2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第二章

 〝この国は、何かがおかしい〟

 果たして、こんなことを思うようになったのは、いつの頃からだろうか? 

 物心ついた頃から? それとも、初めてこの国について学んだ頃から? それとも、士官学校に入学した頃から? それとも……

 分からない。ずっと昔からのような気もするし、つい最近のような気もする。記憶力が決して悪い方ではない俺だが、この件に関して言えば、まるで白痴のように考えが定まらない。

 ただ……俺と机を並べる数多くの同胞たち。そして、教鞭を取る教職員。行き交う街の人々。その誰一人として、そのような疑問を感じていないことだけは確かで……多数決で考えれば、おかしいのは明らかに、俺の方だった。

 もし俺が大雑把な性格をしていたのなら、あるいは大らかな性格をしていたのなら、きっとその事実で納得していたのだろう。自分のくだらない思い違いだと結論づけて、日々の訓練に、一層身を入れて参加していたに違いない。

 だが残念ながら……もしくは幸いなことに。

そうはならなかった。

 誰もが疑問に思っていないというこの事実は、むしろ俺にとっては、不信を強める材料にしかならなかった。疑念を深める根拠にしかならなかった。

 しかしかと言って、この件について誰かと議論したことがあるのかと聞かれれば、答えはノーだ。別に、勇気がないからではない。調和を重んじているからでもない。単に、議論が出来ないのだ。何を議論すれば良いのかすら、そもそも分からないのだ。

 そう――俺には分からない。一体、この国の何がおかしいのか。何が間違っているのか。どこに違和感を覚えるのか。何一つ分からず、そして結局最後には、決まってこう思うのだ。

(何故俺は……こんなことを考えているのだろう?)

 ……だから言ったのだ。まるで白痴のようだと。

 他者の考えも、自分の考えもまるで分からず、ただ言い知れぬ違和感だけが膨れ上がる。

 そんな果ての見えない思考の迷宮に囚われて、呆然とその場に立ち竦む。そして、月明かり一つない夜空を見上げて、俺はやはり、こう思うのだ。

 〝この国は……何かがおかしい〟――と。


***


 我らが大ユーラシア帝国が誕生したのは、今から遡ること、ほぼ百年前のことになる。

 前身は、ソビエト連邦だ。かの社会主義国家が、約六年間にも及ぶ大祖国戦争を経て、遂にナチスドイツを打ち負かしたことが、すべての始まり。

彼らはドイツを完全に制圧すると、猛る勢いそのままに、戦争によって荒廃し切っていたヨーロッパ全土を瞬く間に平らげた。

 それだけではない。勝利の美酒に酔いしれたソビエト連邦は、返す刀でアジア圏へ侵攻。念願の不凍港を手に入れるべく南下を始め、長年の内戦によって疲弊していた中華民国、そしてその属国であり、東アジア最東部に位置する朝鮮半島を呑み込んだ。

 そこまで来れば、もう彼らを止められる国家はない。宗主国が不在になっていた数多の植民地国家、そしてユーラシア大陸で最後まで独立を保っていたタイを併合し、遂に彼らは、西ヨーロッパから極東まで広がる、歴史上かつてない大版図を有するに至る。

 この前人未到の偉業に、モスクワは三日三晩、喝采を叫んだ。その叫びは地を埋め尽くし、天をも覆わんばかり。ソビエト連邦に味方する者は口角を吊り上げ、敵する者は恐怖に打ち震える。そんな、歴史的な三日間が明け……

四日目に、その喝采は悲鳴へと変化した。

 ――革命だ。

 しかも、民衆による革命ではない。大祖国戦争を勝利に導き、連邦の版図をここまで広大なさしめた将兵たちが、今度は連邦政府に反旗を翻したのだ。

 理由は、連邦政府の占領政策にある。

 人間をあくまでも〝もの〟と捉え、非人道的な大量虐殺を繰り返した連邦政府への失望と嫌悪が、将兵たちの間で充満し、遂にはそれが爆発したのだ。


 『人の尊厳の根拠は、魂の高貴さに求めるべきである』


 そのようなキャッチフレーズの下、将兵たちが立ち上がり、更にはそこに、高級将校も加わることで、趨勢の変化は決定的となった。

 結果、瞬く間にモスクワは彼らによって制圧され、社会主義政権は崩壊。誰も敵すること叶わずと思われたソビエト連邦は、内部崩壊によってあっさりと、この地上から姿を消した。

 だが……その巨体は引き継がれた。ソビエト時代の反省を下に、まったく真逆の理念を掲げて建国された帝国――

〝大ユーラシア帝国〟に。

では、その真逆の理念とは一体何なのか。

 それこそが、革命時に将兵たちが唱えた『人の尊厳の根拠は、魂の高貴さに求めるべきである』という考え方であり、そしてそれをただのお題目としないために、帝国では画期的な技術が採用されることになった。

 『DC-A[Dependent Co-Arising]』と呼ばれる、一大監視システムである。

 今をもって、帝国臣民は、常に監視されている。学校。ショッピングモール。交通機関。果ては、自宅の中でも。どこにいても、決して逃れることは出来ない。

 何故なら、その監視システムは、臣民一人一人の身体の中に宿っているのだから。

 『EV[EVil Voyager]』

 帝国臣民の体内にある、生体ナノマシンの名称だ。このナノマシンの役割は、主に二つ。

 一つはその名の通り、宿主の想念を監視すること。帝国への翻心や猜疑心。あるいは、他者への怒りや憎しみ。はたまた、利己的な欲心や怠心。他にも挙げるとキリはないが、こういった悪想念を強く、あるいは継続的に抱いた人間を、EVは検知する。そしてもし、EVによって検知されると……

