2027年:災厄の中に咲いた花 第六章

「はぁ……さっぱりした」

 流れる水に身を委ねながら、咲希は髪をサッとかきあげる。水飛沫が四方に飛んで、すぐ隣にいた美穂が目を細めた。

 二人は今、一緒にシャワーを浴びているのだ。

 時間短縮……という側面も勿論あったが、それ以上に、美穂が一人きりになることを恐れたのが、その理由だ。

 それも、当然だろう。

 今日だけで、いったい何人の死を目の当たりにしてきたのか。咲希だって、口に出さないだけで本当は相当参っている。美穂が「一緒に入ろ?」と言ってくれて、正直咲希も助かったのだ。

 だからこそ、民家で休もうという修の決定は、かなりの英断だったと言って間違いない。ほのかに温まった温水が、身体についた土や血と共に、疲れまで一緒に洗い流してくれる。疲れ果て淀み始めていた二人の瞳に、新たな光が宿ったのは、紛れもなくこのひと時のお陰だった。

「春夏冬君、カッコ良かったね」

 だからこそ、そんな雑談ができる元気も湧いてくる。

 美穂は、気持ちよさそうに目を瞑っている咲希に向かって、そう話しかけた。

「え?」

 咲希が驚いた顔をして、美穂を見る。

「珍しい。美穂って、修のこと嫌いじゃなかったっけ?」

 それは、事実だった。美穂は、長らく修のことを嫌っていた。いや、忌避していたという表現の方が正しいか。いずれにせよ、美穂は修に対して良い印象は抱いておらず、しかもそれは随分昔――まだ修が餓鬼大将として君臨していた時代からの感情だった。

 そんな友人の感情を、咲希はあまり快くは思っていなかったが……成長した今となっては、その理由もよく理解出来たから、何も言えなくなってしまう。

 そう。要するに――

「苦手だったよ。春夏冬君って、乱暴だったから」

 それが恐らく、当時の彼を知る人間の半数以上を占める意見なのだ。

「私って、昔から気が弱かったから、春夏冬君にはいつもキツイこと言われてて。よく泣いてたな、あの頃は……」

 辛い記憶でも、もう彼女にとっては過去の思い出なのだろう。懐かしそうに目を細める。

「ごめんね。あの時は何もしてあげられなくて」

 対して、咲希は申し訳なさそうに目を伏せる。あの時の咲希は、とにかく修の味方だった。修にベッタリで、修のやることなすことみんな、肯定していた。

 今となっては……後悔している。

「仕方ないよ。だって咲希ちゃんは、春夏冬君のこと好きだったんだから」

 でも美穂は、そう言って微笑む。この二人が親友になったのは、修が変わった以降のことだったが、そんな美穂でも、咲希の気持ちは教わるまでもなく知っていた。

 それくらい、当時の二人は誰がどう見ても、お似合いのカップルだったのだ。

「そんなこと……」

 可愛らしく、咲希の頬がパッと朱色に染まった。そんな彼女の仕草を見て、美穂は楽しそうに目を細めつつも、その脳裏には様々なことがよぎる。

 美穂は、ずっと見てきた。

 修と仲が良かった時にいつも浮かべていた、咲希の嬉しそうな表情を。けれど、修と疎遠になった時は本当に悲しそうで、いつも泣きそうな顔で下を向いていた。それでも、他のコミュニティの友達が増えるにつれて、次第に笑顔を見せるようになって……

 それでも――

 人気者になり、みんなの輪の中心にいるようになってからも、時折り、寂しげな視線を教室の一画に向けていた。

 そう。美穂は知っているのだ。彼女が抱えてきた悲しみを。気丈に振る舞ってきたその姿を。そして、そんな友人に何かをしてあげたいと思っても、結局何もしてあげられなかった、どうしようもない自分の無力さを。

 だからこそ美穂は、仄かな嫉妬と共に、でも嘘偽りない笑顔を浮かべる。

「良かったね。春夏冬君、今でもちゃんと、咲希ちゃんのこと守ってるよ」

 美穂は痛感していた。咲希にこんな表情をさせてあげられるのは、やっぱり修だけなのだということを。

(だからやっぱり、少しだけ悔しいけれど、本当の意味で咲希ちゃんを守ってあげられるのは、春夏冬君だけなんだ)

