2027年:災厄の中に咲いた花 第七章

「本当に、殺さないのか」

 昏倒し、床に倒れた姜を一瞥しながら、隆は修に確認する。

「あぁ……殺しても、地獄の亡者にでもなってまた誰かを苦しめるだけだ。それなら、生きて改心する機会に賭けた方が良い」

「ハッ、無駄だと思うがな」

 隆が鼻で笑い、修も無理に庇わない。

「その時は、その時だよ。そこまで、面倒を見てやるつもりはない」

 そう、修も淡白に言いのけてから、振り返ってツカツカと扉に近付いた。そして――

「静かに」

 と、小声で囁き、みんなを自分の後ろに退がらせた上で、扉を勢いよく開く。

「!?」

 息の飲む音。扉の向こうに立っていた男たちが五人、体を震わして後ろに退がった。厳つい銃器をその手に持ちながら、その表情には一様に恐怖が宿っており、反抗する気力を失っているのがひと目でわかる。恐らく彼らにとって、本殿の中の顛末は、まったく予想だにしないものだったのだろう。

「젠장! 악마!(くそ! 悪魔め!)」

 それでも先頭にいた男には、まだ多少なりとも気骨が残っていたようだ。半分喚くような調子ではあったものの、精一杯の虚勢でもってそう叫び、辿々しく銃を構えた。

 しかし……惜しいことに、明らかに腰が引けている。そんな動きでは、当然ながら、修にとってはなんの脅威にもならない。

 修は、無駄を削ぎ落とした動作で男の懐に入り込むと、僅かな手数でその意識を刈り取った。要した時間は、一秒未満。宝剣を取り出すまでもない。

 一番気骨があった者で、その有様だ。残りの敵に、それ以上の反抗が出来るわけがない。

 目の前で仲間がやられた瞬間、彼らは完全に戦闘の意思を失って、背中を見せて逃走を開始する。

 だがこれも、鬼ごっこにすらならない。

 十秒後には、五つの気絶した身体が地面に横たわり、本殿から出てきた隆たちが、恐る恐る彼らを覗き込んだ。

「……北朝鮮の兵士だよね?」

 顔を上げた咲希が、修に確認する。

「恐らくは」

 修は頷いた。

「姜の部下なんだと思う。首尾よくいったら、拘束した俺を運ぶ要員がいるからな。でも……思いがけず指揮官がやられて、浮き足だったってところか」

「情けねぇ野郎だな」

 隆が呆れた顔をして、つま先で気絶した兵士を小突いた。

「それだけ、負けるって可能性を想定してなかったんだろ。確かに、恐ろしい力を使ってきたからな。咲希がいなかったら、きっと俺も危なかった」

 そう、しみじみと修は呟くと――

「咲希、ありがとう。今回は、お前に守られたよ」 

「――ッ!?」

 修からの突然の言葉に、咲希が一瞬驚いたように目を見開く。そして――

 次の瞬間、その両目から涙が流れ落ちた。

「え!? 咲希ちゃん!?」

「お……おい。一体どうしたんだ?」

 それを見た美穂と和樹が、狼狽えて咲希を覗き込む。

「うんうん。違う、何でもないの」

 咲希も、我ながら驚いたのだろう。首を振りながら、両手で目をごしごしと何度も拭く。けれど流れる涙は、一向に少なくならない。

 当たり前だ。それだけ、嬉しかったのだ。やっと、お返しが出来たのだから。

 ずっと自分を守ってきてくれた修。生き方を変えてまで、自分を守ってきてくれた修。

 そんな修のことを、今度は自分が守ることが出来た。これで、泣かないなんて無理だ。

「やっぱり……泣き虫だな、咲希は」

 そんな咲希を、泣き虫だと言う声がある。同時に、泣き続ける咲希の目元に、ハンカチが優しく押し当てられて……咲希は驚いて、顔を上げた。

 そこには、いつかのような仏頂面で、咲希の目元を優しく拭ってくれている修がいた。

 帰るべき場所を見つけた涙があっという間に、ハンカチの中へと染み込んでいく。

(あぁ……)

 涙が染み込んでいくように、咲希の心には、暖かい光が浸透していく。

 昔はよく、こうして涙を拭ってもらった。泣き虫だった咲希が涙を流すと、文句を言いつつ決まって、こうしてハンカチを貸してくれた。そんな修のことを、咲希は……

(はぁ……好きだなぁ)