 これが役割の二つ目。EVは、その組織を血管内で破裂させ、内部から致死性の毒素を撒き散らす。こうなったらもう最後。身体中から、血液が止めどなく流れ去り……もう助からない。致死率は、公表されている限り、百パーセントだ。

 こうして、EVによって『不可』と判断された人間は、この地上から去ることになる。だが、それだけではまだ不完全。何故なら、肉体を失った彼らは魂となって、時には不成仏霊に、時には悪霊に、最悪の場合は、悪魔へと変貌するからだ。

こうなると、非常に厄介である。何故なら、彼らはまだ生きている人に取り憑き、意識的にしろ無意識的にしろ、仲間の増殖を始めるのだから。

 故に帝国は、『ISSA[Impelling Sacred Salvation Authorities]』を組織した。『魂の救済を促す特別機関』と訳されるその組織が、EVによって処刑された人の魂を、この世界から消滅させる。彼らが死後、不成仏霊や悪霊、果ては悪魔とならないように。つまり――


 『人の尊厳の根拠は、魂の高貴さに求めるべきである』


 この理念が示す通り、魂の高貴さを失った彼らには、人の尊厳などないということだ。そんな彼らに、これ以上、人としての活動を許すわけにはいかないということだ。この世にも、あの世にも、留まらせるわけにはいかない。

 そのために、このDC-Aは、理想的な形で作用し、そして、今の平和が築かれた。帝国のこの施策は、既に百年の長きに渡って実施され、目覚ましい成果を挙げている。

 今やこの帝国には、悪人はいない。不成仏霊もいない。悪霊や悪魔も、その活動領域を大幅に狭めていると聞いている。そしてそれは、六年前に発生した感染症のパンデミックを経ても変わらなかった。あれだけの死者が発生しながら、治安は完璧なレベルで維持され、全帝国臣民が、規律ある行動を自主的に続けている。

 故に――『善人の理想郷ユートピア

 大ユーラシア帝国の通称だ。そんな二つ名を付けられるほどに、この帝国は完璧な平和を、この地上に創り上げている。


***


(一体、何がおかしいのだろうか?)

 俺――クロード・フィヨンは、開いていた本を閉じ、見慣れた図書館の天井を仰ぎ見る。

 この国について疑問を感じ、その理由を明らかにするために文献を紐解く。何度も繰り返している行為だが、決まって最後は、この結論に行き着くのだ。

(何も……おかしいところなんてない)

 内心をチェックされ、その内容によって裁かれるなんてことは、当然のことだ。そして裁かれた結果、その魂を消し去られるのは、もはや常識と言っても良い。殺してそれで終わりなら構わないが、魂がある以上、彼らは死後も悪事を働き続ける。なら、それを防ぐために彼らの魂を消滅させてしまうのは、非常に理に叶った解決方法だ。疑問の余地など、まるでない。そもそも、百年間にも及ぶその繰り返しの結果、今のような楽園が出来上がったのだ。国家の統治方法として、これほど優れたものはないだろう。

「はぁ……」

 溜息を吐いて、もう一度本へと視線を移す。

 今読んでいたのは、近現代史の本。帝国の成り立ちと現在の政治システムについて一通り目を通すのは、もうほとんど日課みたいになっていた。

(せめて爺ちゃんが生きていれば、昔のことも、聞けたかもしれないんだけどな)

 祖父が亡くなって、もう十年経つ。

 当時、俺は充分物心つく年齢であったが、不思議と、祖父との思い出は少なかった。

 両親を幼くして亡くし、祖父が育ての親だったにもかかわらずこれだから、随分と薄情だと自分でも思うが、事実なのだから仕方がない。あるいは、せめて写真でも残っていれば、それを頼りに思い出に耽ることも出来たかもしれないが……祖父が写真嫌いだったせいか、それすらもない。そんな中で、唯一残っている肉親の写真は……この一枚だけだ。

 服の下からペンダントを取り出して、その先端に取り付けられたロケットを開く。中から出てきたのは、一人の女性。この辺りではまず見かけることのない、平たい顔立ち。それでも、目鼻立ちは良く整っていて、美人であるのは良くわかる。

 若かりし頃の祖母の写真だ。枠の下には小さく、『Mana』と彫ってある。

「………」

 ……分かっている。本当なら、恋人の写真でもここには入れておくべきなのだろう。けれどこれは、俺を育ててくれた親族からの唯一の預かり物。疎かにするのは、自身のルーツを自ら捨ててしまうような気がして……

気付くと、チェーンに首を通してしまうのだ。

 それに……この東洋人の祖母に、俺自身が興味を抱いているというのもある。

 年齢から考えると、俺の祖父母が出会ったのは、大祖国戦争の後。既に大ユーラシア帝国が建国された後になる。その頃には、地域間の移動には厳しい制限がかけられていたから、旧フランス領であるここに、東洋人である彼女が来ることができたというのは、極めて特殊なことだったに違いない。だから、彼女がどんな人物だったのか、けっこう興味がある。意外に我がフィヨン家は、政府関係筋の高家だったのかもしれない。近現代史の本をこうして紐解いているのも、その痕跡を見出せないかという期待が、少しばかり働いているのも事実だ。

