2043年:同一線上の理想郷(ディストピア) 第一章
「くそ!! なんでこんなことに!」
場所は、何の変哲もない一軒家の台所。一人の男が、見慣れた筈のその場所で、あまりにも変わり果ててしまった現状を前に、頭を掻きむしる。
男の前には、彼の妻。結婚当初は「高嶺の花を捕まえたな」と、仲間たちに賞賛半分やっかみ半分で頭を叩かれた。そんな、自慢だった筈の彼の妻。
いまや、見る影もない。
「くそ……どうすれば良い?」
一時の興奮状態から醒め、冷静になればなるほど、男の精神は追い詰められていく。
彼の中には、血塗れで倒れる妻を気遣う余裕はない。衝動に任せて、妻を手に掛けてしまったことへの後悔もない。あるのは、ただただ恐怖のみ。
逃れられない、自己の運命に対する絶望だけ。
「う……うわぁぁぁぁ」
遂に、男は絶叫した。その叫びは、男のせめてもの悪あがきであり、恐怖に押し潰されないために男が取った、自己防衛本能の顕れだった。
しかし、一向にその効果は現れない。
男は遂に耐えられなくなり、叫びながら転がるように、家の外へと飛び出した。まるで家から出さえすれば、生き永らえるとでも言うかのように。
だが……それは幻想だった。
「――ッ!?」
庭の地面に足が触れた瞬間、それはやって来た。男は二歩三歩とたたらを踏んで、更にはクルリと大きく一回転し……
次の瞬間、派手な音と共に吐血した。血飛沫が庭の草花を赤く染め、男が懇切丁寧に育てていたコスモスは、血液の重みで首を垂れる。
だが……それはまだ序の口。
今度は――目から、鼻から、耳から……終いには身体中の毛穴から、血液がドバドバと噴出し、バシャバシャと滝のように地面に流れていく。あっという間に庭は血の海となり、その上に、全身を真っ赤に色付けた男が、どうと倒れた。
ようやく、家に静寂が訪れる――
(くそ……一体どうなって)
どれくらい時間が経っただろうか? 太陽の移動距離から、そう何時間も経過したようには思えないが、少なくとも半刻は過ぎているだろう。
男は、意識を取り戻した。
と言っても、流れた血は致死量をとうに超えている。当然、彼の生命は既にない。故に目を覚ましたのは、彼の幽体だった。
既に死んでいる以上幽体離脱とは言えないが、イメージはそれと同じ。肉体を離れた彼の幽体はその楔から解放されて、再び活動を始めようとする。
(あぁ……動けない……)
しかし、現実は残酷だ。自分の死を認識し、霊になっていることを自覚しても尚、彼は動くことが出来ない。
肉体の隣で地面に倒れ伏したまま、絶望の淵に追いやられた彼は、唯一許された微振動を繰り返す。
ガタガタ……ガタガタ……
その時、道路の向こうから人が現れた。
人数は三。皆同じ制服に身を包んだ男たち。肩口には、デフォルメされてはいるものの『ISSA』と読み取れる紋章が縫い付けてある。
彼らは、庭の中で蹲る男を視野に収めると、迷いない足取りで男のもとへと向かう。どうやら目的は、彼であるらしい。
ガタガタ……ガタガタ……ガタガタ……
彼らの存在に気付いたのだろう。男の震えが一層大きくなった。しかし、やはり動けない。
ガタガタ……ガタガタ……ガタガタ……ガタガタ……
やがて、目的地に彼らは着いた。そして手を、男に向かって差し向ける。
ガタガタ……ガタガタ……ガタガタ……ガタガタ……ガタ――――
手が男の額に触れた瞬間、突如として体の震えが止まった。更には、男は閉じていた目をカッと見開くと、何かを叫ぶように口をパクパクさせるが、やはり声は出てこない。
代わりに……幽体が消えていく。まるで彼の魂など元々存在していなかったかのように、その幽体は瞬く間に存在感を消失し、塵芥のように消えていく。
そんな男の成れの果てを、満足そうに眺めていた彼らは、男の幽体が完全に消え去ったのを確認すると、来た時のように迷いない足取りで、さっさと庭から出て行ってしまった。
後に残されたのは、一つの抜け殻。
血液を、遂には持ち主さえも永久に失って、ただの肉塊に成り果てた、人間大の粗大ゴミ。
今日の帝都の様子だと……
ゴミ収集車が来るまで、あと、三時間だ。
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