
少女の曖昧な返事にアルスは再びため息をつく。そしてふと、近くに転がっていた大きな丸太に目を留めた。大きくて重そうなそれは、この森に不似合いな存在感を放っていた。
「……丸太」
「えっ、丸太?」
「お前の名前だ。今日からお前はマルタだ」
「ええええ! そんな適当な理由で決めちゃうの?」
マルタと名付けられた少女は不満そうに頬を膨らませる。しかし、次の瞬間には『まあ、悪くないか』と小さく笑った。
「じゃあ、よろしくね! アルスおじさん!」
「おじさん言うな」
アルスは顔をしかめながらも、どこか諦めたように歩き始めた。彼の腕の中でマルタは安心したのか、目を閉じて静かに息を吐いた――
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