第6話 ミノタウロス2(佐倉透視点)
転がるような勢いで、斜面を走る。感覚が酷く曖昧だった。どのくらい離れたのか、どのくらい時間が経ったのか、まるで分からない。普段なら行っている索敵も行わずに、なりふり構わずただ走った。
頭の中の地図を機械的になぞりながら、何故かいろいろなことを思い出した。それは殆どが取り留めの無いことばかりで、無作為にツラツラと浮かんでくる。小学生の頃ピアノの発表会でキラキラ星を弾いたこと。今のパーティーに入る前に臨時パーティーでダンジョンに潜った時のこと。大学生の時不機嫌そうな表情で講義を受けていた、同い年の先輩の横顔。そうして最後に思い出したのは母親のことだ。
母は大人しい人だった。それでいて、とても繊細な人だったんだと思う。
うちの家庭は大学教授をしていた父が中心になって回っていた。母は忙しかった父をよく立てて、家庭内であっても積極的に自分の意見を主張したりする人では無かった。父親は躾については厳しい人だった分、私は母親に懐いていた。母の困ったように、仕方がなさそうに薄っすらと浮かべる苦笑いが、愛嬌があってとても好きだった。
幼い頃、一度だけ両親の言い争いを聞いたことがある。私を寝室に寝かしつけた後、リビングで二人だけで何かを言い合っていた。いつもは従順に父に従っている母も、どういう訳かその時は声を荒げていた。
言い争う声で目を覚ました私は、よく分からないが異常なことが起きていることを察して、身体が動かなくなった。本能的に両親に見つかってはいけないと感じていたのだろう。
布団をすっぽりと頭に被り、必死に寝たふりをしていた。だから一体何が原因で二人が喧嘩をしていたのかは分からない。その日は結局、布団の中でいつの間にか眠りについていた。
翌日の朝、布団から起きて恐る恐る確認してみると、母の様子はいつもと変わらなかった。父も普段と変わらず、新聞を広げて朝食の席に付いている。私は思わず首を傾げてしまった。昨日私が効いた両親の言い争いは、私の夢だったんだろうか? 朝食に並んでいたのは私の好きな出汁巻き卵で、すぐにそちらに夢中になった。
その日は、父は研究室で泊まりの日だった。週に何度かはそんな日がある。そういう時は家に母と二人っきりで、口うるさくて緊張する父が居ないから私は気が楽だった。
夜になって、夕飯を食べ終えた後、私は子供っぽい癇癪を起して、母を苦しめた。母はいつものように穏やかに私を言いくるめようとするのだが、その日の私は一向に落ち着かない。たぶん前日に聞いた両親の言い争いが未だに頭の中に残っていて、気分が落ち着かなかったんだと思う。『死んじゃえ』なんて、随分酷い言葉だ。ただ当時の私はその言葉の意味を碌に理解していなかった。寧ろそう言えば母は私を嗜めながらも構ってくれたし、幾ら注意されても止めようとはしなかった。ただ、その日の母の反応は少し違っていた。
無感情な瞳が、ジッと私の瞳を覗き込む。母は私が今まで見たことが無いような顔をしていた。私の幼い癇癪なんてすぐに萎んでしまう。母はそれから視線を宙に放り投げて、右手を持ち上げて自分の前髪をクルクルと指で弄る。母が考え事をする時に、よくする仕草だ。表情がすっかりと抜け落ちて、私にはすっかり別人のように見えていた。年も10年近く若返って見えて、この人がとても美人であることが今さらながらによく分かった。
「じゃあ、一緒に死のうか」
そう言って彼女は私の手を引いた。車の助手席に私を乗せて、彼女も運転席に乗り込んだ。私はパジャマのまま助手席に座り、怯えて縮こまっていた。彼女が運転席から前かがみになって、私のシートベルトを締めた。
季節は春だった。夜の気温はまだ肌寒くて、エアコンの温風が体を温めた。車が走り出す。
車内には車の太鼓のようなエンジンの音と、エアコンの駆動音が鼓膜をくすぐるように響いている。静かだったと思う。
車外には夜の街が広がっている。街灯で照らし出されたソメイヨシノは、満開だった。対向車とすれ違う度に車内の暗がりが薄れて、彼女の横顔が照らされる。長袖のシャツとジーパンを着た彼女は少し気怠そうで、ぞっとするくらいに綺麗に見える。「ごめんなさい」と口にすると彼女はチラリと私の方に目を向けて、また視線を前に戻す。「ごめんなさい」、「ごめんなさい」と壊れたみたいに口にする。涙が溢れて視界がぐちゃぐちゃになるけど、彼女は何も言ってくれない。ただ気怠そうに運転を続ける。
15分ほど運転して辿り着いたのは、都内の児童公園だった。彼女に抱きかかえられながら、私は車外に出る。公園内には何本もソメイヨシノが埋められていて、風が吹くと花弁が雨の様に散る。花見の客が居ても良さそうなものなのに、どういう訳か公園内には私と彼女しか居なかった。私はベンチの上に座らされる。彼女は私をそこに一人残すと、どこかに歩いて行ってしまう。
