第9話:編曲
一九七九年四月初旬、武夫は八歳になり小学三年生になった。これまでの二年間、基本週一でピアノ教室に通い続け、先生も驚くほどの上達を成し遂げている。妹がもう一人増え、三人兄妹になった。前世では男女男の順だったが、現世では男女女だ。
二年生に上がるちょっと前から、ピアノ教室には一人で通うようになっている。きっかけは母が一番下の妹の出産するためだった。
楽しくピアノを弾く武夫に影響されたからだろうが、二つ年下の妹にねだられて、彼女もピアノの練習を始めている。先生役はもちろん武夫で、彼がピアノ教室で学んだ教え方はもとより、彼自身で編み出した練習法も織り交ぜている。
まだ一年弱しか練習していないので、子どものバイエルの上下巻が終わっていないが、ピアノ教室の先生に聞いてみると、習熟度合いは普通の子どもの二倍ほど早いそうだ。
「すでにプロ並みのあなたと比べてはいけませんよ」
先生は笑いながらそう言うが、比べようと思って聞いたわけではない。来月から妹もピアノ教室に通うことになったから聞いてみたのだ。妹の場合はもちろんタダではない。
この二年で父の収入が増えたぶんから月謝を捻出できるようになっただけだ。ピアノを教えるのは別の先生になるらしい。
「半年もすれば私が担当することになるでしょうね」
武夫の先生は木下文子というが、彼がその名前を知ったのはつい最近だ。武夫は先生としか呼ばないし、このピアノ教室には木下先生しかピアノを教える人は居ないと思っていたくらいだ。
木下先生も名乗ることを完全に忘れていたらしく、妹の先生の名前を聞いたときについでに聞いてみてやっと判明したということになる。
木下先生は音楽のことになるとそれ以外はどうでもよくなってしまうようなきらいがあって、「そういえば名乗ってなかったわね。ゴメンね」と、あっけらかんとしていた。
「なんでたった半年で先生が変わるんですか?」
「えっとね、私が担当するのはコンクールで金賞を狙えるような子、またはその素質があると認められた子だけなのよ。あ、あなたは例外ね」
この二年間で武夫は木下先生も驚くほど上達したが、コンクールには未だに未出場だ。妹はコンクールとか発表会に出たいと言っているから、素質を認められて木下先生が教えることになるのだろう。武夫はこの事実を知って、嬉しい想いから笑顔になった。
「あ、先生出来たので持ってきました」
武夫が木下先生に提出したのは数枚からなる楽譜だった。
「ありがとうタケオ君!」
さっそく楽譜に目を通した木下先生は、それを楽譜台にセットするとピアノを奏ではじめる。この曲は彼女が作曲したもので、編曲を武夫に宿題として依頼したものだった。
ひと通り弾き終えた木下先生が満足げに振り返る。
「やっぱりタケオ君には編曲者としての才能があるわ。奏者としても素晴らしいけど、もしかしたら編曲者としてのほうがスゴイかも」
木下先生はそう言って持ち上げてくれるが、武夫はちょっと自虐じみた引きつり気味の笑顔で答えるしかなかった。
「そんなに煽てないでください」
武夫が木下先生の教えを受けはじめて、分かったことがある。それは、彼には作曲者としての才能が無いということであった。前世で聞いた未来の曲が邪魔している可能性も無きにしも非ずだが、根本的にキャッチ―なメロディや感動するようなメロディをゼロから作ることができない。
作曲ができないわけではない。無難な曲は作曲できるのだ。けれどもその曲が人々を感動させることはないだろう。BGMとしては使えるだろうが、しょせんはそれが限界だ。
ただし、こと編曲になると武夫の持ち味がこれでもかと発揮される。基になるメロディさえあれば、その旋律を無限に膨らまし、木下先生を感嘆させるほどの楽曲に組み替えてしまう。
たとえサビだけのメロディであっても、そこからイントロ、Aメロ、Bメロ、Dメロ、アウトロと完成度の高い楽曲を編むことができてしまうのだ。
木下先生を感嘆させてしまうのは、五十年近く進んだ音楽の進化を経験しているからである。武夫の音楽は前世で聴きまくった未来の楽曲に引っ張られている。パクリにならないように気をつけてはいるが、当然ながら影響はされまくっている。
「この楽曲、リサイタルで使ってもいいかな? もちろん編曲者にはタケオ君の名前を入れるし、料金も支払うわ」
最近になって知ったことだが、木下先生は個人でリサイタルを開くことができるほどには有名なピアニストだった。そんな彼女の願いだ。彼女にはものすごくお世話になっているし、恩返しもしたい。けれども、ひとつだけ受け入れられないセリフがあった。
「先生の好きなようになさってください。それと、料金は要りません。先生には月謝も支払ってないし、迷惑かけてばかりですから」
「ありがとうタケオ君! でも、プロとして言わせてもらうけど、料金はきちんと受け取りなさい」
「いえ、受け取れません。月謝の代わりということになりませんか?」
木下先生は顎に手を当てて考え込んでしまった。
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