(まぁ……こっちはこっちで、成果なんてまったく出そうもないけど)

 最後に一つ、猫のようにググーッと伸びをして、席を立つ。

 今日も今日とて、時間を無駄にしてしまった。早く帰って、明日の予習でもしよう。


「あ……そういえば」

 帰ろうと思って通りがかった正面玄関。その掲示板に貼られた一枚の案内が目に留まって、足を止めた。そこには、13SSの来訪と、彼らとの実戦演習を開催する旨が記載されている。

 13SS――特務機関第13分隊とは、ISSAの中核を担うエリート部隊の一つだ。特にここ、パリ特別士官学校の卒業生の在籍率が高く、成績優秀者のほとんどは、この13SSへ配属されることを望んでいる。要するに、みんなの憧れの的なのだ。

 そんな彼らと、実戦演習が出来るまたとない機会。恐らく、腕に覚えがある者はこぞって、今頃は訓練場へと足を運んでいることだろう。

(みんな……熱心なことで)

 内心で、バイタリティ溢れる級友たちにエールを贈ると、身を翻す。

その時だった。

「クロード! やっと見つけた!!」

 翻した視線の先に、こちらに向かって一目散にかけてくる男子生徒の姿が映る。先程の掛け声から考えて、俺に用事があるのは明らかだろう。更に、このタイミングから言って……

 先ほどまで見ていた掲示板をチラリと見やる。どうやら思っていた以上に彼らは本気で、そして、諦めが悪かったらしい。

「おい! なんで訓練場に来ないんだよ!」

 俺の正面に来た級友――エリク・ラングレーが開口一番、そう口を尖らせる。

「おまえが来ないから、もうこっちは散々だよ! このままじゃあ、敵に一撃も加えられないまま、全滅だ!」

 〝敵〟とは、随分穏やかじゃない。どうやらみんな、憧れの先輩に胸を借りるのではなく、その身体に肉薄し、あわよくば噛みつくくらいの心構えでいるらしい。本当に、その向上心には頭が下がる。それでも……

「俺は別に興味ないって言ってるだろ。それに、相手は帝国最強のエリート兵士だぞ? 普通に考えたら、勝負にもならないだろうが」

「だから! おまえなんだろうが!」

 しかし、エリクは全く引かなかった。俺の腕を取り、お構いなしに引きずり始める。

「別に倒せとは言ってない。ただ、一矢報いてくれればそれで良い。おまえだって、卒業生に舐められて終わりじゃ嫌だろ?」

「別に、俺はそれでもかまわ――」

「うるさい! 四の五の言わず、取り敢えず来い。そして戦え!!」

 エリクは聞く耳を持たない。こうなると、もう何を言っても無駄なのは、今までの経験からよく分かっていた。

(……仕方ない)

 もし本当に逃れたいなら、今日は図書館なんかに寄らず、真っ直ぐ帰るべきだったのだ。にもかかわらず、そうしなかった。だからこれは、自業自得。身から出た錆。

(はぁ……)

 心の中で、特大の溜息を一つ。自分の行いの結果を潔く受け入れることを決め、引っ張られるだけだった足腰に、グッと力を込めた。


 エリクと共に訓練場に足を踏み入れた直後、意外な人物と行き合った。

「あれ? アリスも来てたんだ」

 それは、もう一人のクラスメイト。名前は、アリス・ブーリエンヌ。

 彼女を形容する言葉は数あれど、そのどれが、彼女を最も適切に形容出来ているか、正直俺には判断しかねる。だがそれでも、級友たちにアンケートを取れば、きっとこの三つの単語に集約されることになるのだろう。

 『美人・冷淡・天才』

 しかし面白いことに、その単語を口にした当の本人に、別のタイミングでその単語をぶつけてみると、恐らく彼らは首を傾げるのだ。

「確かにそうだけど……でも、ちょっと違うんだよな。アリスは、なんか……こう……」

 恐らくそんな言葉も添えた上で、彼、もしくは彼女は宙に視線を彷徨わせると、一言、こう言うに違いない。

「うん。やっぱ分からん。でも、お近づきにはなりたい」

「うん。やっぱり分かんない。でも、憧れるよね。ああいう人」

 ……そう。結局、そういうことなのだ。

 彼女のことは分からない。だがそれも、彼女を彩るスパイスになっているのは間違いなくて……それが理由で、学生の間で絶大な人気を博しているのは、紛れもない事実だった。

 だから……もし、彼女を一つの単語で表すならば、俺はやっぱりこの言葉を選ぼうと思う。

 『アイドル』

 彼女は、ミステリアスな部分も含めて、学内のアイドルだった。美人で、そっけなくて、更に才気に溢れていて、でも、その本当の姿は掴めない。まさに〝偶像〟そのものだ。

 だから、そんなアイドル的素養を持った女性が、13SSとの実戦演習の場に姿を現したことを〝意外〟と評することは、俺には出来ない。それでも、彼女との遭遇を意外だと思えたのは、

(彼女がいるなら、俺が出張る必要はなかったんじゃないか?)

