2027年:災厄の中に咲いた花 第八章

「まさか……本当に全員倒してしまうとは……」

 銃声が止んだ埠頭の一画で、佐伯は呆然とした様子で辺りを見渡す。戦っている間は、夢中になっていて何が何だか分からなかったが、いざ戦闘が終わってみると、先ほどまでの劣勢が嘘のような快勝だった。

 こちらの被害は、死者一名に負傷者三名。対する敵は、二十人が全滅だ。

 すべては、春夏冬修という名の一般人の参戦のお陰だ。彼は、目にも止まらぬ速さで戦場を駆け抜け、敵の骨を砕いて無力化させる。更にはその手に持つ剣を縦横無尽に振るっては、味方に向かう銃弾を次々と斬り伏せていくのだ。佐伯自身、恐らく修がいなければ、もう既にこの世にはいなかっただろう。

(なるほど。これなら特佐も頷ける)

 一緒に戦った今なら分かる。彼はこの戦場において、他の追随を許さない無類の強さを誇る。そして、このような戦争が今後も続くのであるならば……

(彼の存在は、日本国の宝だ)

 そう考えるのには、きちんとした理由がある。

 佐伯は、一等陸尉を拝命している。つまり、自衛隊の士官クラスに位置し、相応の軍事機密を知る立場にいた。故に、この戦争の異常さについて、この戦場に立つ前から、多少なりとも知識を持っている。

『ミサイル防衛システムが、正常に稼働しなかった』

 そのことを知る人は、まだ少ない。けれど、それは紛れもない事実であり、日本が、そして韓国や米国が、北朝鮮の核攻撃に対して許容できない大損害を被った主要因の一つだった。

 そしてこれについては、佐伯ですらまだ知る由もないが、米国ではミサイル防衛システムだけにとどまらず、ミサイル発射システムすら、満足に動かなかったのだ。

 原因については、未だ究明中だ。世界最大の軍事大国であるアメリカですら防げないようなサイバー攻撃を受けたのか、それとももっと直接的な破壊工作にあったのか、それとも……もっと何か、別の方法に拠ったのか。

 それは分からないが、ただ一つ言えることは、従来の兵器システムが、全くの無用の長物に成り果てる可能性が出てきたということだ。そうなったら最後、世界の軍事バランスは、一瞬のうちにひっくり返る。

 そして、本当にそうなった時、頼れるのは従来概念に収まらない力――すなわち、修の振るう摩訶不思議な力だった。たとえ通常兵器が役に立たなくなろうとも……

(春夏冬特佐がいれば、戦闘手段を喪失しない)

「自衛隊の方ですか?」

 物思いに耽っていた佐伯は、その声で目の前に意識を戻す。

 彼らを助けた救世主が、まだあどけなさの残る表情で、そこに立っていた。

(それにしても……若い)

 彼の実力の前に、年齢など関係ないと考えた佐伯だったが、彼の顔を真正面から見て、また別の側面からその感想が沸き起こった。

(いくら日本のためとは言え……こんな子供に……)

 アニメ映画の世界では、そのようなこともあろう。中学生に世界の命運を賭けるなんてこと、しばしばある展開だ。

 しかし、いざ現実にそれを自分が……自衛隊として、国民を守らなければならない立場にある自分がするのは、想像以上にツラい。一人の大人として、それは決して許容してはいけないラインなのではないかと……

 そんな考えが脳裏をよぎり、けれど――

「はい。私は、陸上自衛隊第二普通科連隊中隊長の佐伯丞一等陸尉であります。今後は、春夏冬特佐の指揮下に入るよう、指示を受けております」

 佐伯は、一人の大人であることよりも、一人の自衛官であることを選んだ。それで日本国民を守ることが出来るなら、悪鬼になるのも厭わない。

 そのような密やかな決意の裏で、驚いたのは修だ。

「春夏冬……特佐? それに、指揮下に入るって……」

「は。先程、作戦司令部から命が下りました。春夏冬特佐の麾下に入り、小木港から北上してくる敵を迎え撃つようにと」

「……小木港から?」

 スッと、修の目が細まる。直前まで浮かべていた困惑気味の表情は瞬時に消え失せ、まるで別人のような鋭い視線。思わず、佐伯の身体が震える。

(違う……この少年は、昨日今日出来上がったなんていうレベルじゃない)

 一体どれだけの死地を乗り越えれば、この若さでそんな表情が出来るのか……

 その異様さは、一般人には分からないのかもしれないが、曲がりなりにも軍人として訓練を積んできた佐伯には、身を切るような鋭さを持って伝わってきた。

 佐伯は、ますます身を引き締めて答える。

「はい。どうやら小木港に展開していた私の部隊が襲撃にあったようで。こちらの状態を省みるに、恐らく彼らの内部でも、反乱があったと思われます」

「反乱……死霊か……」

 倒れた死体を眺めながら、修がそう呟く。佐伯はその呟きを聞き取り、そして聞き慣れぬ単語に内心で首を傾げたが、口を挟んだりはしなかった。ただ、自分では知り得ない情報をこの上官は持っているという事実のみ、自分の胸に刻む。

