第3話
帰り道の空は、茜色に染まっていた。海面が鏡のように夕陽を反射し、波打ち際は金色に輝いている。遠くには、シルエットになった漁船がのんびりと進む姿が見えた。
「すごい、綺麗……」
梨花が足を止め、砂浜の上に立ち尽くした。麦わら帽子を軽く押さえながら、夕陽に染まる水平線を見つめている。彼女の横顔は穏やかで、その目は遠い昔を思い出すように優しく細められていた。
遼はその横顔を見ながら、胸の奥がざわつくのを感じていた。梨花が美しいと感じる瞬間は何度もあったが、この夕陽に照らされた彼女の姿は格別だった。髪が風に揺れ、肌は光を受けて柔らかい金色に染まっている。
「小さい頃、ここで遊んだの覚えてる?」
梨花が振り返り、遼に問いかけた。その声は、まるでその思い出を鮮明に呼び起こすかのように柔らかだった。
「ああ、覚えてるよ。お前、よく波に近づきすぎて靴びしょ濡れにしてたよな。」
遼は苦笑しながら応えた。砂浜で転んで泣きべそをかく梨花の顔を思い出し、少しだけ笑みがこぼれる。
「それでも、楽しかったよね。」
梨花は小さく笑い、再び海の方を向いた。そして、波打ち際にそっと近づき、裸足になった足を砂に埋めた。
「覚えてる? あの灯台でのこと。」
彼女が遠くの小さな灯台を指さした。夕陽を背にしたその灯台は、シルエットになっていて、まるで時間の流れを超えてそこに佇んでいるようだった。
「あの灯台か……。お前が『流星群を見よう』って言い出したんだよな。」
遼もその方向を見ながら答えた。幼い頃、夏の夜に手を繋ぎながら灯台に登ったことが、鮮やかに蘇る。
「あれ、すごく楽しかったんだよね。でも、私、結局寝ちゃったんだよね……。」
梨花が少し恥ずかしそうに笑う。夕陽がその笑顔を優しく照らしていて、遼は不意に胸がぎゅっと締め付けられる感覚に襲われた。
「まあな。結局俺も星なんてほとんど見えなかった。」
遼はわざと冗談めかして答えたが、そのとき感じた胸の高鳴りを隠しきれなかった。
「また行こうよ、灯台。流星群、今度はちゃんと見よう。」
梨花の声には、不思議なほどの力強さがあった。彼女の言葉に込められた意味を探りたい気持ちと、それ以上踏み込めないもどかしさが交差する。
「……ああ、行こう。」
遼は短く答えた。それが自分にできる精一杯の返事だった。
梨花は「よかった」と小さく呟くと、砂浜に腰を下ろした。そして、指先で砂に無造作な模様を描きながら、ぽつりと呟いた。
「ねぇ、遼。いつかこの町を離れるとしたら、どうする?」
不意の言葉に、遼は息を呑んだ。梨花は砂をいじる手を止め、海の方をじっと見つめている。風に揺れる彼女の髪が、その表情を隠すようだった。
「……お前、どこか行くのか?」
遼は慎重に問い返したが、梨花は答えず、波の音に耳を傾けているだけだった。
夕陽は徐々に沈み、空は濃いオレンジ色に染まっていく。その中で、遼と梨花の間には、言葉にならない感情が静かに流れていた。
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家に帰り着くころ、空は深い群青色に変わり始めていた。風は涼しさを帯び、草むらからは小さな虫の音が響いている。夕陽の名残が地平線のあたりに薄く滲み、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
遼の家の近くにある古い公園の前で、梨花は足を止めた。街灯がほんのりと光を落とし、ブランコや滑り台の影を地面に長く引いている。ここもまた、二人の幼い頃の思い出が詰まった場所だった。
「覚えてる? 小学校の時、ここでよくかくれんぼしたよね。」
梨花が振り返り、少しだけ懐かしそうに笑った。帽子を手に持ち、風で乱れた髪を耳にかける仕草がどこか大人びて見える。
「ああ、でも俺、全然隠れるの下手だった。」
遼は苦笑しながら、ブランコに目をやる。あの頃は、誰もがここに集まり、時間を忘れて遊んだものだ。夕方、母親の呼ぶ声が遠くから聞こえてきて、それでも名残惜しくて帰りたくなかった日々が蘇る。
「……私、もうすぐこの町を出るんだ。」
梨花の声は静かで、まるで空気に溶け込むようだった。その言葉があまりにも唐突で、遼は一瞬、彼女の言葉の意味を理解できなかった。
「え……?」
遼は立ち止まり、梨花の顔を見た。梨花は視線を合わせず、そっとブランコの鎖を指先で揺らしている。風に髪がなびき、彼女の表情を一瞬隠した。
「パパの仕事の都合でね。夏休みが終わったら引っ越すことになったの。」
梨花は淡々とした口調で続けたが、その声の奥には微かな寂しさが滲んでいた。
「……そんなの聞いてない。」
遼の声は無意識に低くなった。これまでずっと一緒にいた幼馴染が、突然いなくなると言われても、どう反応すればいいのか分からなかった。
「言うの、ずっと迷ってた。でも、言わないまま行くのも、なんか違う気がして。」
梨花はふっと笑いながら顔を上げた。その笑顔はどこかあっけらかんとしていたが、目元は少しだけ潤んでいるように見えた。
「……だからって、夏休みの間だけ付き合おうって、そういうことか?」
遼が問いかけると、梨花は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに目をそらした。
「そうだよ。それが一番、楽しいかなって思ったの。」
その言葉に、遼は何も言えなかった。夕方の公園に響く虫の音が、やけに大きく感じられる。
梨花はそのまま滑り台の階段に腰掛けると、両手を広げて星空を見上げた。空は夜へと移ろい始め、初めのひとつ星が点り始めている。
「ねぇ、遼。最後の夏休み、一緒に楽しい思い出作ろうよ。」
その声には、どこか諦めに似た甘さがあった。遼は答える代わりに、ブランコの座面に腰を下ろし、そっと足元の砂を蹴った。
空気はひんやりとしているのに、胸の中には妙な熱さがこもっていた。引っ越し――その現実をまだ受け入れられないまま、遼はただ梨花の横顔を見つめることしかできなかった。
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