あたたかい雨が降る頃に

@toonoito

第1話 奥様の最後


 私の住むタタロの街は昔、蝋燭の生産が盛んな地方都市だった。

「蝋燭と言えばタタロと言われていたけれど、今じゃ工業生産されたものがもっぱらで、私たちでは敵わない」

そんなことを奥様がいつか言っていた。


 私がお使えする奥様は、隣街からこの街の五本指には入る蝋燭の生産を生業にする名家に嫁がれた。家族同士の決め事で結婚することになり、本人同士の意思はそこにはなかったと言うが、周りの友人も同じように方々に嫁いでいったから、特別に何か思うこともなかったという。お互いに初めてお会いした時は、婚姻届を出した日の小さな食事会の時で、「一回り歳上の、背の高い寡黙な人」、それが奥様が旦那様に対して持った印象だったそうだ。

 旦那様は外出されることがほとんど無く、毎日のように蝋燭の開発に尽力されていて、そんな旦那様を奥様は裏方として支える日々だった。遊びに出ることもなく、淡々とした日々を送られていたのだと言う。

 ふとしたある日、旦那様が奥様に花弁が入れられた蝋燭を贈られた。「貴女がよく庭で見ていたから」と、庭に咲いていた花を溶かしたロウにいれて作ったのだと言う。「花を見ていたのでは無く、その下にいる野ネズミの子どもを見に行っていたのだが…」と奥様は思ったもののその思いは心の奥にしまい込んで、「ありがとうございました」と頭を下げられた。仕事ばかりで自分に興味はないと思っていたのだが…と、旦那様に対してほんの少し心が開いた瞬間だったと言う。その日の夜、お二人が就寝される前に、奥様は寝室でその蝋燭に火をつけると、ほのかな花の香りがしたと言う。

「これは…?」

奥様がベッドの隣で本を見ていた旦那様に声をかけると、旦那様は本を置き、静かに蝋燭を見られた。

「結婚して以来、君と何を切り口に話せばいいのかわからない…今でもそうだが…。この蝋燭はどうだろう、感想を教えてほしい…」

その時の旦那様は奥様を直視できず、困ったような恥ずかしいようは複雑な表情だったそうだ。

「…香りは人の記憶に残るそうですよ。旦那様にそんな遊び心があったんですね…私は旦那様の事、少しだけ知れたような気がして嬉しいです」

そう奥様は言って、その日はその蝋燭をつけたまま寝ようとしたが、「危ないだろう」と旦那様がその長い指で火を消したそうだ。

 「特別な事はなかったけれど、そんな日々の生活が特別だった」奥様はよくそう言われていた。確かにお二人の暮らしに何かが起きるわけでもなく、淡々と時間は流れていったのかもしれないが、確かにお二人はお互いを慈しみ合われていたのではないかと、私は思っていたし、そんなお二人のような生活を暮らしたいといつしか思うようになった。



 お二人の時間は一年、二年と経ったが、お子様がお生まれになることはなかった。理由は聞こうとも思わないし、聞くべきこととも思わないが、お二人がお子様を望まれていたのは、確かだと思う。旦那様、奥様共に身近な方々はおらず、いつしかお二人が死んだらこの家の最後とする、そう決められたのだと言う。そんなお二人の暮らしが四十年近く経った頃、工業化がゆっくり進み蝋燭の生産をやめられた。当時は勤めてくださった人々の再就職先を探すのでてんやわんやしたそうだが、お二人の人望だろうか、全員の雇用先は見つかったと言う。そしてその後はお二人の時間を静かに過ごされ、いわゆる就活を始められた頃、私の母が使用人として雇われたのだそうだ。父はいたが、病気ですぐに亡くなってしまい、家から出されてしまった母は、住み込みで働けるお二人の家に厄介になることになったそうだ。そしてその数ヶ月後、私が生まれた。妊婦を家政婦として雇うことは普通であれば考えられないが、それでも雇い続けてくださり、母が働けないうちも居場所を提供してくださったのだから、母は旦那様と奥様に大事にされていたのだと思う。そして私のことも同じように大切にしてくださった。

 しかし、私が生まれ三.四年で大好きだった母が死んでしまい、その影響だろうか、上手く言葉が出せなくなったという。思ったことがすぐに言葉に出せず、何度も何度も口を動かそうとしても、上手く声が出なくなってしまったそうだ。執事長に病院に連れて行っていただくと、お医者様には気持ちの問題で、時間が解決してくれるのだと言われたと、物事の判断がつくようになってから教えてもらった。その日の夕飯の使用人の人々の話は難しかったが、旦那様と奥様の判断で私の居場所が決まることはわかった。私は子どもながらに「ここにいることは難しい」と思った。声も出せない子どもの面倒はただでさえ困難だろう、しかも使用人の娘とくれば、この屋敷に置く必要性は無い。それくらいのことは、私にでも考えることができた。