「なら、早く行きましょう。もうすぐ、船も到着するのでしょう?」

「はい。もう恐らくすぐそこに……あれです」

 佐伯は海の方を指差す。見ると、二隻の大型船が近づいてくるのが見えた。

 修はその様子を視界に収めると、頷く。

「分かりました。急ぎましょう。案内して下さい」

「かしこまりました」

 一向は、移動を始める。目指すは、自衛隊の移動用車両――パジェロだ。


「あ、ちょっと寄り道をさせて下さい」

 車で移動を始めて幾分も経たないうちに、修は佐伯にそうお願いした。

「はい」

 佐伯は、修の要望に従って指示を出す。二人が乗った指揮官車だけが、隊列を離れた。

「そこで止めてください」

 指示通りに、車が止まった。そこでは、島民たちが大量に集まっている。

「咲希!」

 修が、車の中から声をかける。咲希はすぐにその声に気がつき、駆け寄ってきた。

「修! 無事で良かった……港は大丈夫だったの?」

「あぁ。もう港は安全だよ。自衛隊の人が誘導してくれると思うから、島民のみんなと港に行って、船で避難を始めてくれ」

「分かった……けど……修はどうするの?」

 咲希は、気遣わしげな視線で、修と共に車に乗っている自衛官を見る。運転手が、気まずそうに身体を僅かに揺すった。

「こちらに向かってる敵がいるらしい。自衛隊と一緒に、迎撃してくる」

「迎撃って……そんなの、自衛隊の人に任せれば――」

『特佐』

 その時、無線のスピーカーから声が聞こえて、咲希は口を閉じた。

『ただいま、第一、第二小隊が所定の地点に到達しました。敵の姿は、まだ視認できません』

 それは、自衛隊の部隊間連絡だった。

 咲希は、その通信が修の隣にいる自衛官に向けてのものだと理解し、しかしそこは、礼儀正しい日本人らしく、通信が終わるまで話を再開することを遠慮する。

「分かりました。我々もすぐに向かいますので、前線を維持して下さい」

 しかし、その予想は裏切られる。自衛隊の現状報告に返事をしたのは、どうしてか、彼女の幼馴染だった。

「特佐、急ぎましょう」

「えぇ」

 そして、それが幻聴でなかったことを裏付けるように、修の隣に座った軍人(見るからに偉そうな階級章を付けている)が、修のことを特佐と呼んで、その指示を仰いだ。

 修は頷いて、改めて咲希に語りかける。

「じゃあ咲希、分かったな? みんなと港に。避難を進めてくれ」

 そして、すぐに車は走り出した。走り去る車の後ろを、咲希は呆然と見送る。

「九条。今、春夏冬がいたか?」

 その時、島民の誘導に奔走していた隆が、仕事を終えて戻ってきた。

 咲希は、曖昧に頷く。

「ねぇ……加山くんは、特佐って知ってる?」

「なんだ? 藪から棒に」

 突然の質問に目を白黒させながら、それでも隆は律儀に答えてくれる。

「特別任務に従事する佐官以上の軍人につける階級だな。国とか時代とか状況にもよるけど、場合によっては大佐以上の権限を持ったりもするみたいだから、かなり偉い方だ。ちなみに大佐ってのは、戦艦の艦長クラスな」

「……そう」

 静かに、咲希は答える。そして、もう既に見えなくなってしまった車の影を、目で追う。

(修……どうか、無事に帰ってきて)

 遠く離れた場所に行ってしまった修の無事を、咲希は願う。

 クラスメイトの生命を守ってきた彼女の幼馴染は、いつの間にか、ここにいる島民数千人の……いや、日本国民一億二千万人の生命を、その双肩に担っていた。


「来ましたね」

 車両を並べ、即興のバリケードを構築した修たち自衛隊は、道の向こう側から近づいてくるトラックの一団を視認した。

「ラインより内側に入りましたら、一斉射撃に移ります」

 佐伯の言葉に、修は頷く。

 特佐に任じられたとは言え、そもそも軍事学を学んですらいない修に、彼らを自分の意思で振り回すつもりはない。自分の出る幕があるまでは、余計な口を挟むつもりはなかった。

「う……止まりましたね」

 だが、それでも思うようには進まない。敵は、こちらの射程距離に入る前に、トラックを止めてしまった。

「死霊と言えど、最低限の知能はあるわけですか」 

 ここに布陣するまでの間に、佐伯は修から死霊についての最低限の知識を仕入れていた。話を聞く限り、人間に無理やり悪霊を憑依させているような状態らしく、それなら宿主とはまったく別の思考形態になるのかと思ったが……どうやらそういう訳でもないらしい。その程度は不明だが、宿主の知識も引き出せるようだ。

(まぁ……考えたら当然か)