 強くて、頼りになって、でも美穂にとっては、今でもちょっぴり怖い春夏冬修。彼が帰ってきてくれたことを、美穂は心から嬉しく思う。

「良かったね」

 だから再び、繰り返す。咲希もその言葉を、否定したりはしない。

「うん……」

 顔を赤くしながら、それでも嬉しそうに頷く咲希は、女性である美穂から見ても、ハッとするほど、綺麗だった。


「さて、これからの方針だ」

 二時間後。全員がシャワーを浴び終え、可能な限り着替えも済ませ、食事も摂り終えた。時刻は、朝の十時。再び、移動を始める時だ。

「何度か偵察しているが、敵の一軍は市役所がある街の中心部に集中し始めていて、この辺は大分手薄になってきている。だからこのまま一気に南下して、相川街道を通って赤泊港まで出てしまおうと思ってる」

 修がそう方針を説明すると、

「でもその道って、一本道なんだろ? 途中で、敵に出会したりしないかな?」

 和樹が不安そうな声を出す。その不安は伝染し、美穂の顔も僅かに翳った。

「途中いくつも脇道もあるし、いざとなれば森の中に入ればやり過ごせる。それに、敵の気配は事前に察せられるから、予期せず正面衝突――なんてことにはならないよ」

 だが、その辺りの不安は、既に考慮済みだったのだろう。修がすぐにそう答え、それを聞いたみんなも、やや安心した顔をする。

「じゃあ、早いとこ移動しようぜ。いつまた、状況が変わるか分からないんだ」

 そうせっつきながら、隆は立ち上がった。

 もう少し丁寧にみんなからの質問に答えようと思っていた修は、隆のせっかちさに少しだけ苦笑するが……早く動いた方が良いことは確かなので、逆に有り難かったと思い直す。

 どれだけ質問に答えても、完全に不安を払拭することなんて出来ない。なら、そんな〝出来ないこと〟に時間をかけるよりは、その不安の実現可能性を下げる努力をした方が、よほど生産的だ。

「よし、行こう」

 だから修は、頭に思い浮かべていた色々な言葉をすべて脇に置いて、出発の号令だけを、力強く発した。その言葉に従って、皆が一様に玄関へと向かう。

「あ、そうだ。ちょっとだけ、待っていて」

 しかしそんな中、咲希だけがみんなとは逆方向に駆けていった。

行先は、どうやら二階にある書斎だったようだ。それほどみんなを待たせることなく、また戻ってくる。

「どうしたの?」

 少しだけ呼吸を乱している咲希に、美穂が問いかける。

「ほら、これ。お守り代わりに貸して貰おうと思って。普段持ち歩いているお守りは、全部あのホテルに置いてきちゃったからさ」

 そう言って、咲希がみんなの前に掲げたのは……一冊の、携帯版の聖書だった。

「あ……そう言えば、あったね」

 服を求めて部屋の探索をしている時に、美穂と一緒に見つけていたのだ。どうやらここの家族は、敬虔なキリシタンだったらしい。

「ほら、それにね。ここに持ち主の名前も書いてあって。佐野博さのひろしさん。無事にここを脱出出来たら、本土の避難所でこの人を探してみようと思うんだ。家を使わせてもらって、ありがとうございましたって、お礼も言いたいし」

 咲希のそんな言葉に、

「あぁ、そういうことか……本当に律儀な奴だな、おまえは」

と隆が肩をすくめてみせ、

「でも、おまえの家って神社だろ? 他宗の聖典なんて、持っていて大丈夫なのか?」

 と、悪戯っぽく言う。

「大丈夫。日本は、八百万の神様だから。色々な神様がいたって良いの。勿論、キリスト教の神様も」

 しかし沙希は、迷うこともなく当たり前のようにそう答える。

「ふ~ん、そんなもんかね」

 対して隆は、自分から話を振ったとはいえ、別段宗教観などには興味はない。「まぁ好きにしろよ」とだけ答えると、再び玄関へと足を向けた。

 それを見た修が慌てて最前列に進んで、他の全員も続く。

 赤泊港まで、順調にいってあと五時間。ここから先が、本当の正念場なのだ。


 家の外には、やはり敵の姿はなかった。

 つい二時間前までは、あれほどウジャウジャ湧いていたのが嘘のように、通りの向こうまで影も見えない。恐らく、絶好のタイミングだ。

「みんな、音を立てないように。でも、早歩きで」

 小声で指示を出してから、修がみんなを先導する。

 死霊の気配は、とても特徴的だ。

 一つの肉体に二つの魂が同時に存在しており、しかもその片方が獰猛な霊気を四方に放っている。それだけを聞くと、単なる悪魔憑きと大した違いはないようにも聞こえるが、実際は全然違う。

 悪魔憑きに比べて、二つの魂の違いが鮮明なのだ。悪魔憑きの場合、一定の年月をかけて徐々に憑依を完成させていくため、元の宿主とかなり同化した状態になっていることが多い。

