第10話 金閣寺の9ページ目をお開きください。

溝口少年たちの元へ、海軍機関学校へ行った先輩がやってくる。


”若い英雄”として書かれたその青年に、千織は悶えた。


千織は軍人、兵士、戦争ものが好きだ。


それに加えて、この人物の描写の洗練されていることよ!!!


ここまででもだいぶ(*´Д`*)ヨキ♡なのだが、その後の少年たちと溝口との距離感がー。きょーりーかーんっ!


私は集団が描かれていると「自分ならどのポジションかな」と考えるのだが、中心の先輩でも、とりまきの後輩でもなく、溝口ポジションである。


溝口は、吃りがあるせいで周囲からばかにされていることと、そうでありながら彼らを眩しく思う気持ちがあって、そのシーンでは彼らと距離を置いている。


私の場合、理由はことなり、中心人物に興味がないと全く近寄らない。

そしてその人物から嫌がらせを受けるタイプだ。


まあ、理由は違えど、私はここで溝口への共感度合いが増したし、ポジショニングが異なる人でもそういう集団の光景というのは誰しも見たことがあるだろう。


9ページ目にして、読者の体験に迫ってくるのだ。



さて、この頃、私は自主企画でさまざま読ませていただき、一つの疑問があった。


「せっかく風景や光景を描写しているのに、それが物語から分離しているように感じるのはなぜか」


風景の設定自体は正しいのだが、それについて一生懸命想像した後、また主人公たちの心情に戻る時、えらくカロリーを使うのだ。


三島にそれはない。


とっても不思議。


あれだけ説明しているのに。


そこで私は三島の書き方を確認した。


まず、このシーンに至る前に、溝口という人間の説明が終わっていることが大切だった。


溝口という人間をきちんと説明された後なので、このシーンの溝口の心理変化を追うのはなんら難しくない。


次に、風景描写についても、最初は事実のみ書き、すぐにその風景の意味が書かれている。


たかだかこれだけの親切な手順を踏むだけで、脳内は鮮明な画面を映し出しかつ三島の”印象”を得られるのである。


実際、書こうとすると、書く側はくどいかな?と感じやすい。


私の場合、与えたい印象を書かずに説明的に終わったり、逆に印象だけ書いて何が見えているのか読者にわからないままにしてしまう。


これがわかっただけでも、私にとっては大きな進歩だった。




つづく

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