 そう。好きだったのだ。咲希は、そんな修のことが大好きだった。二人が離れ離れになっても、けれどこの感情だけは、結局消えて無くなることはなかった。それは、咲希をずっと苦しめてきた鎖のようなものではあったけれど、でも……

 今の咲希には、そのことが堪らなく嬉しい。

「ありがと」

 でも、だからと言って、こんなところでその感情を発露させる訳にはいかない。周りにはみんなもいるし、さらに言えば、まだ戦場のど真ん中なのだ。

 だから咲希は、はにかんだ笑顔と共に一言だけお礼を口にし、「もう大丈夫」と、そう強がってみせた。

 修も頷き、「なら、先を急ごう。いつまた、敵が来るかわからない」と、現実的な提案をした。

 そんな二人を見て、

「まったく……色気も情緒もねぇなぁ」

 と、隆が小さくぼやいたが、それは美穂が隆の腕をギュッと摘むことで黙らせた。

 こうして一向は、神社の境内を離れる。途中社務所に寄って、金子さん一家の遺体を埋葬したい気持ちもあったが、いつまた追手が来るとも限らない。

 申し訳ないけれど背に腹は変えられず、社務所に向かって静かに黙祷するだけで、この場は済ませることにした。もしまた、すべてが終わった後に戻ってくることが出来たなら、その時にきちんと埋葬しようと、そう心に決めて。

 急ぎ足で、かつ慎重に。

 再び、赤泊港へと続く行程を進み始めた。


 敵に待ち伏せされるという非常事態が発生したにも関わらず、その後何事もないまま赤泊港に辿り着けたのは、きっと幸運だったのだろう。

 来るかもしれないと思っていた追手は、いつまで経ってもその気配もなく、お陰で、主要道路から逸れることなく南下することが出来た。

 森の中を歩くのと、整備された道を歩くのでは、その疲労度は段違いだ。連日の強行軍に女性陣が最後まで耐えられたのは、ひとえにそのお陰だと言って良いだろう。

「ようやく、人里に出て来れたな」

 目の前に現れた、赤い屋根の大きな建物を見て、隆が「ふぅ」と大きな溜息を吐く。美穂は、

「良かった……」

 と呟くなりふらついて、咲希が慌ててそれを支えた。

 耐えられたとは言っても、もう限界なのだ。追手に追いつかれるかもしれないという恐怖は、精神力だけでなく体力をも奪う。

「でも……取り敢えずこれで、助かったんだよな?」

 満身創痍な様子の二人を不安げな顔で見つめた和樹は、確かめるようにキョロキョロと辺りを見渡して――

「あ……人だ」

 不意に、そう呟いた。

 みんなで一斉に、和樹が見ている方を見る。すると本当に、赤い屋根の建物の駐車場に、ワイシャツを着た初老の男性が立っていた。どう見ても、軍人には見えない。

「一応、用心しよう。死霊の可能性もある」

 だが修は、警戒を促す。

 修には、死霊が分かる。けれどその事実をもって、すべてを把握できると思うほど、自分の力に自惚れてはいなかった。理解を超えた力に頼っているのだ。先程の姜のように、さらに理解を超えた何かが現れても、全然おかしくない。