 対して死霊は、外的な力によって強引に悪霊を憑依させるため、まだ同化はほとんど、もしくはまったく進んでいない。そんな状態で無理やり悪霊が肉体に居座り、宿主の魂を押さえつけているのだ。

 それは、自然状態ではまず発生しない、かなり歪な状態だと言って良いだろう。 

 故に、一定程度の霊感を持つ人間であれば、修のような特別な力を持っておらずとも、その接近に気づくことは可能だ。

 つまり、逃げ場がなくなるくらいの数で囲まれでもしない限り、修の力を持ってすれば、彼らから逃げるのはさほど難しくないのだ。勿論、逃げる側が疲労困憊していたり、精神的な疲労によって、馬鹿なことをしでかさない限りではあるが。

 そして、二時間に渡る休憩は、その意味において望んだ効果を発揮した。みんな、修の指示によく従い、よく動いて、よく隠れた。

 危なげはない。一向は驚くほどあっさりと市街地を抜けて、森の中へと足を踏み入れた。


「……止まれ」

 一時間ほど歩いただろうか。森に入ってからずっと無言を貫いてきた修が、ここにきて初めて口を開いた。

「どうした?」

 隆が耳打ちする。

「人の気配だ」

 修が短く答えた。しかし、まだみんなの目には何も映ってこない。

「この先か?」

「あぁ……曲がり角の向こうだ。でも……」

 修が難しい顔をする。

「気配が妙だ。まず、人数は一人。それに……」

 修が目を細めて前方を見る。

「どうやら、苦しんでいるようだ。怪我をしているのかもしれない」

「怪我?」

 隆は条件反射のように、胡散臭そうな顔をする。

「赤泊港へ繋がる唯一の山道で怪我人……罠なんじゃないのか?」

 隆らしい感想だった。本物の善人なんていない――長い間そう考えていた隆は、基本的に『疑』の感情が常に先行する。そう簡単に、その傾向は変わらない。

「でも……逃げ遅れた島民の人かもしれないよ?」

 対照的なのは、やはり咲希だ。怪我と聞くとすぐに心配そうな顔をして、怪我人の苦しみに思いを馳せる。

「逃げる途中でトラブルがあって、動けなくなってるのかも。様子を見るだけしても、良いんじゃないかな?」

 二つの異なる意見。和樹と美穂は何も言わないが、どちらがどちらの意見を支持しているかは、一目瞭然だ。

 決定権は、修に委ねられた。

「……様子を見てみよう。島民だったら、見捨てておけない」

 そして、それが修の答え。隆は、

「まぁ、お前ならそうだろうな」

 と、割合素直に肩をすくめた。

「良いよ、俺はお前に従うだけだ」

 隆が言うと、和樹も黙って頷いた。異論は出ない。

「よし。じゃあ出来るだけ音が出ないように。前の人の背中から離れるな」

 修はそう忠告し、一同、一列縦隊で進み始めた。


 慎重さを優先し、亀のようにのろのろと数分間歩いたところで、修の言葉通り、一つの人影が現れた。

 道の端で、何やら座り込んでいるように見える。

「あの人か……軍人じゃなさそうだな」

 隆がそう言うと、皆一様に頷く。

 それもそのはず。その人物は誰がどう見ても、軍人とは無縁の衣服を身に付けていた。

「あれって……狩衣?」

 咲希が、その服の名前を口にする。神社の娘だからこそ、それは出てきた名前だろう。

「初詣の時、神主が来てるやつだよな。なんであんな服着てるんだ?」

「一応あれ、歴史的に見れば神職の人の普段着だから。神主さんによっては、日常的に着てる人もいると思うよ」

「へぇ、そうなのか」

 咲希の解説に、隆は物珍しそうな顔をする。

「いずれにせよ、助けても良さそうだな。死霊でもないみたいだし」

 修がそう言うと、今度は隆も躊躇いがちに頷いた。勿論、消極的なのは変わらなかったが。

「足手纏いが増えるのは、あまり歓迎出来ないけどな」

 けれど、そんな嫌味を言う程度だ。それ以上反対はしないし、むしろ――

「動けないようなら、俺が背負うか?」

 と、そんな提案までしてくれる。

 修は礼を言い「その時が来たら、お願いするかもしれない」と付け加えると、一人、座り込んでいる男のもとへと向かった。みんなは固唾を飲んで、後ろからその様子を見守る。

「あの……大丈夫ですか?」

 最初の一言をどうするか――修は少しだけ悩んだが、結局はそんな無難な言葉に落ち着いた。それでも、男は随分と驚いたようだ。ビクッと体を震わして顔を上げると、目を見開いて修を見た。

