第5話

5話



遼の実家、喫茶店「潮音」のカウンターは、昼間の忙しさをようやく終えたように静まり返っていた。床には木目が薄く磨り減った跡があり、どれだけの年月、この場所が多くの人々を迎え入れてきたのかを物語っている。


壁際には古い柱時計が掛かり、針が時を刻むたびに、かすかな音が響いていた。そのすぐ下には、潮風に少し色褪せた写真――若い頃の遼の両親が海辺で微笑んでいる一枚が飾られている。窓の向こうには、ぼんやりと夕暮れが見え、空は濃い茜色に染まり始めていた。


「遼、早く支度しなよ。」

梨花がカウンター越しに顔を覗かせた。浴衣姿の彼女は、普段とはまるで別人のように見えた。紺地に白い朝顔模様が涼やかで、髪をアップにまとめたその姿は、どこか背伸びした大人っぽさがあった。


「……お前、それ似合ってるな。」

不意に口をついて出た言葉に、遼は少し後悔した。梨花が嬉しそうに頬を染め、軽く胸を張ったのが目に入ったからだ。


「でしょ? 私、この浴衣、お母さんと一緒に選んだんだから。」

梨花は自慢げに腰をくねらせ、ふわりと裾を広げて見せた。その仕草が妙に可愛らしく、遼は思わず視線をそらした。


「俺の準備はもう終わってる。親父に後は頼んだから、いつでも行けるぞ。」

遼はテーブルに置いてあった団扇を手に取り、顔をあおぎながら立ち上がった。



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夏祭り会場は、町の中央にある神社の境内だった。古びた鳥居をくぐると、無数の提灯が揺れる中、夜の始まりを告げるようなざわめきが耳を包む。地元の人々が次々と集まり、狭い通りには出店の明かりが連なっていた。


「あ、金魚すくいだ!」

梨花が露店の一つに目を留め、足を止めた。お面を売る店やたこ焼き屋の間に、小さなビニールプールが置かれ、その中を金魚たちがすいすいと泳いでいる。


「懐かしいな……。」

遼はふと呟いた。小さい頃、この金魚すくいで取った金魚を家に持ち帰ったものの、翌朝には水槽の底で動かなくなっていた記憶がよみがえる。


「やってみようかな。」

梨花が袖をまくり上げ、金魚すくいの紙のポイを手に取った。その横顔は真剣で、少しだけ舌を出しながら水面を覗き込む姿が微笑ましい。


「慎重になりすぎると破れるぞ。」

遼がからかうように声をかけると、梨花は軽く睨んだ。


「うるさい。見ててよ、これ絶対いけるから。」

その声の勢いに、遼は苦笑いしながら見守った。


ポイを慎重に金魚の下に滑り込ませる。しかし、紙が水を含んだ瞬間、小さな赤い魚がするりと逃げてしまった。


「あっ……!」

梨花が口を尖らせ、肩を落とす。その表情があまりにも可愛らしく、遼はつい吹き出してしまった。


「笑うなって!」

梨花が遼を小突こうとするが、浴衣が動きを制限しているのか、なんとも中途半端だ。


「ほら、俺がやってやるよ。」

遼は彼女からポイを受け取ると、適当にしゃがみ込み、手早く金魚を一匹すくい上げた。


「ほら、これ。」

彼が差し出す袋の中で、金魚がピチピチと跳ねている。梨花は嬉しそうにその袋を受け取ったが、少し悔しそうに呟いた。


「なんで遼がやると簡単にできるのよ……。」

「そりゃ、俺が器用だからだろ。」

「調子に乗らないで。」



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人混みを抜け、少しだけ静かな参道へと出ると、梨花は遼の袖を軽く引いた。


