「夏合宿」1
1 静かの海
月面基地で居住する求人募集に目が止まったのは、藤堂二十一才のときだった。大学から先にどのような仕事に就きたいか考えながら、でも真面目に考えてもいないときだった。
当時、大学三年生。就活に取り組みはじめるのがすでに遅いんじゃないかと思える頃合いで、しかし、藤堂はこれからやりたいことも、仕事に取り組んでる自分の姿も全然きれいに描けていなかったころだ。
あのときの自分にいってやりたい。
バカか、おまえ、と。
生きている時間が無限だと思っていた。死ぬなんて想像もつかなかった。明日が来るのが当り前で、極普通につまらない明日が来るって信じていた。
…いや、信じているのとも違う。
信じるなんて、そんな能動的じゃない。考えてすら、いなかったのだ。
考えていなかった。
ただ、それだけ。
バカな過去の自分にいってやりたい。
それに申し込んでは駄目だ、と。
けれど、そのときの自分は月基地に勤めるなんて、少し人に格好いいと自慢出来るかもしれないと、そんなくらいのくだらない理由で申し込んだのだ。
「月面基地常駐スタッフ募集。定期船年一回地球上と往復可。旅費交通費、赴任及び帰任時、定期帰還時往復無料。食費、滞在費支給。定期契約一年。更新希望時に長期更新可、―――」
最初から長期更新がないのは、月面に拘束される勤務(当り前だな)になる為、適性があってもほとんどが長期を希望市内から、らしい。
大学の掲示板に張られたリアルな紙に印刷されたアナログな求人募集を見ながら、求人サイトさえ見にいくのがだるくてやる気のなかった受身な自分は、まだ少しだけ珍しかった月面基地勤務の求人に、あまりやる気もなく申し込んだのだった。
大学を通して、勝手にその後の応募手続きも職員の人がしてくれたのが、当時やる気のなかった自分にとって一番楽で良かった決定打だったのは確かだ。
当時、本当に周囲の学生達が眩しいくらいうらやましかった。どうして、あれだけ、良い人生とか、より稼ぐ為とか、あるいは理想とか。
そんな「これから先の人生」の為になにかしようなんて、あるいは、良い人生を送りたい為に、良い会社に就職する為にがんばるなんて。
どこから探しても自分の中にそうした動機を探すことが出来なくてぼんやりと日々を送るだけだった。
後悔なんて、いまからしても遅いけれど。
それが本当にスタンダードなくらいに遅すぎるけれど。
振り返るとわかることがある。そのときは絶対にみえていない残酷な事実だが。
せめて、地上にいればよかったんだ。
それだけは、解る。
後悔なんて、先には立たない。
当り前すぎる事実に打ちのめされる。当り前すぎるくらいに。取り返しなんてつかないのが現実だから、夢をみるのだろう。
――――もし、…やりなおすことが、できたなら。…
それは不可能なのが唯の現実だ。
世界は、―――世界の時間は、同じ方向にしか進まない。
藤堂二十一才。
月面基地勤務に応募して、内定が出たのがその三ヶ月後。
拘束のきつい仕事は人気がなく、やる気もなく淡々と応募しただけの藤堂は、あまり他の仕事に応募もせずにいたために、ほとんど自動的にその仕事に就くことになった。
周りからは、どうにも誤解されていたようだけれど。
つまり、月基地に勤務したいが為に、他の仕事にまだ積極的に応募していないのだと。―――それが周りにあわせる際に、とても都合よく楽だったのは事実だけれど。
当時いた友人達は、月基地に応募した藤堂のことを心配してくれていた。受からなかったときの為に、他の会社も受けておけよ、とか。受かったときには、とてもよろこんでくれたりとか。
でも、藤堂が考えていたのは実は次のようなことだった。
社会に出て仕事をするのに、一年の猶予がある。
なにをやったらいいのか、希望すらない藤堂にとって、月面基地での仕事はモラトリアムみたいなものだったのだ。
淡々と応募して、淡々と面接を受け、淡々と試験を受けた。後から思えば、その淡々とした姿勢が、月基地での地上とは異なる勤務に向いた精神状態だと思われたのかもしれない。後に、一番の決め手は適性だった、といわれたことからもその辺りは確実なのだろう。
月面に、空気はない。
娯楽も、逃げる場所も、なにもかもない。
いやになっても、逃げる先すらない。
淡々と勤務することこそが、求められる姿勢だ。地球上のように変化に富む世界ではなく。
灰色の無音。変化しない世界。
刺激の少ない空間。
メンバーさえ、入れ替わることは唯年に一度だ。
固定され、変化せず、明日もまた灰色の海をながめて仕事をする。
それが可能な精神は、確かに適性が一番大事な問題だろう。
ストレス耐性というものが、とても高いと藤堂はいわれた。
それが、その後の藤堂の運命を決めることになるとは、誰も思わなかったろう。何より、誰より、藤堂自身が思ってはいなかった。
それが一番、最後の大きな問題を連れてくるということに。
いずれにしても、そのとき藤堂はけして未来を考えてはいなかった。予測なんてするまでもなく、同じ日が、昨日と同じ明日がくると信じさえせずにおもっていたのだ。
信じることさえしていなかった。
明日は今日と同じだと。
考える必要すらなくおもっていたのだ。
愚かだったと、いまならいえる。
おろかというより、他にないと。
しかし、けれど、―――。
明日がどうなるかなどしらず、同じ明日が続くと思い込んで、思考さえせずに藤堂はその勤務に就いていた。
月面基地常駐スタッフ。
少しばかり、格好いい気がしていたのだけが確かで。
明日を知っていたら、全力で阻止した。
そして、藤堂が月面基地で勤務を始め一ヶ月後。
それ、が起こった。
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