「夏合宿」4

5 藤沢紀志



 鳥の飛ばない天地の挟間。

 無言で立ち尽くす、その足下にあるのは灰白の沙漠だ。

 漆黒の無音を背景にして、唯一人で立ち尽くす藤堂は混乱していた。


 多分、確か、食事をしていたのだ。

 海苔に挟まれた納豆が乾燥したものが、随分うまいな、とか思いながら次の休みにいれた定期健診の結果で何をいわれるだろうとか。

 そんなことをかんがえていたはずだったのに。

 ここは、どうして。

 そして、鋭い視線を藤堂にあたえながら、凜として立つ藤沢を見返す。

藤沢紀志の隣には、その腕を肘をしっかりとつかんで、困ったようにして藤堂と藤沢を見比べる若者がいる。

 多分、あれはまだ学生だろうな。

学生というか、大学生より若いとおもえる。

 その彼らの立つ背景が、宵闇を迎えつつある地表にみえて、藤堂は戸惑って瞬いていた。夕暮れに、大きな建物のシルエットは、あれは寺の本堂だろうか?大きな森といってもいいような境内と樹木と、地面に立つ――そうだ、あれは多分、土だろう。随分と懐かしいものをみた気がして藤堂は驚いていた。何しろ、月に土は無い。―――藤沢と誰か。

 多分、二人は共に学生だろうか。

 尤も、もう一人はともかくとして、藤沢の持つ気配は、どうにも何か、普通とは違っているのだが。若い学生とか、そういうくくりに押し込めるのは無理におもえる。

 迫力があるといえばいいのだろうか?

藤沢紀志を思わず見つめて、それから、あらためて取り巻く景色を藤堂はみた。

 黒く影となり、大空に散っていく鳥達のすがた。

 黒く変化しつつある夕暮れのそらが。

 大気の中で変化する、太陽のすがた。

夕暮れは月基地には訪れない。では、いまみているものは何だろうか?

 あるいは、この世界は何で出来ているのか、いや。

 もっと根本的に、ここは。

「どこ、なんだ、…―――?ここは?」

その疑問に、藤堂の洩らした言葉を捉えて視線を向けて。

 薄く笑んで、藤沢がいっていた。

「ここは、地球だ。おまえがいるのは、――――」

「ふっちゃん、…!」

驚いて、肘をつかんだまま若者がなにごとかをいってとめようとしているのを。

 藤沢の確信と容赦のなさを押し留めようとしてくれているのだと。何故か、その若者の行動を理解して、藤堂は無言で向き合っていた。

 その言葉がもたらすものを、既にしっているような。

「いま、おまえの月時間はいつだ?おまえの世界は、まだ終わってはいないのか?」

「――ふっちゃん…!」

若者がとめても遅い。

 その言葉は、容赦なく藤堂の耳に届いた。

 一体どんな仕組みで声が届くのかをしらないが。

「…月時間、―――」

 そう、確かに。

 藤堂が生きていた時間は、――――。





6 世界の綻び



 世界が綻ぶのは、数瞬で足りた。

 糸が綻び、抜けていくように。

 或いは、世界を構成する何かが、簡単に壊れるように。

 それは、とても単純だった。

 失われた秩序が、エントロピーが増大して、単純に増え続けただけのことだ。だから、世界は失われた。

 蟻の一穴。

 或いは、世界を滅ぼす愚かな一刀。

 ほんの少しの愚かさがバランスを保っていた世界に載せられただけで、世界は最期のバランスを失った。そのバランスシートは、常に負債へと傾いていたのだ。世界を失うことは簡単だった。

 少なくとも、世界を保つことよりはずっと。

 だから、世界は失われた。

 そのバランスを崩したのは、――――。



 ほんの少しの世界の隙間。

 ほんの僅かなバランスの崩れ。

 

 そして、――世界は崩壊した。


 世界を崩す綻びを入れた単純な一刀は。

 そのかたちは、とても単純で、――――。




7 藤堂 3




食堂を出て、藤堂は歩きながら首を傾げていた。

 何かあったような気がするが、気のせいだろう。月基地の単純な世界は、あるいは窓の外に変わらずに続く灰白の沙漠と漆黒は、幻覚や何かを簡単に導き出す。

 そういえば、気をつけろといわれた中のひとつだな。

月基地で勤務する前に、当然ながら行われた事前学習で、人は単純で変化の無い景色に弱いという知識があった。世界は単調で、歩くだけのことですら、地表はどれだけ大きな変化に富んでいたのかと比べて初めてわかる事実がある。頬に触れる大気の流れでさえ、地表では異なったのだ。

 クリーンで浄化され変化のない月基地の空気と、あるいは単にアスファルトの歩道を歩いただけで得られた大気の持つ匂い、流れ、あるいはそうした情報のもつ際限のない豊かさ。

 頬に風が触れれば、温度があり。ときには樹々の匂い、花の匂いがした。あるいは、あまり心地よくない匂いもあれば、夕飯の美味しそうな匂いが流れて、思わず腹が鳴ったこともある。

 足許には豊かな情報源である大地があった。一歩として同じ情報の地面はなくて。多分、調べてみればいまクリーンな月の廊下と違って、あきれるくらいの細菌や、ウイルスや、生物の死骸や、あるいは単に誰かが落とした何かがあって、あるいは飛んできた埃や土が。

 おそらく、調べてみれば、一歩のしめる範囲の持つ細菌叢と、次の一歩にあるものは、まったく違う組成だろう。同じではけしてありえないのだ。地表では信じられないくらいに豊かに生命層が連続している。

 歩くだけで、足裏に豊かな情報がつたわってくるのだ。

 それは単純に、踏みしめる大地がやわらかいか、堅いかといったことや、単に土なのかアスファルトなのかなんていう素材もあるけれど。

 その上に、生命がある。

 豊かな世界がそこに成り立っている。

 月にそれは、けしてない。


 あれ、なんで。


 なんで、こんなことを考えているのか。月に来てから、地表とのあまりの違いに、その差に驚いた。当り前に過ごした地上が、どれほど珍しい世界なのかを、月基地に来たら考えずにはいられないのかもしれない。

 漆黒の無音と灰白の沙漠。

 世界は其処に、無音で成り立つ。

 動くものも、変化するものもなにもなく。

 哲学者になるのかな。

藤堂は考えて、あきれて足下から前に視線を移した。食事の後、一休みしてそれから任務だ。仕事を終わらせたら、次は休暇で、先の予定は定期健診の結果をきくことくらいか。

 まあ、とにかく仕事をしよう。

仕事があってよかったと。無機質な月でも、仕事があるからこうしていられる。これで、休暇とか、―――。

 藤原医師が予定を休暇に入れてくれてよかったと。

そう思った藤堂は、後から知る事になる。つまりは、月に来たばかりのものの精神を保つ為にも、わざわざ最初の休暇時に予定として健診結果を知らせるスケジュールを入れていることを。

 そうした心理的配慮をまだ知らずに、とりあえず藤堂は自身を保つ為に仕事に入る。

 月で人がすごすのは、随分と難しいのかもしれないと、ぼんやりとそんな考えが藤堂の頭に浮かんでいた。

 人が、月で宇宙ですごすのが向いていないとしたら。

 それは果たして。







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