2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第三章

 アリスを家に運び入れる間、誰にも姿を見られることはなかった。懸念されるのはEVによる監視だが、俺は別段、国家転覆を画策している訳でも、婦女子に乱暴しようとしている訳でもない。これくらいなら多分、EVに検知されることはない筈だ。

「さて……ちょっと失礼」

 聞こえてはいないだろうが、一応の礼儀でそう一言断ってから、アリスの衣服に手を伸ばす。まずは血と土で汚れた服を脱がして、その上で傷口を消毒してから縫合しなければならない。幸い、俺は士官候補生だから、一般人が持ち得ないような薬も所持している。これくらいの傷なら、なんとか治療できるだろう。


「ふぅ……」

 大体、二時間くらい掛かっただろうか? 服を脱がすところから始まって、傷口を縫い終わるまで。気が付いたら、もうそろそろ日付が変わりそうになっている。

「さて……明日はどうしようかな」

 多分、明日の朝にはアリスも目が覚めるだろう。となれば、彼女のそばから不用意に離れたりせず、出来るだけ素早くかつ穏便に、必要な尋問を済ませるべきだ。当然、学校に行っている余裕なんてない。

「無遅刻無欠席も、遂に明日で終わるか」

 未練なんてなかったが、何となくそんな言葉が口から飛び出した。

 それは、いつもと変わらない独り言。一人暮らしが長いせいで、自然と身についてしまった癖みたいなもの。だから当然、返事を期待して口にした言葉ではない。の、だが……

「それは、随分と優秀なのですね」

 予想していない返事が返ってきて、思わず身体が硬直した。同時に、首元に何やら違和感を覚えて視線を下げると……そこには、鋭利な刃が一本。

「…………」

 どうやら俺は、まったく気付くことも出来ないまま、何者かに後ろを取られ、あまつさえ、急所まで許してしまったらしい。

(……悪夢だな、これは)

 現状を把握して、頭を抱えたくなる。何故なら、俺は体術だけにはそこそこ自信があったのだ。そしてそれは単なる自惚れでなく、ある程度は根拠のある自信だと判断していた。少なくとも、帝国最強の戦士であるところの特務分隊の隊員を、五手で無力化するくらいには。

だが残念なことに、その評価は自惚れ以外の何ものでもなかったようだ。でなければ――

 後ろにいる何者かは、〝帝国最強よりも遥かに強い〟ということになってしまう。

(さて……どうしたものか)

 生命の危険を感じながらも、ひとまずその感情は脇に置いて、思案する。

 と言っても、選択肢は多くない。急所を取られ、そして何より相手の方が速いとなれば、力押しでこの状況を打開するのは不可能だと考えて良いだろう。なんとか、会話を通して挽回の糸口を探るより他はない。

「…………チャイムが聞こえなかったようですが……失礼ですが、どちら様で?」

 だからひとまず、様子見も兼ねてそんな風にとぼけてみる。この対応を見て、俺のことを百戦錬磨と警戒するか、それとも状況に即応出来ない馬鹿だと侮るか……

 流石に言葉の代わりに、刀の切先で返答してくることはないと信じたい。

「私は――」

 幸い、返答は言葉で返ってきた。

「私は、ここで横になっている者の保護者です。不躾で恐縮ですが、早々に彼女を引き取り、退散させてもらいます」

 少しだけ、意表を突かれる。

 それは、思った以上に理性的で穏やかな声だった。警戒している様子も、侮っている雰囲気もない。ごくごく普通に……刀の存在にさえ目を瞑れば、和やかに談笑を始めてもおかしくないくらいには自然な調子で、背後の人物(声質からして女性だろう)は俺の問いかけに答えてくれる。油断は当然出来ないが、それでも、緊張の糸が少しだけ緩むのを自覚した。 

