第6話

6話



朝の「潮音」は、静かな時の流れの中にあった。窓の外では風鈴が澄んだ音を奏で、通りを渡る風が草木を揺らしている。蝉の声が日差しとともに少しずつ強まり、夜露に濡れた木製の看板が朝陽を受けて輝いていた。


カウンターでは遼が黙々と作業をしていた。昨夜の夏祭りの余韻がまだ身体に残っているようで、体は少し重いが、それでもいつも通りに動く自分に安心感を覚える。


「遼、ちょっとお邪魔するよ。」

ドアが軽く開く音と共に、いつもと違う声が店内に響いた。遼が振り返ると、そこには都会的な雰囲気を纏った若い男性が立っていた。


「瑞樹? お前、なんでここにいるんだよ。」

遼は少し驚きながら声を上げた。その男――瑞樹は遼のいとこで、普段は都会で大学生活を送っている。


「急に夏休みの予定が変わってさ。母さんが『たまには田舎に行ってみたら』って言うから、フラッと来てみた。」

瑞樹は軽い口調で言いながら、スニーカーを脱いで店内に入った。その姿はどこか洗練されていて、南ヶ丘町の風景から少し浮いているように見えた。



---


「瑞樹さん、初めまして。」

カウンターの向こうから梨花が声をかける。その笑顔に、瑞樹は一瞬目を丸くしたが、すぐににっこりと微笑み返した。


「君が梨花ちゃん? 聞いてた通り、可愛いね。」

瑞樹の言葉に、梨花は少し恥ずかしそうに笑った。遼はその様子を横目で見ながら、微かに眉をひそめる。


「おい、調子に乗るなよ。梨花は幼馴染だ。」

「わかってるって。けど、こんな田舎でこんな美人に出会えるとは思わなかったな。」

瑞樹は軽い口調でそう言うと、窓際の席に腰を下ろした。彼はすぐに店内を見渡し、その素朴で温かみのある雰囲気に目を細めた。


「……いい店だね。静かで落ち着く。」

「お前みたいな奴には退屈かもしれないけどな。」

遼が半分からかうように言うと、瑞樹は肩をすくめて答えた。


「退屈でもいいさ。都会はいつもせわしないからね。たまにはこういう場所でのんびりするのも悪くない。」



---


瑞樹はコーヒーを一口飲み、梨花の方に目を向けた。


「ところで、梨花ちゃんって、この町で生まれ育ったの?」

「はい、そうです。この町以外、ほとんど知らないんですよ。」

梨花が答えると、瑞樹は興味深そうに頷いた。


「そうなんだ。じゃあ、町の案内とかお願いしてもいいかな?」

「えっ、私がですか?」

梨花は驚いたように目を丸くしたが、瑞樹は軽く手を振って笑った。


「いや、もし時間があればでいいんだけど。この町のこと、もっと知りたくてね。」


その会話に、遼は少しだけ苛立ちを覚えた。梨花に案内を頼むなら、自分に一言相談してもいいはずだと感じたのだ。


「……梨花、無理しなくていいからな。」

遼が静かに言うと、梨花は少し困ったように笑った。


「うん、わかった。でも、案内するくらいなら楽しそうだし、考えてみるね。」


瑞樹はその答えに満足そうに頷き、再びコーヒーを飲みながら窓の外を眺めた。その目には、どこか新しい世界を探し求めるような好奇心が宿っていた。


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「いらっしゃいませ。」

扉の鈴が鳴る音と同時に、遼がカウンターの向こうから声をかける。訪れたのは、毎朝この喫茶店に通っている常連の藤井老人だった。背中は少し曲がり、杖をつきながらゆっくりと店内に入ってくる。


