「鳥の飛ばない天地の挟間」6


 大体あいつは幼稚園の頃からばかだった。

 思いながら、私は歩いていた。

 砂浜が延々と続いている、左右の景色に変化も無い。黙々と私は唯歩いていた。最初に居た位置、巨大なこの水溜りを前にしてなら左、左手の方角に向って今私は延々と歩いている。右手に水溜り、左手に砂丘の土手。真直ぐ先に見えるのは唯続く砂浜。

 灰色の空は相変わらず翳りも晴れもせず変化もせず其処にあり、私は黙々と歩きながら、―――――。

 怒っていた。

 あのばかが。

篠原守、現在年齢、十七才と二ヶ月。血液型B型、RH+。左利きでお調子者。身長一七八cm体重五八k。少し痩せすぎだ。視力は両眼共裸眼で1.5と1.5。

あのばかものが。

黙々と歩く。

 まったく、あいつは幼稚園児の頃からどうしようもなくばかなガキだった。私とあいつが出会ったのは、忘れもしない幼稚園入園時の事だ。当時四才。多少の事情があって、私は所謂4歳児からの二年保育というものによって入園した。幼稚園の保育は3歳から5歳児までを預かるものだが、園によっては3歳児からの保育以外にも、4歳児、5歳児から預かる形の入園も結構あるものらしい。

 ともあれ、私は3歳児からではなく、4歳児から入園するものが集められた入園式に参加していた。園児達が教室に集められていて、皆椅子に座っていたのだが。その席に、あのばかも居たのだ。

 私の隣の隣だった。よく憶えている。

奴は幼稚園児用のスモックを着て、いかにも元気溢れる子供だった。そんなのは多分いくらでも転がっていたろうが、わずかに多分奴は他の子供達より元気だった。いや、かなり元気な奴だというのはその後の園内生活で私を含め当時の周囲共々、認識していくことになるが。

 とても目立ったのは、入園式のその場からだった。

奴は何がうれしいのかへらへらと笑って椅子に座っていた。知能に何か遅れがあるのかと思ったが、個人的な問題だし、深く関ることではないなと思っていたからほっておいた。他にもぼんやりしている子供もいたし、先生方からの入園の挨拶や、園長とかの挨拶に既に泣いてぐずりだす子供もいたから、笑って機嫌良くしているのならそれはそれで手間のかからないと思われたことだろう。

 多分、そのときまでは。

にこにこと笑った奴が、どうみても何もいない空中に手を差し出して、立ち上がり、元気よく言い放つまでは。

「うん、かすがはるかちゃん!おれ、しのはらまもる!いっしょににゅうえんしきしようね!」

 ―――ばかだ。

私の奴に対する認識は、そのとき決定した。

 椅子から立って、どうみても誰かと其処で握手をかわしているとしか思えない形に腕を振っている四才の幼稚園児に、周囲の大人達が固まっていた。

「守くんっ?」

「まもるっ、おまえ何いってるっ!」

「え、とうちゃん、せんせい?」

奴は握手したまま大人達を振り仰いで云った。

「はるかちゃん!にゅうえんしきにきたんだけど、おくれてこまってたんだって!いまからいれてあげてもいいよね!」

「……―――――。」

大人達の沈黙とフリーズを眺めながら、私は再度認識していた。

 ――ばか決定。

後の、奴の弁明によれば、そのときの奴自身の記憶はこうである。

「――だからさ、おかっぱ頭のすっごくかわいいこがいてさー、困ってるみたいだったから名前聞いてさ。そしたら春日はるかちゃんって。かっわいかったんだよなあ――入園式に来たけど、遅れて入れないのっ、て。かしこいよな。入園式って言葉もおぼえてたしさ、まあ、おれも、当時親がしつっこく、明日は入園式だから遅れるなっ、てもう入園式入園式って一週間前くらいからうるさかったからなんだけどさ。」

いやでも、遅れてくるなんて人事じゃないしっ、入れないっていうのはかわいそうかなーとおもって、と奴は頭をかいてにこにこと語ったものだ。

「先生方もこわいかおしてるしさー、これはおれ代わりに弁明してやらなきゃなーとか思って。」

この弁明後、奴に対する私の評価にひとつ加わった。

 ばかな上に、鈍い。

凍り付いている先生方を前に、奴はあの後さらにとうとうと捲くし立てたのだった。

「――だからさ、せんせいっ、くるまがうごかなくてねっ、しかたないからあるいてきたんだって、えらいよね、はるかちゃん!すこしくらいおくれてもいいじゃん!ね、せんせい、いれてあげてよ!」

ばか大決定だ。

砂浜を踏みしめて歩いていると、足許に砂を踏みしめる音がする。

「やっとついたんだって!えらいよね!はるかちゃん!」

そして、――――大人の一人が、屈み込んだ。丁度、その辺りに子供の顔があるのかもしれない、という辺りを見つめてる大人の、多分まだ紹介されてないから知らなかったが先生の、目は既に真っ赤だった。