「構いませんよ。でも受け渡す前に、その刀を退けて頂けると有り難いのですが」

 だからだろう。少しだけ踏み込んで、この絶望的な状況の打開につながる言葉を投げかける。この様子なら、首筋に当てがわれた刃は脅しの意味合いが強いはず。抵抗さえしなければ、不用意にこちらに牙を剥くとは考えにく――

「ご冗談を」

 だがその一言は、そんな俺の甘い考えを、粉微塵に吹き飛ばした。

「あなたは、帝国陸軍士官候補生」

 先程と、同一人物の声とは思えない。それくらいその声からは、ただただ〝冷たさ〟しか感じられない。

「アリスの素顔を見られた以上、私は貴方を殺す理由は思い付けても、見逃す理由には心当たりがありません」

 刺すような殺気。それだけで、既に殺されたのではないかと錯覚するほど。今まで生きてきて、これ程の殺意を向けられたのは、間違いなく初めてだった。

 ゴクリと、唾を飲み込む。同時に、背中を冷や汗が流れる。未体験の感覚に、あたかも失語症のように言葉が出てこない。

(それでも……)

 それでも、何かを言わなければ。

 黙っていれば、殺される。少なくとも、それだけは確実に分かる未来だったから。

「……恩返し」

「……え?」

 かと言って、そんなことを言うつもりはなかった。俺を殺さない利を説いて、交渉に持ち込むべきだと、頭ではそう考えていた。にもかかわらず、口をついて出たのはそんな言葉。

彼女も予想していなかったのだろう。驚いたような声を出し、僅かに、刃が首筋から離れる。同時に漂っていた殺気も、嘘みたいに霧散した。

 それは紛れもなく、想定外の光明。我に返った俺は、必死でその蜘蛛の糸を辿る。

「死にそうな彼女を俺が保護し、手当した。彼女がこうして無事なのは、俺のお陰だ」

 表現や言葉遣いを気に掛けている余裕はない。とにかく、頭の中に浮かんだ言葉をひたすら音へと変換する。すると不思議なことに、さっきまではあんなに冷え切っていた心胆が、少しずつ熱を取り戻し始めた。同時に、新しく湧き上がってくるのは怒り。首をもたげる、理不尽な現状に対する抵抗心。その感情に促されるままに、首筋に添えられていた刃を片手で掴んだ。

「アンタらの素性は知らないが、ここでもしその恩人を殺すというなら、アンタらなんてその程度の人間だ。俺が身をもって、その独善性を証明してやる」

 手が切れて血が溢れ出るが、アドレナリンのお陰か、痛みは感じない。そのまま、その刃を押し退け振り返り、闖入者――アリスと同じ仮面を付けた一人の女性と対峙した。

「!? まさか……あなたは……」

 俺が取った行動が余程意外だったのだろう。表情こそ見えなかったが、その女性は明らかに動揺した様子で息を呑む。そして――

「フフッ……面白いですね」

 次の瞬間、その女性は小さく笑い声を漏らした。

「本当に、人生は何が起こるか分からない。今のもそう。殺すつもりで刀を突きつけた相手にお説教されるなんて……初めてのことかもしれません」                    

 そしてまた、クスクスと笑う。俺は……呆気に取られてしまった。

 柔和な声に始まって、次は人を殺せるほどの殺気。最後には、悪戯がバレた子供のようなクスクス笑い。同一人物とは思えないほど、彼女の発する雰囲気はバリエーションに富んでいた。 

「アリスを助けてくれてありがとう。あなたのお陰で、生命が助かりました」

 呆ける俺をよそに、その女性は本当に頭を下げると、手近にあった椅子を引き寄せ腰掛けた。

「さて……折角の数奇な縁です。少し、お話ししませんか?」

 いつの間にか、また雰囲気が変わっている。今は……落ち着いた大人の女性だろうか? 優雅な仕草で足を組むと、顔を覆っていた仮面を、片手でゆっくりと外した。

「え?」

 思わず、そんな声が漏れる。出てきたのは、美しい女性の素顔。見慣れたコーカソイドとは一線を画した、本日二度目になるその風貌。そう、彼女は――

「……東洋人?」

 珍しいことは、重なるものだ。一年を通して、一度も会わずに終わることも珍しくないその人種に、今日だけで二度も会ったのだ。しかも――

「私はミラージュ。レジスタンスのリーダーを務めている者です」

 それが、俺の妄想通りの……いや、それを上回る肩書を持った人物だと言うのだから、その驚きの大きさは言うに及ばず。彼女の自己紹介を聞いて、自然とその場に凍り付いてしまったとしても、仕方のないことだろう。