 と思ったからだ。何故なら、先にも挙がっていた通り、彼女は天才なのだから。それは勿論、実戦演習の成績においても例外ではない。彼女なら、相手が13SSであろうとも、流石に一矢報いるくらいのことはしてくれる筈だ。

「は? ……アリス?」

 しかし、どうやらそれは見当はずれだったようだ。

 俺の言葉に、前を歩いていたエリクが首を傾げ、左右に目を走らせる。そしてようやく、扉の脇に立っているアリスに視線を向けた。

「うわっ! 気付かなかった……アリスも来てたんだ」

 まるで幽霊でも見たかのように、ビクッと肩を震わせるエリク。それでようやく、エリクがアリスの存在に気付いていなかったことを知る。

「ちっ」

 そして、舌打ち。出元はエリクではない。アリスだ。

 俺とエリクの顔を見ると、その整った眉を顰め、小さく可愛らしい唇から発されたとは思えない苛立たしげな舌打ちを残して、そのまま訓練場から出て行ってしまった。

 通り過ぎ様、俺を一睨みすることも忘れずに。

「まさか……アリスもいたのか。てか、なんで気配消してたんだ?」

 首を捻るエリク。そんなこと、俺に聞くな。

「むしろそれよりも、誰一人アリスに気付いてなかったことの方が驚きだよ。おまえら、本当に目は付いてるのか?」

 素人ならいざ知らず、ここにいるのは皆、訓練を受けている軍人見習いだ。いくら能力差があるとは言っても、流石に不甲斐なさ過ぎる。

 するとエリクは、不満げに口を尖らせた。

「俺たちだって、注意してたら気付けるけどさ。まさか、こんなところで気配殺してるなんて思わないだろ?」

「良いこと教えてやろうか? 実戦だとな、『この部屋に、気配殺してる人が何人います!』なんて、ご丁寧に教えてくれないんだぞ?」

「ぐっ……」

 俺の皮肉に二の句を継げなくなったのか、言葉を詰まらせたエリクが低く呻く。だが……

「うるさい! 早く行くぞ! グズグズしてて、間に合わなかったらどうする!」

 力強くそう言うと、ズンズンと中に入って行ってしまう。

「まったく……」

 呆れて軽く首を振りつつも、すぐにエリクの後を追った。エリクの言い分にも、確かに一理あると思ったからだ。

 未だに積極的に戦いたいなんて思ってはいないが、それでも、こんな所まで来て――

 『もう終わりました』

 では、あまりに徒労が過ぎるというものだ。


「クロード! ようやく来たか!」

 闘技スペースに入ると、入り口付近にいた奴が、そう叫んで駆け寄って来た。

「遅いぞ! 既にこっちは全滅して、なんとか二巡目で時間稼ぎをしてる状態なんだ」

 言われて見ると、確かにほとんどの人間が倒れて動かなくなっていた。立っているのは、全体の三分の一もいないだろう。そして、今までの推定経過時間に対する、人員の損耗率を計算すると――

「……あと三十分はもちそうだな」

「鬼畜か!?」

 ポツリと溢した声を拾われる。

「うそうそ。冗談だよ」

 苦笑しながら、労いのつもりでそいつの肩を叩くと、闘技スペースの中心に向かって歩く。

「お! クロード来たか! 頼む、もうあとはおまえしかいないんだ」

「せめて……せめて一矢を! 勝てなくても良いから!」

 俺に気付いた同胞たちが、口々にそう叫んで道を開ける。中には立つことも覚束なくて、ゴロゴロと転がってその場から離れる奴もいた。誇張なしに、手酷くやられたらしい。

(期待が重いなぁ……)

 彼らの期待が、双肩にのしかかる。しかも、その期待の土台となっているのが『無念と口惜しさ』であるが故に、より一層ズシリとくる。ここで彼らに応えられなかったら、その期待が俺に牙を剥くことだってあり得るだろう。

(はぁ……こんなことなら、さっさと来て、さっさとやられておけば良かった)

 最初のうちなら、あっさり負けてもきっと許されただろう。だが今は違う。それだけの蓄積が、この闘技スペースには満ちている。しかもそれらは、俺という〝救世主〟の登場を唯一の励みにして、積み上げられてきたものなのだ。つまり……

 一矢報いて解消されるか、あっさり負けて暴発するか……もうそのどちらかしか、道は残されていないだろう。

(仕方ない……本気を出しますか)

 覚悟を決めて、ここの中心に立つ男――13SSの眼前に立った。

「君かな? 最後の試合相手は」

 少し気障ったらしい口調で、そう話しかけられる。感じは、育ちの良いおぼっちゃまという雰囲気。だがその肉体を見ると、筋肉の付き具合が温室育ちの彼らとは一線を画しているのが一目でわかる。歳も恐らく二十代後半。まだまだ、年齢的な衰えは期待出来ないだろう。

「……そうですね。宜しくお願いします」

 頭の中で戦い方をイメージしつつ、軽く礼をする。そして頭を上げる頃には、もう方針は決まっていた。相手のデータは皆無。戦闘スタイルは勿論、癖だって何一つ分からない。ならまずは……相手の動きを見るに、如くはなし。

 霊気を身に纏い、身体能力の向上を終えると……ゆっくりと、守勢の構えを取った。


 有り難いことに、相手が先に動いてくれた。

 突如相手の身体が、目の前から消失する。そして――

(……上か?)