「おお、遼坊か。今日はちゃんと起きてたんだな。」

藤井が笑いながらそう言うと、遼は苦笑しながら答えた。


「毎日ちゃんと起きてますよ。いつもブラックですよね?」

「おう、それで頼むよ。」


遼がカウンターの奥でコーヒーを淹れる音が店内に響く。梨花は藤井がいつもの窓際の席に腰を下ろすのを手伝いながら、柔らかい声で話しかけた。


「藤井さん、今日は涼しいですね。」

「ああ、朝はいい風が吹いとるな。この町も、こうやってのんびりできる場所があるのはありがたいことだよ。」


藤井は椅子に深く腰掛け、外の景色を眺めながら呟いた。その目はどこか遠い昔を思い出しているようだった。


「昔はここも、子どもたちの声で賑やかだったんだがなぁ。」

「今も賑やかですよ。夏祭りだってたくさん人が来てました。」

梨花がそう言うと、藤井はふっと笑った。


「お前さんは若いからそう思うかもしれんが、昔はもっとだったんだよ。夜になると、あの坂道も子どもたちでいっぱいだった。」

藤井の指差した窓の外には、坂道が続いている。その景色に梨花は目を細めた。


「へぇ、なんか想像できないな。」

「まぁ、今じゃ静かなのが当たり前だ。いいことなのか悪いことなのか、わしにはわからんがな。」


その会話を横目で聞いていた瑞樹は、藤井の語る「昔の町」に興味を持ったようだった。


「この町って、そんなに賑やかな時期があったんですか?」

瑞樹が尋ねると、藤井は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。


「おうよ。夏休みになると、近くの町からもたくさん子どもが遊びに来てたんだ。この喫茶店だって、その頃は子ども連れのお客さんでいっぱいだった。」


瑞樹はその話に耳を傾けながら、店内を見渡した。今は静かで穏やかな空間だが、かつてここが賑やかだった様子が目に浮かぶようだった。



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「藤井さん、お待たせしました。」

遼がコーヒーをテーブルに置くと、藤井は目を細めて笑った。


「おう、ありがとう。お前さんも、喫茶店をちゃんと続けているんだな。」

「まぁ、父さんがサボれって言わないんでね。」

遼の軽口に、藤井は声を出して笑った。


「そうかそうか。お前さんの父ちゃんも変わらんのぅ。」


その時、また扉の鈴が鳴った。今度は近所に住むおばあさん、菊池さんが小さな買い物袋を抱えて入ってきた。


「おやまぁ、藤井さんも来てたのね。」

菊池さんが藤井に話しかけると、藤井は軽く手を挙げた。


「おう、菊池さんも元気そうじゃな。」

「当たり前よ。この町で毎日歩いてれば、体も丈夫になるってもんよ。」


菊池さんが笑いながら言うその様子を見て、梨花は小さく吹き出した。


「菊池さん、今日は何にしますか?」

「いつものレモンティーちょうだいな。それと、あんたたちのお父さんにもよろしく言っといてね。」


梨花は笑顔で注文を受け、カウンターへと戻った。



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接客を終えた遼と梨花は、少しだけカウンターの中で休憩を取った。窓の外では蝉の声が一段と強まり、風鈴の音と混ざり合っている。


「……なんか、この店って本当にいいね。」

テーブル席でくつろいでいた瑞樹がぽつりと呟いた。その言葉に、遼は驚いたように顔を上げた。


「お前がそんなこと言うなんてな。」

「いや、こうやって人が集まる場所って、都会にはなかなかないんだよ。特に、こんな風に昔の話が自然に出てくる店なんて。」


瑞樹の言葉に、梨花は少し誇らしげに微笑んだ。


「そうですね。私もこの喫茶店が好きです。」

「……まぁ、悪くないけどな。」

遼が照れ隠しのように呟くと、梨花はくすくすと笑った。


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写真がカウンターの後ろの壁に貼られたことで、喫茶店「潮音」の空間に一つの新しい彩りが加わった。その写真を見るたびに、風鈴の音や蝉の声、そして遠くに聞こえる潮騒までもが鮮明に思い出されるような、そんな不思議な感覚があった。


瑞樹は写真を眺めながら、少し満足げに笑みを浮かべていた。


「やっぱり写真っていいよな。一瞬をそのまま閉じ込められる感じがする。」

「まぁ、思い出にはなるな。」

遼が少しそっけなく答えると、瑞樹は振り返って梨花に話しかけた。


「梨花ちゃん、この写真、気に入った?」

「うん、すごくいいと思う。こういうのって、普段じゃなかなか撮らないから新鮮だよね。」

梨花は写真をもう一度じっくりと見つめ、少し嬉しそうに微笑んだ。



---


「この町って、本当に不思議だよね。」

瑞樹がふいに呟いた。その言葉に、遼と梨花がほぼ同時に顔を上げる。


「不思議って、どういう意味?」

梨花が問いかけると、瑞樹は窓の外を見ながら言葉を続けた。


「都会とは全然違うんだ。静かで、時間の流れがゆっくりしてる。でも、それだけじゃなくて……なんていうか、人と場所が一体化してる感じがする。」

「人と場所?」

遼が眉をひそめる。瑞樹の言葉がどこか抽象的すぎて、すぐには理解できなかったのだ。


「そう。この喫茶店もそうだし、坂道や神社も。全部、そこで生きてる人たちの記憶と結びついてるように感じるんだ。」


瑞樹の言葉に、梨花は目を輝かせた。彼の視点は、自分が普段感じているこの町の良さを改めて気づかせてくれるものだったからだ。


「そう言われると、この町って特別かもしれないね。」

梨花がぽつりと言うと、遼は心の中で少し複雑な感情を抱いた。


瑞樹の言葉が梨花に響いているのが分かる。それが面白くない――そう思う自分に気づき、遼は自分の胸がざわつくのを感じた。



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「よし、決めた。この町のこと、もっと知りたい。」

瑞樹が突然声を上げた。その言葉に、梨花は目を輝かせ、遼は少し驚いたように彼を見つめた。


「どうやって知るつもりなんだよ?」

遼が問いかけると、瑞樹は悪戯っぽく笑った。


「梨花ちゃんが案内してくれるんだろ? それに、写真を撮りながら歩けば、色んな発見がありそうじゃないか。」

「また写真?」

遼は呆れたように肩をすくめた。


「だってさ、この町の良さを写真で残しておきたいんだよ。都会に戻ったとき、この静けさや風の匂いを思い出せるように。」


その言葉に、梨花は静かに頷いた。瑞樹の言うことには納得できる部分があった。


「じゃあ、明日、案内してあげるね。」

「本当? ありがとう。」


二人の会話を聞きながら、遼は無意識に拳を握りしめていた。



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喫茶店の外では、風鈴がまた涼やかな音を響かせている。瑞樹の言葉が、南ヶ丘町という静かな空間に新しい波紋を生んだのは確かだった。


「じゃあ、そろそろ行くよ。」

瑞樹が椅子から立ち上がり、カメラを鞄にしまった。その後ろ姿を見送りながら、梨花はふっと息を吐いた。


「瑞樹さん、面白い人だね。」

「……そうか?」

遼がそっけなく答えると、梨花は不思議そうに彼を見た。


「なんか、遼と正反対な感じ。都会っぽいけど、素直で。こういう人と話してると、私も少し背伸びしたくなるかも。」


梨花の言葉に、遼は何も言い返さなかった。ただ、カウンターの壁に貼られた写真をちらりと見た。その中の自分のぎこちない顔が、妙に今の心情を映しているように思えた。


 





 


 



 

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