第6話:ピアノの上達
一九七七年四月、武夫は小学校に入学した。
――二年間通った幼稚園は思い出したくもないほどに苦痛だった。怪獣みたいに暴れ回る幼児たち。その輪の中に入って年相応の園児を演じることがなんと辛いことか。体力を付けるための体育の授業だと思って我慢した。
――ねぇねぇ、お昼寝ってねなぁに? 眠くもないのに寝るなんてできない。布団に横になって目をつぶり、ピアノを奏でるイメージトレーニングで乗り切った。
――合唱とかお遊戯会とか、出来るだけ目立たないように自己主張せず、わざとらしくならないようにヘタクソを演じて乗り切った。
そんなこんなでようやく武夫は小学一年生になったわけだが、この二年間家ではピアノを弾きまくった。そろそろギターの勉強も始めたいと彼は思っている。
ピアノの修行の進捗は、練習用曲集を中級用一冊、上級用一冊、独奏名曲集三冊、新興ピアノ独奏楽譜一冊を追加して都合六冊を練習しまくった。今はリストの楽譜集で練習している。
全てクラシックの曲であるが、武夫は音楽の基本はクラシックだと考えている。なにごとをするにも、基礎をおろそかにして真の上達はありえない。だから徹底的に基礎を叩き込んだ。やみくもに弾くのではなく、一曲一曲集中し、きちんと指の回復と精神を落ちつかせてからピアノを奏でる。
幼児の体に大人の精神が上乗せされたチートな状況は、武夫本人にも分かるほどに如実に劇的な進化をもたらした。母もそれを実感しているのだろう。
「ねぇ武夫、ピアノのコンクールに出てみない?」
コレである。近所づきあいというか、井戸端会議というか、近所の奥様方から娘や息子の自慢話をよくされるそうだ。それがピアノの発表会とかコンクールで入賞しただのということらしい。
近所づきあいで話をするうち、武夫もピアノの練習をしているとついうっかり話してしまったらしく、コンクールに誘われているのだとか。ピアノを練習しているのに、コンクールにも発表会にも出ていないというのが、居心地を悪くしているとのこと。べつにバカにされているとか仲が悪いとかそういうのではないらしいが、不思議がられているようだ。
普通はピアノ教室とかに通って、そこの先生つながりでコンクールとかに出るのだろうが、我が家にピアノの先生のつては無い。どうやって参加するのかすら分からないらしい。
「だからね、一回ピアノ教室の見学に行って武夫の腕前を見てもらって、コンクールに出るにはどうしたらいいか聞いてみようと思うの」
困ったことになった。正直に武夫はそう思った。母の気持ちは痛いほどわかる。話を聞くまではコンクールに出る気などさらさら無かったが、意地を張るようなこともないかと彼は思い直した。けれども、できるだけ出ない方向で頑張る予定だ。
「分かった。ピアノ教室に行けばいいの?」
「そうよ、お母さんのお友達が先生には話をしてくれるって」
「じゃぁ行くよ」
それから数日して、学校が終わった土曜日の午後に街中のピアノ教室に連れて行ってもらった。応接室みたいなところに通されてお茶を出され、しばらくして母と同じくらいの歳の髪が長い女の人が現れた。四歳になったばかりの妹は、はじめての場所にきて猫を被ったように大人しくしている。
「その子の習熟度を見ればいいのかしら」
「はい、上手いとは思うのですが、私に音楽はさっぱりで」
「そうですか」
そういって先生は腰をかがめ、武夫に目線を合わせてほほ笑んでくれた。
「お名前はなんて言うのかな? なん歳かな?」
「吉崎武夫、六歳です」
「タケオ君はピアノを習ったこと無いんだよね。どんな曲を練習しているの?」
「最初はお母さんにバイエルを読んでもらいました。それからバイエルを何冊か買ってもらって、あとは自分で楽譜を読んで、それが終わったらバイエルの練習曲集を初級から上級まで一冊づつやって、それが終わったらバイエルに載ってた独奏名曲集三冊、新興ピアノ独奏楽譜一冊を練習しました。今はリストの楽譜集を練習してます」
武夫が一気に言い終えると、先生は目を丸くして、けれども信じてはいないようなニュアンスで問いかけてくる。
「タケオ君は頭がいいんだね。こんなにお話しできるなんて先生驚きました。ピアノは何歳から練習してるの?」
「ピアノは四歳からです。でも二歳からピアニカを練習してました」
「二歳……分かったわ。じゃあ最近練習している曲を一曲弾いてくれるかな? 楽譜はある?」
「あ、楽譜は私が」
母がバッグからリストの楽譜集を取り出し、先生に渡した。
「あらリストですか、中古ですのね。ずいぶん古いですがまぁいいでしょう」
「すみません、家計がちょっと」
「ああ、気にしないでください。じゃぁタケオ君、行きましょうか」
先生に連れられ、武夫は応接室を出てピアノが設置してある部屋に通された。そこには大きなピアノが圧倒的な存在感を放っている。
――グランドピアノ!
「じゃぁタケオ君、弾いてみようか。なにを聴かせてくれるのかな」
そう言って先生は楽譜台に楽譜集を置いた。武夫はページをペラペラとめくって今練習している曲の楽譜を開いた。
「ラ・カンパネラね……ほんとに弾けるの?」
「五日前から練習しています」
口を動かしながら武夫は椅子の位置を調整し、フットペダルに足を置く。そして適当に鍵盤を弾いて感触を確かめた。目を閉じてフゥと静かに息を吐き集中力を高めていく。武夫の目が見開かれた。
出だしは静かに、高音域でメロディを奏でながら指を動かしていく。この曲はニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド『ラ・カンパネラ』をフランツ・リストがピアノ用の練習曲に組みなおしたものだ。超絶難易度の難曲かつ名曲として知られている。
次第に武夫の指の動きが早くなり、右手の跳躍が頻繁になってくる。六歳の武夫の小さな手では、手首の横移動だけでは足りず、腕ごと大胆に動かして音を奏でていく。
ミスタッチが無いように心がけ、テンポと強弱に気を使いながら基本どおり、楽譜どおりに曲を奏でていった。この曲は七分弱の長さがあってテンポも恐ろしく速く、鐘の音に見立てた高音域の透き通った音色が特徴だ。
武夫は高音の鐘の音を意識しながら、基本どおりにトリル奏法を織り交ぜて指を動かし、メロディを紡いでいった。途中広げた指の幅では届かない和音が出てくるが、そこは仕方がないから一音抜いて演奏していく。やがてラストが近づき、壮大に盛り上げながら演奏を終わらせたのだった。
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