「取り敢えず、俺が接触してくる」

 だから修はそう一言。みんなを物陰に下がらせると、一人でその男性のもとへと向かった。

 駐車場に入ったところで、男性も修に気がつく。

「!? もしかして、金井町の方から?」

 驚いた顔をした男性が、小走りで駆け寄ってくる。それで、修はひとまずの警戒を解いた。

「はい。そこを経由して、相川町の方から」 

「なんと!?」

 男性は、身体をのけぞらせるようにして驚く。

「あそこは、昨日のうちに制圧されたって聞いていたけど、まさか逃げて来られた人がいたなんて。それにその服……学生さんだけど、地元の人間じゃないね?」

「はい。修学旅行で佐渡島に」

「そうか……それは災難だったね。でも、もう大丈夫。我々のための避難船が、迎えに来てくれる予定だからね」

「それじゃあ、皆さんはもう港に?」

「あぁ、そうだ。元気な人は埠頭公園にいるし、休みたい人は老人ホームの中にいるよ。他にも、あの辺の建物は全部開放してる。周りには、自衛隊の人もいるから安心だ」

「自衛隊……まだ、残っていらしたんですね」

「あぁ。相川町の方に展開した部隊はだいぶやられちまったって聞いたが、この辺りはまだ大丈夫だよ。一個中隊? で、警備してくれている」

 男性は、修を安心させようとしてか、力強い口調でそう言った。

 色々と、聞きたい情報はまだ沢山あったが、道の向こう側にみんなを待たせている。修は連れがいることを男に伝え、みんなをこちらに招き寄せた。

「こんなに沢山……疲れただろう? 早く、港に行って休みなさい」

 みんなを呼び寄せている間に、男の周辺にも人が増えてきた。赤い屋根の建物から出てきた人たちで、みんな島の人。聞くところによると、『まだ逃げてくる人がいるかもしれないから』と自衛隊に頼み込んで、有志の人数名で、この建物に詰めていたらしい。

「と言っても、もう何時間も待ってるのに、来たのはあんたたちだけだよ。もうこんな時間だし、これ以上待っていても無駄かもしれないねぇ」

 まさに田舎のお母さんといった風貌の、やや小太りの中年女性が、物憂げな視線を山の方へと向ける。だが、すぐにその表情は一変。「そうだ!」と、明るく手を打つと、

「港行く前に、お団子食べてきな。沢根だんごって、美味しいお団子があるんだよ」

 本当に嬉しそうに顔を綻ばせながらそう言って――

「ほら、あんたも手伝って。みんな、喉だって乾いてるんだろうから」 

 と、恐らく旦那さんなのだろう。隣で彼らのやり取りを黙って見つめていた男性の腕を取ると、有無を言わさず引っ張って、建物の方へとズンズン戻っていく。

「あ……ありがとうございます!」

 その後ろ姿に、咲希が大声でお礼を言い、おばさんは手を振りながら建物の中に入って行った。

 昨日から死ぬような目に何度も遭ってきたからか、そんなちょっとした優しさが、今は本当に嬉しい。女子に限らず、思わず熱いものが込み上げてきてしまう。

 それでも、やっぱりその表し方には個人差があって……美穂なんかは素直に涙ぐんでいるが、和樹あたりはプライドがあるのだろう。強がって、わざとらしく欠伸をした。


 ――パンッ!


 けれど、その刹那。

たったの一日で、すっかり聞き慣れてしまった音が、辺りの空気を震わした。その音はとても大きく、この場に残った全員が、思わず建物の方を振り返ったくらいだ。

「? なんだ? 今のは」

 男性の一人が、暢気な顔で首を傾げる。他の人も、みんな同じような反応だ。その中で違う反応をしているのは、相川町から逃げてきた、五人の学生だけ。

「おい……今のって……」

 震える声で、和樹が呟く。みんなも唖然として、その場で硬直してしまった。修だけが、青ざめた顔で前に出る。

「迂闊だった。建物の中に、死霊がいる」

「!?」

 みんなが一斉に、修を見た。

「死霊って……何でまた……それに、気が付かなかったのか?」

「少なくとも、ここに着いた時には感じなかったんだ。だから……すまん。警戒を緩めてた」

 言っている間にも、更に二度ほど銃声が続き、暢気な顔をしていた男たちも、流石に異変に気づき始める。

「おい、今のって……」

「いや……まさか……」

 それでも、彼らは銃声を実際に聞いたことがない。確信が持てないまま、不安そうな顔でお互いを見遣るばかりだ。だから――

 ――相手の方が、早かった。

「おい! ありゃあ、雪子(ゆきこ)さんじゃないか?」

 建物の玄関扉が開いて、二人の人間が出てくる。一人は、先ほどみんなにお団子をあげようと、建物の中に駆け込んで行ったおばさんだ。そして残る一人は――

「あれ。自衛隊さんじゃねぇか」

 おばさんを後ろから抱えるようにして立っている男のことを、ここにいる島民は皆知っていた。島民を守るために、佐渡島に派遣されてきた自衛官だ。ここ――JA佐渡・赤泊営農センターで、避難してくる人たちを案内したいと無理を言った彼らの我儘を聞いて、ここまでついてきてくれた人の良い男性。若いのにまだ寡黙な彼に対して、みんな、近所の子供を可愛がるような気やすさで接していた。

「おい。さっきの音は一体どうしたんだ?」

 だから、男たちがその自衛官の方に足を踏み出してしまっても、それは致し方のないことだろう。いくら修が――

「みんな、動かないで! 下がってください!」

 と叫んでも、首を傾げるばかりでその言葉に従わなかったことを、責めることなんて出来ない。故に――この帰結は、必然。

「あんたたち! 逃げて!!」

 勇敢なおばさんの叫び声が辺りにこだまし――

 ――パンッ!

