「夏合宿」5
8 藤沢
藤沢紀志の両親は、サラリーマンである。家は神主の家系だが、とうの昔に氏子の管理で食べていくことは不可能であった為、本業として会社勤めをしているのだ。この場合、代々続く神主と、いま生活する資金を得る為に就いている職業である会社勤めのどちらを本業というべきかは多少複雑ではあるようだが。
そもそも、既に神主がひとつの社だけでなく、複数の神社を兼任するようになって久しい。寺が檀家が減り成り立たなくなってきているのと同じように、神主もまた複数の神社を兼務してはいるが、それで収入があるかというと、生活を成り立たせるのは難しいという斜陽産業となって久しいのである。
そんなわけで、藤沢家は代々神主を務める由緒正しい家系ではあるらしいが、そもそも村の神主なんて儲かるものではなく、単に祭りやらなにやらがあるときに、普段は鍵の掛かっている神社の扉をあけて番をするのが仕事になっているようなものなのだ。いや勿論、祝詞はあげられるのだけれども。
祝詞は、地鎮祭など、まだ多少は現代にも生き残っている風習の際にとなえられる。地鎮祭であれば、その土地に建築等をする際に、地に鎮まって頂く為に、祝詞をあげて神に許可をもらう――というと大分違うのだが、現代的にはそうして神々に土地に建物を建てることをお知らせして、許可を頂くというか、鎮まっていただく――単純にいうと、祟らないでいただく為に気持ちをなだめていただく為の祭りである。
ようは、これから、地面を掘ったり、建物を建てたりとうるさくしますけど、怒らないで鎮まっていてください、と祝詞によって神にいのりを捧げるのである。御神酒も捧げる、神に。御幣を用いて、空を切り、言祝ぎとして祝詞を捧げ、神々の許可を得るのが大事な仕事である。
尤もだから、最近はそんな仕事が残るくらいで、神社の氏子というものもあまり意識されなくなってきている。
季節の節目に祀りがあり、その季節が無事に過ぎ去り、みのりがあるようにいのり、収穫を祝い、そして、―――。
そんなことも、はや廃れた。
例えば、残るのは盆に死者を迎える、魂を迎える祭りなどか。
その祭りも、寺と神社が別たれていなかったころには、先祖を祀り、寺で迎え、墓を掃除して神社の境内で盆踊りがある。そうした別たれていない時代の習俗では、色々と神社の氏子であることも、あるいは神主がする仕事もいまとは比較にならないほどに真剣に必要とされてはいたのだろうが。
いまは、そんなことはない。
現代はそうした方向に触れていない。
夏祭り、盆踊り、盆の祭り。
死者を迎えるその祭りは、村という地域で行われた祭りではあっても、名残が神社の境内で行われる夏祭り――そもそも、何故神社の境内で祭りが行われるのか、もう知っている人は少ないだろう――盆の祭りに。
何が必要であるのかを。
死者の魂が、夏に、盆に返り、―――かえる。
あの世から、この世へと死者の魂がやってきて、かえっていく。
死者をあの世に帰す為に、どのようにする必要があるのかを。
現代以前では、神主も仕事の一部として知っていたのかもしれない。
いまは、それらは坊主の仕事の一部であろうか。
いや、すでに現代では坊主が唱える読経でさえも、単に唱えられる何か難しい経文にすぎず、何か本当の役割が別にあるなどということを本気で信じているものは、そう、すでにないだろう。
藤沢の家は、神主だ。
本業というか、収入を得ているのは会社勤めからなのだが。
そうして、だが、―――。
藤沢紀志は、両親がそうした神主の家である為に、当り前のようにして神事の手伝いをすることが幼い頃から仕事として割り振られていた。
そもそも、七才までは神のうち、という。
これは、昔から小さなこどもの死亡率はかなりなものがあり、事故や感染症、あるいはあまたある多くの禍事を無事すぎる為には、本当に多くの試練を経ることが必要だった為にいわれてきたことだ。
七才までは神のうちであり、人として生きるにはこの世界とつながれた絆はまだすくない。ゆえ、人は幼いこどもが死んだとき、神に帰ったのだとしたのだろう。いまだ神の手のうちにあり、人として完全に生まれたわけではないと。
故に、神事にはおさないこどもが使われることも多い。無垢であり、いまだ神のうちであるおさなごが神事の主役として祭りが行われることは、いにしえからよく行われてきたことなのだろう。
ともあれ、その為、藤沢紀志は幼い頃から神事に参加していた。
祝詞も、となりでよく聴くうちにおぼえるというものでもある。
さらに、少しばかり七才よりも大きくなれば。
役割として、神事に、祭りに参加することもよくあった。
この夏も、神事に参加するのは決定事項だ。
白に緋の衣をまとい、神事に巫女として仕え、玉串を捧げる。
それは藤沢紀志の持つ役割のひとつだ。
そうして、―――。
盆には、死者を還す。
その役割を、寺の坊主と神仏習合と神社が寺と同じ境内にあったときには、祭りとして荒魂を祀りあげ、神社の神主もまた担ってきたものではあるのだろう。
藤沢紀志が、そっと微笑む。
紅唇が白い容貌に映えるのは、夕暮れを移したからか。
黒髪が風に靡き、艶やかに夜をまねく。
背景にみえる景色の森はすでに黒く、飛ぶ鳥はすでにねぐらにかえっているのだろう。
藤沢家は、神主だ。
そして、藤沢紀志は、神主の家系でもある。
穢れである死者を払う祝詞は、常に容赦の無い代物だ。
そこが、篠原守と、――寺の坊主である家系に生まれた篠原がすることとは、絶対に違う一線なのだろう。
薄く笑む藤沢紀志は、穢れである死者を払うのにためらいなど微塵も持たない。
古より伝わる神話をみれば、それは確実に連綿と伝えられている姿勢でもあるのだろう。
死者が、現世に現れて、もし帰還を拒んだときは?
藤堂がどのようなものであれ、この世のものでないことは明白であり。
藤沢家が神主である以上、藤沢紀志の持つ手段が、苛烈であり、容赦がなく。さらにいうなら、ためらうような優しい手段を用いていては、神々の荒ぶる魂に対峙して人が神ながらの力を借りそめた処で、対抗する手段にもなりはしないだろうことは。
それだけは、確かなことでもあっただろう。
つまりは、藤沢紀志に、手加減をするつもりはない。
凍りついたようにして動きを止めている藤堂に対して。
藤沢紀志の微笑みから容赦のない一言が放たれるのを予測して。
篠原守は、被せるようにくちをひらいていた。
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