ソメイヨシノの枝が頭上を覆って、薄桃色の花弁が天幕のように広がっている。孤独になって私は産まれて初めて、死ぬということについて考えていた。不意に理解したのだ。死ぬということは、無くなってしまうことなんだ。私の身体も心もグズグズに崩れて、この肌寒い大気の一部になってしまうのだ。
皮膚に張り付いた大気が私の中から大事な何かを吸い出しているような気がして、剥き出しになっている肌を、パジャマの袖口で拭った。公園の隅の暗がりが怖かった。取りこまれてしまいそうな気がしたからだ。私の中にあるもの、何一つだって取り落としたくないのだ。だけどここに一人で居ると、ぽろぽろと自分の存在が零れていくような気がしてくる。ああつまり、死ぬということはこういうことなのだ。
背後から足音が聞こえた。振り返るとそこには彼女が立っていた。彼女は私に何かを手渡すと、ベンチの隣に並んで座った。
掌が温くて気持ちが良い。よく見てみるとそれはミルクティーのペットボトルだった。
彼女が手が私の頭に添えられて、膝の上にそっと倒される。膝枕の状態になって彼女を見上げると、見慣れた優し気な表情を浮かべた母の顔があった。途端に私は緊張の糸が切れて、馬鹿みたいに泣き出してしまった。母の手が、ゆっくりと私の頭を撫でた。
「帰ろうか」
そう言うと母はまた私を抱きかかえた。
……時間が経って、いろいろ考えて、一つの疑問が生まれた。あの日のことを母に尋ねたことは一度も無い。母自身、私がこんなに細部まで覚えているとは思っていないだろう。だけど私の中には打ち消せない疑念が残っている。
あの夜にあったことは、ただの幼子にやるような躾の一種だったのだろうか。それとも、もしかしたら本当に母は死んでしまう気だったんだろうか。無性にそれを尋ねてみたくなった。
「ッツ!」
目の前を火球が通り過ぎて、爆発が起こる。体が宙を舞い背中から木に叩きつけられる。息が詰まり、激しくせき込む。せきには血が混じっている。多分だけど肋骨も折れている。
目の前には火の海が広がっている。大した『火魔法』だ。炎に炙りだされた銀呪草が魔素に充てられて金呪草に変わり、そのまま燃え尽きて行く。牛頭の魔人が姿を現す。炎を気にすることもなく、ゆっくりと歩いて来る。
横たわる得物を見つけたミノタウロスは、歯をむき出して子供みたいに声を上げる。私は赤く光る魔人の目を見つめる。大剣が雑な動作で降り上がる。私を叩き潰す気でいるのだと分かった。私はただ魔人の目を見つめている。体はもう動きそうに無い。大剣が振り下ろされる。その動きは妙にゆっくりと感じられる。リーダーに申し訳が立たないなと感じた。でも最低限の情報は送れたと思う。ミノタウロスの後ろには、今も配信を続けているだろうドローンが見え隠れしている。情報があれば、コイツだってきっと倒せる。
脳天に大剣が迫る。その瞬間、黒い旋風が視界を走る。それから衝撃。
「……え?」
どういう訳か生きている。何かが私を弾き飛ばしたらしい。視界の隅にミノタウロスが、警戒して後ずさる姿が映っている。
「大丈夫?」
女の子の声がした。それで私は抱きかかえられているのだと、おそばせながら理解する。
「ポーションは持ってる?」
「えっと……」
「これ飲んで」
渡されたのは彼女のものであろう回復ポーションだった。
「駄目。逃げなさい……! あれはただの魔物じゃない。私は手遅れだから!」
女の子は私の言葉には声も返事もせずに、ただミノタウロスを見ている。深く被ったフードの奥に、湖面みたいな凪いだ瞳が見える。彼女は私の身体を地面に横たえて、ミノタウロスに向き合う。
『ブモゥ!』
ミノタウロスが苛立たし気に一歩足を踏み出す。その瞬間を狙っていたみたいに女の子は投擲用ナイフをミノタウロスに向けて、淀みない動作で投げつける。投擲用ナイフには赤色の布が巻いてあって、投擲に合わせて風に棚引いている。ミノタウロスはナイフに意識を向けるが、防御をする仕草すら見せない。ああ、駄目だ。『物理ダメージ無効』を持つミノタウロスには、あれでは傷一つ付けられない。
「……は?」
ミノタウロスの胸に、スティレットが深く突き刺さった。遅れて響く轟音。
女の子がふわりと着地をする。フードが捲り上がり、綺麗な白髪が宙に舞う。倒れたミノタウロスを、彼女は見下ろしている。
……ああ、何もかもが現実味が無い。精霊が、舞っている。
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