「え? ……あなたは?」

 怯えと不安が入り混じった声。突然現れた修に、警戒して萎縮する心。

「大丈夫です。俺は、本土から来た修学旅行生です。相川町から、ここまで逃げてきたんですよ」

 だから修は、まずその警戒を解こうと自らの素性を明かした。相手の警戒を解くために、まずは自分の存在を『得体の知れない誰か』から、具体的な情報を伴った生きた人間に昇格させてあげる必要がある。その際、その情報の中に相手との共通項が含まれていれば、なお良い。

「あ……あぁ、そうでしたか」

 そして今回は、その目論見は完璧にうまくいったようだ。男は、強張った表情を一変させ、人の良さそうな柔和な笑みを浮かべる。

「よくここまで逃げてこれましたね。私なんか、金井町から逃げてきただけでこの有様ですよ」

 男は「いたた……」と、自嘲げに足をさする。

「足を怪我されたんですか?」

「えぇ……不注意でした。街から逃げてくる最中に高いところから落ちてしまって……なんとか我慢してここまで逃げてきたのですが、それがまた良くなかったのでしょう。右足を少しでも動かすと……もう痛くて……」

 無念そうな顔で唇を噛む。それから、縋るような目で修に問いかけた。

「それにしても、一体何が起こっているんですか? いつもの配達屋さんが来ないから心配になって街に出てみたら奇妙な連中に襲われて……あなたも、彼らから逃げてきたのでしょう?」

 修は思わず、唖然としてしまう。

「もしかして……何が起こっているのかご存知ないのですか?」

「はい……お恥ずかしながら」

 男は目を伏せる。

「私は……そして家内も古い価値観の人間で。テレビも含め、外界との接触手段を一切持っていないのです」

 俄には信じられないような話に、修は言葉を失う。そんな状況では、北朝鮮の侵攻は勿論、アメリカ大統領が呪殺されたことすらも知らないだろう。

 だから修は、手短に今の状況を説明する。男は、見るからに驚いた顔をすると、力なく項垂れた。

「まさかそんな事態に……まったく予想もしていませんでした」

 それについては、同意見だ。こんな事態を予測出来ていた人間は、きっと全国レベルで見ても一人もいないだろう。

「ならすぐに、避難しなくてはいけませんね。早く神社に戻らなければ」

 それでも、男はいつまでも下を向いてはいなかった。ものの十秒程度で衝撃から立ち直ると、そう呟いて立ち上がろうとする。

 だが、足の痛みは相変わらずのようで、すぐに顔を歪め、再びその場に蹲ってしまった。

「無理はしないでください」

 修が慌てて肩を貸す。

「すいません……でも神社には、家内と娘がいるんです。彼女たちにこの状況を伝えて、一緒に逃げないと」

 焦った顔で、再び立ち上がって歩き始めようとする男。修はそんな彼を押し留め、背後の物陰に向かって声をかけた。

「隆! 手伝ってくれ」

 その声で、すぐに隆が物陰から出てくる。その後ろから、残りのメンバーもぞろぞろと出てきた。

「皆さんも……修学旅行生ですか?」

 男は一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに心底嬉しそうに顔を綻ばせた。

「こんなに沢山で……良くぞ逃げてこられました。これもきっと、神のご加護の賜物でしょう」

 そう言うなり、神職らしく手を合わせ、祈るように唇を動かした。

「そんなことより。急ぐぞ、おっさん」

 だが隆は、その腕を掴んで強引に立ち上がらせる。乱暴な仕草ではあったが、すぐに男の身体を支えたところを見ると、単に粗暴なだけで、それは彼なりの優しさだったのだろう。

 男もそれは分かっているようで「ありがとう」と呟くと、左腕を修に、右腕を隆に支えられて、ゆっくりと歩き出した。

「ちなみに私は、金子(かねこ)と申します」

 歩きながら、自己紹介を済ませる。

 金子は一人一人の自己紹介すべてに丁寧に相槌を打ち、「本当に、良くぞここまで逃げてきました」と、我が事のように喜んだ。

 見かけに違わず、職業通りの心優しい男なのだろう。

「他の島民の皆さんは、逃げられたのでしょうか?」

 だから当然、自己紹介が終わるや否や心配そうな顔でそう尋ねてきて――

「少なくとも中心市街地に住んでいた方々は、赤泊港の方に避難したようです。今日の夕方、そこに避難船が着く予定なんです」

 修がそう説明すると、

「そうですか! それは本当に良かった。きっと、五十猛命(いそたけるのみこと)がお守り下さったのでしょう」

 と、涙を流さんばかりの様子だった。

ちなみに、その背後では和樹が、

「おい。『いぼがえるのみこと』ってなんだ?」

 と、咲希に耳打ちしていたのだが……

 相手は神様なのだ。きっとそんな和樹の非礼も、笑って許して下さるに違いない。


 金子の案内で、脇道に逸れた先にある神社に辿り着いた。随分と辺鄙な場所にある割には、本殿だけでなく立派な社務所もあるきちんとした造りになっており、少しだけ驚く。恐らくこの社務所に、金子は家族と共に生活しているのだろう。