 先程戦った死霊は総じて、自衛隊の標準装備である89式5.56mm小銃を難なく使いこなしていた。宿主の知識がなければ、流石にそうはいかないだろう。

「厄介ですね」

 佐伯の右隣に立っている自衛官が、眉を顰めて唸る。

 こうなると、不用意に近づいてくる敵を蜂の巣にするという戦法が使えない。となると、純粋な撃ち合いになってしまう。

 擲弾銃なんかがあれば、戦局を一気に変えることが出来るのだろうが、敵との本格的な戦闘を想定しておらず、とにかく早急の展開を求められていた彼ら第二普通科中隊には、自動小銃以外の装備は与えられていなかったのだ。

「あまり、時間はかけたくないな」

 けれど、悠長にここで睨めっこをしている時間はない。輸送艦に搭乗中の民間人が狙われないよう、早く港に戻らなければならないし、何より、時間が経てば経つほど、北部に展開しているはずの北朝鮮軍が迫ってくるのだ。

 足止めのため、相川町と両津町に派遣されていた空挺部隊が全滅したという報せは、つい一時間ほど前に入っている。

「俺が出ます」

 その時だ。先の見通しの暗さに重くなった空気を、修のその一声が破った。

 それは紛れもなく救いの声で、佐伯は思わず「お願いします」と口にしそうになるが、すぐにそんな自分自身を心の中でぶん殴り、

「……申し訳ありません」と、頭を下げた。

「子供の君にそんな危ない役をさせられない」と言えない自分のことは、全て終わってから吊るし首にでもかければ良い。

「気にしないでください。俺は、あなた方の上官ですから」

 しかし修は、佐伯だけでなく、一様に顔を伏せる大人たちに向かって悪戯っぽくそう言い放つと、地面を蹴って、空中に飛び上がる。今更別に驚かないが、それだけで修はバリケードにしていた車両を飛び越えて、向こう側に着地した。

「総員、突撃準備」

 佐伯の号令で、ここにいる二十名の自衛官が、すぐにバリケードを乗り越えられる位置に移動する。

「では……行ってきます」

 それが、始まりの合図だ。

 オリンピック選手顔負けの速度で修は疾駆し、みるみるうちに敵の一団に迫っていく。敵の銃口が、一斉に修に向かって集中した。

「総員、突撃!!」

 その瞬間を見計らい、佐伯があらん限りの声でそう叫ぶと、自衛官全員が叫声一下、バリケードを超えて突撃を始める。

 その大音量に驚いたのか、それともたまたまタイミングが一緒だったのか、直後に敵の銃口が一斉に火を吹いた。発された銃弾は、一つ残らず修に向かって集中するが、大半は狙い定まらず。なんとか修に届いたいくつかの銃弾も、すべて修の剣によって地面に叩き落とされる。

 第二射の狙いを定めている余裕はない。

 いきなりの突撃に混乱し、組織的攻撃の機会を逸した敵軍の攻撃は散発的なものに止まり、当然、修を止めるには至らない。

 そうこうしているうちに、遂には修が敵の第一陣に取り付き、更に敵にとって悪いことに、いつの間にか自衛官たちも、彼らの射程距離に侵入を果たしていた。

 轟く銃声が二倍になる。

 しかし、倒れる比率は圧倒的だ。というより、もはや一方的だった。

 修の突撃を許した敵陣は一気に崩れ、その崩れた隙に自衛隊が銃弾の雨を降らす。自衛隊の銃撃を防ごうと彼らが銃を構えると、それをめざとく発見した修が、すかさずその銃身を一刀両断した。

 敵の数はみるみるうちに減少し、蓋を開けてみれば、困難が予想されたこの迎撃戦に要した時間は、たったの十分少々だった。

 損害はゼロ。非の打ち所がない完勝。けれど……

「長内(おさない)……」

 戦闘が終わり、死体の山に近付いてきた佐伯が、虚な目で呟く。

「小宮山(こみやま)……城之内(じょうのうち)……丸金(まるかね)も……」

 佐伯は、かつての部下で、今は死体となって横たわっている彼らの名前を、一人ずつ呼ぶ。

 そう。完勝などではないのだ。この戦闘は、紛うことなき同士討ちなのだから。

「酷い戦争だ……」

 佐伯も、そして他の誰もが、仲間を殺すために自衛官になったのではない。仲間を撃つために、訓練を積んできたのではない。

 しかしこの戦場では、それが求められていた。そして何より恐ろしいことに、いつ何時、自分も撃たれる側に回るか分からないのだ。

 先程から考える暇もない展開が続いていたが、当面の敵を撃退した今、その恐怖が改めて彼らに押し寄せる。仲間の死顔を前に、思わず膝が折れそうになる。

「行きましょう。みんなが、待っています」

 しかし――

 彼らの若い上官は、そんな甘えを許さなかった。目の前に広がる三十名近い死体を前にして、彼の顔に恐怖はない。その二つの瞳はただ、自分のやるべきことのみを見据えている。

(クソ……しっかりしろ)

