第2話:ピアノを手に入れるぞ

 一九七三年二月、武夫は二歳になった。自己育成計画は順調に推移し、よく食べてよく眠り、程よく運動してすくすくと育っている。


 新聞を読むふりをしながら読んで読書好きをアピールしつつ情報収集。英単語を見つけては「これは?」と、さも興味があるかのように質問をする。白黒テレビを見てはピアノかギターが出てきたときにわざとらしく食いついてはしゃぎ、「したいしたい」と、弾く真似をしておねだりする。


 かくして、そんなあざとい演技が実った。


「武夫、ほら、お土産だ」


 眠たくてウトウトしていたある日の二一時過ぎ、酔っぱらって帰宅した父が鍵盤ハーモニカ――ピアニカ――を買ってきてくれた。さすがに高卒で地方公務員――市役所職員――の父にピアノを期待するのは酷だろう。父はまだ二十四歳だし、給料も少ないはずだ。


「お父たん、ありあと」


 武夫が舌っ足らずな声で満面の笑みを見せると、父はことのほか喜んで高い高いをしてくれた。酒臭い。




 三月、母が出産のため入院し、武夫は母の実家にお気に入りのピアニカとともに預けられた。


「あら、タケちゃん上手ねぇ」


 母の六つ下の妹、叔母の美佐枝、高校三年生がパチパチと手を叩いて褒めてくれる。武夫は調子に乗ってピアニカを弾き続けた。母に教えてもらったきらきら星を弾いているが、肺活量の少なさと、鍵盤に不慣れなことと、超初心者であることも相まって人差し指一本でのたどたどしい演奏だ。武夫自身はお世辞にも上手いとは思っていないが、二歳ということを考えれば上出来なのだろう。


「お母たんにならった」

「じゃぁ、ミサお姉ちゃんも教えてあげるね」


 彼女はそう言って、アマリリスのメロディーを「ソラソドソラソ――」と口ずさんでくれた。この曲は小学校の音楽で習う定番曲だからもちろん武夫も知っている。彼は人差し指でソラソドソラソとゆっくり鍵盤を押していく。


「うわぁ、すごいすごい。一回で弾けるなんて、タケちゃん天才だよ」

「ミサねえたん、ありあと」


 武夫の下っ足らずなセリフとはじけるような笑顔に、美佐枝はくねくねと身もだえしている。二歳児といえば可愛い盛りだから、彼女がこうなるのも仕方がないのかもしれない。


 美佐枝は叔母だが、まだ高校生だ。だからだろうが、母が「美佐おばちゃんよ」と武夫を紹介したら、「美佐お姉ちゃんですよ」と言って譲らなかった。


 楽器は難しいという現実を武夫は知った。人差し指でメロディーラインを弾くことは簡単だが、左手でベース? を奏でたり、右手で和音を奏でたりはとてもじゃないが、そう簡単にはできそうもない。知識が足りない。慣れも足りない。ついでに指も短すぎるし思いどおりに動かない。


 かっこよく両手でピアノを弾くには、それ相応の訓練と知識が絶対だとつくづく武夫は思い知った。まだまだ二歳だから焦る必要はないだろうから、しばらくは試行錯誤してみるつもりだ。ピアニストとかは三歳とか五歳から習いはじめたなんていう話を聞いた覚えがある。だからあと一年くらいはこのピアニカで遊んでいよう。そう武夫は考えるのだった。





 母の出産が無事終わってアパートに戻ってからは、和音の組み合わせを研究してみたり、左手と右手で違うリズムを刻みながら鍵盤を押してみたりしながらピアニカで遊ぶ日々が続いた。


 英語に関しては、小さな本棚に英和辞典を見つけてすでに勉強をはじめている。親には大人ぶって読むふりをしていると思われているのだろうが、一日十数単語づつは確実に覚えている。というか、英和辞典を丸暗記しようと武夫はたくらんでいる。毎日欠かさず少しづつ。二五〇〇ページ弱だから、一日二ページ覚えたら理論上三年半あれば丸暗記できる。


「でもなぁ。はたして続けられるか。自信ないなぁ。雅美のためにも目標を立てよう」


 幼稚園は二年保育だった記憶が武夫にはある。入園まではあと二年だから全ては覚えられない。小学校まではあと四年だ。遅くともそれまでには覚えてしまいたい。彼がわざわざ目標を立てるのは、そういった強迫観念がないと怠ける自信があるからだ。


「雅美のために意地でもやり抜くぞ」


 英単語さえ覚えてしまえば、あとは文法とか慣用句を覚えるだけでいい。それは小学生のうちに済ませてしまいたい。高三までの数学とか物理とか現代文には自信があるから、それは小学校に入ってから勉強しなおそう。古文、漢文、地理、歴史、化学はオンタイム学習で問題ないと武夫は思っている。


 大人になってリア充生活を送るために学歴は絶対だ。だからいい大学に意地でも入る必要がある。就職氷河期になるのは分かりきっているのだ。死にたくなるほど就職には苦労したから勉強は可能な限り進めていく。最低でも旧帝大を卒業したい。ブラック企業にどうにか入って嫌な思いをして武夫はつくづくそう思った。


「本当にしんどかったからなぁ」


 小説がある程度売れて抜け出せたが、あんな奴隷労働はもうこりごりだと武夫は思っている。旧帝大卒というステータスがあれば、就職には有利なはずだ。小説が前よりも売れてそれだけでいい暮らしができるようになるのが理想だが、保険的な意味合いでも、良い大学は卒業しておきたい。


 三流(Fラン)私大に入って悪友――本当の意味での――にそそのかされ、酒に博打にと流されたのがそもそもの失敗だった。付き合うにも人を選ぶべきだし、国立に行けば学費も安いから親孝行にもなる。


「すべてアイツのせいだ。いや、流された俺も悪いか」


 父は高卒が原因で嫌な思いをしたらしいから、大学には絶対に入れと厳しかった。バブル崩壊が起こって結局就職には苦労したから、バブル絶頂期に高卒で就職したほうがマシだったかもしれないが、どのみち高卒ではたかが知れている。だから旧帝大には絶対に合格すると武夫は心に決めるのだった。

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