 という銃声と共に、おばさんの身体が横様に吹っ飛んでも尚、男たちは、呆けて動くことも出来ない。

「くそ!」

 しかし、修は動く。人質にされていたおばさんが殺された以上、もう動かない理由はなかった。むしろ動かなければ、残ったみんなを守れない。

 自衛官の死霊が、おばさんを撃ったその銃をみんなに向けたのを見て、素早くその前に走り込む。途中、空中から宝剣を取り出して、間一髪のところで銃弾を弾いた。

「隆! 港までみんなを連れて走れ!!」

 修は叫ぶ。銃を構えている自衛官の後ろから、血塗れの自衛官がまた一人出てきて、銃をこちらに向けてくる様を見つめながら。

 もう、後ろを振り返っている余裕はない。

 とにかく、距離を詰める。距離が離れていれば、遠くに撃たれた銃弾を弾けない。近づけば、その分対応出来る範囲が広がる。

 二発、三発。四発目は逃して、五発目。

 それでようやく、剣のリーチの内側に敵を捉えた。まず、相手の銃を弾く。

 ――パンッ!

 その時だ。もう何度目かになる銃声が、辺りに響いた。けれどそれは、前からではない。

(後ろ!?)

 思わず、振り返る。すると港の方から、風に乗っていくつもの悲鳴が流れてきた。

(まさか、向こうにも!?)

 愕然とする。既に、港の中にまで敵の手が回っているとは、流石に思わなかった。そしてそれに関しては、やはり迂闊だったのだろう。

 死霊の発生条件を深く考えていなかった。『地獄の亡者が取り憑いて』と説明を受けたが、よく考えてみれば、敵に殺された者だけに取り憑くとは、言われていなかったのだ。つまり――

 味方が突然、敵に変わることも、あるのかもしれない。

(くそ! とにかく今は……)

 早く、みんなの後を追うこと。そのために、一刻も早く目の前の敵を片付けること。それが、修の第一にやるべきことだった。

 修はまず、振り返る勢いを利用しつつ、剣を振りかぶる。かつ、建物内に、追加の死霊の気配がないか、改めて念入りに探る。

 ガンッ!!

 まずは一人目。敵の足を平打ち。右足の骨を砕き、敵のバランスを崩す。

(建物内に、反応なし)

 同時に、索敵も完了。敵に後続なし。

(ただ……)

 男性の遺体が二つ。その一人の近くには、きっと人数分のジュースが転がっている。

「……ッ」

 軽く唇を噛み、次の動作へ。まず右側に跳躍し、更にターンして敵の背後に立つ。

 直前、敵が撃った銃弾が頬を掠めた。一瞬でも遅ければ、当たっていたかもしれない。

 が、結果は結果だ。背後に回った修は、これまでの敵にしてきたことをなぞるように、その頚骨に力を加え、あらぬ方向へと折り曲げた。片足をついて蹲ったもう一人も、同じ要領で無力化する。

