「夏合宿」3

 3 藤堂 1




月面基地勤務は藤堂に向いていたといえるだろう。

既に、月へ行く定期便まで運航されている世界だが、いまだ人類の本格的な宇宙進出が始まったわけではなかった。

それでも、月へ人を送るだけでなく、漸く月面基地が建設され、地球の軌道上まであがるのは、普通の人でもそう難しいことでもなくなってきていた。一生に一度位なら、軌道上までいって漆黒の闇に浮かぶ地球を生でみるということが可能になっている。

それもあまり気負わずに、修学旅行のついでとか、そういう感じでできるようになってきていた。

いずれは火星に植民地を、とか、木星域にコロニーを造る計画とかが動き出していて、計画に合わせて鋼材を生産する工場を軌道上に建設する計画も持ち上がっている。

月はそうした工場建設の基地として、期待を集めていた。

「おはようございます。」

 時間感覚を保つには、月でこそ、決まった時間にあいさつが大事というわけで、それまで地上であいさつなんてあまりしたことがなかった藤堂でも、この月基地では定時の時間帯に出逢った相手にはあいさつをする。

「おはようございます、藤堂さんは、これから十二時まで勤務?」

返してくれるのは、先輩として月基地勤務に必要な色々な事を教えてくれた名塚先輩だ。藤堂とは半年ずれる形のシフト勤務に入っている。簡単にいえば半年先に月基地に勤務をはじめた先輩だ。

 交替の定期便は月に一度あるが、勤務形態は半年毎にずれて次を補充するようになっている。要は、新人を先輩が教えて次に引き継ぐ為だ。

 だから、半年後には名塚先輩は地表に降り、藤堂は次の新人をかわりに教えることになる。

「はい。月シアターの調整はどうでした?先輩」

「ああ、あれね。問題なし。引継ぎ書に記入してあるけど、いつも通りだね。まあ、もっとも、いつも通りじゃないとこまるけど」

「そうですね。お疲れさまでした。ゆっくりやすんでください」

「ありがとう。藤堂も、次に会うのは三日後かな?じゃあ、おやすみ」

「はい、先輩。おやすみなさい」

ありがと、と手を振って休みにいく名塚を見送る。

 月基地では同じメンバーと常に顔を合せることになる。その為、穏やかな関係を保つ為に、あいさつと、ありがとうといった感謝の言葉は生き延びる為に必要な重要な手段だ。

 月基地勤務になる前の地上研修で学んだ心理過程の重要さは、この月で勤務につきはじめて初めて身に染みていた。

 死にたくなければ、かかせない。

「藤堂入ります。」

 シュッ、と短い音を立てて金属光沢の紗に磨かれた扉がひらく。

 ひろがる光景に、いまだ慣れずに藤堂は息を呑む。

 一面のガラス――強化ガラスの向こうに広がる、それは沙漠だ。

 漆黒の闇は無音。

 沙漠の如くみえるのは、そう。

 しずかのうみ。


 月に人類が初めて足跡を印した無音の沙漠。


 無音が、ひろがる。

 地表で慣れた風も、なにもかもが、大気というものが存在しない、動かない月の沙漠だ。

 何も動かない。変化が、無い。

 それだけのことが一体どういうことなのかを、向き合って初めて知るのだ。闇と、照明が照らす限りに白い沙漠が無音で続く。

 そこに変化はない。

 昨日も、おとついも、そのまえもずっと。

 そのままだ。

「…―――。」

藤堂は、視線を逸らして、コンソールに目を向けた。

 デジタルの表示が動いているのがありがたい。

 巨大なスクリーンのようにみえる強化ガラス越しの月面は、変わり映えのしない画だと思えばいい。

 画なら変化しなくても当然だろう。

 静止画のような月の沙漠を前に、藤堂は仕事を始めることにした。

勤務は、基本十二時間区切りだ。ローテーションで十二時間ごとに交替して、休憩などもその間にとる。基本は三か勤務したら、一日休みだ。

勤務時間が固定されていないのは、地表と交信を行う為の都合上になる。

地表勤務の職員との交信が業務にある為、地表時間に合せた交替要員が必要になるのだ。その他、月基地をメンテナンスする作業が主な業務になる。

 月基地以外の軌道上からの人などを受入れるのは、また別の部署の仕事だ。半年毎に新人が補充される藤堂が就いている仕事は、月基地の恒常性を保つ為のメンテナンス作業が中心となる。気の抜けない大事な仕事だが、基本的に同一作業の繰り返しとなる為、マニュアルが整備されていて新人でもすぐにおぼえられる。