「?」

 けれど、意外なことに金子はその社務所には向かわない。この神社の中心であろう本殿へと足を向けている。

「あの……社務所に行くのでは?」

 不思議に思った修がそう尋ねると、金子は首を振った。

「社務所は汚れているので、本殿に布団を敷いて寝ているのです。その方が、神のご利益も受けられそうですし」

「……はぁ」

 皆一様に首を傾げる。社務所が汚いから本殿に寝かせるというのもよく分からないし、神が住まう本殿で寝れば、ご利益どころかバチが当たりそうな気がしたからだ。

 事実、修はそれを聞いた後本殿へと視線を向けて、密かにではあるが眉を顰めた。それから、見比べるように社務所へも視線を送る。

 それでも、結局はそれだけで、口を挟むようなことはしなかった。相手は神主で本職の人なのだから、余計な口出しは控えたのかもしれない。

 みんなも同じだ。思うところはあってもそれ以上そこには触れず、「どうぞ、先にお入り下さい」と勧められるがままに、金子が開けた扉の隙間から、本殿の中へと足を踏み入れた。

「暗っ」

 まず、隆が声を上げた。

 その言葉通り、この本殿には窓がない。開けた扉の隙間から漏れ入る光だけでは到底、部屋の中全体を隈なく照らすには至らなかった。

「金子さん、早く灯りを――」

 先頭にいた隆が振り返り、後から入ってきているだろう金子に、灯りを点けるよう頼もうとする。だが――

 ――ピシャッ

 振り返った隆の目の前で、扉が音を立てて閉じられた。一瞬で、本殿の中が完全なる暗闇になる。

「!?」

 突然の暗闇に、和樹が叫び、美穂が悲鳴を上げた。かろうじて冷静さを保っていた咲希が、慌てて閉じられた扉を開こうと手を掛ける。

「なんで!?」

 しかし、開かない。さっきまでスムーズにスライドしていたのが嘘のように、扉はピタリと閉じられたまま、微動だにしなかった。

 咲希の顔からも、僅かに残っていた冷静さが消える。

「修!!」

 そんな中、隆はとにかく修の名前を叫んだ。

 この状況で……訳がわからない今の状況で、心底から頼れるのは彼だけしかいない。隆にとっても、そしてみんなにとっても、考えるまでもなくそれは、自明なことだったから。しかし――

「そうですか……修さんでしたか」

 その声に応えたのは、修ではなかった。暗闇の向こうから聞き覚えのある声がして、直後、部屋の灯りが点く。

 一瞬、隆は目蓋を手で覆った。暗闇に慣れた目が、突然の光量に瞬時には対応できない。それは、隆以外の皆も同様だったが、その中で修だけは微動だにせず、真っ直ぐに目の前に立つ人物を凝視していた。

「金子さん……これは一体、どういうことです?」

 怪我をしていた筈の金子が、まるでそんな怪我など最初から無かったかのように、背筋を伸ばして堂々と、そこに立っていた。

 修は用心深く、周囲に視線を這わせる。奥さんの姿も、娘さんの姿も、この部屋のどこにも見当たらない。

「騙し討ちのようなことをしてしまって申し訳ない。けれど、知る必要があったのです。この中で、非常時に最も頼られている人間が誰なのかを」

 修の視線の先を目で追いながら、仄かな微笑を浮かべた金子がそう答えた。要領を得ない回答に、修は目を細める。

「頼られている人間……それが、ここから避難することと、何か関係があると?」

「いや、すいません。妻や娘と避難したいというのは、全て嘘なのです」

 あまりにも事もなげに、金子がそう言い切った。ようやく目が慣れてきた隆が「は?」と気色ばむ。

「嘘って……お前、それはどういうことだ?」

「そう怖い顔をなさらないで。これは、あなた方のためでもあるのですから」

「……俺たちのため?」

「そうです」

 深々と、金子が頷く。そして――

「あなた方もどうせなら、皆殺しにされるより、一人でも生き残れた方が嬉しいでしょう?」

 語られた言葉はまるで、異国の言語のようだ。言葉の意味が、まるで分からない。

「皆……殺し?」

 隆が呆然と繰り返すと、金子は大真面目に頷く。

「私事で大変恐縮なのですが、私は力をセーブするのが苦手なのです。だから、誰を生かすか事前にしっかり決めておかないと、えてして皆殺しになってしまう。私は数々の失敗からそのことを学び、今ではターゲットを確実に特定してから事に及ぶようにしています。今回で言えば……修さん。あなただけは、間違っても殺さないようにしなければ」

