「鳥の飛ばない天地の挟間」4
―――海。
「え、こんな、」
奴の声を隣に聞きながら、見つめていた。
鈍色に光る―――海を。
私達の前には、鈍色に光る海が、静かに横たわっていた。
足許が、頼りなく崩れる。砂浜の感触、と思うのは唯の連想か。スニーカーの下に、この機に乗せられるまで感じていた砂の感触を憶えたと思ったのは、間違いだったのか。
わからない。
混沌と周囲が歪む感覚に意識が飛ぶのを感じる刹那。私は、私の腕を、捉える手を感じていた。細く長い指が私の腕を掴む。指が掴むのを捉えて、私は何故か、そう、なぜか。
何故だろう、これで大丈夫だと、感じていた。
それが何の根拠も無いことも、十二分に承知していながら。
唯、私は眸を閉じた。意識を失うことに、混乱も恐怖も覚えないまま、私は静かな心地で混沌の中に呑込まれていった。
砂が鳴るように風が吹く。誰も、生き物のひとつも無い海辺に、灰色の海に。砂が鳴る音だけが響いて、いる。
―――私には耐えられない。
多分、もしかしたら誰にも耐えることが出来る光景ではないのかもしれないと、思った。
砂の鳴るこの光景は。
「いってえ、――――いたいよふっちゃん、ね、そうは思いませんか?頭痛いんですけど、痛くて響くし、――ねえ、ふっちゃん。」
「どうしておまえと付き合っているのか、我ながら理解に苦しむな。」
「うわあ、起き抜けの台詞がそれ?そうじゃなくてもいいんじゃないの、ふっちゃん!ひどいじゃない、幼なじみに向かってさあ、苦節十七年、互いに乗り越えてきた仲だっていうのにー!」
「―――うるさい黙れ。沈黙は美徳と云う言葉を聞いた事はないか?そして。」
「そして?」
私は奴の台詞同様痛みが響く頭を押えながら応えた。はっきりいって奴の長台詞を聞くだけで頭に響く。さらに云うなら発言するのも願い下げだが、黙っていては目的が達成されないなら発言するしかなかろう。
「おしゃべり雀は舌を切られるという。おまえも切られたいか?」
睨むと、奴が小さく肩をすぼめて愁傷な表情を作ってみせた。演技力抜群といっていい豊かさ加減だが、この際無言であれば表情など無くてもまったく構わないというものだ。
「ふっちゃん?」
無言で見返すと、何を思ったか奴が手を急に私の額に当ててきた。
「熱無いよねー、うん、?」
ぼそぼそと小声で話しているのは、多少ものを考えて大声が頭に響くということを考慮したのか。或いは単純に己も大声を出すと頭が痛いということに気がついた故の行動だろうか。何れにしてもありがたいことだ。
まあいい。何れにしろ、低く話している分には、普段のお調子ものの喋り方と違って頭に響かないから構わない。むしろ、それに少し眠りを誘うような声だ。ゆっくりと、奴の細い指が私の脈に触れている。
「うーん、水分摂った方がいいかなー、ねえ、ふっちゃん、ここに来て時間はどれくらい経ったとおもう?」
低い奴の声に促されて、私は眸を開いていた。低い声には催眠性があって、私は眸を閉じて少しばかり眠りに就いていたのだ。ほんの数十秒程の眠りから覚めて私は腕時計が見えるように袖から出していた。
奴の視線も腕時計の盤を見る。
「えっと、実習に出て、二時間半くらいだったよねー、それからお昼だったから、その間、僕ら真面目だし、ペットボトルも持って来て無いしねー、ううん、困ったなあ、やっぱり時計止まってるみたいだし、―――」
ねえ、ふっちゃん、どうしましょうね、といってみせる奴の腕時計、やたらにごついプロトレック登山仕様とかいうもののデジタル表示も無論動いていない。GPSとか緯度経度表示可能とか、奴がよろこんで使っている日常生活では使用場面が無い機能も、無論止まっていた。実際必要なのはこういった場面だと思うのだが、これまで使えた例が無い。
現在位置の表示くらいしてくれれば、この際非常に助かるのだが。
「表示くらいすればいいものを。そうしたら、その不必要にでかいサイズも認めてやってもいいが。」