しかし、まだ彼女の独白は終わらない。

「それにしても……東洋人ですか……」

 少し寂しげな顔で首を傾けた彼女――ミラージュが、一拍の沈黙を置いて、未知の単語を口にしたのだ。

「私は……〝日本人〟ですよ」

 その一言で、脳が巡る。記憶の大海の中を、答えを求めて泳ぎ渡る。でも、結局何も掴むことは出来なくて……

「……日本人?」

 ただその単語を、意味もなく繰り返すことしか出来なかった。

「そう。日本人です」

 そんな俺に、ミラージュは改めて繰り返す。優しく、けれども力を込めて。次なる単語を、俺に打ち込む。

「そして、その血はきっとあなたの中にも。クロード・フィヨンさん」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 だからこそ、まず咄嗟に反応したのは、自分のフルネームに対して。

「何故……俺の名前を?」

「私の部下は、優秀なんです」

 ミラージュが悪戯っぽく微笑み、自分の耳たぶを二回指先でノックする。その仕草に釣られて視線を送ると、その奥にイヤホンの頭が見え隠れしていた。

(あぁ……なるほど)

 今話している間に、部下の誰かがこの家の居住者を調べたと……簡単ではないが、決して不可能ではない。

(じゃあ、それは良い。となると残る疑問は、その前)

 血筋の話。そして、日本人という単語……改めて想起しても、やはり意味が分からない。

 確かに、俺は座学が得意ではないが、それでも最低限の世界史くらいは学んでいる。そして士官候補生にとっての最低限とは、一般国民の常識の遥か上をいく。つまり、俺が知らない国など、有志以降は存在しない筈なのだ。