 隆は黙る。いや、言葉を失う。未だに、状況がまったく理解できない。

「目的はなんだ?」

 そんな中、修だけはやはり冷静さを崩さない。その様子に、金子が驚いたように目を見開いた。

「……もしかして、気付いていたのですか?」 

 しかし、修は首を振った。

「気付いてはいない。が……本殿の中に誰もいないことは、外からも分かった。そして……社務所から漂う血の匂いも」

 修の視線が、本殿の外。社務所の方へと向けられる。

「一人じゃないな。少なくとも……二人以上。だからこれは……もしかして、金子さんの家族か?」

 その言葉に驚いたのは、修以外の全員だった。

「……どういうことだよ?」

 なんとか言葉を取り戻した隆が、修に詰め寄る。修は、目の前の男に視線を向けた。

「俺じゃなくて、そいつに聞くべきだろ」

 言われて、隆はそちらを見遣り……

「な!?」

 再び、言葉を失った。

「え……だ、誰?」

 代わりに、咲希がその心境を代弁する。和樹も、美穂も、まったく同じ表情だ。

 それもそのはず、先ほどまで金子がいた場所に、まったくの別人が立っていたのだから。

「さっきまでと、同じ人物だよ。ただ、俺たちの見え方が変わっただけで」

「ほぉ……そこまで分かりますか? いやはや、これは驚いた」

 驚くのは、こちらの方だ。目の前の男は顔だけでなく、その声すらも変わっていた。明らかに訛りがある、外国人が話しそうな拙い日本語。

「改めまして。私、姜白龍(カン・ペクリョン)と申します。九条家の神器を頂くため、半島より渡って参りました」

 そして、男はそう名乗った。

 金子ではなく――姜。神社の神主ではなく、北朝鮮の秘密工作員。更には、九条家の神器――すなわち、修の持つ宝剣が目的だと言う。

「ちなみに、こちらの本物の神主さんには、家族と仲良く眠って頂きました。だから、あなた方を社務所へ立ち入らせる訳にはいかなかったのです。折角の家族水入らずの棺桶に、余所者がいきなり入ってきたら……あまりに可哀想でしょう?」

 しかも、その戯言の内容は狂っているとしか言いようがない。あまりにふざけた言い様に、隆の頭が一瞬で沸騰した。

「お前……ふざけ――」

 だが、一歩も出る前に、隆の身体は修によって抑えられた。

「止めろ。この男はヤバい」

「ヤバいって――」

 と、隆は言いかけるが、そこで口籠る。修の目が明らかに本気だったからだ。

「さっき、九条家の神器と言ったな。何故、それを狙っている?」

 隆を黙らせ、修は改めて姜に向き合う。

「そもそも、どうしてそれを知っていた?」

 すると、さもおかしそうに姜は笑う。

「だから、あなた方日本人は愚かなのです。過去の遺産を忘れ、所詮は泡沫に過ぎない虚像が全てだと思い込む。自分の見えている景色こそが、世界の全てだと思い込む」

 直後、姜の顔に霞がかかり、一瞬にして金子の顔へと変化した。

「人間が捉えている光情報は、380nm~780nmの僅か400nm。けれど世界には、それ以外の光で満ちている。更に人間は、捉えた情報を脳内で都合よく補完し、自分の見たいように世界を作り変えてしまう」

 話している間に、姜の影が増えていく。一人から二人、二人から四人、四人から八人へと。

 あっという間に、部屋の半分が姜で埋まった。

「有志以前、その見えない世界に肉薄した時代があった。日本は世界の中でも、その最先端を走っていたのです。ですが今や……この体たらく。それは、あまりに宝の持ち腐れ。力に対して失礼というものでしょう。故に――」