ぼそりと云う私に奴があわてて首を振る。
「駄目だよふっちゃん、こういうのは一見不必要で多分実際には使わないんだけどっ、て、ギミックが満載なのが男のロマンなんだから。実用性を求めちゃ駄目なんだよー。」
「機能はシンプルであるべきだ。機械の性能を確実に発揮する為には、シンプルイズベストこそが基本だろう。」
「そーれはそうですけどっ、ふっちゃん、――でもさあ、役に立たないものが男のロマンなんですってばっ。」
「ロマンより実用だな。」
「う、ふっちゃんってやっぱりリアリズム、――――。」
「当り前だ。現実を見つめないで何が出来る。おまえこそ、医者志望だというのに現実を見つめずにロマンばかりいう気か?」
「ううう、やっぱりでもロマンが無いと生きては――とだから、その医者志望の篠原くんのいうことなんですけどね?」
「ああ、拝聴しよう。」
不意に真剣な眸で奴が私を見た。僅かに眸に浅いグレイが乗る。奴は知っているだろうか。自分が真剣になっている時、僅かに眸に乗るグレイのことを。
低い声の会話は不思議と心地良かった。大きな声で無ければ頭には響かない。
「医者志望、将来の医学生の僕がいうことですけどね、ふっちゃん。」
奴の指が、私の額に掛かる髪を払って触れ、熱を確かめる。
「あのさ、僕達少し脱水症状が表れてきてるとおもう。ここに来てどれだけ時間が経ったかわからないけど。」
「水が必要ということか。」
「そうだねえ。多分ね。」
「頼りない意見だな。」
「まあとりあえず行動が必要ってことかなあ、ふっちゃん。」
「そうだな。」
しかし、行動は確かに必要だろうが、一体何をどうすればいいのか?
それが問題だ。
私はまた、薄く笑んでいた、―――らしい。実に愉しい気分になっていたのは確かだが、その度に脇でいちいち怯えている奴もまた律儀なものだ。
「どうするべきか?」
疑問を口に出して見る。それもまた出力の一つだ。頭の中で考えていた疑問が、声になり、音になって耳を叩く。
それだけのことだが。
それにしても、こんな問題にどうやって立ち向かったものか?
目の前に何かあるのは良い。
それが重戦車でも、在る筈の無い輸送機でも、無記名の兵士でも。
だが。
「見事に何も無いな、これではどちらが上下かも定め難い。見渡す限り砂のスクリーンでは、どうしようもない。」
「え、その、ふっちゃん、―――そう見えてるの?」
「ほう?」
出力が、それだけでは終らない時、新たな入力が起こる。出力に引き起こされる新たな出力。面白いものだ。
「見えているが?」
「―――俺には、ふっちゃん、ここ第二次世界大戦とかに出てきそーな、そうだよね、武器弾薬を積んでおく倉庫?って感じに見えるんですけど。」
「ほう、私はその手のことにはくわしくないからな。」
「えええ?俺その、ええっ?だってほら、壁は板材みたいだし、古びてるし、釘の頭なんかみえるしっ。床のぼろぼろさ加減なんかリアリズム満載っ、――――て。」
奴の手が、私の視界を失礼にも横切った。
「ふっちゃん、ちゃんと目、見えてる?ねえ、ふっちゃん?」
「おまえのことはちゃんと見えているぞ?不本意ながらな。」
「ええっと、俺もふっちゃんのことは今朝からかわりなく見えてると思うんですけど?」
不意に奴が沈黙して、抱きついてきた。
「――いるし。」
「殴るぞ。」
「殴ってからいわないでよー、っ、いたいしー、」
頬を押えながらちゃんといたいし、けどすこしくらい手、抜いてくれていいのにふっちゃんー、と情けない声で云う奴を前に沈黙する。
砂色の、球形のスクリーンにでも包まれたかと思うような、私の視界が捉える光景。
奴の云う、二次大戦時の軍用に使われた倉庫に似て見えるという光景と。
どちらが、真実を示しているか。
何れにしても、手掛かりさえない、これまでに関った件の中でもとびきり厄介な状況に追い込まれた事は確実だった。ゲームなら、出てくる相手を倒せばいい。だが、反応する相手がいないゲームは?