「ねぇ、ちょっと歩こう。」

そう言って彼女は先に歩き出した。遠くからは祭囃子と人々の笑い声がかすかに聞こえてくるだけで、ここは別の空間のように静かだった。


「なんかさ、こうやって一緒にお祭り来るのって、小さい頃と変わらないね。」

梨花が呟いたその声は、どこか懐かしさを滲ませていた。


「そうだな。でも、お前の浴衣姿を見たのは初めてだ。」

遼が軽くからかうように言うと、梨花は一瞬驚いた顔をしてから、小さく笑った。


「そっか。でも、似合ってるでしょ?」

「まあ、な。」

遼が答えると、梨花は満足そうに頷いた。そして、ふと手を伸ばし、遼の袖を掴んだ。


「どうした?」

遼が問いかけると、梨花は顔を少し赤らめながら答えた。


「迷子になると困るでしょ。」


梨花に袖を掴まれたまま、遼は少しだけ目を伏せた。人混みを抜け、二人だけになったこの静かな参道で、彼女の小さな手の感触が妙に意識される。

「迷子になるって……俺、子どもじゃないぞ。」

ぶっきらぼうにそう言いながらも、袖を振り払おうとはしない遼に、梨花は少し得意げに笑った。


「でも、今は私が迷子にならないように、しっかり捕まえててよ。」

遼の袖を少しきつく握り直すと、梨花は前を向いて歩き始めた。その浴衣の裾が軽やかに揺れるたび、提灯の光が柄を鮮やかに照らす。


「……そうだ。」

梨花が急に足を止め、遼の方を振り向いた。


「何だよ。」

「くじ引き行こうよ。あそこのお店、毎年やってるじゃん。」

彼女が指差した先には、少し古びた露店があり、「一等 ぬいぐるみ!」と手書きの看板が掲げられている。


「あんなの、どうせ当たらないだろ。」

「いいじゃん! 当たるかどうかが楽しいんだから!」

梨花は頬をふくらませ、子どものように駄々をこねる。その姿に遼は溜め息をつきながらも、結局、店主に小銭を渡した。


「一回だけだぞ。」

そう言って箱の中からくじを引き、ゆっくりと紙を開く。


「……ハズレだ。」

遼が淡々と結果を告げると、梨花は肩を落としつつも、すぐに自分の番だと元気を取り戻した。


「次は私!」

梨花が慎重に箱に手を入れる。その表情は真剣そのもので、まるで世界の運命を握っているかのようだった。やがて、彼女が引き当てたくじを開き、店主に見せる。


「おお、三等だ!」

店主が拍手をすると、梨花は目を輝かせながら景品を受け取った。それは、小さなカラフルな風車だった。


「やったー!」

梨花が風車を手に取り、嬉しそうに回して見せる。その風車が提灯の灯りを反射してきらきらと輝く。


「たった三等でそんな喜ぶか。」

遼が呆れたように笑うと、梨花は得意げに胸を張った。


「いいじゃん。これ、夏らしくて可愛いでしょ?」

そう言いながら、風車を回すためにふーっと息を吹きかける。その仕草が妙に幼くて、遼は思わず微笑んでしまった。



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祭りも佳境に差し掛かり、遠くの広場では打ち上げ花火が始まった。空に大輪の花が咲き、その光が参道の木々を鮮やかに染め上げる。


「わあ、すごい!」

梨花が花火を見上げて歓声を上げる。彼女の浴衣が風に揺れ、提灯の灯りに照らされた横顔が遼の視界に映る。


「そんなに珍しいか?」

遼が少し意地悪く問いかけると、梨花は笑顔のまま振り返った。


「珍しいとかじゃなくて、綺麗なものを一緒に見てるのが楽しいの。」

その言葉に、遼は不意に言葉を失った。梨花の笑顔と花火の輝きが重なり、胸の奥が静かに締め付けられるような感覚を覚える。


「……そっか。」

それだけ答えるのが精一杯だった。


次々に上がる花火の音が夜空に響き、二人は無言でそれを見上げていた。だが、遼の心の中には梨花の言葉がずっと響き続けていた。



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梨花が風車を手に、楽しそうに参道を駆け回る。風に吹かれて風車がカラカラと音を立て、その音が提灯の揺れる音と混ざり合う。

「遼、早く!」

梨花が振り返り、笑顔で手招きをする。その姿に遼は少しだけため息をつきながら歩を速めた。


「お前、子どもみたいにはしゃぎすぎだぞ。」

「いいじゃん、夏祭りなんだから!」

梨花が無邪気に笑い、風車を高く掲げる。その瞬間、遠くから声が飛んできた。


「おい、遼!」


その声に遼は振り返る。声の主は親友の健と梨花の親友・彩香。カップルだ。2人とも手にはそれぞれの屋台の品――健はたこ焼き、彩香はりんご飴を持ち、驚いた表情を浮かべている。


「お前、梨花と一緒にいるのか?」

健が目を丸くして近づいてくる。その視線はどこか疑いを含んでいるようだった。彩香もじっと梨花を見つめながら、興味深そうに微笑む。


「べ、別に……ただの幼馴染だし、ちょっと一緒に祭り回ってただけだよ。」

遼は慌てて言い訳を口にしたが、その声はどこか空回りしている。


「ふーん、幼馴染ねぇ。」

健は意味ありげな笑みを浮かべながら遼を肘で軽く小突く。


「そうよ。ただの幼馴染。」

遼が胸を張る前に、梨花が口を開いた。だが、その言葉はどこか少しだけ含みがあるようだった。


「ほら、ずっと一緒に遊んでたし、こういうの普通だよね?」

梨花は遼をちらりと見上げ、微笑む。だが、その笑顔が何を意味しているのか、遼には掴めなかった。


「……まあ、それならいいけどさ。」

健は肩をすくめて歩き出し、彩香が遼と梨花を交互に見ながら、からかうように言った。


「でもさ、どう見てもカップルに見えるよね。」

その言葉に、遼は一瞬息を呑んだ。慌てて否定しようと口を開くが、その前に梨花が続けた。


「それでもいいんじゃない?」

梨花は涼しげな声でさらりと言った。その言葉に、彩香は驚きながら目を丸くし、健は「おお?」と茶化すように声を上げた。


「お、おい、何言ってんだよ!」

遼が思わず声を張り上げると、梨花はくすくすと笑いながら風車を回した。


「だって、そう見えるんでしょ? じゃあそれでいいじゃん。」

その言葉に、遼は何も言い返せなかった。隣で笑う梨花が本当に何を考えているのか、全く分からなかったからだ。



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健と彩香が立ち去った後、参道に二人だけが残された。風車を手にした梨花が足を止め、遼を振り返る。