 姜が、手を伸ばした。その手に握られているのは、二本の短剣。

「我々大朝鮮が、その力を貰い受けましょう。そのために、修さんには我が国までご同行頂きます」

 そして、笑う。ゾッとするほど、酷薄に。

「他の皆さんは……九条の一人娘も含め、もう必要ありません。こうして、わざわざ神器の方から、こちらに出向いてきてくれたのですから――」

 空気が揺らぐ。その揺らぎに乗って、姜も揺らぐ。

「さて、ではそろそろ始めましょう。どうか濃厚な真紅を、私に見せてください」

 その言葉が終わると同時に――

 この場にいたすべての姜が、完全に見えなくなった。


 姜の姿を見失った瞬間、咲希は目に頼ることを止めた。

 何か、狙いがあった訳ではない。ただ咲希は、姜の言葉を嗤って無視することが出来なかったのだ。

 神社の娘として、不思議な現象に遭遇することは人よりも多かった。でもその度に『気のせい』というキラーワードで、すべての現象を片付けてきた。

 咲希は思っていたのだ。

(不思議なことなんて、そんなものが存在するのは物語の中だけ。現実でそんなこと、起こる訳がない)

 ――と。それくらいのことが分かる程度には、分別があるつもりだったのだ。

 けれど、そんな彼女の〝根拠のない〟信念は、このたった二日で、もう木っ端微塵の粉々だ。それでも、咲希が人よりも偉かったのは、その粉々の信念に、無理に縋りつこうとしなかったことだ。割れたガラスの奥に、もっと硬い……例えば、そう。ダイアモンドのような何かがあるのではないかと、そんな風に考え、その直感に従ったことだ。

 だから彼女は、敵である姜の言葉であってもそれを一笑に付したりはせず、むしろ真面目に捉えて、目を瞑った。

『人間の目で捉えられないのなら……それを超えた情報が存在するのなら、目に頼るだけ無駄。むしろそこから得られる情報は、真実を阻むノイズにしかならない』

 実際にそこまで明確な意図があった訳ではなかったが、本能的にそれを悟り、更にはそれを実行に移した。

 意外に、こんなことなのだ。こんな小さなことで、えてして道は開かれる。新しい世界が見えてくる。ただ多くの人は、懐疑心が邪魔してそれが出来ない。懐疑心を克服しても、今度は不安や恐怖がそれを阻む。信じて、それを実行し続けるという実に単純なプロセスが、結局は一番難しいのだ。

 だからきっと、咲希にはセンスがあったのだろう。このセンスを才能と呼ぶか、それとも過去の努力の結晶と呼ぶか。それは人それぞれで、それすらもまた、センスの表れの一つなのだろうが……

 いずれにせよ、咲希は最難関を突破した。この場で唯一、その関門を乗り越えた。

 故に――

 咲希の視界が……開けた。

「修! 加山くんが!」

 けれど、時間が足りない。盲目であった時間も、時は確実に動いている。血に飢えた獣が、今にも仲間に牙を突き立てようとしている。その圧倒的なまでのタイムロスは、人間技では挽回困難だ。

 そう、人間技では。


 ――キンッ。


 甲高い金属音が響き、この場にいた全員の目が一点に集中する。

 隆の顔の数センチ前で、修の剣が姜の短剣を受け止めていた。今まで見えなかったのが嘘のように、姜の姿もはっきりと視認できる。

「馬鹿な!?」

 姜が目を見開き、飛び退る。そして、血走った目を咲希に向ける。

「お前……見えたのか? この私を……こんな小娘が?」

 信じられないと言わんばかりに目を見張り、けれどすぐそれは、憤怒へと変わる。

「やはり、腐っても九条。最初に片付けるべきだったか」

 その憤怒のすべてを咲希に注ぎ込まんとばかりに睨みつけ、次の瞬間、また消える。

 咲希の口を、永遠に黙らせるために――

「右! 和樹くんの前!」

 だが、咲希の口から出てきたのは、『自分を守れ』ではなかった。修も、迷いなく咲希の言葉に従い、和樹の眼前を剣で払う。

「ガハッ!!」

 鈍い打撃音が響き、空中に姜が現れた。打ち付けられた腹部を押さえ、二歩三歩と後ずさる。動揺が、身体全体に表れている。

「何故……何故だ? お前には、恐怖心がないのか!?」

 姜の狙いは、恐怖心によって咲希の目を曇らせることだった。

 目から得た情報が、人間の心理によって都合よく改変されるというのなら、咲希の視界を開かせた心眼も同様だ。いやむしろ、固定化された肉体を経ていない分、その傾向はより顕著だと言える。ちょっとした心の揺れは、呆気なくその心眼を閉塞させ、超越的な認識力を、あらぬ妄想のレベルまで堕落させる。

 だからこそ姜は、咲希に自分が狙われるという恐怖心を抱かせつつ、まったく別の人間を狙ったのだ。そして、もしこの攻撃が成功していたならば、疑心暗鬼と罪悪感が、咲希の魂を縛り付けることになったのは間違いない。そうなれば、咲希はもう二度と、心眼を開くことは出来なくなっていただろう。とどのつまり、それは……姜の勝利だ。