 背後から悲鳴が聞こえてから、まだ十秒も経っていない。だが修は、息つく暇もなく身を翻した。先に行かせたみんなの安否が、気になってしょうがない。


「みんな!」

 幸い、みんなにはすぐ追いつけた。恐らく、銃声が聞こえてからその場に止まっていたのだろう。修が近付くと、安心して駆け寄ってくる。

「大丈夫だった?」

 真っ先に修のもとに辿り着いた咲希が、心配そうに修の身体を確認する。

「あぁ、問題ない」と、修はそう答えてから、

「そっちは、どうだ? 何もなかったか?」

 と尋ねると、それにはみんな、一様に頷いた。

「うん。いきなり、港の方から銃声が聞こえてきて。それで、修が来るのをここで待ってたから。ただ――」

 代表して答えた咲希が、僅かに顔を曇らせる。

「一緒に逃げてきたおじさんたちは、慌てて港の方に走って行っちゃった。なんだか、家族があそこにいるみたいで……」

「……そうか」 

 無闇に銃声の方へ飛び込んでいくべきではない――それは分かっていても、彼らの行動を咎めることは出来なかった。今はただ、彼らが無事であることを祈るだけだ。

「……煙が上がってきた」

 だが、そんな彼らの祈りを嘲笑うように、事態は進展していく。和樹の言葉に反応して港の方向を見ると……確かに。

 黒々とした煙が、空に向かって立ち昇っていくのが見えた。

「急ごう。助けられる人がいるかもしれない」

 修の言葉に、みんなが頷く。修を先頭に、縦列を組む。

 それは、もうすっかり慣れてしまった行軍スタイル。慎重に、けれど出来る限り急いで……

 悲鳴と銃声に彩られた戦場へと続く道を、真っ直ぐに辿り始めた。


 信号のある交差点で、逃げてくる人波にぶち当たった。

「何があったんですか?」

 血相を変えて走ってくる人を呼び止めて、港の状況を聞く。

「分からないよ! いきなり、自衛隊の人が俺たちに銃を乱射してきたんだ! 他の自衛隊が押し止めたけど、その中からまた狂ったのが出てきて……もう戦場だよ! あそこは!」

 後半はほとんど叫ぶようにそう言い、また走って逃げて行こうとする。

「待って! そっちも安全とは限らない!」

 そう修は忠告するが、

「あそこよりマシだ。今はまだ戦ってくれている人がいるけど、あんな状態じゃもうもたないよ!」

 そして、修たちが来た方向へと走り去って行った。他の人たちも、皆同じだ。もしかしたら、農協の建物に自衛隊がいることを知っていて、彼らを頼ろうとしているのかもしれない。

 残念ながら、今はもう一人として、そこには残っていないのだが。

「まだ、戦ってる人がいるって言ってたな」

 逃げていく人たちの後ろ姿を見送りながら、隆がポツリと呟いた。

 それは、何かを意図した台詞ではない。ましてや、修の行動を促すような意思は微塵もなかった。けれど……

 修の決断は早かった。

「俺が行く。みんなは出来る限り、分散したみんなを一箇所に集めておいてくれ。港の騒動が収まっても、このままじゃ碌に船へ避難することも出来ない」

 修が、今にも西の空に沈んでいきそうな太陽を見つめる。恐らく避難船が到着するまで、あと三十分もないだろう。

「…………分かった。気をつけろよ?」

 一瞬、隆は迂闊な自分の発言を後悔した。けれど自分の言葉なんてなくとも、結局修は動いただろうことも分かっている。だから、やりきれない思いを抱えたまま、それでも頷くことしか出来なかった。

(大いなる力には、大いなる責任が伴う……か)

 頷きながら、隆は思い出す。

 それは、昔見たハリウッド映画の中に出てきた言葉だった。ヒーローに覚悟を促す、物語のキーフレーズとも言える重要な台詞。

 確かに、かっこいい言葉だ。多くの人は、そのフレーズの中に収められた主人公の苦悩と覚悟に、涙するのだろう。

 けれど……

(春夏冬に……一体なんの責任があるって言うんだ?)

 これはスクリーンの向こう側の話ではない。現実にここにいる、一人の少年の話なのだ。

 単なる少年に、島民を守るために銃弾の雨に身を晒す責任が、どうしてあるだろうか。ただ、好きな女の子を守りたかっただけの少年に、なんで他人まで助ける責任があるのだろうか。

(やっぱり……俺にはわからねぇ)

 それでも、修は行くのだ。愛する人のために、神との契約を果たすために、戦火へと進んで身を投じる。それが単なる自己犠牲なのか、それとも修が言うところの無償の愛なのか、もう隆には分からない。ただ―― 

(こいつはあと何度、誰かのために死地に赴けば良いんだろうか?)