 佐伯は自分に喝を入れた。そして恐らく、彼の部下の誰も彼もが。

 彼らの恐怖は後退し、部隊崩壊の危険は去った。

 恐怖は、悪霊を引き寄せる。それすなわち、この戦場では死霊化に向けての片道特急券だ。

 彼らは転進した。港の沿岸では、今まさに輸送艦二隻が接岸し、島民の避難を始めようとしている。


 港に戻ると、自衛官と一緒になって、島民の避難誘導をしているみんなの姿があった。いや、よく見ると、島民の中にも、誘導側に立っている人たちが何人もいる。その中には、JA営農センターから一緒に逃げた人も混じっていた。

「ふぅ……」

 彼らが無事生き残っていたことに心から安堵しつつ、修は自分のやるべきことを頭の中に描く。

 なにしろ、この港にはまだ二千名近くの島民が残っているのだ。敵の追手が迫っている中で、彼らを混乱なく迅速に乗艦させなければならない。

「俺も、みんなに合流します」

 車から降り立つなり、修は佐伯にそう伝えてみんなの所へ走る。近付いてきた修に、まず咲希が気付いて駆け寄って……周りにいた他のみんなも、すぐにその輪に加わった。

 佐伯は、ようやく中学生らしいところを見せてくれた上官の姿に心を温かくしつつ、しかしその目を海の方へと注ぐ。

「やはり……護衛艦が見当たらない」

 そのことには、車で走っている時から気が付いていた。勿論、護衛艦がいらないくらい、この辺りの制海権を確保しているなら問題ないのだが……

 果たしてどうなのだろうか?

「おい、お前らは誘導に回れ。俺は、輸送艦の指揮官と話してくる」

 佐伯は部下にそう命ずると、一人、輸送艦の中へと入っていった。


「良かった……」

 元気な修の姿を見て、咲希は言葉を発するや否や、その場に崩れ落ちそうになった。いや、咄嗟に修が支えなければ、きっとそうなっていただろう。

「大丈夫か? もしかして、体調が悪いのか?」

 思わず、修は心配そうにそう尋ねるが、咲希はふるふると首を横に振った。事実、彼女がそうなった理由は、気が抜けたからだ。

 姜との一件で心眼が開いた彼女は、手掛かりさえあれば、遠くの出来事でも朧げながら感じ取れるようになっていた。だから咲希の心は、みんなの誘導をしつつも、修のそばにあったのだ。故に、その酷い戦場を微かながらも体験している。

 修が身を置いていたあの戦場は、紛れもなく死地だった。

 だから、生きて戻ってくる彼のことを感じながらも、その元気な姿を見るまで、安心など出来なかったのだ。

「元気そうだな」

 そして、咲希ほどではなくとも、修のことを心配していたのはみんなも同様だ。隆がまず現れて、その後ろには和樹、次いで美穂が続いた。仲間の生還を知り、皆の顔は一様に明るい。

「みんなも、無事で良かった」

 修は微笑み、隆に聞く。

「みんなの避難は、問題なくいきそうか?」

「あぁ、安心しろ」

 自信を持って、隆は頷く。

「あの二隻の輸送艦、収容人数はそれぞれ千くらいあるらしい。んで、今ここにいる島民は千六百そこそこ。全員乗れるって分かったから、みんな大人しく誘導に従ってるよ。もう多分、八割がたは乗ったんじゃないかな?」

「そうか……」

 修が、ホッと安心して胸を撫で下ろす。ちょうどその時、一隻目の桟橋が上がり、ゆっくりと沖に向かって航行を開始した。どうやら、この戦場の難所は越えたらしい。

「じゃあ、そろそろ俺たちも船に向かおうよ。あんまりモタモタして、置いてかれるのも嫌だし」

 その様子を見送って、和樹がそう提案した。

 確かに、もうこれ以上誘導の必要はないだろう。逆にこれ以上は、船の出航を遅らせることになりかねない。

「そうだな……じゃあ、そろそろ行こうか」

 修は、自分で立てるようになるまで回復した咲希から手を離しつつ、みんなに向き合い、

「みんな、本当にお疲れ様。あとは、船の中でしっかり休んで――」

 と、労いの言葉で締めようとする。ここまで、彼らは島をほぼ縦断し、更にそれから休みなく誘導員として働いていたのだ。もういい加減、子供らしく休んでも良いはずだ。

 しかし――

 この戦場は、残酷なまでに凄惨だ。

 突如として、辺り一面に響き渡った聞き慣れない大音量が、その無情なまでの現実を、完膚なきまでに彼らの耳朶に叩きつけた。

「な……なんだ?」

 空を見上げた和樹が、唖然とした声を出す。

 聞こえてきた高周波音は、空気の乱流とエンジンの噴射によって引き起こされたものだったが、初めてその音に接する彼らが、そんなことを知る由もない。だからただ、飛行機雲が夕空を駆け、その終点を航行中の輸送艦に繋げる様を、訳もわからず見守ることしかできなかった。

