第8話:ピアノの先生
しばらく考え込んでいた先生が、がばっと顔を上げた。そして母に向き直る。
「分かりました。コンクールに出ろとは言いません。ですが、このまま独学を続けるのは勿体なさすぎます。違うジャンルを選ぶにしても基礎は大事ですから、ぜひともウチに通わせてください。もちろん月謝は必要ありません」
武夫は考える。確かに先生が言うことは一理ある。独学を続けるより、先人の教えを取り入れた方が上達も速まるはずだ。
「武夫、先生がこうまで仰って下さるのだから、通ってみない?」
「そうですよタケオ君。独学では壁にあたったときに乗り越えられないかもしれません。クラシックをアレンジするにしたってノウハウはたくさんあります。一人で練習するより、ためになりますよ。それに複数のジャンルにまたがって活躍するピアニストだっていますからね」
こうまで言ってくれて、断れなくなってしまった。ギターも練習したいし、他の勉強も進めたいのだ。小説だって書かなくてはならない。
「一週間に一日でいいですか。僕にはほかにもやりたいことがあるので」
「もちろん構いませんよ」
それからは母と先生の話し合いになった。具体的な日時や、教育方針などを先生が提案し、武夫と母はそれに了承したのだった。
「さて、今日はまだ時間があります。もうすこしピアノを聴かせてくれるかな?」
「はい。僕もピアノはもっと弾きたいです」
武夫は先生のリクエストに応える形で、メンデルスゾーンとかモーツアルトなどの有名曲を演奏し、途中からは先生と連弾まですることになった。自分でプロのピアニストというだけあって、先生のピアノはものすごく上手い。武夫は夢中になってその音と指使いを覚えた。
さらに興が乗ったのか、先生はピアニカまで持ち出してきて聴かせてくれと言いだした。
「タケオ君、セッションしよう」
そう言って先生がノーマルのリベルタンゴを弾きだした。武夫はそれに合わせてピアニカをアコーディオン風な音で被せていく。一曲弾き終わると休むことなく先生は彼がピアノで披露したジャズアレンジのベース部分を奏ではじめた。
武夫もそれに乗って、今度は両手を使える分、さらにアレンジを加えてピアニカを演奏する。
――一回聞いて覚えるなんてさすがプロピアニストだ。それに楽しい! 一人で弾くよりすごく楽しい。
武夫は初めてのセッションがあまりにも楽しくて、時が経つのを忘れて夢中になって弾きまくった。
「先生、今日は楽しかったです」
「ええ、こちらこそ楽しかったわ。またセッションしましょう」
武夫は眠ってしまった妹を背負う母に手を引かれ、バスに乗って家路に就いた。ガタガタと揺れる座席で、彼は今日の出来事を思い返していた。
――あんまり意固地になることもないかなぁ。
先生が言ったように、前世ではたしかに複数のジャンルにまたがって活躍するピアニストもいた。東大に入ってプロになったピアニストもいた。固定観念は捨てよう。
やってみなければ分からない。案ずるより産むが易しだ。同業者や専門家から絶対にうまくいかないと言われていたのに、見事に自分の意志を貫いて、世界的な名プレイヤーになった二刀流のメジャーリーガーもいたではないか。
武夫の一番は今でも雅美だ。それは変わらないし、変えてはいけない。けれども、彼自身もリア充を目指しているのだ。あわよくば小説だけで食っていこうと目論んでいたが、音楽家との二刀流を目指してもいいのではないか。
もちろん、一流大学に入って一流企業に就職できる保険は残す。だから音大などには行かない。旧帝大を目指すことに変わりはない。そこまで考えてふと、疑問が浮かんできた。
――雅美の学力はどれくらいだったのだろう?
前世の中学時代、雅美がいたことは記憶にあるが、彼女の印象は場の盛り上げ役とかお調子者といったイメージしか残っていない。学力がどうだったのか? どの高校に進んだのか?
――覚えてないなぁ。だけど……。
高校を卒業してチンピラと出来婚したということを考えると、底辺の高校に行った可能性が高い。
――まぁ、人のことは言えないか。
武夫自身も勉強はほとんどしていなかった。彼が前世で通ったのは校区で上から三番目の公立校で偏差値は47だった。底辺校は私立にしかないが偏差値は40未満だ。
――せめてもう一つ上だな。
校区で二番目の公立高校の偏差値は57だったはずだ。偏差値30台から60近くまで上げるにはかなり勉強しないとダメだ。彼自身の成績を上げることは、もうすでに努力を始めているわけだから問題ない。
けれども他人の成績を押し上げるのは難しい。相手にやる気を起こさせないとダメだし、教える方も学ぶ方も忍耐力が必要だ。目的意識と強迫観念もあった方がいいだろう。
そんなことを考えているうちに、バスは最寄りのバス停に到着していた。
――雅美のことはおいおい考えよう。中一の秋まではどうせ会えないしな。
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