 咄嗟に身を捩り、半身だけ横に移動する。その刹那、耳元で空気を切り裂く音が聞こえた。

 だから俺は、渾身の力でその方向に向けて肘を入れる。が……

 手応えは……なし。虚しく空を切った腕を再び正面に戻し、いつの間にか元の位置に戻っていた相手と改めて相対する。

「……驚いた。今のを避ける学生がいるとは思わなかった」

 口ぶり通りの表情。周囲の息を呑む音。次いで聞こえる歓声から、どうやらこれまでの全員が、今の初手で落とされていたことが分かる。

(確かに……そりゃあ一矢報いたくなるな)

 いくら相手が13SSでも、今ので終わりではあまりに屈辱的だ。まるで、ブンブンと振り回した手を抑えられ、デコピンでも入れられた子供みたいな気分になる。

(よし。じゃあそろそろ、みんなの雪辱、晴らすとしますか)

 今のやり取りで、相手のスピードはなんとなく分かった。あとは、その速度に自分の霊気の出力を調整して…………良し、OK。

 身体の準備が完了し、最後の工程に入る。と言っても、やることは極めて単純だ。

 視覚を遮断する――すなわち、目を瞑る。これだけだ。これだけで、俺の直感はその羽を大きく広げ、まだ見ぬ世界へと連れて行ってくれる。

 そこは、一瞬後の未来。あり得るすべての可能性。僅か十秒にも満たない世界の全て。

 俗に、〝未来視〟なんて言われそうな力だが、そんな単純なものではない。そもそも、決定した未来なんてものは、本来ほとんど無いのだ。あるのは、いくつにも枝分かれして広がっていく、数多の未来の可能性。故に俺は、その全てを捉え、解析し、自分にとって最も都合が良い未来を掴み取るための、最適解を導き出していく。

 見える未来は精々十秒先までが限界で、口が裂けても〝全知〟なんて言えないが……それでも、コンマ一秒を争う戦闘ではそれで充分だ。あらゆる分野で凡人の域を出ない俺であっても、この唯一とも言える特技をもって、〝不敗〟の地に立ってきたのだから。

 そしてそれは、たとえ相手が、帝国最強のエリート兵士だったとしても……

 恐らく……変わらない。


 五手。それが、一矢報いるために必要な手の数だった。

 まずは、相手の正拳突き。だが、これを避けてはいけない。避けた先に待っている蹴りが、こちらの自由を更に制限し、逃れようのないチェックメイトへと誘い込まれることになる。

 だから正解は――手を添えることだ。

 敵の右腕に左手を添え、僅かな力で突きの軌道を俺の顔を掠る程度にずらしつつ、そのままこちらの拳は真っ直ぐ突き入れて、敵の顔面を狙う。

 すると、敵は下がる。だが下がらせない。敵の顔面を狙っていた拳をパッと開くと、退いていく腕をむんずと掴み、更にこちら側に引き寄せる。

 結果、今度は敵の体勢が崩れ、腹がガラ空きとなる。当然、敵もそのことを理解し、咄嗟に腕で腹を防御しようとするが……俺の狙いは上。腹部を気にして下向きになった顔を狙って、アッパーの要領で敵の顎を打ち上げる。この時、手は使わない。それでは距離があり過ぎて、敵に迎え撃つ時間を与えてしまうから。故に、使うのは頭蓋。

 頭蓋骨で敵の脳を揺らした上で、一瞬力が抜けた敵の身体を、一本背負いの要領で地面に叩きつける。

以上、状況終了――

 一瞬の間に想定通りの工程を経た俺は、地面の上に大の字で倒れた敵を見下ろした。

(……ピクリとも動かんな)

 防がれるとは思っていなかったが、それでも受け身くらいは取るものだと思っていた。だがどうやら、思いの外、良いのが入ってしまったらしい。

「クロード……やっぱりおまえは、化け物だよ」

 不意に、そんな声が聞こえて顔を上げる。そこには呆気に取られた群衆たち。

「クロードなら良いところまでイケるとは思ったけど……まさか、こんなにあっさり倒しちまうとは……」

「てかおまえ……もう学生でいる意味あるん?」

 もはや呆れすら混じった声音が、そこかしこから聞こえる。色んな意味で、やり過ぎてしまったらしい。

「能力制限ありだったからだよ。もしこの人が、霊装を持ち出してたら勝ち目はなかった」

 あまりにも過大な印象を与え過ぎると、後々面倒なことになる。そのため、少しでもそれを抑えようと、そんなことを口にしてみるが……

「当たり前だろ。たかが演習で、しかも学生相手に霊装持ち出すなんて聞いたことないぞ」

 あまり効果はなかったみたいだ。机上演習の成績を引き合いに出すべきだった。

「まぁ良いや。クロードのことは取り敢えず後回しにするとして……どうしよっか?」

 若干不穏な表現を織り交ぜつつ、エリクが少しだけ建設的な提案をする。

(そうだ。まずは、この13SSの人をどうにかしないと)

 みんなして、首を傾げる。

 取り敢えず、医務室にでも運ぶのが良いのだろうが、ここに担架はないし、仮に担架を持ってきたとしても、衆目のある中、13SSの人を運ぶのは如何なものだろうか? 俺がもしこの人の立場なら、そんな生き恥は死んでも御免だと考えるような気がする。流石に、これ以上彼の心にトラウマを植え付けるのは気が進まない。しかし……かと言って……

「心配しないで。彼なら、こちらで預かるから」

 どうしようかと悩む俺たちだったが、唐突に投げかけられたその言葉で、一斉に振り返った。見ると、すぐそこに見知らぬ男の人が立っている。着ている制服から、すぐに彼も、13SSのメンバーなのだと分かった。