 轟音。そして、火炎の乱舞。

 海が赤く染まるほどの炎が燃え上がり、輸送艦の甲板を瞬く間に駆け抜けた。

「そん……な……」

 目の前で起こった事態が信じられない。千名近くの島民を乗せた船が爆発し、刻々と炎に包まれていく。

『ガガ……』

 その時だ。修が渡されていた無線から、佐伯の声が聞こえてきた。

『特佐、聞こえますか? 今すぐ、まだ陸にいる人間を集めて乗艦させてください。もう、船を出します』

「佐伯さん! 一体何が――」

『地対艦ミサイルです。早く出ないと、手遅れになります』

 思わず、その場に凍りつく。けれど、まだ終わらない。

「おい……あれ見ろ」

 隆に服を引っ張られて、修は気がつく。

 道の向こうからやってくる戦車群の一団と、その周りに展開している多数の歩兵の存在に。

「走れ……」

 いくら修でも、もう他に出来ることはない。

「走れ!!」

 弾かれるように、全員同時に走り始める。

 幸い、彼らは船からそれほど離れた位置にはいない。全力で走れば、足の遅い女子でも、多分三分と掛からない。

 修は、みんなが逃げていく後ろ姿を見送ると、まだ僅かに陸に残っていた島民たちに叫んで回った。と言っても、ほとんどの人はもう気が付いている。修が言うまでもなく、我先にと船に向かって走り始めた。

 修は彼らの一番後方で、一人残らず逃げ始めたことを確認する。

「――ッ!?」

 だがその時、再び音が聞こえた。先程よりも低い重低音は、分かりやすい爆発音。それが続けざまに三度響き――

 視線の先で、地面が爆発した。

「咲希!!」

 気づいた時には、走り出していた。咲希がどこにいるのか、それを詳しく把握していた訳ではなかったが、戦車から放たれた砲弾が爆発したのは、咲希たちが逃げていった方向だ。たとえ直撃は受けずとも、その爆風に巻き込まれている可能性は充分ある。

 近づくと、辺りは惨状だった。みんな散らばって走っていたからか、死体の数自体はさほど多くない。しかし、五体満足の死体は一つとしてなく、そこら中に血と肉片が散乱している。その中で、まだ息のある数人が蠢き、そんな彼らを助けようと何人もの人が彼らに手を伸ばしていた。

 そして修は、その中に知人の顔を見る。

 泣き崩れている女性と、その隣で誰かを抱え上げようとしている男性。修の顔から、一気に血の気が失せた。

「咲希!?」

 その誰かとは、咲希だった。咲希の隣で蹲った美穂が泣きじゃくり、意識のない咲希を、隆が背負おうとしている。

 隆は、修の声で顔を上げた。

「修……すまん」

 顔を歪め、隆が頭を下げる。

「咄嗟のことで……守れなかった」

「私がいけないの」

 美穂が、顔をぐちゃぐちゃにして言う。

「私がのろまだから……咲希ちゃんが『逃げて』って言っても動けなかったから。だから咲希ちゃんが、私の上に覆い被さって……」

 修は、無言で咲希に近づく。見たところ、目立った外傷はない。

「多分、爆風で何かが飛んできて、それが咲希に当たったんだ。脳震盪だと思うけど、詳しくは分かんねぇ」

 隆の言葉を聞きながら、修は咲希の脈を取る。

「…………」

 指の震えのせいで、上手く脈を測れない。もう脈が止まっているのではと一瞬考えて、しかしすぐに首を振り、必死に指の震えを鎮めて、脈を探った。

「…………はぁ」

 そして、安堵のため息。親指の下に、確かに心臓の拍動を感じ取って、修はゆっくりと手を離した。

「大丈夫だ。分かる範囲では、脈も弱くなってる感じはしない」

 緊張と不安がないまぜになったような顔をしていた面々は、その一言で、修と同じように息を吐いた。

 最悪の事態を避けられた。無事とは決して言えずとも、命に別条がないならば、充分不幸中の幸いだ。

「とにかく、急いで咲希を船の中に――」

 そこで再び、耳をつんざく轟音が声を遮る。思わず首をすくめるが、今度は地面が爆発することなく、空中でいくつもの火柱が上がった。

「特佐!」

 火柱が消えるより先に、背後からそう呼び掛けられる。

 振り返ると、佐伯たち第二普通科中隊の自衛官が、こちらに走り寄ってきていた。

「ご無事でしたか。早く、船の中へ。今は、輸送艦のファランクス[20mm機関砲]で敵の戦車砲を迎撃しましたが、そう何度も上手くいきません。何より、次にまた地対艦ミサイルを撃たれ始めたら、それで終わりです」 