「あの……改めて聞きますが、日本というのは?」

「極東の島国です」

 にもかかわらず、ミラージュの返答は早く、かつ恐ろしく不可解だった。

「今は亡き、アジアの大国。そして、あなたの第二の故郷……あなたのお婆様が生まれ育った国でした」 

「……祖母が?」

 唐突に出てきた、『お婆様』という単語。思わず、服の下に隠したロケットに触れる。

「えぇ……あくまでも、私の予想が正しければ――ですが」

 薄く微笑んだミラージュが、今度は端末を取り出して――少しだけ操作をする。

 その画面は、すぐに俺に向かって差し出された。

「あなたのお婆様は、この方ではなくて?」

 その言葉に、自然と視線がディスプレイに吸い寄せられる。一人の女性の笑顔が、俺の網膜に投影された。

「どうして……この写真を?」

 茫然自失とは、こういうことを言うのだろう。そこに映っていたのは、紛れもなく俺の祖母。ロケットの中にいた東洋人――Manaの写真だった。

「彼女が、私の叔母だからです」

 そして衝撃は、まだ続く。 

「彼女――フジセマナは、私の父の妹で……かつては、巫女としての将来を嘱望された人でした。ただ、成長してからは『時渡りの魔女』として、恐れられるようになります」

 理解させることを拒絶しているかのような、そんな情報の絨毯爆撃。その爆風に当てられて立ち竦む俺を、ミラージュはまるで値踏みでもするかのようにじっと見つめる。

「クロード・フィヨン」

 そして紡がれる、俺の名前。差し出される、二つの手のひら。

「あなたに、選択肢を与えます。どちらかを選びなさい」

 まるで、昔語りに出てくる女神のように。そんな言葉を口にしたミラージュは、そのたなごころに二つの花を出現させる。

 右手には……勿忘草。薄い青色が特徴的な、可憐で小さな花。

「真実は貴い。しかしそれには、痛みも伴います。虚飾の平和は剥がれ落ち、あなたの平穏は消え去るでしょう。その覚悟があるのなら、右手を取りなさい」

 次に左手。そこには……黄色いユリ。香り高い、大ぶりな花。

「偽りのユートピア。罪の上に成り立つその偽善は、きっと心地が良いでしょう。真実よりも、その甘さを好むなら、迷わず左手を取りなさい」

 それを最後に、ミラージュは口を閉ざす。対して俺は、二つの花をじっと眺めて、次には顔を上げ、ミラージュを見つめる。同時に、彼女が口にした言葉を反芻する。

 日本――それは、聞いたこともない国名。彼女は、俺にその血が入っていると言う。

 フジセマナ――それは、初めて聞く祖母の名前。彼女は、マナが自分の叔母だと言う。

 レジスタンス――それは、単なる都市伝説。彼女は、自身がそのリーダーだと言う。

 それらは全て、率直に言って、突拍子もない話だった。検討するのも馬鹿らしいと思えるほどに、現実離れした話が満載で……だから俺は、信じなかっただろう。彼女の両手を、迷わず払っていただろう。彼女が一枚の写真を、俺に見せさえしなければ。

 『祖母の写真』――それは、虚飾で固めた詐術者からは、決して出ては来ないもの。彼女の言葉の中に俺の知らない真実があると、認めざるを得なくするキーアイテム。

 だからこそ、それを認めた時、長年燻り続けた疑問が再び脳裏に蘇る。

 〝この国は、何かがおかしい〟

 あぁ……そうだ。この正体不明な違和感は、決して錯覚などではない。そしてこの違和感の正体を……あぁきっと、彼女は知っているのだろう。

 彼女の言葉が真実であるならば……彼女が本当に、DC-Aを眩まし続けるレジスタンスのリーダーであるならば……この帝国の実相を、知らない筈がない。このユートピアを破壊しようと決意する、根拠を持たない訳がない。ならば……

 〝この国は、何かがおかしい〟

 きっとこの疑問にも、一つの答え《かたち》を与えてくれるに違いない。

「……ハハッ」

 それでも――ここまで思考を巡らして、口から漏れたのは、そんな渇いた笑いだった。

 何故なら、気付いてしまったから。長年求め続けた答えを、得られるかもしれないというこの瞬間。浮かび上がってきた感情が、どんな種類のものであるかを。

 『恐怖』――そう。それこそが、偽りなき本心。

 長年求め続けた答えを眼前にして、俺の心は、それを知ることを恐れた。

(まったく……無様にも程がある)

 そもそも、ここで恐れるのなら、アリスなど助けるべきではなかったのだ。何度も足繁く、図書館に通うべきではなかったのだ。しかし、俺はそれをした。ならば、この土壇場で取るべき選択など、考えるまでもなく明らかだ。恐怖など……感じるのも烏滸がましい。

 故に俺は、恐怖を押し殺して手を伸ばす。差し出された手から右手を選び、掌に自身の手を重ね、そこに乗った可憐な花を押し潰す。

「教えてください、真実を。俺はただ、それが知りたいだけなんです」

 そうだ。このチャンスを前にして俺は――もう立ち止まるつもりはない。


 そこからの展開は早かった。右手を取った俺に、ミラージュは一瞬微笑みかけると、すぐにそれを真顔へと変え、連絡用端末で指示を出し始める。

 いまさら疑ってはいなかったが、やはりレジスタンスのリーダーだというのは本当だった。電話をしてから数分と置かずに彼女の部下が現れて、移動のための準備を始める。

 と言っても、大したことはない。未だ目を覚まさないアリスを抱え上げ、いつの間にか玄関前に止まっていた一台のバンに運び入れるだけ。俺はその間に、一通りの戸締りを済ませると、ミラージュに促されるままに、そのバンへと乗り込んだ。

