第7話:やりたいこと
「ふぅ」
今の武夫にはこの曲、ラ・カンパネラは長すぎて、一曲弾くごとにかなりの休憩が必要だった。少し息を切らして楽譜をめくってくれた先生に彼は視線を移す。
「最後の方、ちょっとだけテンポが狂っちゃいました。同時に届かないところは音を抜いてます」
それは僅かなズレだった。息苦しくなって最後までテンポを維持できなかったのだ。
「……いや、ほとんど完璧よ。ていうかタケオ君! 貴方ほんとうに六歳? 独学……ひとりで練習したの? 誰にも習わずに?」
先生の鼻息が荒い。武夫の両肩を掴んで顔が近い。
「あの先生? 武夫の腕前はいかほどももでしょうか」
後ろに立って見ていた母が、申し訳なさそうに先生に声をかけた。
「お母さん、タケオ君は天才です。ピアノの申し子です。ただ弾けるだけではなく、ちゃんと感情が乗っていて聴かせるピアノになっています。難曲にもかかわらずミスタッチも全くありませんし、今の実力なら少し練習すれば音大にだって合格できます。つまりトップレベルの高校生と同等です」
「それは本当でしょうか? ちょっと信じられないのですが」
「私はこれでも音大を出ています。いちおう肩書はプロのピアニストですよ。その私が断言できます」
先生はそう言って聞こえないような小声でなにやら呟き、思案顔をしている。
――ちょっとマズい展開かな?
「もう一曲いいかな?」
「またリストでいいですか?」
「いや、先生にリクエストさせてちょうだい。そうね、ショパンは弾ける?」
「はい、なん曲か暗譜してます」
「じゃぁ弾いてみせて」
マズいなぁと思いながらも武夫が選んだ曲はノクターン第2番変ホ長調Op.9No. 2だった。すごく有名な曲で、ラ・カンパネラとは対照的にスローで静かな調べが特徴だ。その調べは繊細で高音域が特に美しく、武夫的には静かな湖畔で星空を眺めているような風景が頭に浮かんでいる。
そんな情景を思い浮かべながら、静かに、そして優しく透き通った音を紡ぎだしていく。ゆったりとした曲調のため、テンポや強弱の僅かなミスが演奏を台無しにすると武夫は考えている。難易度は中程度となっているが、聴ける演奏をするのはすごく難しい。
けれども、四分程度の演奏時間かつ曲調も遅いため、体力的な問題もなく弾ききることができた。
「完璧ね。というか上手すぎるよタケオ君。六歳でプロでも聴ける音を出すなんてちょっと信じられないわ」
武夫は思う。前世ではたしか六歳とか七歳で世界的音楽コンクールに優勝しまくった、天才的ヴァイオリニストがいたはずだ。そういう人物が本当の天才であって、自分はただ音楽が好きなだけの愛好者だ。
「あの、お母さん。タケオ君をウチの教室に通わせませんか。というかぜひとも通わせてください。そして世界を目指しましょう」
母は困惑した様子で返事に困っているようだった。助け船を出したいが、良い案が思い浮かばない。
「あの、ウチは家計的に苦しくて月謝をお支払いするような余裕が無いのです。ですからこの話は」
母がそこまで口にしたところで、先生は被せるように母の言葉を遮った。
「お金なんて要りません! 無料でお教えします。いや、教えさせてください」
――ヤバい。お母さんの顔に安どの色が見える。このままだと了承されてしまう。
「先生、僕はコンクールとかに出たくありません。音楽で競い合うのも嫌いだし、クラシックのプロになるつもりもないです。僕にはやりたい音楽があるんです」
武夫は一気にまくし立てた。コンクールに一回出るのならそれもいいかと武夫は考えていたが、世界を狙うなんてとんでもなかった。先生はなにを言っているのか分からないみたいな顔で唖然としている。
――ここは畳みかけるか。
「せんせい、僕が好きな曲を聞いてください」
武夫はそう言って放心状態の先生を横目に音を奏ではじめた。彼が弾いている曲はリベルタンゴというアストル・ピアソラ作曲のタンゴだ。おもにアコーディオンなどで演奏される。
前世の武夫が好きだった名曲で、彼はこの曲をジャズ風味のピアノ曲にアレンジというか魔改造して息抜きがてらに良く弾いている。前世では動画投稿サイトでジャズアレンジのこの曲を何度か聞いたことがあった。武夫のアレンジはそれとも違って、リズミカルなベースを利かせてかなりポップで遊びを多く加えている。
リベルタンゴを弾き終わり、息もつかせぬまま今度は静かな出だしてパッヘルベルのカノンを奏ではじめた。カノンとはおおざっぱに言えば輪唱のことで、パッヘルベルのカノンは三つの同じ旋律がタイミングを変えて重なり合う曲になっている。曲調がすごくキャッチ―であり、武夫はこの曲がすごく好きだった。
そしてこの曲は、雅美が音楽室で良く弾いていた曲でもある。ただし今弾いているカノンは武夫によって大胆なアレンジが加えられていた。最初のAメロからDメロまでは普通に演奏されるが、そこからいきなり変調したベースのテンポを1.5倍ほどに上げ、曲の雰囲気がガラリと変わる。主旋律も音を足しまくってリズミカルになり、それはまるでロックのような曲調だった。
このアレンジも前世の武夫が好んで聞いていたカノンロックというアレンジ曲を意識している。もちろんアレンジは彼の好みに変えられていて、間奏部分にはギターソロ用のメロディーを追加したりしている。今はピアノしかないのでその部分もピアノで弾いているが、おそらく先生にはギター用のアレンジだと分かるだろう。
ピアノを弾き終えた武夫が語り掛ける。
「先生、僕は将来ロックかポップスのバンドをやりたいんです。だからクラシックだけをやり続けるわけではありません」
先生は静かに武夫の話を聞いていた。
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