逮捕

何かのスイッチで起動したかのように目を開けた。目を開けたと言う事はそれまで目を瞑っていたと言う事だ。いつから目を瞑っていたのかはわからない。何もかもがぼんやりしていた。金縛りと言うわけでもないが身体の感覚も視覚も聴覚も全てが働いているようで働いていないような感覚だった。いや、働いていないのはそれらを統括する脳ということになるか。


空が薄っすら青い。鳥の声が聞こえる。早朝特有の少し湿気のある澄んだ空気。見覚えのある通りが前に見える。二つ目の角を新聞配達のカブが横切った。それらをただ見ていた。自分がなぜそこに立っているのか、何をしようとしていたのかも思い出せない。


さっきカブが通った角からパトカーが顔を出した。そして通り過ぎずに停止して運転手と助手席の警察官がこちらをじっと見ている。パトカーは一度バックしてこちらへ向かう様に角を曲がった。数メートル前までパトカーが近付き停車して二人の警察官が降りてきた。


俺に何か話しかけているが何を言っているかわからない。頭に言葉が入ってこない。警察官が俺の目の前で手を振った。そして二人が左右から俺の両腕を掴みパトカーの方へ進んだ。視界の景色の揺れから察するに俺の足も勝手に歩いているみたいだ。パトカーに乗せられて手錠をかけられた。一人は無線で話している。


「逃走犯を確保」という単語が聞き取れたが何の事だかわからない。もしかして俺、ずっと口を開けっ放しじゃないかなとふと思ったが口を閉じる気にはならなかった。パトカーの外の景色が動き出した事に気づいたが、どこに行くかもわからない。そんな事より口を開けっ放しだと口の中が乾いて喉も乾くんじゃないかなと考えていた。でも口を閉じる気にはならなかった。


それからパトカーを降りてどこかに連れていかれた。机と椅子しかない部屋で警察が紙とペンを持って俺に話しかけている。何を言っているのかは相変わらずわからない。「公務執行妨害」という単語が聞こえた。薬物が何とかとも言っていた。確かに俺はクスリはやっているなと頭の奥の方で微かに思ったが、まともに反応することは出来なかった。


もしかすると俺は今、絵を描く時に使う木で出来た人型の人形になっているのかもしれないと思った。色んなポーズを取らせる事が出来るやつだ。でも誰も俺にポーズを取らせないから俺は黙って座っているのだ。この警察はそんな人形に話しかけて何がしたいのだろう。ひょっとして俺を人間だと勘違いして懸命にコミュニケーションを試みている可哀そうな人なのではないか。そんな事を考えていた。


しばらく俺に話しかけていた警官がため息をついた。その後ろに立っていた警察官が彼に話しかけている。「殺人という通報があったが被害者がいないから……」とか「薬物依存なのは間違いないので」などと言葉が聞きとれて、聞き取れる言葉が長くなっているし俺は少しずつ賢くなっているのではないかと思うとうれしくなった。


そのあと狭い部屋に入れられたのでしばらくそのまま立っていたが時々ふらつくので座ることにした。モノが何もなくとてもよく片付いているのできっと宿泊施設だと思った。壁が時々水を噴き出して俺を濡らす。そのあとで顔が出てきてゲラゲラと笑うのを眺めていた。こいつも俺を人間だと思っているんだろう。残念なやつなんだ。みんな可哀そうだ。そんな事を考えていた。


俺が口を開けっ放しにしているから壁から噴き出した水が口の中に入るかもしれない。壁の顔はそういう遊びをしているのかなと思った。きっと狙いが外れたから壁の顔は笑っているんだろう。少し楽しくなったけど顔に水を吹きかけられても口の中に水は一滴も入らなかった。


気が付くと警察官二人と警察官とは違う人がやってきて俺を両脇から抱えてどこかへ連れて行った。車に乗ると景色が動いてそのあと降ろされた。白い服の人がたくさんいて病院だなと思った。自分が人間なのか確かめるために調べようとしているんだなと思った。


何をしているかわからないけど色んなところに連れていかれて色んな事をされた。そしてその日はベッドが一つある部屋に置いて行かれた。警察署の部屋の方が片付いていたのにと思いながら部屋の隅に座ってベッドの上で鳩が餌を食べるのを眺めていた。





床に座って寝ていた事に気が付いて辺りを見渡した。ベッドが一つ。窓も無い部屋だ。ドアを開けようとしたが鍵がかかっていた。何が起きたのか状況を分析しようと記憶を辿ると昨日の事が思い出された。


しかしそれ以前がぼんやりしてハッキリしない。そもそも何故警察は俺を逮捕したのか。何だか夢を見ていたような感覚だが、警察に逮捕されて病院で検査を受けていたのが現実なら今の状況に合点がいく。違法薬物使用で逮捕されたのか。そう思うと目の前が真っ暗になった。自分の身を守るために何をするべきか考えてみたが、気が付けば逮捕されている状況で何をすればいいというのか。


少なくとも合成麻薬を作ってるあいつの事や売人の事を漏らすわけにはいかない。昨日の自分の記憶が確かなら彼らについて一言も漏らしていないはずだ。俺は昨日の自分のままのフリをし続けることが最も安全だと考えて部屋の床に座り込んで口を開けてうつろな目で宙を見つめた。