 しかし、単純作業ゆえに、刺激の特に少ない月の環境下では連続して勤務を続けることが難しく、心理的負担を考慮して勤務は一年限定が基本である。その後も続ける際は、次の業務に就く前に地表休暇を二ヶ月は最低挟む必要があるとされていた。

 一週間と経っていないいまの藤堂にも、それが限界だということはよくわかった。

 月の景色は、動かない。

 無音の闇と、白の沙漠。

 広大な風景は人類がそこで、まもられずに素肌をさらしては生きられない世界だと、無言で納得をさせる。

 月世界。

 月は、地表とはまったく異なっていた。

 この乾いた白い沙漠に生きることは、無音の世界を視界に入れるだけで理解できた。

 その生存を支える機器を点検していく。施設の設備を点検していくことは、常に無事動いていることを確認するだけのことだ。だが、それが無事動いていなければ、藤堂の生命も簡単に潰える。

 想像してぞっとする。

 パイプひとつ、腐食して空気が漏れるだけで、中にいる脆弱な人類は無の餌だ。

 ルーティンの設備確認は、同じ作業が繰り返す退屈なものだが。

 生命維持の為には必要な退屈さだ。

 少なくとも、藤堂は少しでも手を抜く気にはなれない。

そう思いながら、あるいはでも、その生きる為に必要な確認でさえ、あまりに変わらずに続き過ぎれば耐えられなくなるからこそ、―――いま藤堂がする気にもならない手抜きさえ、いずれはすることになるのかもしれない――一年という期限付の交替になるのかもしれないと、藤堂は納得していた。

 月の景色は、一週間経たなくとも、それだけの澱を心に落としていくと、藤堂に理解させるには充分なものだった。



 4 藤堂 2



 食事は食堂で摂る。私室として個室が各自にあたえられているが、パーソナルスペースでの飲食は基本的に禁止されている。尤も、例外として最初から許可が与えられているのは、水分の摂取だ。他の食事、つまり固形食等については、認められていない。

 それは、単純に個室のクリーニングに関する費用を削減する為だということだ。衛生を保つ為には掃除が必要だが、その掃除も地表と同じように行うことは難しい。結局、個室に生命体が存在しないことを確認して、最初に大気を抜き、消毒する為の気体を噴霧して、紫外線で消毒し感染症の発生を抑える。その後、衣類等のロッカーに置かれた布類も一緒に殺菌処理をして、―――と延々と続く処理を行うことで、狭い月基地内部で感染症が発生することを防いでいるのだそうだ。

 何にしても、確かに月にいる間に感染症にかかるなんて遠慮したい。

 食べ物を持ち込むことで汚染が増え、細菌等が繁殖する危険が増すことは理解できる。

 そうだとすれば、危険を避ける為にそうした処置が行われ、ルールとして飲食物の基本的持ち込み禁止があっても当然というものだろう。

 藤堂もまた、短期の任務である為に、こうしたルールについて、――月で生きていく為には本当に必要なものだが―――従うことに異論はなかった。これがまた、長期滞在になるのなら、もう少し何かこう、気の緩みを赦すような、個人の食事に関する嗜好などを考慮して、ひとりでいる際に自由に飲食ができる環境などを求めていたかもしれないが。

 尤も、自由といった処で限りがある。

 月基地で好きに、自由に飲食ができたとして。

 それがうれしいだろうか?

 次の補充までに食べ尽くしてしまうと、飢えて死ぬことになる。何しろ、月では食べるものを造ることができないのだから。取りにいくことも無理だ。月面上で、食物は採れない。飛ぶ鳥さえいない乾いた無音の沙漠。川は流れず、暗黒と変化のない月面の灰色が延々と続くだけの世界だ。

 地球上にいたときのように、食べられる草木や、あるいは飲める水が存在している世界ではないのだから。

 ここでは、大気すら貴重品だ。

 呼吸をする為の、大切な空気。

 息をして、吐くことで空気の組成は変化してしまう。それを浄化、あるいは酸素と二酸化炭素の配合を変えていたのは、地表にある植物だ。あるいは、大気を掻き混ぜる風という、大気温度の擾乱を引き起こす貴重な気圧というものの勾配差が、地球という世界の大気濃度を変化させていて。

