第16話:リサイタルデビュー その一

 東京滞在二日目は永山先生とセットリストを一とおり演奏して調整を済ませた。その後はなし崩し的にセッション大会になってしまったが、楽しい時間を過ごせたから武夫は万足している。


 そして翌日のリサイタル当日、武夫は永山先生とともに会場の舞台に立って軽めのリハーサルを済ませた。木下先生も応援に駆けつけてくれて、三人で昼食を食べていよいよ本番だ。


「武夫君、緊張してる?」


 当たり前だ。もちろん武夫は緊張している。ガチガチというほどではないが、緊張しない方がおかしい。彼は今本番を目前に、舞台脇から来てくれたオーディエンスを眺めている。


「少し……すごいお客さんですね」


 劇場型の会場は満員になっていた。永山先生のリサイタルはかなりカジュアルな雰囲気で、それが人気の要因の一つにもなっているらしいが、たしかに来場してくれたお客さんの服装もカジュアルだった。


 さすがにデニムにTシャツとかハーフパンツ姿の人は居ないが、フォーマルな服装の人はまばらにしかいない。永山先生もダークグリーンのカジュアルスーツでノーネクタイだし、武夫もノーネクタイで黒ではあるがカジュアルスーツを身にまとっている。服に着られている感は強い。


 開演予定の十四時になった。


「さて、行ってくるか」


 武夫を舞台脇に残し、永山さんが舞台の中央に出て挨拶をし、リサイタルがはじまった。武夫は雰囲気に飲まれまいと演奏をはじめた永山さんに集中している。オープニングは永山先生が作曲し武夫が編曲したクラシカルなピアノ曲だった。


 予定では永山先生が二曲演奏したあとに武夫が呼ばれることになっている。そして武夫が一曲演奏し、永山先生が一曲、その後に武夫、永山先生と一曲づつ演奏し、そこからは連弾やピアノデュオを五曲演奏する予定だ。都合十一曲であるが、アンコールで一曲か二曲追加されるのは既定路線である。


 曲間に永山先生のトークを挟んだり、途中休憩時間もあるため、公演時間は二時間の予定になっている。なお、十四時開演になったのは労働基準法で十五歳以下は二十時までしか労働できないからである。永山先生のリサイタルはそのほとんどが十九時開演だったが、武夫と共演するために十四時開演になった。


 一曲目が終わり、拍手の音が鳴りやまぬ中で永山先生がマイクを手に取った。


「本日はお忙しいなか、これほど多くのお客様がご来場下さり、感謝の念に堪えません。さて、本日はかねてから予告していましたとおり、私の曲を編曲してくださった吉崎武夫先生が共演してくださいます。彼はまだ、かなり若い先生ですので、どうかヤジなどは飛ばさないようにお願いします。それでは吉崎先生」


 おどけながらジョーク交じりでの武夫の紹介に、客席からは温かな笑いが起こるが、当の武夫は首筋を伝う汗に気づかないほど緊張していた。やはりこれだけの観客を前にいざ本番となると、緊張の度合いも高まるということだろう。


 それでも意を決して武夫はステージへと進み出た。ステージにはグランドピアノが二台設置されていて、その前で待っていた永山先生の元まで歩み寄る。観客席では武夫の若さにだろうが、どよめきが起こっている。今の武夫は、小学生としては背が高い方だが、その幼い顔はどう頑張ってもせいぜい中学生にしか見えない。


「ごらんのとおり、彼はまだ小学生です。だけど実力はボクにも引けを取らない。さぁ、弾いてもらいましょう」


 客席のどよめきが大きくなるなか、永山先生にマイクで煽られて武夫の緊張はMAXに膨れ上がった。けれども、緊張が振り切ったのが良かったのか、もうどうにでもなれという踏ん切りだけはついた。武夫は永山先生が弾いたピアノの向かい合わせのピアノに移動し、片手を添えて演奏の準備を整える。


「ふぅ」


 すでにどよめきは収まり、会場は水を売ったような静寂に包まれている。


――こうなりゃヤケだ。


 武夫は当初の予定になかった行動をとった。一曲目はリストのラ・カンパネラをクラシカルに弾いて実力を示そうと永山先生と話していたが、彼が弾きだしたイントロはきらきら星だった。しかも右手の人差し指一本だけでシンプルにメロディを奏でていく。


 永山先生には悪いが、予定にないはっちゃけたことをやって緊張の糸を断ち切ってやろうという武夫なりの試みだった。


――永山先生には後で謝ろう。けれども見てろよ、小説家として培った心の揺さぶり。それに2020年代の演奏テクニックをお見舞いしてやる。


 幼児でも弾ける単音だけのきらきら星。これで充分に観客を心配させてから、多少アレンジを加えた普通の演奏を両手で行い、なんだそうだったのかとひとまず安心させる。シンプルな演奏が一段落したところで、武夫は充分な間を取ってテクニカルではあるがクラシカルな演奏に切り替えた。


 観客はこう思っただろう。なんだモーツァルトのきらきら星変奏曲かと。確かに武夫が弾いている曲はそれで合っている。ピアノを弾く彼からは見えないが、たしかに観客は安心したような、そして彼の演奏技術に感心するような顔になっている。


 けれどもここはまだ、武夫にとって助走に過ぎなかった。いったん落としてから上げて安心感を与える。そこまでは小説家なら基本の読者掌握術だ。けれどもここからが本番だ。この状態からさらに上げていってこそ読者は、そして観客は感動するのだ。


 しばらくモーツァルトのきらきら星変奏曲を演奏した武夫は、一段落したところでギアを上げたかのように転調し、いままでのコード進行をガラリと変えていった。


 それは二〇二〇年代に世界で知名度を上げたJPOPに寄せたアレンジで、モーツァルトのきらきら星変奏曲とは完全に別物だった。


 もともと日本人に人気があるコード進行を基本に発展進化してきた二〇二〇年代のJPOPを、この時代の人々は知らないはずだ。それを超絶技巧とも呼べるテクニックで武夫は演奏していった。主旋律はたしかにキラキラ星である。けれども奏でられている音楽はまったくの別物と錯覚させるような演奏になっていた。いつもまにか武夫の緊張は完全にほぐれている。


 永山先生は衝撃を受けたような顔になっている。観客は言わずもがな、四十年以上先をいく武夫のピアノに、ついには魅了されたように聴き入っていた。


 演奏が終わって武夫が席を立ち、観客に向かって深々と一礼すると、すこしの間をおいて盛大な拍手とともにスタンディングオベーションで彼を讃えたのだった。

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