「……ごめんね。ちょっとからかっちゃった。」

梨花は申し訳なさそうに言いながら、少しだけ眉を下げた。


「別にいいけど……あんまり変なこと言うなよ。誤解されるだろ。」

「誤解、かな?」

梨花の言葉に、遼は思わず足を止めた。その声には、いつもの無邪気さとは違う何かが含まれていた。


「……何が言いたいんだよ。」

遼が問いかけると、梨花は少しだけ口元を緩めた。そして、祭囃子の方を見つめながらぽつりと呟く。


「なんでもない。ただ、楽しかっただけ。」

その言葉が、かえって遼の心をざわつかせた。梨花の横顔は花火の光に淡く染まり、その瞳に映る祭りの景色がどこか儚げに見えた。


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八幡神社を後にし、二人は町外れに続く小道を歩いていた。夏祭りの余韻がまだ遠くに残り、潮風が肌に触れるたびに提灯の熱気を冷ましていく。空は墨を流したように深い藍色に染まり、その中で星がまばらに瞬いている。


両脇に広がる田んぼからは、カエルの合唱が絶え間なく聞こえ、風が稲穂を撫でる音がどこか心を落ち着かせる。足元では白い砂利がかすかに音を立て、夜道の静けさをより際立たせていた。


「ふぅ……楽しかったけど、疲れちゃった。」

梨花が肩を落とし、小さな声で呟いた。その浴衣の裾が草履に絡み、彼女の歩調は少しずつ遅れていく。


「だから最初からはしゃぎすぎなんだよ。」

遼は振り返り、少し呆れたように言う。梨花は軽く笑ったが、その足元はふらついていた。


「ちょっと待って……足が痛いかも。」

梨花は立ち止まり、草履を脱いで裸足になった。白い砂利の感触が踵に触れると、彼女はわずかに眉をひそめた。


「ほら、見せてみろよ。」

遼はしゃがみ込み、梨花の足をじっと見つめた。夜風に吹かれて彼女の浴衣が揺れ、擦り傷の赤さが月明かりに浮かび上がる。


「大したことないよ。大丈夫。」

梨花は気丈に笑おうとしたが、その声には少し痛みが混じっていた。


「おい、無理すんな。」

遼は立ち上がると、何も言わずに肩を叩いた。


「乗れよ。」

「えっ……?」

梨花が目を丸くして見上げると、遼は振り返りもせず、ぽんぽんと肩を叩き続ける。


「いいから乗れ。これ以上歩いて帰るのは無理だろ。」

「……じゃあ、お願い。」

梨花は遠慮がちに遼の背中に乗ると、彼はしっかりと足を支えた。その瞬間、砂利道の小さな音が再び響き、二人を包み込む静けさが戻ってきた。



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夜空はすっかり晴れ渡り、天の川が薄く帯のように広がっている。梨花は遼の肩越しにその星空を見上げ、そっと息を漏らした。


「……星、綺麗だね。」

「そりゃ、南ヶ丘は空気が綺麗だからな。」

遼は振り返らずに答える。その声はどこか落ち着いていて、梨花は安心したように微笑んだ。


道の脇には竹林が続いており、風が葉を揺らす音が心地よいリズムを刻む。竹の影が月明かりに映えて黒く揺れ、まるで生きているように見えた。


「遼の背中、意外と広いんだね。」

梨花がぽつりと呟くと、遼は少しだけ苦笑した。


「それ、褒めてんのか?」

「もちろん。すごく安心する。」

梨花の声が柔らかく、遼の背中に伝わる体温と一緒に胸の奥に染み込んでいく。



---


梨花の家が近づくと、道沿いの景色はまた少し変わった。木造の家が立ち並び、軒先には風鈴が吊るされている。風に揺れる澄んだ音色が、夜の静寂を優しく打ち破る。


梨花の家は瓦屋根の平屋で、庭には小さな井戸と石灯籠が置かれていた。その灯籠の中には蝋燭の明かりが揺れており、夜風にかすかに揺らめいている。


「着いたぞ。」

遼が足を止めると、梨花は背中からそっと降りた。裸足のまま砂利を踏むと、少しだけ膝を曲げてふらつき、遼が慌てて手を貸した。


「ありがとう、遼。本当に助かったよ。」

梨花が笑顔で頭を下げる。その顔はどこか疲れていたが、安心感が滲んでいた。


「……疲れたなら、ちゃんと休めよ。」

遼がそっけなく言うと、梨花は微笑みながらうなずいた。


「うん。遼もね。」

梨花は玄関へ向かい、ふと振り返った。そして、少しだけ恥ずかしそうに言葉を紡いだ。


「おやすみ、遼。」

その声が夏の夜に溶け込み、井戸の水音と風鈴の音色に静かに混じった。


遼はしばらくその場に立ち尽くし、星空を見上げた。南ヶ丘町の夏の夜は、ただ静かで、美しかった。


 



 

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