昨日の自分の真似が意外と大変で挫けそうな気持が芽生えそうになった頃、鍵を開ける音がした。改めて計画通りぼーっとしてドアが開くのを待つと視界の隅でドアが開き警察官二人と昨日とは違う白衣の男性二人が入ってきた。警察官は昨日と同じように俺を両脇から支え立たせて白衣の男達の後ろを付いていく。俺は昨日のおぼろげな記憶を頼りに努めて同じようにとぼとぼと歩調を合わせた。


辿り着いたのは病院の片隅の診察室らしき部屋で、黒いレザー張りの大きな椅子が部屋の真ん中にあった。歯医者の椅子に似た形だがもっと立派だ。俺はそこに座らされて何か薬を嗅がされた。少し気が遠くなるような気がしたがドラッグの様なものではないようだった。


シートの背もたれが徐々に倒れていく。なかなか良い座り心地だと思ったがあくまでも放心したような表情を崩さないように気を使っていた。その後、頭にネットをかぶせられ何やら線を頭に繋いでいる。脳波を測定するのだろう。ということは俺が放心状態を演じているだけだと言うこともバレてしまう。緊張してきたが、相手の言葉に耳を貸さずに瞑想状態にでも入れるように心を落ち着けておく以外に対応方法が思いつかない。白衣の男性の一人が穏やかな声でリラックスするように言って色んな言葉をかけてくる。嘘発見器的な取り調べではない。これは催眠術なのか。


どうしても思い出せない逮捕前の記憶が知りたい気持ちがあるが、それが自分にとって不利なものではまずいのでなるべく催眠術師の声を聴かないように放心を装い瞑想状態に入ろうと努力する。しかしいつしか俺は言われるがままに目を瞑っていた。


誘導されてイメージする世界へ行き、そこが探している記憶のある場所ではないとわかると場所を変える。そんな作業の繰り返しだった。忘れていた幼いころの記憶や学生時代の記憶にも出会った。そしていよいよ目的の記憶にある場所に辿り着いた。


その世界を訪れた瞬間、何だかわからないが激しい恐怖が襲ってきて俺は叫んでいた。実際にはイメージの中で叫んでいたのだが。そしてその世界をこれ以上覗く事を拒んでいた。


「身体にダメージがあると催眠中に覚醒してしまうので身体をしっかり押さえてください」穏やかな催眠術師の声とは別の声が指示をしているようで目を瞑った暗闇の中で両手両足を屈強な警察官に押さえつけられている感触を微かに感じた。その押さえつけられた力の強弱から俺の身体は激しく波打つように動いているんだろうと思った。頭はおそらくもう一人の白衣の男が両手で挟むように固定しているらしい。


穏やかな声は俺を再度なだめて同じ場所で平静を保つように伝えてきた。徐々にその言葉に俺は落ち着きを取り戻し、この世界で見るのは現実世界の事ではないのだから安心するようにとしつこく念を押された。そして俺は再びイメージの世界で失った記憶にアクセスした。光が俺を包み込んでいく。


そして俺は全て思い出した。


心臓の激しい動悸を自分で感じる。呼吸が激しく乱れる。クラブでの出来事は現実に起きた事なのか。あの化け物達の言っていた事は本当なのか。


催眠術師は当時の状況を根掘り葉掘り聞いてくる。しかし身体を押さえつけられた時の衝撃か或いは催眠術中に他の人間の声を聞いたからなのかはわからないが催眠状態にありつつ言いなりにならなくても済むほどには自我が覚醒していた。


合成麻薬を作るあいつの事も触れずにすんだし売人の情報もあやふやな事や嘘を交えて話すことが出来た。クラブから自宅までの逃走経路も当たり前のルートを伝えた。勿論数十メートルあろうかという崖を飛び降りたなんて言っても足跡でも見つけない限り信じないだろうが。


求める情報に対して十分な答えではなかっただろうが、該当の記憶から情報を聞き出せた事で催眠術は終わりとなった。徐々に現実に戻るように催眠術師は穏やかに誘導する。俺はもう失くしていた記憶が戻ったショックもあり完全に覚醒していたが術に合わせて徐々に目を覚まして見せた。


「脳波から見て彼の意識はすでに正常であると思われます。」


もう一人の白衣の男が言った。その声に俺は覚悟を決めて取り囲む四人に俺の身に起きた事とレプティリアンが語った話をした。男達は無言のまま時折頷いたりしながら俺の話を聞いていた。全て離し終わって助けを求めると白衣の男が冷めた口調で言った。


「麻薬中毒ですね。幻覚だとしても記憶は記憶ですから。リハビリして社会復帰を目指しましょう」


月並みな反応に俺は怒りを覚えた。


「本当なんだ、俺はレプティリアンと乱闘騒ぎを起こしてその後奴らに拉致された。信じてくれ」


「まぁ、あなたがクラブで使用したドラッグだけならあんな事にはならなかったはずなんですよ。調合してリリースしたのは我々ですし。そのドラッグと何らかの薬物を同時に使用して発症したのは間違いありません。この事が我々にとっても大変危険な事は承知しています。これからゆっくり検査させてもらいますよ」


俺を取り囲む四人の口元が笑みで歪んだ。そして一人の警察官が自分の上顎に手をかけて少し引き上げる動作を見せると、前歯の後ろに鋭利な歯が生えているのが見えた。

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