 私は大人がそんなに泣いているのを始めて間近でみた。

 砂を踏み締める音が鳴っている。

 歩き続けながら私は当時を思い返していた。

「はるかちゃん、歩いて来たんだ、―――えらいね。」

泣き笑いするような表情で、先生は何もない、―――多分、子供が立っていたらその辺りが頭何じゃないだろうかという辺りを、撫ぜていた。

「えらいね、入園式、一緒にしようね。」

「はい、せんせい。」

奴が、多分握手していた手を、離して、先生に促した。多分手を受け取ったように先生はして、ちょっと目を見開いた。

「ああ、うん、幼稚園入園おめでとう、はるかちゃん、」

小さな手を支えるように先生がして。

「ありがとうって、はるかちゃん、―――あれ?」

奴が周囲を見渡した。きょろきょろとあちこちを見まわしている。

「―――はるかちゃん、どこいったの?」

あれ、いないよ、という奴の顔をしばらく先生が見つめていて、それから、顔がぐしゃぐしゃになるくらい泣き顔になって、奴を抱かかえた。

「…そうなんだ、はるかちゃん、―――そうなんだ、きっと、」

ぼろぼろに泣きながら、奴の頭を撫ぜて云った。

「…――きっと、おうちに帰ったんだよ、――…きっと。」

泣き続ける先生を、大人は誰も止めなかったし、見ている園長先生とかも目にうっすら涙を溜めていた。

 私はといえば、他の園児と同じく、そんな光景を眺めていた。教室の左側は全部サッシで運動場と出入りできるようになっていたのだが。その一番端のサッシが、ほんの少し開いた透間を見ながら。


 後から知ったことだが、その幼稚園では、二年前、丁度私達と同じ4歳児入園をするはずの子供が、入園の当日交通事故で亡くなっていた。

 泣いていた大人は、当時その担任になるはずだった先生だったらしい。当時、入園式が終わり、園児達と父兄が帰宅しはじめた時に警察からの連絡があった。園でも家庭に連絡を取っていたが、連絡が取れず、警察は家族に連絡が取れずに園にまず連絡がつながった。そして、父親と同じ会社に勤めていた父兄が出張中の父親に連絡を取った。通園路の一部が車の通り抜けに頻繁に使われる交通量の多い道路となっており、行政の対策の不十分さが指摘されはじめていた頃の事故だった。母親は重態。回復したが、車椅子の生活を送ることとなった。

 奴は、その母親にはるかちゃんの様子を話しに行ったそうだ。

「ばかMAXだな。」

母親は、泣きながら奴の話を聞いたという。車椅子で生活出来るまで回復するのに一年半。帰宅し、日常の生活を構築しはじめてようやく半年。奴の記憶によれば、車椅子の母親の背後に、よく日の当る場所に女の子の写真と、甘い香のする花が置かれてあったそうだ。

「はるかちゃん、いっしょににゅうえんできてよかったね!」

と奴は母親にいったそうだ。母親は娘の名前を呼んで号泣したという。

 泣いている母親に、奴は不思議そうにいったそうだ。

「ないてるの?はるかちゃん、ありがとうっていってたよ?」

不思議そうに母親も奴を見つめたそうだ。顔をあげて、不思議そうに奴を見て、それから何だかちいさく光るように笑ったそうだ。

「――あれって不思議なんだよね、ふっちゃん。おれ、ほんとふしぎ。あのときのおばさんのかおさあ、なんか、ひかってみえたんだよね?何でだろ?おれ、わからん。でも光ってみえたんだよねー。」

それから、震える手を伸ばして、奴の頭を撫ぜた。おばさんの後ろに大きな男の人が立っていたような気がするが、それはもうよく憶えてはいないそうだ。多分、それが彼女の伴侶であり、春日はるかの、父親だったのだろう。

「…手が震えててね、おばちゃん、ありがとうって、おれにいったんだ、―――何でかな?」

首を傾げる奴の話を聞きながら、ばか決定だな、と私は思っていたものだ。

「やはり、ばかだな。」

砂を踏みながら、徒然と考える。

 彼女は、――春日はるかの母親は、その後通園通学路の安全を確保する為の運動を起こした。運動は広がり、随分と時間は掛かったが、当時通り抜けで危険だった道路に、いま生活車両以外の侵入は禁じられている。各地で広がっているそうした運動をしている地域から視察なども行われるようになっている。