 目的地は告げられない。それでも、知的探究心のために恐怖心を殺すことを決めた俺は抗弁もせず、街中を走り続ける車の揺れに、静かに身体を預け続ける。

 結局――車が揺れることを止めたのは、三十分後。意外なことに、人目につかない郊外の一軒家でも、裏取引に使われそうな港の倉庫街でもなく、都心部を横切る国道沿いに建つ一棟ビルに入って行ったその車は、地下駐車場の決められたスペースに停車した。

 どうやら、ここが目的地らしい。


「クロード、そこにかけてください」

 ミラージュと共に入った、とある一室。十五階建てビルの最上階にあるこの部屋は、一見すると、普通の応接室のようだった。内装のあちこちに視線を泳がせながら、言われた通り、部屋の中央に置かれたソファに座る。ミラージュも俺の向かいに腰を下ろした。

「不思議ですか? こんな普通の場所に拠点を構えながら、帝国の監視から逃れていることが」

 俺の落ち着きのない態度から察したのだろう。少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべたミラージュが、そんなことを尋ねてくる。俺は、素直に頷いた。

「えぇ。DC-Aが稼働している限り、帝国の監視システムは完璧な筈です。ですが、これほど目立つ穴がここにはある。常識では、あり得ないことです」

「なら、その常識が間違っているということです」

 ミラージュはそう言って、足を組む。

「常識というのは、集積された情報が共通認識として具現化したものに過ぎません。ならば、それに手を加えることは可能です。集積された情報を入れ替えるか、共通認識を弄るか、具現化の際に手を加えてしまうか……いずれにせよ、一定以上の権力や影響力を持っていれば、それほど困難なことではありません。そして……」

 ミラージュの顔が曇る。

「かつてのユーラシアでは、この改変が途方もない規模で、しかもこのすべての工程において為されました。その結果、今の世界が出来上がったのです」

「……どういうことです?」

 思わず、首を傾げる。内容があまりに抽象的過ぎて、彼女が何を言わんとしているのか、理解することが出来なかった。

「簡単なことですよ」

 しかし、ミラージュはそう断ずる。そして、続く結論を言葉にする。

「大ユーラシア帝国などという国は、つい最近までは存在しなかった――ただ、それだけのことです」

「…………は?」

 自分のものとは思えない、呆けた声。簡単なことだと定義づけられたその真実は、俺の常識の遥か彼方の存在だった。端的に言って――

(意味が分からない)

 唖然とする俺に、ミラージュが更に言葉を足して説明する。

「あなた方が学んだ歴史はすべて、つい六年前に捏造されたものであり、何一つ真実は含まれていないのですよ」

 だがそれを聞いても、理解を超えているという事実は変わらなかった。自分が知る歴史、生きる国家を偽物だと告げられて、素直に信じられる人間がどれだけいるだろうか?

「……信じられません」

 当然、俺も首を振る。どんな突拍子もない話にも対応する気でいたが、いくらなんでもそれは、許容ラインを大きく超えている。

 ミラージュも、それ以上は言葉を重ねなかった。恐らく、言葉で説得するのは不可能だと判断したのだろう。ただじっと、困惑する俺を見るばかり。

 その沈黙は、部屋のドアが外側からノックされるまで、続いた。

「どうぞ」

 ミラージュが、俺から視線を外して答える。

「失礼します」

 一人の中年女性が、ドアを開けて入ってきた。

「ミラージュ……その子が?」

 その中年女性は、入ってくるなり俺を見つけ、眉根を寄せる。

「えぇ、そう。フジセマナの忘れ形見……の、更に忘れ形見。まさか、今頃になって出会うことになるとは思わなかったわ」

 女性に俺の隣の席を勧めながら、ミラージュは答える。女性は深く頷いた。

「はい……同感です。そもそも……生存者がいたなんて……」

「本当に。でも聞くところによると、ご両親は随分前に他界されている様子。恐らく、フジセマナはそれで満足したのでしょう」

「両親…………そう、それがまた驚きです。彼がまだフジセマナの息子というのなら、あり得なくはないですが……この子はクォーター。四分の一しか血が入っていない筈なのに……若い時の彼にそっくり……」