「隊長、あれを」

 その時、自衛官の一人が前方を指差した。すると、一台の大型車両が、森の向こうからその姿を現すところだった。

「ご丁寧に姿を見せたか……完全に、舐められているな」

 苦々しげに、佐伯は呟く。その様子と、車両の上に取り付けられた物々しいミサイル発射装置を見て、修はあれが何なのか理解した。

「あれが……地対艦ミサイルですか」

「はい」

 佐伯が頷く。

「だから、早く逃げてください。何発かは防げても、ファランクスでは限界がある。もう、余裕はないんです」

 言葉通り、佐伯の言葉の端々に焦りが含まれている。事の緊急性を悟って、隆が咲希をおぶって立ち上がった。

「修、早く行こう」

 だが、修は動かない。

 輸送艦に目を向け、再び、敵の一団を見る。

「佐伯さんたちは……」

 そして、言う。

「あの一団を、足止めするつもりですか?」

 その言葉に、隆は耳を疑った。どう考えても、そんなことは不可能にしか思えなかったからだ。

「……えぇ」

 しかし、その不可能を、佐伯は肯定した。

「少しでも、敵の注意を逸らさなければ。幸い、手榴弾は大量に持っています。あわよくば、敵の地対艦ミサイルを粗大ゴミにしてやりますよ」

 ニヤリと笑って答えるその顔に、悲壮感はない。けれど、それは誰がどう聞いても、もはや自殺にしか聞こえなかった。

 この自衛官たちは、死を覚悟している――それが、隆の率直な感想だ。そして――

「そうでもしないと……船を守りきれないんですね」

 修にも、当然それが分かっていて、彼らの決意の訳を問う。

 その問いに、佐伯は思わず言葉を詰まらせた。何故なら、自分たちの死をもってしても、本当に船を守り切れるか、その確信が持てなかったからだ。

 故に佐伯は答えあぐね、そのせいで生じた一瞬の沈黙は、修から次の言葉を引き出させた。

「分かりました。俺も行きます」

 佐伯は、驚愕した。

「馬鹿な! あなたまで死ぬことはない!!」 

 その発言は、あまりに不適切だ。作戦従事者の死を予見する物言いを、その作戦のリーダーが本来するべきではない。

 それでも、佐伯はそれを言うことを止められなかった。自分たちと共に来るとはどういうことか、それをはっきりと明示しなければならないと思った。

 けれど――

「でも、俺が一緒に行けば、無駄死にはならないでしょう?」

 修は、すべてを承知していた。

 この作戦は決死の意味合いを持ちながら、しかし彼らが生命を賭けても尚、その成功率は極めて低いという事実を。それでも、修が参加さえすれば、その低い成功率を劇的に高められる可能性があることを。

 だから、修は迷わない。誰か――いや、愛する人を守るためなら、自己を犠牲にすることを厭わない。それは、彼がこの数年間、ずっと続けてきたことだったからだ。

 けれど、何も知らない佐伯は、その尋常ならざる覚悟を前に、完全に言葉を失う。

 自分たちは良い。自衛官として、とっくに覚悟は出来ている。本土に残した彼らの家族を、そして彼らを育んでくれた人を、社会を守るためなら、命を賭ける覚悟はできている。でも彼は――

(特佐……か……)

 しかし事ここに及んで、佐伯は理解した。桐生とかいう名前の男が、何故修をそんな高い階級につけたのか。

 あの男には、分かっていたのだ。彼の覚悟が、とうに軍人のそれに達し、あるいは上回っていることを。そしてそれを知りつつ彼を佐伯たちの上に据えたのは、いざという時に、佐伯たちに命令を下せる立場にするためだったのだ。

 死地に赴こうとするのが、中学生ではなく上官ならば……佐伯たちはそれを受け入れる他にない。

「修……本気なのか?」

 黙った佐伯に代わって、今度口を開いたのは、隆だった。

 隆は我慢ならない。そして、許すわけにはいかない。自分の背におぶった少女を見遣りつつ、隆はそのことを確信し、強い口調で問い詰める。

「おまえが行って……九条はどうなる?」

 この少女は、修のことを愛している。修と再び、同じ地平に立てたことを心の底から喜んでいる。

(そんな彼女を置いて、お前は尚も自己犠牲に生きるのか!)

 隆が叫びたかったのは、それだった。

 自己犠牲に生きるなと、隆はそうアドバイスをした。そんなものは無償の愛ではないと、そう言い放った。それなのに、修は決死の戦場に赴くと言う。

 だから隆は、引く気はない。

「たとえ敵の砲撃で船が沈んでも、九条の手を握りながら、一緒に死ぬことくらいは出来るだろう?」

 隆は本気だった。もはや自分の損得などは、考えの埒外だった。とにかく、この自分を粗末にすることを厭わない馬鹿者に、自分のために生きて欲しかった。一人虚しく戦場で体をズタボロにされるより、愛する女性と寄り添って死んで欲しかった。

