第2話



校門を出て、ゆるやかな坂道を下る。両脇には古い瓦屋根の民家が並び、庭先には夏草がそよいでいた。遠くからは波の音が聞こえ、微かに潮の香りが混ざった風が吹き抜ける。蝉の声は相変わらず耳にこびりつくほど大きい。


遼と梨花は並んで歩いていたが、言葉はほとんど交わしていない。遼は手に持った鞄をくるくる回し、梨花は帽子のつばをいじりながら、ちらりと遼の顔を伺うようにしていた。


「どこ行くんだ?」

遼がぽつりと口を開いた。梨花は少し足を止め、振り返りながら指を一本立てる。


「駅前の商店街。あそこ、久しぶりに行きたくなったの。」

「駅前か……相変わらず人少ないんだろ?」

「それがいいんじゃん。観光地の方は賑やかすぎて、落ち着かないし。」


梨花の言葉に、遼は少し頷いた。商店街は地元の人しか訪れないような小さな通りで、観光地の華やかさとは無縁だ。古びた本屋や八百屋、喫茶店が並び、ところどころに錆びた自転車が無造作に停められている。


到着した商店街は、遼の記憶の中とほとんど変わらなかった。薄い日除けが掛かったアーケードには、夏の陽射しが木漏れ日みたいに差し込み、まるで時が止まっているかのようだった。


「ねぇ、あれまだあるかな?」

梨花が指差したのは、商店街の端にある古びた駄菓子屋だった。木製の引き戸には、手書きの「営業中」の札がかかっている。


「懐かしいな……。まだやってるのか。」

遼は少し驚きながら答えた。小学校の頃、2人でよく通った場所だ。10円の飴を買って、誰が長く舐められるか競争した日々を思い出す。


「ちょっと行こうよ。」

梨花は遼の手を引っ張るようにして駄菓子屋に向かう。引き戸を開けると、かすかに甘い匂いが漂ってきた。棚にはびっしりと並んだ駄菓子が色鮮やかで、どこか昔と同じ景色に胸が締めつけられるような感覚を覚える。


「懐かしい! まだベビースター置いてあるじゃん。」

梨花が無邪気に笑いながら棚を眺める。その笑顔を見ていると、遼は不思議と緊張がほどけていくのを感じた。


「お前、これ好きだったよな。」

遼が取り出したのは、包装紙にカラフルな花火の絵が描かれたラムネの袋だ。梨花は手を伸ばしてそれを受け取ると、小さく微笑んだ。


「うん。今でも好きかも。」

その何気ない一言が、遼の心に小さな波紋を広げた。


会計を済ませ、2人は店の前に置かれた木製のベンチに腰掛ける。ラムネを片手に、梨花がぽつりと言った。


「ねぇ、こうやってのんびり過ごせるのって、これが最後かな。」


その言葉に、遼は少し戸惑いを覚えた。隣を見ると、梨花はラムネを片手でくるくる回しながら、遠くを見つめていた。


「そんなわけないだろ。まだ夏休み始まったばっかりだし。」

「そうだけど……なんかね、こういうの、意外と一瞬なんだよね。」


梨花の言葉の真意を探ろうとしたが、問い返すタイミングを逃した。その代わり、遼はラムネの包みを開け、無言で一粒口に放り込んだ。甘酸っぱい味が舌に広がる。それはどこか、この瞬間の感覚と似ている気がした。


---


商店街を抜け、潮風にさらされながら歩く道の先に、遼の実家である喫茶店「潮音」が現れた。小さな砂浜に面したその建物は、使い込まれた木の壁と古びた白い看板が、静かに年月を語っていた。梨花はその場に立ち止まり、じっと店を見上げた。


「変わってないんだね、ここ。」

麦わら帽子を脱ぎ、頭を軽く振る。風に乗った彼女の髪がふわりと肩に落ち、陽光を浴びてきらめいた。その姿があまりに自然で、遼は一瞬声をかけるのを忘れるほど見入ってしまった。


「そりゃあ、親父は新しいことなんて興味ないからな。」

遼が少し気恥ずかしげに答えると、梨花は振り返り、くすっと笑った。


「その方がいいよ。なんかホッとするもん。」

彼女は軽やかに歩き出し、店の窓に顔を寄せた。両手で窓枠をつかみ、まるで昔と変わらない景色を探るように店内を覗き込む。その仕草に、子どもの頃の面影が重なり、遼は不意に懐かしさを覚えた。


「開けていい?」

梨花は窓から離れると、扉に手をかけ、振り返って遼に問いかけた。軽く首を傾げるその表情は、まるで「いいでしょ?」と言いたげで、遼は思わず頷いてしまう。


「……どうぞ。」

扉が開く音とともに、カウンター越しの父親が顔を出した。


「いらっしゃいませ……って、なんだ、遼か。それに――宮下の娘さんか。」

父親の声に、梨花はにっこりと微笑み、小さく手を振った。


「こんにちは、おじさん。お邪魔します。」

その丁寧な挨拶とともに、彼女は一歩足を踏み入れた。まるで空気を変えるかのように、店内の落ち着いた雰囲気に馴染むその動作がどこか洗練されて見えた。


店内に漂うコーヒーの香ばしい匂いに、梨花は目を閉じて深呼吸する。肩を軽く上下させながら、どこか恍惚とした表情で呟いた。


「懐かしい……。なんか、この匂い、子供の頃と同じ。」


「そりゃあ、豆も機械もずっと同じだからな。」

遼の父親が冗談めかして笑うと、梨花はクスリと笑い返す。その笑顔の隣で、遼はなんとなく落ち着かない気分だった。


「それでね、おじさん。ここ、バイト募集してたりする?」

突然の言葉に、父親も遼も驚き、思わず顔を見合わせた。


「バイト? 急にどうしたんだ?」

遼が先に口を開くと、梨花は小さく肩をすくめて、テーブルに片手を置いた。その指先で木目をなぞりながら、少し悪戯っぽく笑う。


「どうしても。夏休み、家にいても暇だし、ここで働けば遼にも会えるし。」

軽い口調だが、その中に微かな真剣さが混ざっているような気がした。


「いいんじゃないか? 助かるしな。」

父親は梨花の提案をあっさり受け入れた。その瞬間、梨花はぴょんと一歩足を跳ね上げて小さくガッツポーズを取った。


「やった! じゃあ明日からよろしくお願いします!」

大げさなくらい嬉しそうな仕草に、遼は呆れたような笑みを浮かべたが、心の奥でほっとしている自分にも気づいていた。


梨花は軽快に振り返り、カウンターの隅に置かれたラムネ瓶を指さす。「あ、これ懐かしい。まだあるんだね。」


「持ってけよ。どうせ古い在庫だ。」

父親が軽く手を振ると、梨花はお礼を言いながらその瓶を抱え、じっと見つめた。透き通るガラスに映る彼女の横顔が、まるで陽射しの中で揺らめいているようだった。


その仕草に言い知れない愛おしさを感じながら、遼はふと彼女の言葉を思い出した。

「ここで働けば遼にも会えるし」。その言葉の裏にある彼女の本音が、気になって仕方がなかった。



 

 

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