「隔世遺伝なのでしょう。でなければ、私も気付くことは出来なかった。霊圧は、まったく似ていないのだから」

 二人だけの会話が続く。自分が話題の中心に挙がっていることは明らかだったが、その内容はサッパリだった。ただ、この中年女性も、俺の素性を知っていることだけは理解する。

「ではイレーネ。雑談はこれくらいで。本題に移りましょう」

 イレーネ――それが、この女性の名前なのだろう。イレーネは口を閉ざし、ミラージュの目は、再び俺へと向けられる。

「さて、クロード。彼女を呼んだのは、あなたの血筋について話をするためではありません。あなたに植え付けられた〝常識〟の虚構を暴くためです」

「常識の……虚構?」

「はい。あなたには今から、真実を思い出して貰います。植え付けられた偽りの常識を一掃し、本来のあなたになる。そのために、イレーネの力が必要なのです」

 その言葉を聞いて、隣に座ったイレーネを見る。彼女は優しく、俺に微笑みかけた。

「身体的な苦痛はありませんから、安心してください。リラックスして、ただ目を閉じてくれるだけで良いんです」

 俺を気遣っていることがよく分かる、とても優しげな口調。ここまで来て拒否するつもりなどはなかったが、それでも、その一言で心が軽くなったのは事実だ。

「はい、分かりました。宜しくお願いします」

 目を瞑る。これから何が行われるのか、何が俺の身に起こるのか、一切何も分からなかったが、それでも躊躇いは感じなかった。

 やがて、イレーネの手が目蓋を覆って――次の瞬間、俺の意識は、闇へと落ちた。


***


 気がつくと、どこかの教室だった。

 ぼうっとしたまま周囲を見渡すと、見慣れたものが目に入ってくる。ここ二年ほどの間、毎日お世話になっている机や椅子たち。そして、共に学ぶ仲間たち。

 次第に、頭がはっきりしてくる。

(そうだ。何をぼうっとしていたんだか)

 首を振って、働かない頭を巡らす。ここは、孤児院だ。四年前から預けられている、一風変わった児童施設。変わっている理由はひとえに、ここの運営元が、ISSA[International Spiritual Science Association]だからだろう。

 ISSAとは、第二次世界大戦後にイギリス主導で創設された国連機関。当時から頻出しつつあった霊的問題に対処するため、一時は世界中に支部が設けられ、各国の意思決定にまで影響を及ぼす程の力を持っていた巨大組織だ。近年になり、世界中の戦争や紛争に駆り出された結果、今やほとんど半壊状態だが……それでも、ISSAとの協調関係を拒んでいるここロシアでも、孤児院を維持出来るくらいの力は残っている。

「クロード、聞いたか?」

 大急ぎで頭を巡らし、ようやくいつもと同じ程度の思考力を回復したちょうどその時、誰かに話しかけられた。顔を上げると、そこには一番仲の良い友人。名前は――

「今日の午後、体術の授業無くなったって」

「え!? まじかよ……」

 名前を思い出す前に、その友人の一言が俺を酷く落胆させた。

 体術――考えてみれば、こんな授業があることも、この孤児院の特徴の一つだろう。ここを運営しているのはISSAだが、彼らも百パーセント慈善活動でやっている訳ではない。将来のISSA職員――すなわち、〝エクソシスト〟を養成するということが、この施設が存在する大きな役割の一つなのだ。

「はぁ……それで? 体術の代わりに、俺たちは何をさせられるの?」

 お気に入りの授業が無くなって溜息を吐きつつ、代わりに何をさせられるのか、一応確認する。可能性は低いが、場合によっては今の溜息がガッツポーズに変わることだって、無いとは言えない。