 だからこそ、人は、動物は、息をして生きていることができている。

 地表にいたら、考えもしなかったことだと、藤堂は思う。

 大気は、無限ではない。

 少なくとも、この月基地においては。

 浄化して循環させる設備が壊れてしまえば、藤堂も月基地にいる全員も、すべてが息をできなくなって死亡するしかなくなるだろう。

 その前に、可能であれば月から地球へと脱出くらいはしたいものだが。

 実に貴重な大気を循環させる月基地の設備を思い返しながら、藤堂は食事に向き合っていた。

 食事というか、決められたメニューがのったトレイだ。

 トレイには、規定された栄養素と食物繊維、鉄他のミネラルなどが確実に摂取できるように計算された食事がのせられている。

 特に、腸の細菌叢を調節する為の食物繊維や、ヨーグルトや納豆といった腸に必要な細菌を補充する為のパッケージは必ず摂取しなくてはならない。

 腸の細菌叢が脳に影響して、その行動を変化させてしまうことについては、既に地表でも常識となった事実だ。

 月基地が出来る前の十数年で驚異的に進歩したそれらの医学は、世界の常識を変えていた。

 その急速な発展が、月基地で長期間人が滞在する為の必要な知識でもあったことは、まるで月に人が住む為に間に合わせようと急速に発展したかのようだ、と。

 誰がそういっていたのか、何かの解説でみたのだったか、思い返しながら藤堂はプレートにのせられた食事をとる。

 そう、それらは。

 まるで、月に、宇宙に人が住む為には、どうしても必要な知識であったかのように。

 そして、実際にとても必要な、必須といっていい知識でもあったのだが。

 地表でならともかく、月基地で異常行動をした日には、その個人だけでなく全員が巻き込まれて死亡することにもなりかねない、―――。

「藤堂」

「――藤原さん」

顔をあげた視界の先にいたのは、藤原真奈歩。ふじわら・まなぶ―――月基地の医療を担当する医師の一人だ。

 藤がつく名字は月基地にいまのところ二人だけなので、その点でも記憶に残っている医師だった。

「定期健診の結果を伝えたいのだが、この後、一日休みに入ってから半単元を提供してもらってもいいだろうか?貴重な休みにすまないが」

月にいる間は、定期健診を一定期間をおいて受けることになっている。その期間は、最初は月にきて一週間後になる。その結果は、すぐに知らされて月に来たことへのストレス等をはかり、対処法などをレクチャーされると聞いていた。その後は一ヶ月ごとになるらしい。

 ともあれ、最初が肝心なのは確かだろう。

 貴重な休みになるといっても、月で何かすることなんてない。

 藤堂はうなずいて、提示された時間枠の中から、一番最初の枠を選択した。はやいにこしたことはないだろうとおもったからだ。

「わかった。それでは、当日はよろしく頼む」

「はい、わかりました」

きれいに背筋を伸ばして歩み去って行く藤原を見送り、納豆バーをくちにする。乾燥されて海苔にはさまれたこれが、案外藤堂は好きだった。

 地表でも食べられないかな、とおもうくらいだ。

 月基地に来て、一週間と少し。地表時間と少しサイクルが違う月での時間でいうなら、一週間と二十四時間が三回に半単元が三回だ。確かこれを、地表時間になおすには、―――。

 考えて、藤堂はやめた。

地表の時間を考え出すと、混乱する。ようやく月の時間になれてきたのだから、それにあわせる為にもいまは時間差とか、サイクルの差を忘れてこちらに適応したい。あちらが夜か昼かとか、換算するとつい考えてしまうが、よく考えなくとも地球上にはいま夜も昼もあるのだ。

 藤堂が過ごしていた地球上の地域での時間が二十四時のどこに区分されるか、とか考え出したら日が暮れる。

 尤も、ここに暮れる日はないけどな。

ここ月では、日は暮れない。太陽は輝く星として漆黒の無音にあるが、それは地球上のように暮れたりはしないのだ。

 何もかもが違う。

 ここは月で、地表ではない。

 日が暮れる、その夕暮れが大気を染める景色を月でみることはけしてない。叶わないのだ、その夢は。

 だからこそ、――――。

時間を忘れていた藤堂の前に、それは在った。


 月時間に暮らして、地表時間を忘れたかれに。

 視界を埋める、紅と、―――。



 夕暮れの橙と紅と流れる雲と。

宵闇に落ちる前に紅に染まる世界の壮大さを。

そして、黒く影となり、鳥が一斉に空へと飛び立った。


「鳥が、…――――?」


 月に鳥は飛ばない。

 鳥が飛ばない天地の挟間に、いたはずだ。

 けれど。



 ふり向いた藤堂は、無言で真っ直ぐ見返す瞳を。

 藤沢紀志の落ち着いた黒瞳を、声も無く見返していた。










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