 次の日に旦那様と奥様に呼ばれた。不安が大きく、一人では行けず、誰かについて行ってもらったと思う。不安だった旦那様と奥様の下された判断は「あなたが良ければ、この屋敷にいてほしい」と言うものだった。あの日、私の中にあたたかいなにかが宿るのを感じた。それ以来、使用人として雇っていただきながら、中等教育まで面倒を見ていただき、それ以降の生活は私の意思に委ねてくださった。「若いのだから、外に出た方がいい」とお二人はよく言われていたが、色々と考え、母と同じようにお二人の元で使用人をしたいとお伝えしたら、お二人は私のこの選択を受け入れてくださった。

 そして私が本格的に使用人として働き始めてすぐ、旦那様はお亡くなりになられた。

「あの人の最後はきっと幸せだった、貴女がいてくれたから」

奥様がそんなことを言われていた。「奥様がいたから、旦那様は幸せでした」そんな気の利いたことがあの時に言えたら…と、あの時の奥様の事を思い出しては何度も後悔した。

「私は何とか貴女が結婚するまでは長生きするから、安心して」

そうやって、私の将来をいつも気にしてくださった。


 そんな奥様の葬儀が昨日終わった。


「それでは皆さん、近いうちにそれぞれ出ていかれるようにお願いします。このお屋敷は街の皆様のご厚意で、しばらくは残される予定ですが、今後どのように使われるのか、いつ無くなるかは決まっていませんから」

 執事長にそう伝えられた使用人の人々は一人、また一人と出て行った。執事長は皆さんの再就職先を探してくださったから、皆さんそれぞれのところに向かわれて行ったのだ。その中で再就職先が見つからなかったのが私だった。中々、口無しの使用人を雇われる所は無い。私と執事長だけになってしまった日の夕飯時に、執事長は申し訳なさそうに頭を下げた。

「すまないね、僕ももう暫く色々と当たってみるから」

執事長はそう言ってくださったが、私は執事長にメモを渡した。

『ご心配くださってありがとうございます。実は先日、就職先が見つかりました』

「ええ、本当かい?どこだい?」

『また落ち着いたところでお伝えします』

「そうかい、それは良かった。自分でまさか探していたとは…正直驚いたが、本当に良かった」

執事長は深くは聞かず、嬉しそうに笑ってくださった。余計な詮索をしない、執事長が永年、旦那様や奥様の信頼を得ていたのは、こういった心遣いの一つ一つだと思う。私も小さくだが笑ったが、心の中では申し訳ない気持ちでいっぱいだった。再就職先なんてこれっぽっちも決まっていなかったけれど、執事長にこれ以上の迷惑をかけるのは申し訳なくてたまらなり、出まかせで伝えてしまった。何度も取り消すか迷ったが、その日の夕食はお開きとなった。夜になり布団に入り、どこに向かうか考えた。できたら治安の良いところ、場所はここから近くても遠くても、しかし行ったことのある場所の方が少し安心できるか…と言っても、行ったことがあるのはこの街と奥様の生家がある街。いいえ、もう一つあった、旦那様が元気な頃に一度だけ連れて行ってくださった…確か「フェーン」という街…。そこまで考えて、私はあたたかな微睡の中、思考がどこか深いところに落ちていった。

 そして私は次の日の朝、荷物をまとめた。荷物は母から譲り受けた鞄の中に全て収まった。まだまだ物は入る。まるで物語ることが少ない、私自身を物語っているようだった。小さな部屋を見渡すと、これまでの思い出が蘇った。小さな窓のカーテンは、奥様と旦那様からの贈り物だ。最近の子がどんなものがいいかわからないが、と言いながら渡されたカーテンは、生活に馴染み過ぎていて忘れるところだった。私はカーテンを窓から外し、鞄に入れた。もし次の場所で使えたら使えばいいし、使えなければ何かに作り変えればいい。カバンを持って廊下に出ると、少しひんやりとした。もう季節は秋になろうとしている。

 執事長の部屋の扉をノックすると、他所行きの服装の執事長が出てきた。

「それじゃあ、駅に行こうか」

執事長は私にそう言って、静かに玄関に向かっていった。どこか寂しげに感じるのは、私の考えすぎだろうか。私はそんな執事長のその背中を追いかけた。小さかった頃は大きくて逞しかった背中も、いつの間にか縮んで少し曲がっていて、それだけ時間が過ぎたと言うことなんだと思った。玄関を出て振り返ると、古いけれど、丁寧に整えられた屋敷がそこにはあった。それまでの私の人生の全てだった。でも、きっと私の人生はこれからの方が長い。外での生活を知らない私が、この先どうなってしまうのかはわからないが、きっとこの屋敷での思い出や経験が助けになってくれると思う。こう言う時は少しは寂しかったり不安に思うものかと思ったが、心は落ち着いていた。私は無感動なのだろうか…。

