雷鳴が告げる目覚め
時は雷翼竜が墜ちるよりも前――季節が一回り戻った頃の話である。
孤高の山に、一羽のハーピーが風に乗っていた。
高く舞い上がるたび、彼女は誰にも届かない自由を感じた。けれど、その自由の中に、ぽっかりと空いた穴もあった。
「おお……かぜ……つよい」
ハーピーの少女――フルカは、翼を大きく羽ばたかせながらぎこちない発音で呟いた。彼女の声は風にかき消されそうだったが、それを気にする様子もなく、嬉しそうにくるりと宙返りをしてみせた。
この山は、他のハーピーたちからも忌避される過酷な場所だった。食料になる小動物は少なく、強風が翼を持つ者ですら飛行を困難にする。だがフルカにとって、ここは心地よい居場所だった。
「……しゃべる……たのしい」と呟きながら、かつて群れで過ごしていた日々が頭をよぎる。
幼い頃のフルカは、仲間たちの輪に入りたくてたまらなかった。空を舞う仲間たちは、複雑な声でおしゃべりを続け、時折楽しげに笑い合っている。それを見て、フルカは翼を広げながらそっと近づいた。
「……あ……あい……」ぎこちない声を出すフルカ。しかし、その声は周囲の笑い声にかき消され、誰の耳にも届かなかった。もう一度声を出そうとするが、舌が思うように動かない。「どうして……うまくできない……?」と焦るほど、声はますます掠れ、風に消えていく。
諦めきれずに試し続ける中、一羽のハーピーが振り向いた。「何してるの?」その一言にフルカの胸は高鳴る。けれど、その問いに返した「しゃ……しゃべる……」という声は、不格好で途切れ途切れだった。仲間は首を傾げたあと、特に興味を持つ様子もなく輪に戻っていく。
彼女の背中が消えるまで見つめながら、フルカは呟いた。「……むずかしい……」。仲間たちと話したいだけなのに、どうしてこんなにも上手くいかないのだろう。小さな願いが届かない悔しさに、いつの間にか瞳がじんわりと潤んでいた。
「たべ……もの……ほしい」
空腹がフルカを現実に呼び戻す。
岩場の上にとまると、フルカはぽつりと呟いた。鋭い目で周囲を探しても、獲物の気配はない。空腹を満たせるようなものは見当たらず、乾いた風がその小柄な体を撫でていくだけだった。
「おなか……すいた」
ぎこちなく紡がれる言葉。それはまるで孤独を紛らわすかのような、風に溶け込む小さな願いだった。
それでも彼女は、不満そうに眉を寄せることなく再び翼を広げた。自由に飛ぶこと。それこそが彼女にとって何よりも大切な喜びだったからだ。
「……あそぶ……たのしい!」
小石を蹴り上げるようにして浮かせ、足元でころころと転がしてみせる。言葉は断片的だが、彼女の瞳は満ち足りた輝きを放っていた。
青空を舞い上がるフルカ。眼下には果てしなく広がる岩だらけの山々。誰にも束縛されない世界で遊ぶことが、唯一の楽しみだった。
「でも……だれか……いっしょ……いい……かな?」
フルカは空を舞いながら、ふと群れで過ごしていた日々を思い出した。いつも岩陰に座り、遠くから賑やかな笑い声を聞いていた。けれど、その輪に入ることはできなかった。自分の言葉がうまく通じないから、きっと迷惑になると思っていたからだ。
高く舞い上がったそのとき、フルカの視線が遠くの空に広がる黒い雲をとらえた。それは、今まで見たことのない濃さを持つ異様な嵐の兆候だった。
「……あめ?……かみなり?」彼女は首を傾げ、黒い雲をじっと見つめた。その濃密な気配は、見たことのない異質な力を感じさせた。まるで、自分を誘うように手招きするかのような不思議な感覚に、彼女の胸はざわめいた。
「……だれもいない……でも……これ……すごい」フルカはそっと呟いた。その言葉には、孤独を抱えた自分を慰めるような響きがあった。誰にも認められなくても、あの雲だけは何かを語りかけてくる気がしたのだ。雷鳴が響くたび、胸の奥が奇妙に高鳴る。それは恐怖ではなく、どこか親しいものに触れる感覚だった。
「……あれ……なに……?」
彼女のぎこちない声が風に溶ける。目を凝らして雲の奥を探ると、稲妻が一瞬だけ雲を裂き、鮮烈な光が空に広がった。
「……ピカ……すごい!」
稲妻が走るたび、彼女の瞳には好奇心が宿る。恐れよりも興味が勝り、翼を大きく羽ばたかせると、風に乗ってその雲へと向かい始めた。
フルカが嵐に近づくにつれ、風がますます強さを増していく。彼女の小さな体は何度も揺さぶられたが、持ち前の飛行技術で姿勢を保ち、前に進む。
「……つよい……かぜ……おもしろい!」
笑い混じりの声を上げながら、彼女は荒れた空の中を滑空する。その翼には確かな力強さがあった。
空気が電気を帯びたようにピリピリと肌を刺し、翼の羽毛が一斉に逆立つ。その瞬間、周囲の空気が一気に重たくなり、まるで嵐そのものが彼女を押し潰そうとしているようだった。轟音と共に稲妻が雲を裂き、その光が瞬間的に全ての影を飲み込む。フルカは目を見開き、息を呑んだ。
「……これ……なんだ……?」
フルカの羽毛がピンと逆立ち、周囲の風の流れが急に止んだように感じた。耳をつんざく轟音の後、静寂が訪れたかと思うと、頭上に稲妻が走る。空気の緊張感が肌を刺し、胸の奥で鼓動がやけに大きく響いた。「これ……ちがう……こわい?」。フルカの小さな声が風に溶ける。