 何故なら、その方が余程幸せなはずだからだ。人間らしい死に方だと思うからだ。

 軍人でもない、大人ですらない。偶然に力を手にしたに過ぎない少年が選ぶべきなのは、そんな生き方に違いないと思うからだ。

 修に、誰かを守って死ぬ義務なんて、あるはずがない。

「……悪いな」

 それなのに……

 修は首を縦には振らなかった。

 隆の言うことが、理解出来なかった訳ではない。隆が言うような死に方を、選びたくなかった訳ではない。いや、むしろ、選びたかった。

 咲希の手を握り、共に死ぬことが出来たらどれだけ幸せだろうかと、思わずそう夢想せずにはいられない。

 共に生きることが出来ぬなら、せめて共に死に行きたい。そんな悲壮なまでの我儘を心に抱かぬほど、彼の心は人間から離れてはいない。

 けれど……

「それでも俺は……愛する人を守りたいんだ」

 そう。それがすべて。

 結局、修は、咲希のことを愛しているのだ。自分のことがどうなろうと、愛する人に幸せになって欲しいと、そう心の底から願うくらいに、咲希のことを愛しているのだ。

 ならば、答えは決まっている。

 自己犠牲なんて、関係ない。ただ修は……生きるのだ。

「俺は、咲希には幸せになって欲しい。たとえ、その幸せの中に俺がいなくても、それでも俺は、彼女の幸せを心から願う。何故ならそれが、俺自身の幸せだから」

 理屈ではないのだ。道理ではないのだ。合理性など、糞食らえだ。

 不条理でも、不合理でも、それでも修は祈る。愛する人の幸せを。愛する人の未来を。

 例えこの目で見ることは叶わずとも、その先で浮かべるだろう彼女の笑顔を想像するだけで、もう充分に、自分は幸福なのだから。

「だから――」

 だから、修は口にする。一生に、一度限りのお願いを。その笑顔に曇りはなく、その言葉に含みはなく、その想いに偽りはなく。ただ素直な、彼の心からのお願いを。

「咲希のことを、頼む」

 それは、あまりに透明で、優しくて、純粋で。

 一体どうすれば、そのお願いを聞いて、首を横に振ることが出来るだろうか。

「それが……お前の願いなんだな?」

 隆には、到底無理だ。彼の覚悟を前にして、自分の正義を振り翳すなんてこと、出来るはずもない。そんな隆に出来ることはせめて、彼の覚悟を受け取った人間として、それに命を賭けることを約束することだけだ。

「分かった。命に代えても、九条を守る」

 隆は誓った。馬鹿な友人との約束に、自分の命を捧げることを。

「わ……私も」

 そして、そんな馬鹿な約束をするのは、彼だけではない。 

「私、強くなって、絶対咲希ちゃんのこと守るから」

 美穂はまだ泣いている。それでも、その瞳の奥には決意があった。

(もう二度と、咲希ちゃんには守られない。春夏冬君の代わりに、今度は私が守るんだ)

 覚悟を固める二人。その横で、和樹は頭を下げる。

「修。今までのこと、ごめん」

 それは、和樹の初めての謝罪だった。今まで、なんだかんだで有耶無耶にしていたが、もうこれ以上は誤魔化せない。

「俺は、隆みたいに強くない。性格だって、美穂みたいに綺麗じゃない」

 だから、大事に抱えていたプライドをかなぐり捨てて、生まれて初めて、心からの約束をする。

「でも、絶対に罪滅ぼしはするから。助けて貰った恩は返すから。何が出来るか分からないけど、でも――」

 和樹は言葉に詰まる。何が言いたいのか分からなくなって、吃音症のように吃ってしまう。

 だが、そんなことは関係ない。その想いは確かに実体化し、修の心に届いている。

「ありがとう」

 三人の想いを受け取って、修は安心したように顔を綻ばせた。もう心配することは何もないと、そう確信して笑みを浮かべた。そして――

 咲希の顔を見る。意識を失ってはいるものの、安らかな寝顔に見えるその表情は、彼が大好きだった顔の一つだった。

「さよなら、咲希」

 最後に、修は手を伸ばした。それはきっと、彼の感情の発露だったのだろう。最後にもう一度、彼女の手を握りたいと願った、そんな修の心の顕れだったのだろう。でも……

 修は、彼女の手に触れる前に、静かにその手を引っ込めた。

 もう、彼女の人生に自分はいない。彼女の手の温もりには、もっと他に、相応しい行き場所があるだろう。

 だから修は、その手で隆の腹に拳を入れる。

「任せた」

「任された」

 その瞬間、上空で火花が舞った。遂に、敵の地対艦ミサイルが火を吹き、すんでのところでファランクスが迎撃したのだ。

「行ってくる」

 その爆音が収まらないうちに、修はもう身を翻している。

 一直線に、敵の彼方へ。彼と同じく決死の覚悟を固めた自衛官たちを、その背に引き連れて。その姿に、迷うそぶりは一切ない。

 隆とて、もう一瞬たりとも迷いはしなかった。

 修たちとは、真逆の方向へ。二度と振り返ることなく、一心不乱に。他の二人を引き連れて、その背に、友人が愛した人をおぶって。今にも出航しようとしている船の中へと。

 背後で湧き上がる悲鳴と銃声、腹の底を震わすような爆発音を聞きながら。

 それでも着実に、その音は遠く離れ、そして小さくなっていった。


 修は、剣を取り出した。

 目の前にあるのは、戦車四台、地対艦ミサイル一台、歩兵が約……二百人。

 さらに後方にはその数倍の兵力が控え、一秒ごとに距離を詰めていることを感じ取っていた。

 もう流石に、出し惜しみする意味も余裕もないだろう。

 修は、剣を正しく構える。恐らく十秒後には、この刀身は血で真っ赤に染まることになる。

 その選択に、後悔はない。この道を選んだ段階で、それは分かりきっていたことだ。

(でも……)