 一秒ごとに小さくなっていく友の後ろ姿を見つめながら、隆は無力感と共に思う。

 悲鳴はまだ……鳴り止んでいない。


 死体が、ゴロゴロと転がっている。

 港に近づくほど、その数は顕著に増えていった。

 特に、公園が酷い。下手をすると、百人近くが亡くなっているのではないだろうか。

 すぐ隣にある老人ホームも、一見して被害を受けているのが分かったが……わざわざ、中まで覗く気になれない。もうそこから人の気配はなかったし、何より、今尚銃声が断続的に聞こえてくる場所があるのだ。まだ、戦いは終わっていない。

 修は、更に先へと進む。この辺りになると、迷彩服を着た死体も目立つ。その中で、壁に寄りかかったまま、かろうじて息をしている自衛官の姿が見えた。

「大丈夫で――」

 駆け寄った修は、思わず目を逸らす。血塗れの身体、千切れかかった右腕。彼が全身に負っている傷は、明らかに致命傷だった。

 それでも修は、改めて彼を直視すると、そっとその身体に触れる。

 修には、誰かの傷を癒す力なんてない。けれど、その苦しみを取り除くことくらいは、もしかしたら出来るかもしれない。いや……仮に出来なかったとしても……

 何もしないで通り過ぎるなんてことは、とても出来なかった。

「君は……」

 修に触れられて、自衛官が閉じていた目を開く。

 だが……その目の焦点は、もうどこにも合っていない。光を結ぶ力を失った虚な目が、ただ、修がいる方向へと向けられる。けれど……

「もしかして……俺を迎えに来たのかい?」

 彼は、確かにそう言った。

「とても……温かい光が見えるよ。さっきまではあんなに寂しかったのに……何でかな? 今は、凄く、心が温かいんだ」

 碌に動かせなくなった顔の筋肉を収縮させて、ぎこちなくも、確かに笑う。

 修は、力無く地面に垂れていた彼の手を、強く強く、握りしめた。

「…………この先で……まだ仲間が戦ってるんだ」

 手を握られたことに反応し、視線を落とした彼が、一拍置いてそう漏らす。

「どうか、みんなを救ってやってくれ。俺はもう、大丈夫だから。だから、早く……みんなを……」

 聞こえたのは、そこまでだった。彼の身体から急速に力が抜け、最後まで重力に逆らっていた首が、だらりと垂れる。虹彩からは、完全に光が失われる。

「……お疲れ様でした」

 沈痛な面持ちで彼の最後の瞬間を看取った修は、脱力した彼の身体を支えると、優しくそっと、地面に横たえる。

 死に至るほどの傷を負っていたとは思えないくらい、穏やかで、安らかな死に顔だった。

「急げ」

 修は、そんな彼の前で一瞬だけ手を合わせると、短くそう呟いて……

 直後には、もうその場から消えていた。

 勇敢に戦って死んでいった男の最後の願いを、ここで、形にするために。


「こちら、第二普通科中隊の佐伯だ! 応援はまだか!?」

 長野県松本市出身で、若くしてこの隊の中隊長に任じられていた佐伯丞(さえきすすむ)は、無線を通じて、何度目かになる援軍の催促をした。

 彼の部隊の残りは、ここから更に南下した小木港に展開している。急がせれば十分もあれば来れるはずだから、そろそろ駆け付けても良い頃だった。

『応援は、輸送艦の到着まで待て』

 だが帰ってきたのは、そんな非情な言葉だった。

 佐伯は、言葉を失う。

「もしや……連隊長でありますか?」

 佐伯が言葉を失ったのは、至急の増援が期待出来なかったからではない。小木港に展開している彼の部下に通信した筈なのに、本土の司令部にいるはずの連隊長が無線に出たからだ。

 彼が使ったのは、部隊間通信に使用するバンド帯の電波だ。海を越えて司令部に伝わるなんてことは、常識的に考えてあり得ない。

『君の疑問は分かる』

 そしてそんなことは、連隊長にとっても自明だ。彼の声の奥に潜む戸惑いが、そのことを微かにだが、示している。

『だがそれについては、〝特殊な力〟を使っているという事実で納得してくれ。現に、今も君たちの前では特殊な事象が発生しているはずだ』

 言われて、思わず佐伯は顔を上げる。目前で、残った部下が必死に応戦している相手。彼らもまた、紛れもなく彼の部下であった。つい、十分ほど前までは。

「一体、何が起こっているんです?」

 そのような状況で、弱り切った声を佐伯が出してしまったとしても、それは致し方のないことだろう。幸い、彼の部下たちは敵に対処するのが精一杯で、彼の言葉を気に掛けている余裕はない。