 けれど、現実は違う。現実は、咲希の心眼は遺憾無くその性能を発揮し、姜は勝ち誇る代わりに、こうして無様に身体を丸めている。

 姜にとって、それは俄には信じ難い事態だった。

 そして、何よりも――

「怖いよ。でも……」

 姜の問いに対する咲希の答えは、彼の理解を遥かに超えていた。

「大切な友達が傷つく方が、私はもっと怖いから」

 理解不能。

 まさにそれだ。自分が傷つくよりも他人が傷つく方が怖い? そんなこと、あり得る筈がない。

「ふっ……九条らしいな」

 けれど、隆はそう言って笑った。

「友達か……なんか、むず痒いな」

 和樹が、そうはにかんだ。

「私は咲希ちゃんに無事でいて欲しいんだから。あんまり無理しないでよ?」

 美穂が、心配そうに咲希の肩を抱いた。そして――

「人間ってのも、案外と馬鹿に出来ないだろ?」

 修がその切先を、姜に向ける。姜は、それを呆然と見つめ、なんとか一つ、言葉を紡いだ。

「……殺すのか? この私を」

 姜の唇が震える。その理由は、恐怖心だけではない。

 怒りだ。恥辱だ。気が遠くなりそうな、激憤だ。

(こんな屈辱を受けたのは、生まれてこの方初めてだ)

 勝負に負けた――それは仕方ない。戦いとは、結局は時の運だ。負けることもある。その一回の負けによって、生命(すべて)を奪われることも、またあるだろう。姜にとって、それは常識であり、また覚悟の上だった。けれど――

(誰かのために……だと?)

 そんな下らない妄言を吐く輩に、自分が負けたことが信じられない。いや、到底受け入れられない。それではまるで、その妄言の前に屈したようではないか。反吐が出る偽善より、自分が培ってきた哲学が間違っていると、そう突き付けられているようではないか。

(そんなこと、あってはならない)

 姜が生きてきた世界は、弱肉強食だった。

 弱い者から、あるいは下らない偽善に振り回された者から、次々と強い者の餌になった。

 そんな世界で、姜は何度泣いたことだろう。泣いて泣いて、その度に何かが流れていった。流れて流れて、ついに流れるものが出ないほど枯れ果てた時、彼はこの世界における正義を知った。

 純粋な力と、強烈な生存欲求、そして他者を圧倒するほどの自己拡大欲。それだけが、彼を死の淵から掬い上げ、彼に新たな世界を見せてくれた。

 高みから見えるその景色はどこまでも広大で……同時に、この上なく醜悪だった。けれど、その時の彼にとっては、その醜さこそ心地よかった。

 自分を偽り、飾らない世界の、なんと心地が良いことか!

 だから彼は立ち上がる。何度でも、何度でも、この世界全てを、その醜さで染め上げるまで。

(誰であろうと、何人だろうと、殺して殺して殺し尽くす。そのために、こんなところで殺されるわけには――)

 姜の決意。生きるために、殺す決意。

 視覚化出来るほどの強いその念いは、しかし、フルスイングで空振りする。

「いや、殺すつもりはない」

「…………は?」

 『殺』の一文字によって占められていた姜の脳は、その言葉でフリーズした。

(おかしい。殺す、殺されるの話をしていたはずだ。にもかかわらず、殺さないとは一体どういう了見だ?)

 訳が分からない。まるでこの瞬間、全くの別の世界に飛ばされてしまったかのようだ。そんな彼に、修は言う。

「俺の力は、守るための力だ。必要もないのに、無闇に生命を奪うつもりはない」

 今度こそ、姜の顔から血の気が失せた。

「나를 바보로 아는가?(俺を、馬鹿にしているのか?)」

 日本語を使うことすら、頭から吹き飛んでいた。

 『誰かのために』の次は『守るための力』。挙げ句の果てに――

(生命を奪うつもりはない……だと?)

 一体、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。あまりにもふざけている。馬鹿げている。常軌を逸している。それなのに……

 剣の切先が動き、姜の後頭部に打ち付けられる。姜はその動きに反応すら出来ず、無様にも、その小馬鹿にしたような一撃を身に受けた。

 一瞬にして、意識が暗転する。

(ふざけている……)

 それが、彼が抱いた最後の感情。そして、恐らく……

 彼がこの先どれだけ生き延びたとしても、あるいは死に急いだとしても。

 今抱いている、この言いようのない敗北感を忘れ去る瞬間は、決して訪れることはないのだろう。つまり……

 彼は生命を失う代わりに、『利己主義』という名の自己の正義を、この地にて無惨にも失ったのだ。

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