「彼は俺の部下でね。ここでの仕事も終わったから、このまま連れて帰ることにするよ」

 その思考を裏付けるような言葉と共に、男は倒れた彼を片手で抱え上げる。顔に刻まれた苦労と戦いの跡、そして真っ白な頭髪を見るに、随分とお年を召しているように思えるが、そんな年齢的な衰えは、一切感じさせない動きだった。

 いや、もしかすると、実際の年齢は思ったよりも若いのかもしれない。何故なら――

「驚いた。東洋人じゃないか……」

 隣で、エリクが呟く。

 そう。彼はこの辺りでは滅多に見かけることがない東洋人なのだ。故に、顔から年齢を把握するのは難しい。そしてそれは、俺以外のみんなも同様だ。まさか、13SSに東洋人が在籍してるなんて、想像もしていなかったのだろう。呆気に取られた表情で固まっている。

 そんな俺たちに、彼は軽く笑いかけると、それ以上何も言わずにこの場を立ち去った。

 ただ、一瞬。俺の横を通り過ぎた時だけ、歩調が僅かに遅くなったようにも思える。

 理由は……なんとなく察しがつく。

 この辺りで東洋人が珍しいのは、彼にとっても同じこと。もしかすると、俺たちが彼に抱いたのと同じ感情を、東洋人の血を色濃く引き継いだ俺に対して、抱いたのかもしれない。

「驚いた。まさか東洋人だとは……」

 彼らの姿が完全に見えなくなると、エリクが思い出したように、再びその言葉を繰り返した。みんなも、ポツリポツリと同調するように頷く。

「しかも、年齢的に結構上っぽかったから、分隊長とかじゃないか?」

「俺てっきり、特務分隊は出身地域ごとで配属が決まるもんだと思ってたよ」

 思い思いに自分の所感を語りだす。さっきまで地面に倒れていた奴もいつの間にか起き上がって、この即席の井戸端会議に加わっていた。

 かく言う俺は、静かに輪の隅へと移動して、自然な形でのフェードアウトを狙う。こいつらの今までの行動パターンから考えて、この後はきっと打ち上げの流れになるだろうが、俺はあまり飲みニケーションが好きではない。巻き込まれる前に、早々に退散するのが吉……

「でも、発見だな」

 だが、そうは問屋が卸さない。

 あと一歩で輪の外に出られるというところで、エリクの声が無情に響く。

「東洋人って、みんな似たような顔してるんだな。正直俺、クロードとあの13SSの区別、あんまつかなかったわ」

 みんなの視線が宙を泳ぎ、次の瞬間には俺を見つけて、そのまま固定される。

「確かに。適当にシワと傷痕書いて、髪の毛白く染めれば、まんまあの人になるんじゃないか?」

「お! 面白そうだな。ちょっとやってみるか。んで、分隊に紛れ込ませるんだよ。ミッション――機密書類を奪取せよ!」

 みんなの面白がる笑い声が、場を支配する。明らかに、ヤバい兆候だった。

 危険を察知した俺は、咄嗟に踵を返すが……いつの間にか、俺の周囲は完全に固められ、ネズミ一匹たりとも這い出る隙間が無くなっていた。

「くそ……早い。おまえらそんなに機敏に動けるのに、なんであっさり負けたんだよ……」

 この電光石火の如き展開を実践出来たなら、少なくとも初撃でやられることはなかったに違いない。

「うるさい。俺たちは負けてない。おまえが活躍する場を整えてやっただけだ」

 すっかり元気を取り戻した様子の同胞たちは、そんな負け犬の遠吠えを繰り出しつつ俺の四肢を拘束すると、そのまま頭上へと持ち上げた。

「!? おまっ……」

 止める間もなく、俺の身体が宙に浮く。一メートルほど上がり、重力落下。次の瞬間には、また上へ。どうやら俺は、なんの脈絡もなく、みんなに胴上げをされているらしい。

「我らの、13SSへの勝利を記念して!」

 唐突に、誰かが叫んだ。するとすぐに、みんなが続く。

 結局その後も、その意味不明な儀式は一分ほど続き……遂にはヨロヨロになった俺をみんなで担ぎ上げ、次なるどんちゃん騒ぎの会場へと、連行したのだった。


(すっかり……遅くなってしまった……)

 既に陽が落ち、真っ暗になった夜道を一人歩く。

 あの後、学生御用達の居酒屋へと移動した俺たちは、冷めやらぬテンションそのままに、祝杯をあげた。幸い、本当に13SSの東洋人に変装させられることはなかったが、最後の一手(みんなの間では、そういう認識だ)を決めた俺には、当然ひと足先に帰る権利などなく、そのどんちゃん騒ぎの中心に置かれ……気付くと、こんな時間になっていたのだ。

 それでも、日付が変わる前に解放されたのは、暁光だったのかもしれない。もしこれで、明日が休日なんてことになれば、朝までコースも覚悟しなければならなかっただろう。

(まぁ……明日が学校なのも、それはそれで充分辛いんだけどな)

 俺は酒に強い体質だが、それでも何時間も飲み続ければ、流石に酔いが回ってくる。二日酔いまでにはならずとも、早朝起き上がるのが億劫になるのは間違いない。

(はぁ……帰ろう)

 帰路を急ぐ。頭の中は、既に熱い湯船のことで一杯だ。

(そうだ。近道でもしようかな)