「ばか、MAXだ。やはり。」

大人はどうなのかしらないが、五、六才くらいまでの子供というのは結構いろんなものが見えているものだ。

 ―――大人にはいわないだけで。

「ばかだな。」

隙間風が開いてるサッシから入って来たことや、それが少しばかり遠慮してることを感じていた子供は多かったはずだ。

 遅れてくるのはばつが悪いものだから。

「本当にばかだ。」

あるいは、少し困ったようにして、席がなくて立っている子に気付きながらも見ないふりをしていた子供とか。

 多分、何人かは気付いていた。視線が時々そちらに行っていたし、気付いて怯えて泣いている子供もいたのだから。

 それを、また。

「おくれたんだ?大丈夫だよ、こっちきなよ、ね?」

奴がぼそぼそ話していたから、隣の園児は完全に腰が退けていて、私の位置から話は丸聞こえで、へらへらわらいかけるのがよく見えた。

 ―――尤も、奴は。

怯えて泣いてる子供とか、蒼くなって俯いてる子供のみたものは見えていなかったのだろう。やはり昔から抜けているというか、どうにも鈍い奴だった。

 奴が、手を差伸べてる子の背中。

二重写しみたいに裂けた皮膚とか、破れたスモックとか赤黒く流れてる血とか。いろいろなものが透けて見えたが、奴には全部見えていなかったようだ。

握手している手から流れてる血とか。

あれと握手して、あまつさえ笑顔で会話して、平気で。

 ――ありがとうといって、笑顔で消えるまで。

「ばかMAX。」

奴はあっというまに有名になり、あっというまに入園式のエピソードよりも、そのウルトラMAXな元気さで園内を席巻した。

 ――子供は、いろいろ見るものなのだ。

それでも、実際に話し掛けるばかがいるなんて、私には予測もつかなかった。その能天気振りが焼き付いたのが奴に関する私の最初の記憶だ。

 考えてみれば。

 最初の記憶がこれというのもある意味凄い話だ。

いまだに蓮見幼稚園の霊感園児といえば伝説で語り草だ。尤も、噂は園外で主に広まっていて、園内ではむしろ奴のパワフルな元気さ加減に霊感話などどこかにふっとんでしまっていたが。

 ―――そして、そういうのは多分子供の話で。

この世と少しずれた場所にいる人達と接触を持つのは、ほんの子供の内に限られるのだろう。元々の奴の元気さと、引き起こす騒ぎにあっというまにそんな話は奴の周囲から聞かれなくなってしまい。

 そうして、そんな話には縁がないと、まるっきりないといえる生活を奴も送っているように見えたから、ついうっかりと。

 ついうっかりと、幼稚園から小中高、近所に住んでいる腐れ縁で、ここまでうっかり付き合ってきてしまったが。

 ―――うっかりしていたが。

思えば小学校低学年。道端で犬に追いかけられて電話ボックスに立て篭もったり。――あれは確か奴が忍び込もうとした屋敷にいた鎖の外れた犬をうっかり刺激してのことだった。――廃ビルになった町外れの銀行に夜中に忍び込んで行ったり。

 夜中に家から抜け出してどこまで歩いていけるか試した為に補導されたり。

 いろんなトラブルはあったが概ね現実的な対処で何とかなる類のものではあったから、そういえば考えてはいなかったが。

 いろいろとここの処あった各種のトラブルも、まあ何というか何とかなっては来ていたから、うっかりしていたが。

「ばかものが。」

やはり、考えておくべきだった。

 この手のトラブルは、まるで奴を目指してくるように飛び掛ってくるということを。

 そして、最初の出会い以来、何故か私までもが奴に巻き込まれてしまうということを。

「今回の件、――――一見、まるきり関係ないようだったから、まったく考慮に入れてなかったが。」

どう考えても。

 本当に。

「あいつとの付き合いは、考慮すべきだ。」

私は足を止めて視線を上げた。

 全然見たくはないんだが。

「まったく。」

呟いて、前方を見た。まったくどこから涌いて出たというつもりか。

 其処に。

 一人の男が立っていた。

 外套を着て、皮手袋をした両手を、それぞれコートのポケットに突っ込んで立っている。年は恐らく二十五、六という処。黒髪、極普通の髪型、皮膚の色、顔立ちからしてモンゴロイド。

 着ているのは平凡なセーターにシャツ、それにジーンズ。

背は多分、奴より高い。

 黒い眸が私を見据えて、表情を変えないまま口を開いた。

「ようこそ、月面基地へ。いや、正確に云うならここは月面下に作られた基地なんだがね。はじめまして、というべきかな、見慣れない侵入者さん。」

日本語に聞こえる言葉ですらすらと云うと首を傾げた。

「―――名前は?」

そいつが眸を僅かに開いて私を見た。

「――なまえ?」

「私は藤沢と云う。あなたは何と云う?」

「―――――。」

しばらくの間を於いて、酷く驚いたように沈黙した後、そっと、くちをひらいた。

 息を呑むように、泣いているように俯いて、声を出す。

「――――か、」

「聞こえない。」

「―――…ふじおか、」

顔を上げて、男は云った。

「――藤岡だ。」

笑みを浮かべる口許を、泣いているようだと思って見詰めていた。

「藤沢さん。―――僕は藤岡という。よろしく。」

「ああ、よろしく。」

鳥の飛ばない天地の挟間。私は藤岡とそのとき初めて出会っていた。



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