第14話:セッションしようよ

 話もそこそこに、武夫は移動の疲れを癒しなさいと風呂を頂いた。そして遅めの昼食を御馳走になり、ジャージに着替えて居間でテレビを眺めている。永山家ではだれも料理ができないらしく、料理とか掃除をするお手伝いさんを雇っていたのに彼は驚いた。しばらくして。


「武夫君、一曲合わせておこうか」


 一緒にテレビを見ていた永山先生がおもむろにそう言った。奥さんの顔がパァっと明るくなった。義和は面倒くさそうな顔をしているが、その目は輝いているように武夫には見えた。


「私も聴いてみたいわ」

「しょうがねぇな。聴いてやろうか」


 義和の態度こそアレだが、さすがは音楽一家だ。二人の目の色が変わったことに武夫は気がついた。


「分かりました。ショパンでいいですよね」

「うん、ボクが三番を弾くから、武夫君は四番ね」


 ピアノ室に全員で移り、永山先生がグランドピアノで音を奏ではじめる。彼が弾いているのはショパン のバラード第3番変イ長調Op.47。このバラードはショパンの最も独創的な作品の一つで、揺れ動く感情を転調で表現していて、激しく勇ましい曲だ。アレンジはまったくされていない楽譜通りのクラシカルな演奏である。ただしその演奏は絶品だった。


――うん、やっぱり永山先生は表現力が凄い。


 永山先生の演奏が終わり、その余韻が冷めやらぬうちに武夫へと奏者が交代した。永山家の三人は、期待が籠ったような視線を武夫の後方から投げかけている。


 武夫は高ぶっていた精神を落ちつけ、そっと鍵盤に指を添え。静かに演奏をはじめるのだった。


 武夫が弾いているのは、ショパンのバラード第4番ヘ短調Op.52である。この曲は重音が多く、難解な一節が度々出現する作品で、指運びが変態的に難しく、ショパンのなかでも屈指の難易度を誇る。最もショパンらしい曲とも言われていて、ショパンの作品が好きな方にとっては親しみやすいのかもしれない。鬱々とした部分もあるが、その中にも美しさがあって、躍動的で朗らかな第3番のバラードとは対照的な作品だった。


 武夫はこの難曲を楽譜どおりに、クラシックとしてミスタッチなく高レベルで弾ききった。


「いい感じに仕上げてきたねぇ。これなら本番も安心して任せられるよ」


 永山先生は拍手をしながらそう言ってくれた。奥さんはうっとりした表情で手を叩いている。義和は口をぽかんと開けて固まっていた。


「ありがとうございます」

「スゲーよ。なんでノーミスでこの曲弾けるの? なんでそんなに上手いの? なんで今まで無名だったの?」


 我に返った義和が詰め寄ってきてまくし立てた。


「いや、小さいころから集中して練習してきただけだよ」

「一日何時間練習すんの? 何歳から練習してきた?」

「練習は日曜以外長くて一日二時間かな。日曜日だけ八時間くらい練習してる。毎日弾いてたけど。ピアニカを二歳から、ピアノは四歳からだよ」

「へっ!? 日曜以外たったの二時間?」


 義和は信じられないとばかりに目を丸くして、その顔はやがて絶望の淵に沈んでいくかのようだった。武夫はコイツ、オモロイ奴だなと親近感を持った。


「僕の場合はだけど、どれだけ集中して練習するかだよ。一回目は小節ごとに繰り返して指を慣らすけど、二回目からは失敗しても通しで演奏して一曲一曲の合間にきちんと休みを取る。その時間に脳内イメージと現実をすり合わせることが大切かな。やみくもに長時間弾いたって上達は遅かったよ。あとはとことん楽しむこと。これ絶対」


 武夫の場合、二歳で練習を始めたころは親が心配するほど長時間の練習を行っていたが、効率が悪すぎると自覚してからは今の練習方法に落ち着いたのだった。


「練習は長時間でキツくてツラくて、それが当たり前じゃないのか……」

「まぁ、人それぞれかもしれないね。でも楽しいほうがいいじゃん」


 義和は武夫の話を聞いて、肩を落として落ち込んでいるようだった。トボトボと部屋の片隅まで歩いて体育座りしている。


「まぁ、あれだ。今日は楽しもう。もうそろそろ来てるころだしな」


 永山さんはそう言って部屋を出て行った。奥さんが話しかけてくる。


「主人とはまた違った趣の素晴らしい演奏でしたよ。なんだか演奏したくてウズウズしてきちゃった。武夫君、セッションしましょう。ほら、そこの落ち込んでるバカ息子。今からセッションよ、しゃんとしなさい」


――奥さんはなんかアレだ。音楽が好きなんだな。わが道を行くって感じだし。


 しばらくして永山さんが重そうなダンボールを抱えてきた。


「武夫君、借りてきたよ。開けてみて」


 武夫がダンボールを開けると、そこから出てきたものは。


「おお、アンプ!」


 せっかく用意してくれたギターアンプ。武夫はさっそく電源とギターをつないで音を確かめる。


「うん、歪み具合もいい感じ」

「さぁ、セッションしよう。時間はたっぷりあるからね」


 武夫はキターをひとまず置いて、グランドピアノに移動した。永山先生はおやっ? という顔をしているが、だからといってすぐにギターを弾きはじめたりはしない。武夫は静かにノーマルのリベルタンゴのイントロを弾きはじめるのだった。

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