 ふとそんな思いに駆られて、いつもは直進する道を左に逸れる。

 六年ほど前に大流行した感染症のせいで、恐ろしいくらいの数の人が病死して、その結果、都心部であるパリであっても、未だ空き家の数は多い。特にこうして一本脇道に入ってしまえば、人が住んでいる家の方が少ないくらいだ。当然、家から漏れ出る光も皆無と言って良いほど少なくなり、更には街灯も無いせいで、夜間は暗いことこの上ない。

(まぁだからと言って、この帝国に限って治安が悪いなんてことはあり得ないんだけど)

 それでも、脇道が故に道幅が狭いのも相まって、想像以上に歩きにくい。普通の人はまず選ばない道だろう。が――軍事教練を受けている俺にとっては、普段よりも幾分か多くの注意力を傾ける必要がある程度で、それほど困難さは感じない。帰宅時間を早めるには、悪くない選択肢だった…………はずなのだが、予想外。

 地面に意識を這わしていた俺は、前方で奇妙に大きな物体が鎮座していることを知る。

(……これは?)

 眉を顰めて、歩調を緩める。その物体の手前で足を止め、まじまじと足元を見下ろした。

「……何でこんなところに?」

 思わず、そんな言葉が口から漏れる。今まで色々な地面を歩いてきたが、こんな形で行手を阻まれたのは、生まれて初めての経験だった。

「人間……しかも……仮面か?」

 そう。そこに横たわっていたのは、紛れもなく一人の人間。何故か仮面で顔全体を隠しているが、その体つきと服装から、年若い女性であることが窺える。

(いや……年若いかどうかは、単なる偏見だな)

 いくらミニスカートを履いているとは言え、年齢をそこから判断するのは、あまりに失礼と言うものだ。俺は、本人が好むのであれば、ご老体でもミニスカートを履くことを否定しない。

(まぁ否定しないだけで、目は逸らすが)

 だって、夢に出てきそうだもの。

「と……いけない、いけない」

 くだらないことを考えている状況ではない。こんな所で倒れているのだ。只事ではないのは間違いないし、もしかしたら、一刻を争う事態かもしれない。取り敢えず、彼女が仮面を付けているという不自然さには目を瞑り、介抱するべく身を屈める。

(……外傷がある。しかも……結構深い)

 どうやら目の前の彼女は、病気の発作か何かで倒れた訳ではないようだった。

 背中に、大きな切り傷。応急処置はしているようだが、所詮一時凌ぎだ。今もまだ、傷口からは血が滲み続けている。

(どうする?)

 束の間、逡巡する。単なる病気や怪我であれば、救急車を呼ぶなり、この場で介抱すれば良いだけだった。だが、切り傷ともなれば話は別だ。

 切り傷――それも背中だ。傷口を見る限り、鋭利な刃に依るものなのは疑いもなく、人の手を介さない事故でつくとは、到底考えられない。つまりこの傷は、犯罪の痕跡ということになる。そして犯罪には、必ず犯人がいる。では見た通り、彼女は犯罪の被害者なのだろうか?

 いや、あり得ない。何故ならその場合、付近にはEVによって処理された犯人の死体がなければおかしいからだ。だが見渡す限り、彼女以外に倒れている人はいない。

 では逆に、彼女が何らかの犯罪者ならどうだろう? 罪を犯した彼女を、治安維持部隊か帝国軍人が傷つけた。それなら、その武力行為に正当性が生まれ、彼女に怪我を負わせた人間が処理されることはない筈だ。

(……いや、駄目だ)

 その場合、犯罪者であるこの女性がEVの処理対象になる。未だ生きていられる訳がない。

(と……言うことは……)

 目の前に展開している光景は、明らかな矛盾を孕んでいることになる。犯罪の痕跡は残っているのに、EVによる制裁が行われた様子はない。常識では考えられない……いや、あり得てはならない事態だ。一体どんなことになれば、そんな事象が起こり得るのか……

 頭をひねり、あらゆる可能性を思い浮かべる。

 次々と、流れては去っていく可能性の奔流。そんな中、とある一つの単語が、岸壁に引っ掛かった流木のように、頭の片隅で動きを止めた。

(……まさか、レジスタンスか?)

 レジスタンス――それは、都市伝説の一つだ。馬鹿げた噂と言っても、良いかもしれない。

 勝ち目などある訳もないのに……反帝国を掲げて、帝国打倒の地下活動を展開している組織。それだけでも、充分に現実を見ていない話だと思うが、帝国がDC-Aという完璧な監視体制を敷いているという事実が、この噂を一層非現実的なものにしていた。DC-Aに監視されながら、レジスタンス活動など出来るわけもない。

 だから俺も、今までまともに取り合ってはこなかった。話半分にしか、聞いてこなかった。

 だが……目の前の彼女の存在は、そのレジスタンスの実在を示しているようにも思える。少なくとも彼女が、EVによって検知されない何者かによって傷付けられたのは事実なのだから。

 そしてその場合――仮にレジスタンスが実在すると考えた場合、ここに倒れている彼女はどっちなのだろうか? レジスタンスか? それとも、彼らにやられた第三者か?

 仮面という不自然な装飾物を見れば、前者のような気もするが……そうなると、彼女は帝国側の人間にやられたということになる。

(なら、帝国の追手は? 彼女は逃げ切ってここで倒れた? では、彼女の仲間は何をしている? いや……もしやこれは囮? そんな馬鹿な。俺を罠にかけて、彼らに何の利益がある?)