「なんか、ワクチン打ちに行くらしい」

 だが残念ながら、ガッツポーズをするほどではなかった。と言っても、改めて溜息を漏らす程ではない。

「あぁ……それって今日になったんだ。意外に順番回ってくるの、早かったね」

 半年ほど前から、全世界で猛威を奮っている感染症。徐々に死亡率が上昇し始めており、北米の方では、かなりの数の死亡者が出ているという噂だ。他国に先駆けてワクチン開発に成功したロシアでは、つい先週くらいから、ワクチン接種が盛んに始められている。

「バスの準備が出来たらお呼びが掛かるらしいから、それまで自習しとけってさ」

「あぁ……そういうこと」

 今の言葉で、友人が俺に話しかけた訳を理解する。どうやら、教師に依頼された『クラスへの伝達役』を、俺に委任したいということらしい。ウインクをしながら片手を立ててくる友人に呆れ顔を向けつつ、それでも、シャイな彼に代わって教壇へと向かう。

 ワクチン接種というイベントは初めてでも、俺が誰かの代わりに教壇に立つのは、割にいつものこと。みんなも「さも当たり前」みたいな顔をして、素直に俺の指示に従った。


 結局自習は、一時間ほど続いた。

 その間、俺は唯一苦にならない座学として、『エクソシスト教本』を選び、机に広げる。

 ユーラシア大陸全土がロシアによって併合された現在、国の数は大きく目減りしている。それでも、ISSAのエクソシストもまた激減しているため、エクソシストになるのなら、いずれどこかの国に顧問として派遣されるのは、ほぼ間違いのない未来だった。いざその時になって、最低限の社会的知識を持っていなければ、間違いなく苦労することになる。

 というのも、十一年前に起こった『災厄の日曜日』以降、エクソシストは単なる悪魔祓い師としてではなく、軍事作戦に助言するアドバイザーとしての役割も、果たさなければならなくなっているからだ。もはや、単なる戦闘狂に務まる仕事ではない。

(災厄の……日曜日……)

 丁度、目前の教科書の中でも、その単語がいくつも踊っている。

 北朝鮮によるアメリカ大統領の呪殺から始まったこの一連の事件は、世界秩序を根底から揺るがし、未だ世界のあちこちに深い影を落とす。中でも、その初期の時点において主戦場となった極東地域の被害は、凄まじいものだったと聞いている。

 事実、長い間世界有数の経済大国としての地位を誇っていた日本は、この戦争の結果、国家としての機能を完全に消失したのだ。物心つく前の出来事とは言え、日本人を祖母に持つ俺としては、とても他人事で片付けられる事件ではない。

(出来るなら……いつか日本に派遣されたいな)

 だから俺は、思うのだ。今、日本はロシアの保護領となっているが、いつかはきっとその傷も癒えるだろう。その時は、俺も顧問として彼の国の土を踏み、その再建に尽力したいと。

 大袈裟でも何でもなく、そんな個人的な願望が、今を生きる密かな原動力になっていた。


 先生に連れられてバスで移動した先は、『ベルシー・アレナ』という屋内競技場だった。

 パリ中の人間が一堂に会しているのではないかと疑いたくなる程の人混みの中、俺たちは一団となって進み、気の遠くなるような待ち時間を経て、ワクチン接種を無事に済ませる。