雲の中から突然、ひときわ大きな稲妻が地上に向かって駆け抜けた。その轟音は彼女の耳をつんざき、まるで空そのものが崩れるかのようだった。
「……おお……すごい……!」
フルカは笑みを浮かべ、さらにその雲に近づこうとする。「こわい」という感覚はまるでなく、ただその未知の現象をもっと知りたいという思いが彼女を突き動かしていた。
しかし次の瞬間、全身の羽毛が一斉に逆立つような感覚に襲われた。今までに感じたことのない異常な緊張感。風が一瞬止み、空気が張り詰めたかのような静けさが辺りを包む。
「えっ……なに……これ……?」
稲妻が視界を埋め尽くした瞬間、フルカの全身に鋭い痛みが走った。同時に、熱い電流が体を駆け巡り、焼かれるような苦しみの中で不思議な力が目覚める感覚があった。叫ぼうとしても声は出ず、ただ全ての感覚が白く染まり、意識は深い闇へと落ちていった。
気がつけば、冷たい岩場に横たわっていた。全身にビリビリとした痺れが走り、翼はまるで鉛のように重い。それなのに、胸の奥で何かが騒ぎ始めている。熱く、力強い脈動が体中を駆け巡り、いつもと違う自分を感じさせる奇妙な感覚だった。
「……う……いたい……」かすれた声が風に溶ける。けれど、胸の奥で奇妙なざわめきが広がっている。そのざわめきは、ただの痛みではなく、何か新しい感覚の始まりを予感させた。
「……なに……これ……」体の中でざわめく奇妙な感覚。その正体を確かめたくて、フルカは目の前に落ちている小石に視線を向けた。
「……動いて……」心の中でそう呟いても、小石はびくともしない。焦りが募り、再び「もっと……!」と念じる。すると、石が一瞬だけ揺れた。フルカの瞳が驚きに見開かれる。「……今の……わたし?」
再び小石に集中する。「ゆっくり……浮いて……」と念じると、小石がふわりと宙に浮いた。胸が高鳴り、翼が震える。「わっ……動いた……!」だが、力が入るたびに石は不安定になり、勢いよく地面に叩きつけられる。
何度も試行錯誤する中で、フルカはコツを掴んでいった。「すごい……これ……わたしの力……?」瞳には驚きと興奮が宿り、胸の奥で広がるざわめきは、今まで感じたことのない期待感と重なっていく。まるで、自分の中に隠されていた何かが目を覚まし、未来への扉を開こうとしているような感覚だった。
雷との出会いは、フルカの孤独な日常を根底から覆す予感に満ちていた。これまで誰にも理解されなかった彼女に、何かが語りかけているような気がしたのだ。まだその全貌を知らぬまま、フルカの瞳には好奇心と興奮が混じった輝きが宿る。
「これ……私……?」
不確かな言葉ながらも、自分の中に眠る新たな力を確信しつつ、フルカは再び空を見上げた。荒れ狂う嵐の先に、彼女がまだ知らない未来が広がっているように感じて――。
感覚を試すように、近くの少し大きめの岩を見つめる。集中すると、岩が一瞬だけ揺れ、ゆっくりと持ち上がった。その重みに顔をしかめながらも、フルカは石を左右に動かしてみる。
「うごく……!でも……つかれる……」
額に汗を滲ませながら、彼女は大きな石を地面に戻す。それでも、今自分に何が起きているのかを理解するには十分だった。
頭の中でざわめきが大きくなる。これまで聞いたことのない言葉や、見たことのない映像の断片が次々と流れ込む。『電流』『エネルギー』『岩の構造』――それらは見知らぬ言葉のはずなのに、なぜか理解できた。
「これ……私の力……なの?」
自問自答するように呟きながら、フルカは羽を小刻みに動かし、空に舞い上がる。その軽やかさに驚きながらも、再び試したいという衝動が湧き上がった。
空中で彼女は周囲に散らばる小石を集め、念動力でそれらを空中に浮かべた。まるで宙に漂う円を描くように、小石たちはフルカの周りを旋回する。
「これ……すごい……なんで……できる……?」
疑問のように呟きながら、彼女は一つの石を遠くへ投げるように念じた。すると、小石は鋭い音を立てて風を切り、遠くの岩にぶつかった。
「もっと……試せる……!」
翼を羽ばたかせながら笑うフルカ。彼女の瞳には無邪気な喜びと、未知の力を手に入れた興奮が混じっていた。
しかし、集中力が切れた瞬間、石たちはふらふらと宙を漂い、再び地面に落ちていった。肩で息をしながら、フルカは岩場に腰を下ろす。
「……つかれる……でも……たのしい!」
彼女は翼をたたみ、空を見上げた。頭の中でざわめく知識はまだ整理されていない。それでも、彼女は確信していた。この力があれば、今までとは違う世界を見られるかもしれない、と。
「これ……すごい……!」フルカは目を輝かせながら呟いた。雷が教えてくれた新しい力。それは、彼女の孤独な日常を根底から変える予感に満ちていた。
翼を広げ、彼女は荒れ狂う空を見据えた。「……わたし……やれる……!」これまでの自分では想像もできなかった未来が、今、目の前に広がり始めている。雷鳴が遠くで轟き、荒れた空の下で広げた翼には新たな力が宿っていた。この力と共に、フルカはどこまでも飛べる――そう確信し、空高く舞い上がった。
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