 取り留めのない思考が続く。それらは色々な可能性を俺に告げるが、いずれも決定打に欠け、俺を納得させるには及ばない。そもそも、彼女がレジスタンスであるという前提から、間違っている可能性もある。

「……厄介だな」

 ただ、それだけは確かだった。この奇妙な状況は、間違いなく特異な条件下で発生したものであり、そしてそれはどう考えても、俺にとっては途方もない厄介ごとだった。

「……取り敢えず、学校に連絡するか」

 秒の単位では収まらない程度に悩んで、結局、それ以上の思考を放棄する。

 学校に連絡しても『身柄を引き渡して、はい、さよなら』とはいかないだろうが、少なくとも、国からあらぬ疑いを掛けられたり、あるいはレジスタンスと戦闘になるような事態は避けられるだろう。それに……そもそも俺は、帝国陸軍の士官候補生なのだ。道理の面から言っても、学校に報告する以外の道はあり得ない。

(よし……)

 自分の取るべき行動を定めた俺は、それを実行に移すべく、連絡用端末へと手を伸ばす。だがその指が、連絡用端末を掴むよりも前に――

「うぅ……」

 倒れた女性の口から、苦しげな吐息が漏れた。見ると、仮面の縁から汗が滲んでいる。思いの外身体の状態は良くないらしい。仮面を着けているせいで、呼吸も随分苦しそうだった。

「……」

 手を止めて、三秒ほど考える。結果、連絡用端末へ届きかけていた手を引っ込めて、代わりに、彼女の仮面へとそれを伸ばすことにした。

 別に、他意はない。単純に、苦しそうな彼女を少しでも楽にしてあげたいと思ったから。相手がレジスタンスだったとしても、人としてそれくらいの気遣いなら許されるだろう。

「――ッ!?」

 だが、そんなちょっとした気まぐれのせいで、次の瞬間、俺は息を呑むことになった。

 仮面が外れ、顕になった彼女の素顔。それが、あまりに予想外だったのだ。

「アリス……ブーリエンヌ」

 そこにいたのは、俺の同胞。同じ学舎で学び、将来の士官候補として期待を受けている若き天才。ある意味、この場で最も出てくる筈のない――いや、出てきてはいけない顔だった。

「あり得ない……思想チェックを、どう誤魔化した?」

 特別士官学校の生徒には、定期的にEVの検知よりも更に詳細な思想チェックが行われる。EVでは、単なる悪想念の強さとその継続性を判定されるだけで、その内容までには踏み込まれないが……俺たちの場合は違うのだ。

 カウンセラーと対面し、様々な質問に答えて、その過程で発される思念を常にモニタリングされる。レジスタンス活動なんかをしていて、それを誤魔化せるとは到底思えない。

「ならやっぱり……彼女はレジスタンスではないのか?」

 そう考えるのが自然だろう。結局は俺の勘違いで、レジスタンスなんてそもそも関係ないか、あるいは彼女こそがレジスタンスの被害者だ。この奇妙な仮面だけはどうしようもなく異質だが……別に、そんな趣味の人間がいても、俺がとやかく言う問題ではない。

「そうだ。そうに違いない」

 頷き、そして思い出したように、再び連絡用端末へと手を伸ばそうとした。たとえレジスタンス云々が俺の勘違いであったとしても、学校には一報入れておくべきだからだ。

「……」

 しかし……頭ではそう思っても、身体が動いてくれない。手は仮面を持ったまま、視線は彼女の顔に固定したまま、ただじっと、その場に硬直する。さっきから途切れることなくリフレインされる、とある一つのフレーズが、どうしても脳裏から離れてくれなかったからだ。

 それは、何度も繰り返し口にしたフレーズ。口にする度に頭を捻り、結局、首を傾げたまま夜空を見上げた。そんなことの繰り返しが、このフレーズが俺に与えてきた結果だった。でも今は……果たして、どうなのだろう?

「この国は……何かがおかしい」

 確かめるように、今一度、そのフレーズを口にした。相変わらず、その問いに答える声はない。代わりに聞こえるのは、苦しげな少女の吐息。

 改めて、アリスを見る。

 苦しそうな呼吸を繰り返す彼女は、この問いに対する答えを持っているのだろうか? 

 全てが俺の妄想通りに、彼女が本当にレジスタンスで、その上でDC-Aを眩ましているのだとしたら……彼女は、いったい何を知っているのだろうか?

「……知りたい」

 気付くと、そう呟いていた。ほとんど無意識だ。少なくとも、考えて発した言葉ではない。それでもその言葉には、驚くほどの説得力があった。逡巡する俺を動かし、アリスを抱え上げさせるくらいの力を持っていた。

 だから、最後にもう一度、腕に抱えたアリスの顔を見る。そして、闇夜に沈んだ夜空を見上げた。そこに広がっているのは、星一つない、黒闇こくあんの世界。

 俺は……ようやく、考える。

 この選択は、目の前の黒闇にむざむざ足を踏み入れる行為ではないのだろうか? そんな危険を犯すほど、俺が欲する答えに価値はあるのだろうか? 何より……こんな簡単な損得勘定で自問するほど、俺は愚かだったのだろうか?

「フッ……」

 でもすぐに、自嘲げな笑みが漏れて、夜空から目を離した。あまりにそれらは、意味のない問いかけだと思ったから。だから俺は改めて彼女を抱え直すと、人通りのない道を選んで……

 ひっそりと、帰路へとついた。

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