アクションをどう起こせば、正解なのか?
そしてこの場合の正解は、多分生き延びるということとイコールだ。
「篠原。」
「―――あ、はい?ふっちゃん。」
「おまえに小屋が見えているなら、篠原。」
奴の指が、私の手首を掴んでいるのだが、そこに、少しだけ強く圧力が掛かった。
「怖がらなくて良い。私がついている。」
「うん、ふっちゃん、そうだね。」
奴の笑顔に、私は頷いた。
「――私には見えない。相変わらず、ここは砂のスクリーンに包まれた中のようだ。だから訊ねる。」
しのはら、と私は発音した。
「おまえの小屋に、扉はあるか?」
そしてそれはあるはずだ。私の予測が正しければ。
「ええっと、――あ。」
「どうした。」
奴の指が手首を強く握る。多少痛い。
「ある、―――扉、が、ふっちゃん、ある、―――」
「そうか。」
「でもこれ、いままで、――いま見るまで、無かった。」
「誰かが、或いは何物かが私達を謀っているということだ。脳は、目という感覚受容器が集めたデータを再構成する。そうして見ているのが視界に映る現実というものだ。元よりそれは編集されたデータだが。」
私は、奴が指さす向きに面を向けた。といっても、見えないことには変わりはない。
「元々、受容器の性能に大差が無い以上、多少の編集差があってもそれは無視出来る範囲だった。そこにこれほどの差異が生じた以上、そこには何物かの介入がある。」
誰もが同じ赤を見てはいない。あなたと隣に立つ人の見る赤は同じか、――。スペクトルも、反射率も、或いは混色比率も、何もかも、データでだけは揃えることが可能でも。それでも、あなたと他の人間が見る赤は同じでは有得ないのだ。人の脳というもの、それが持つ永遠の孤独。人は、本当の意味で他人の脳が世界をどのように認識しているかを知ることはできない。単純な事実だ。
そして、人が。
あれは赤だと、互いに言葉を介在し、わかりあう気分に浸れるのは。
そうした曖昧な了解で、世界を構築できるのは。
――あれが、赤だと。
「篠原。」
互いの脳が大差無い、たったそれだけの機能的、器質的な。
単純な事実が、運んでくる、単純なしあわせだ。
多分本当に一人ではないと知ることの出来る、簡単な解だ。
「ふっちゃん?」
「ああ。」
私は苦笑した。いま考えていることではないが。多分。
「おまえが居るなら、ここが私の現実だろう。」
「ふっちゃん―――っ、かんげきっ、―――」
記録不能の音声を発して奴が沈没した。感激、といいながら抱きついてきた奴にアッパーを見舞うと、見事に沈んでしばらくはへたり込んでいるから。
「行くぞ。」
「り、りょうかい、しました、―――っ、ふっちゃん、少しは手加減して。」
「どうしてそんなことをする必要がある?」
「――――つ、冷たい、やっぱりふっちゃんって、つめたい――っ。」
「冷たいか。」
「ふっちゃん、うれしそうですけど、…」
「そうか?」
顔に出るかな、といいながら立ち上がる。少しばかりふらつく。確かに、身体が僅かにだるい。微かに全体が熱を帯びている。
だがまだ熱があるなら。
熱があるなら、動いている。
生きているから。
「開ける事は出来そうか?」
「多分、うん。」
それなら。
ゲーム・オーバーになるまで、試してみる価値はある。
「行ってみよう。」
そして、私達は、振り出しに戻った。
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