 チラリと、西の空を見る。

 山の端に、太陽が沈もうとしている。恐らく、完全に沈み切るまで、あと十分もかからないだろう。

 修は思う。

(あぁ……願わくは、太陽が西の空に沈むまでは、人として生きたかった)

 だがそれは、叶わぬ願いだ。神から授かった力を血で染めて、今から修は、修羅となる。

(その白い手を握って「咲希と一緒に生きたかった」と、一言で良いから言いたかった)

 それもまた、もう叶わぬ願い。愛する人を守るため、自らの意思でその選択肢を捨て去った。

(だから――)

 修は、あらゆるものを断ち切るように、更に一段速度を上げた。

 背後からは、佐伯たち自衛隊が追っていたが、大きく距離が開いている。

(それで良い)

 距離が離れれば離れるほど、修に敵の攻撃は集中し、結果として、更に多くの敵を掃討出来る。そうすれば、後ろから来た彼ら自衛隊は、より敵陣の深くまで進めるだろう。国民を守るため、その力を振るえるだろう。


「――咲希!!」


 修が敵にぶつかる直前、彼が何を言おうとしたのか、それは誰にも分からない。ただ、彼の愛する人の名前が辺りに木霊し、同時に、敵軍のライフルが一斉に火を吹いて――

 最初の血飛沫が上がったのは、その数秒後のことだった。


     ***


「……あれ?」

「気が付いたか!?」

 咲希が目を覚ますと、心配そうな顔で隆と美穂、和樹までもが、咲希を覗き込んでいた。

 咲希は、やや痛む頭に顔を顰めながら、半身を起こす。

「ここ……は?」

 周囲を見渡すと、一面の海。前方を見ると、随分と小さい島が一つ見えた。どうやらここは、輸送艦の中のようだ。

「そうか……私、意識を失って」

 輸送艦に逃げる途中、敵の砲撃から美穂を守ろうと、咄嗟に彼女に覆い被さったことを思い出す。

「そうだ。美穂、大丈夫だった?」

 見たところ、怪我をしてはいないようだったが、念のため、そう確認する。

 美穂は、寂しげな顔で微笑んだ。

「うん、咲希ちゃんのお陰で。ありがとう」

 でもすぐにその笑みは歪み、その瞳からは涙が溢れた。慌てた様子で、美穂が顔を背ける。

「?」

 けれど、今はもう日暮れだ。太陽は既に西の空に沈み、視界は決して良くない。そのせいで、咲希には、美穂の涙が見えなかった。

 だから咲希は、美穂のその不可解な態度に首を傾げつつ、けれど、どうやら怪我は無さそうだと安心して、それからようやく、視界を巡らした。

「あれ? 修は?」

 すぐに、異変に気がつく。

 どこを見ても、修の姿だけは確認できなかったのだ。

(船の中にでも、入っているのかな?)

「九条……春夏冬はな――」

 そんな咲希を見て、隆が真実を伝えようと口を開いた。だがそれ以上を口にする前に、何者かが彼らの前に現れる。

「春夏冬修は……いないのか?」

 その人物は、年若い一人の青年だった。だが、彼の着用している軍服と、その袖口に縫い付けられた二本線と三ッ星の輝きが、彼がどのような立場の人間かを雄弁に物語っている。

 その人物は、座っている隆たち一人一人を注視すると、次の瞬間、すぐ隣の中空へと視線を向けて、数秒ほど静止する。そして――

「そうか……愛が失われたこの時代で、愛に生きることを選んだか……」

 ただ一言、そう呟いた。そして、ゆっくりと夜空を見上げると、

「あまりに空しい……そうは思わないか?」

 誰ともなしに、そう語りかける。当然、答える声はどこからも聞こえない。

「和人君!!」

 けれど、答える声の代わりに、呼びかける声があった。軍服を着た、これまた一人の少女が、和人と呼ばれた軍人の背後にある扉から現れたのだ。

 その軍人は、振り返って答える。

「あぁ……今行く」

 それから視線を一瞬泳がせて、中空と二秒ほど見つめ合うと――

「九条咲希、生きろ。それがあの男の、たった一つの、心からの願いだ」

 それがその軍人の、最後の言葉。

 そんな言葉をこの場に残して、躊躇なく身を翻す。もう振り返ることも立ち止まることもなく、彼を呼びに来た少女を引き連れて、甲板から出て行ってしまった。

「……加山君、教えて?」

 その姿を見送って、咲希が静かに尋ねる。

 既に、すべてを悟っているのか……

 瞳に涙を溜めながら、それでも決して、声を荒立てることなく、真っ直ぐに隆を見つめ、そして美穂に、和樹に、視線を送った。

「…………春夏冬はな」

 だから隆は、語り始める。修から受け取った願いと、その決意を。

 彼が愛した一人の女性に。

(たとえこの先、どれだけ闇が深くなろうとも)

 水平線に再び太陽が昇るまで、彼の遺志を語り続けようと……


 そう密かに、心に決めて。

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