 お屋敷から十分ほど歩くと、駅に着いた。

「どちらまで行かれますか?」

駅の窓口に行くと、駅員さんがすぐに声をかけられた。顔馴染みの駅員さんで、目の前にメモ用紙とペンを私に渡してくれた。

『フェーンへ。一般車輌で大人一枚、片道で』

「フェーンまでは長旅になりますが、一般車輌でよろしいですか?」

私が頷くと、車掌さんはそうですかとだけ言って、切符を渡してくれた。列車が来るまで、執事長と駅の構内の長椅子に座り話した。話したと言っても、専ら執事長が話して、私は頷くばかりだった。その内に列車が来るアナウンスが聞こえてきた。

「また落ち着いたら、手紙をくれると嬉しい。僕はこの街に残るから、いつでも旦那様と奥様に君のことを報告することができるから」

私は深く頷き、執事長の顔をまっすぐ見た。

「あ…、と…ござ…まっ…った」

久しぶりに声を出した。こんな時だって上手く話せない自分が嫌になって、私は顔を逸らしてしまった。ちらりと横まで執事長を見ると、少し目を大きくして、柔らかな表情で笑っていた。

「フェーンもまだあたたかいだろうが、冬は雪深い。体には気をつけて、それから…」

列車が目の前で止まり、人がぞろぞろと降りてきた。

「奥様はよく特別な事はなかったとおっしゃっていたが、君があの屋敷に来た時は、それはそれは嬉しくて、お二人はよく君のこと特別なんだと私たちに話してくださった。あのお二人は恥ずかしがり屋だから言いずらかったんだろうから、私が代弁しておくよ。あと、屋敷の全員も同じように思っていた、君のことがとても大切だったんだ。だから、もし帰りたくなったら帰っておいで、いつでも私はこの町で待っているからね」

私は執事長に声をかけようとした時に先程の駅員さんの声が遠くから聞こえた。

「出発しますよー!」

「ほら急がないといけない」

執事長さんにそう言われながら背中を押され、私はあわてて列車に乗った。振り返ると、執事長は一歩下がったところで手を振っていた。私は手を振りかえそうとしたが、後ろから乗車してくる人がいて、一旦邪魔にならないように席に座った。扉がしまい、列車が動き出しても、執事長は見えなくなる最後まで手を振ってくれて、私も同じように手を振り続けた。


 一人で列車に揺られて旅をするのは、これが初めてだ。二十五にもなって、こう言った経験が少ないのは恥ずかしいことなのかもしれない。内向的な性格で、今までもお暇をいただいても家の中で過ごすことが多く、出かけることは無かった。誰かと隣町に行く程度で、こんなに遠くまで移動することは数えるくらいしかなかった。

 あたりが暗くなりだすと、車掌さんがガス灯に灯りをつけに列車をまわってくれた。蝋燭よりも威力の強いガス灯、段々とこうやって時代は進んでいくんだろう。

「お客様、良ければこれをどうぞ」

近くを通った際、車掌さんが私の目の前に毛布を出した。

「あ…」

断ろうとしたが、声がうまさでなかった。そんな様子を見かねてか定かではないが、車掌さんは念押しするように私の膝に毛布を乗せた。

「これは俺のなので、くたびれていますが無いよりマシだと思います。寒いですから、是非」

そう言って車掌さんは去っていった。戸惑ったが、私は嬉しかった。きっと優しい人なのだろう。毛布を被ると、列車特有の匂いと、少し爽やかなにおいがした。カバンを枕代わりに、座席に寝転がると、電車の揺れが直に体全体に感じた。中々寝付けず、深夜帯になりガス灯の灯りが切れても、結局寝られず朝を迎えた。毛布を貸してくれた車掌さんは日が登りかけたころに回って来たから、そこで毛布は返すことができた。

「寒くはありませんでしたか?」

私は頷くと、車掌さんはそれは良かったですと言って毛布を持って帰っていった。


 フェーンの街には昼前に着いた。駅前のすぐのところに「職業紹介所」「居住地紹介所」と書かれた看板が飾られた建物があった。なんだかここまで運が良いと、この先の運を使い果たしてしまいそうだ。

「いらっしゃいませ。本日は何のご入用で?」

 紹介所の中は狭く、必要最低限のものしかない中、私と同い年くらいの女性が真ん中の机に座っていた。私はポッケからメモとペンを取り出し、書いて女性に見せると、女性は一瞬戸惑った様子を見せた。

『この街に今日来たものです、家政婦の募集はありますか?』

「え、ええ、丁度最近また出て来たものがありますが…」

「また」と言う言葉に引っ掛かるものを感じたが、私は頷いた。

「ちなみにお名前伺ってもよろしいですか?」

そう言われたので、私は自分の名前を書いたメモを女性に渡した。

「セオリア・クローディアさん、早速行ってみましょうか、その方のご自宅に」

女性はそう言って立ち上がり帽子を被った。私の新しい生活は、この街で始まろうとしている。

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