 幸い、噂に聞いていたような痛みもなく、体調が悪くなることもない。副作用については、時間が経ってみないと分からない部分もあるが……まぁきっと、大丈夫だろう。

 俺たちはこうして、今日という日を終える。次の日も、更にその次の日も。

 延期になった体術の授業に参加して、苦手な座学にも励みつつ、〝日常の繰り返し〟と表現しても差し障りない、平穏な日々を過ごす。

 三日……四日……五日……六日…………

 そんな風にして、この繰り返しが七回目に突入した、そんなある日の昼下がり。

 いつものように太陽が東から昇り、天頂から光を投げかけ、地表をその熱で包み込む。そんなありきたりな、平日の午後のことだった。

「ゲホッ」 

 そんなえずきが、始まりの合図。

 世界が地獄に変わったのは――その、数秒後のことだった。


***


「気分は、如何ですか?」

 気付くと、ソファで横になっていた。ミラージュの気遣わしげな顔が、俺を見つめている。

「……最低の気分ですね」

 やや間を開けて、そう答える。

 夢から覚めた今でも、明確に思い出せる。みんなと過ごした孤児院での日々、エクソシストになるべく励んだ訓練の数々。そして……ワクチン接種と……その後の惨劇。

 それは、ワクチンを打ってから、丁度一週間後のことだった。

 教室で、授業を受けている真っ最中。最初は、目の前の男子。次に、隣の席の女子。次は多分、窓際の誰か。それ以降は……もう分からない。

 悲鳴と、吐血音と、人が倒れる鈍い音。そんな醜い三重奏が、全方位から聞こえてくるのだ。正気を保つだけで、精一杯だった。いや……正気を保てたかも疑わしい。何故なら、俺の意識はその直後にブラックアウトし、その後は全く別の人生を歩み始めたのだから。

 大ユーラシア帝国陸軍――士官候補生としての人生を……

「一応確認ですが……今のは、俺の記憶ってことで間違いありませんか?」

 間違いないとは思いつつも、思わず確認してしまう。それくらい、今経験した光景は、あまりに衝撃的だった。

 ミラージュは、こくりと頷く。

「それは、あなたがこの六年間失っていた記憶です。そして……どうですか? 他にも、色々と思い出した筈です。この世界が、こうなる前の世界。本来の世界の姿を」

 言われて、反芻する。まるで、箪笥の奥にしまったまま忘れていたような、そんな懐かしい記憶の数々。

「ロシア……連邦……」

 ポツリと溢したその言葉。この六年間、忘れていた国家。

「確か、フランスは……ロシアに併合されて……」

「そうです」

 ミラージュは、俺の呟きを肯定する。

「フランスは、近年まで独立を保っていました。フランスだけではありません。EUも未だ稼働し、多くの国家群がヨーロッパを形成していました。しかしあの日――『災厄の日曜日』を契機として変化した時流に、あなた方は対応出来なかった。現代科学は異能の前に敗北を喫し、霊存在が介在した紛争やテロも頻発。悪霊悪魔の実在も公表され、価値観の錯綜と混乱が加速度的に進みました。こうして、頼るべき価値基準のない世界で国家は問題に対する対応力を喪失し、遂にはロシアによって呑み込まれました。今から、七年前の出来事です」

 そうだ、それが本当の歴史。人類が歩んできた近現代史。そこに、大ユーラシア帝国なんて国家は……存在しない。

「どうして……こんなことに?」

 理解と共に、恐怖が湧き上がる。

「大ユーラシア帝国? DC-A? それに……Impelling Sacred Salvation Authorities[ISSA]だと? 俺が知るISSAは……そんな組織じゃない」

 俺が知る現在の社会と、記憶が教えてくれた過去の社会。その間には、あまりにも大きな乖離があった。何よりも……

「日本……」

 俺たちが忘れていたもう一つの国家。記憶はもちろんのこと、あらゆるデータベースから、その存在を示唆するものは一つ残らず削除されている。

「疑問点があまりに多過ぎて、混乱するのも無理はありません。一度に全てを理解するのは難しいでしょうから……まずは要点だけ、説明することにします」

 俺の困惑具合を察したのだろう。優しく語りかけるようにそう言ったミラージュは、一拍置くように目を瞑る。恐らくその時間は、俺に与えるためのもの。今から始まるだろう途方もない話を受け入れるための準備時間。だから俺は、その僅かな間に覚悟を固めて……

彼女の語りに、意識を委ねた。

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