第4話

4話



朝の空気は、夏らしい湿り気を含みながらも、夜の涼しさをまだ少しだけ残していた。遼の家の喫茶店「潮音」は、いつも通り静かな朝を迎えていた。古い木の引き戸から漏れる微かなコーヒーの香りが、砂浜を渡る潮風に混ざって店の周囲に広がっている。


遼は窓辺に腰を掛け、新聞をめくる父親の背中をぼんやり眺めていた。古びたカウンターの上には、昨日梨花が手伝って洗ったカップがきれいに並んでいる。店内はまだ客もおらず、聴こえるのはラジオから流れるAM放送の穏やかなトーンだけだった。


「遼、掃除くらい手伝え。」

父親が新聞をたたむと、テーブルに肘をついて遼を睨む。


「後でやるよ。」

遼は気の抜けた声で返事をしながら、頭を掻いた。朝早くから働くのは面倒だと、毎日同じように思う。


しかし、そんな平穏な朝も、梨花が現れることで少しだけ乱される。玄関の引き戸がガラリと開き、彼女が小走りに入ってきた。麦わら帽子に白いワンピースという清涼感あふれる姿で、遼を見るなり満面の笑みを浮かべる。


「おはよう、遼! 散歩行こう!」

いきなりの提案に、遼は新聞をめくる手を止めた。


「は? 今から?」

「うん、だって朝の海って綺麗だし、散歩したら気分良くなるよ。」

梨花はずいっと距離を詰め、テーブル越しに遼を覗き込む。その瞳はきらきらと輝いていて、逆らえる気がしない。


「掃除はどうするんだよ。」

遼が父親を見やると、父親は呆れたように肩をすくめた。


「まあ、行ってこい。帰ってきたらしっかり働けよ。」

そう言い残し、また新聞を広げる。


「ほら、行くよ!」

梨花は遼の腕を引っ張り、玄関の方へと急かした。仕方なく立ち上がった遼は、小声でぼやきながら靴を履いた。


「朝から元気すぎだろ、お前……。」

「遼が元気なさすぎなんだって!」

梨花が軽く笑いながら答えるその声に、どこか張り詰めたものを感じたのは気のせいだろうか。



---


砂浜を歩く二人の足音が、朝の静けさに溶け込む。波が引くたびに小さな貝殻がきらきらと光り、空には早起きしたカモメが悠然と飛んでいた。


「こうして歩くの、久しぶりだよね。」

梨花が足元の小石を蹴りながら言った。声は軽いが、どこか懐かしさを孕んでいる。


「ああ、そうだな。」

遼はあまり気の利いた返事ができず、海を眺めながら短く答える。遠くの灯台が、ぼんやりと朝の陽に照らされている。


「覚えてる? 小学校の頃、朝早くにカニ探しに行ったの。」

梨花は微笑みながら、浜辺の方を指さした。その指先には、小さな波打ち際が広がっている。


「ああ、俺が大きなカニに挟まれたやつだろ。」

遼が思い出して笑うと、梨花も肩を揺らして笑った。


「そうそう! あれ、本当に面白かった。泣きながら『もう帰る!』って言ってたもんね。」

梨花は歩を止め、遼の顔をまじまじと見る。その表情は完全に無邪気な楽しさで満たされていた。


「今ならカニぐらい余裕だっての。」

遼は軽く反論したが、その言葉に説得力はない。梨花は「本当かな?」と疑うように首を傾げる。



---


砂浜の隅に打ち上げられた流木に座り込むと、梨花は裸足になって砂を足で蹴った。


「ねぇ、遼。これが最後の夏休みだと思うと、なんか変な気持ちだよね。」

その声にはどこか寂しさが混じっていたが、彼女はあくまで明るい調子を保っている。遼は横目で梨花を見ながら、小さく息を吐いた。


「お前、ほんとに引っ越すのか?」

「うん。もう決まっちゃったからね。」

梨花は笑顔を作ったが、どこかぎこちなかった。


遼はもっと踏み込んで何かを聞きたかったが、波の音がその言葉を飲み込んでしまう。彼女の足先が砂を描くように動き続けるのを、ただ眺めることしかできなかった。




 

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