『敵によるマインドコントロールの一種だと考えてくれて構わない。それを受けた者は、総じて敵の指揮下に入るらしい。それで、小木港は先程陥落した』

「何ですって!?」

 思わず叫んで、慌てて口をつぐむ。

 上官もそれを咎めない。ただ、指令だけを告げる。

『故に貴官の部隊は、早急に目前の敵に対処し、島民の安全を確保した上で、避難用の輸送艦の着岸地点を押さえた後、小木港から北上してくると思われる敵を赤泊総合グラウンド以南で迎撃せよ』

「そんな……」

 今度こそ、絶句する。彼の残存部隊は、確認出来ている限りで既に三十名を切っている。対する敵は、恐らく二十名程度。数の上では勝っているが、相手は異様にタフで、少々の銃弾を受けてもモロともしない。しかも殺されたはずの仲間が何故かその後起き上がり、敵側に回って攻撃を仕掛けてくる事例すら報告されているのだ。

 恐らく、増援なしでは目の前の敵に勝つだけでも、困難を極めるだろう。

「連隊長。誠に遺憾ながら、その指令は――」

『佐伯一尉』

 その時だ。無線の向こうから、聞き覚えのない声が聞こえてきた。

『一人、そちらに増援が向かっています。もうすぐ接触しますので、今後は彼の指揮下に入り、先の任務を遂行して下さい』

「は? ……失礼ですが、あなたは――」

 誰とも分からない人間からの指令に、佐伯は思わず不審げな声を上げる。だがそれは、連隊長の次の言葉で遮られた。

『桐生和人(きりゅうかずと)特佐だ。今回の作戦の、実質的な最高指揮権を有している』

 沈黙した佐伯の代わりに、再び桐生特佐が話し始める。

『彼は、剣を手にした中学生です。名前は、春夏冬修。民間人ですが、今回の作戦中に限り、特佐の役職を与えることが、統合幕僚監部の緊急会議で決定しました。指揮権限は、貴官より上です』

 再び、絶句する。

(今、何と言った? 中学生だと?)

 この地に派遣されて以来、あり得ないことの連続だった。彼の部下が裏切り、死んだはずの人間がゾンビのように動き出した。それだけでも、もう一生分驚いているというのに、それだけではまだ足りないと言うのだろうか?

(これからですよ、佐伯さん。本当に驚くべきことは、これから起こるんです)

 ビクッと佐伯の身体が震え、思わず周囲を見渡す。まるで、耳元で話しかけられたような今の声。桐生特佐の声のようにも聞こえたが、明らかに、無線から響いてくる声ではなかった。

『では佐伯一尉、ご武運を。あなたと直接お会いできる日を、楽しみにしています』

 呆然としていると、いつの間にか無線が終わっていた。音を発しなくなったスピーカーを、佐伯は電池の切れたロボットのように見つめる。

「おい! あれは何だ!?」

 そんな彼を再起動させたのは、部下の興奮した声。

「人間……しかも、子供だぞ? 制服を着ている」

「そんな馬鹿な……剣で銃弾を弾いてるのか?」

 恐る恐る、佐伯は顔を上げる。そして、目の前の信じられない光景を見つめる。

 一人の少年が、目にも止まらぬ速さで敵の間を縫うように移動し、次々と敵を無力化していた。訓練を積んでいる自衛官である自分たちが、あれほど苦戦した敵を相手にだ。

「彼が……春夏冬修」

 呆けるように、先ほど聞いたばかりの名前を呟き、それからようやく、我に返る。

「援護だ! 全力で彼を援護しろ!」

 叫ぶなり、佐伯は物陰から飛び出して、修に狙いを定めていた敵に向けてライフルを連射する。

(分からない。分からないことが多すぎる)

 それでも、確かなことが一つだけあった。

「自衛官の意地にかけて、彼に傷一つ付けさせるな!」

 そうだ。彼が何者だろうと、彼の役職が何であろうと、そんなことは関係ない。民間人の子供に助けられ縮こまっているくらいなら、華々しい死を選ぶ。だから――

 生き残っていた自衛官三十名。

 地を震わすほどの雄叫びを上げながら、修に群がっている敵に向けて……

 一斉突撃を開始した。

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