2027年:災厄の中に咲いた花 第四章

 ホテルから赤泊港まで、車で走れば一時間程度。

 今日中の出航は無理でも、明日になれば本土行きの船に乗れるかも――という希望を胸に、かな子の運転する車で夜の山道を走る。

 今のところ、戦争の気配はどこからも感じられなかった。特に銃声なども響いておらず、本格的な侵攻が始まっていないことは明らかだ。少なくとも、現時点において、それほど事態が深刻化しているとは思えない。

 その紛れもない一つの事実は、この状況においてはまさしく光明で、バスの中の空気は、ホテルにいた時とは打って変わって弛緩していた。

「やっぱり、大袈裟だったんじゃね?」

 だがそうなると、いつも通りの調子を取り戻して元気になる輩も出てくる。数が絞られて十三人になったメンバーだが、残念なことに、そんな輩もこの十三人の中には紛れ込んでいた。

「多分、あの三人だけだったんだよ。てか、流石に日本に攻めてくるなんてあり得ないだろ」

 借りてきた猫のようだった和樹が、すっかり本調子に戻っていた。まるで、逃げる選択を勧めた修を責めるようなその口調に、咲希は微かに眉を顰める。

「まぁ確かに……普通攻めるなら、第一は韓国だよな。日本まで攻撃して、わざわざ二正面作戦に拡大させる理由はないし……」

 けれど、そんな言葉の機微に気付いていないのか、あるいはそもそも興味が無いのか、秀一は和樹の言葉に思案げに同調する。

「……あ?」

 と言っても、その内容は少し和樹には難しい。

 和樹は、自分の意見を秀一に肯定して貰ったことはなんとなく分かったが、その内容はさっぱり分からず、不快げに眉を上げる。それを見た秀一は慌てて、

「和樹の言うことが正しいってことだよ!」

 とフォローした。単純な和樹は、それだけで得意げに鼻の穴を膨らませる。

「だろ? おい、隆はどう思う?」

 隣に座り、窓から外を眺めている隆に問いかけた。

「……分からねぇ。ただ、逃げるに越したことはねぇだろ」

 実際のところ、隆は修と一緒に逃げることを推奨した側だ。だから今の和樹の発言は、隆にも喧嘩を売っているようなものだったが、本人はそのことに気付かず、幸い隆も、それで声を荒げたりはしなかった。

 だから当然、和樹は止まらない。つまらなそうに鼻を鳴らして、

「逃げるとか、性に合わないんだよな。虐められっ子の修くんみたいで」

 先程助けられたことを、もう忘れてしまったのだろうか? 芸術的なまでの鳥頭に、今度は咲希以外の数名も顔を顰めた。けれど、当の修が何も言わないから、黙るしかない。

 ちなみに、修が何も反論しなかったのは、和樹のためではない。単純に、感謝されるよりは馬鹿にされた方が余程安心できると、そう思ったからに過ぎない。

 修は恐れている。見返りを得るというその営みそれ自体を。無償の愛を破綻せしめる可能性のある、全ての謝意を。だから修は、反論しない。自分が貶められる限りにおいては、何を言われようとも、修は一向に気にならなかった。

 けれど、そんな修の弱腰に見える態度は余計に和樹を増長させる。益々鼻息を荒くして、誰も表立って反論しないのを良いことに、更に言い募ろうと口を開く。だが……

「あれ? なんでこんなところに車が……」

 その口から言葉が溢れ出る前に、別の声が割って入る。それは、和樹を諫める声ではなく、突如目の前に立ち現れた不慮の事態に、困惑する声だった。

 その声を聞いた修が、ハッとした顔で席を立ち、その声の主――運転手(かなこ)の横に移動する。かな子は、困った顔で修を見た。

「車が二台も……これじゃあ、ここから先へは進めないわ」

 その通りだった。まるで、通行止めとでも言うように、二台の乗用車が道の真ん中で乗り捨てられており、車の交通を遮断しているのだ。それでも、不幸中の幸いだったのは、停車していた車に突っ込む前に気付けたことか。街灯も何もないこんな田舎道で、急ブレーキも無しに停まることが出来たのは、かな子が運転に集中していたお陰だろう。

「どうする? ロードサービスに電話する?」

 事ここに及んで、それは些かズレた発想だったが、修は特に否定しない。

「……えぇ、お願いします」

 言葉で否定するよりも、やらせてみせた方が早い。それに修には、もっと考えるべきこと、そしてやるべきことがあった。

 こんなところに、まるで中の住人を閉じ込めるように設置された二台の車。

 それが、単なる偶然の訳がない。そこには間違いなく誰かの意思が働いており、その誰かとは、高い確率で彼らの敵だろう。そしてもし、この二台の車が壁であると同時に罠だとしたら……今の彼らは格好の的だ。

(バスの周辺に気配は……バスを取り囲んでいる人間はいないか?)

 修は持てる限りの力を使って、周囲に意識を放ち続ける。

「分かった、ちょっと調べてみるわね」

 けれどかな子は、そんな修の内心など知る由もない。状況を理解していない呑気さでそう言うと、付近のロードサービスを調べるべくスマホを取り出した。

「あれ?」

 だが、スマホを操作する指は程なくして止まる。

「ここ、圏外だ。アンテナが全然立ってない」

「あれぇ? おかしいなぁ……」と呟きながら首を捻り、それから顔を上げて、みんなにも尋ねる。

「誰か、アンテナ立ってる人いません? この辺りのロードサービスを調べて欲しいの」

 先生に言われて、みんなの顔が一様に下を向いた。けれど結果は……芳しくない。

「ごめんなさい、私も駄目です」

「俺も駄目だ」

「あれぇ? このキャリア、田舎でも結構使えるはずなんだけどな」

 誰一人、色良い返事を返さない。どうやらキャリアに関係なく、ここでスマホは用をなさないらしいということに気が付いて、かな子の顔から流石に血の気が引く。

「どうする? 戻って迂回する?」

 怯えた顔で窓の外へと視線を這わせながら、縋るように修に指示を仰ぐ。

 修の答えは早かった。

「いえ、降りましょう。歩いて、先を進みます」

 今の僅かな間に、修は周囲の索敵を済ませていた。

 幸い、この付近に現状人影はない。ならば今のうちに、ここを超えて進むべきだと、そう判断したのだ。もし迂回して他の道を行ったとしても、その道も塞がっていない保証はどこにもないのだから。

「はぁ? マジかよ」

 だが修のその決定に、異を唱える声もある。

「こんな夜中に散歩なんて、冗談じゃないぜ。そもそも、歩いたら何時間かかるんだよ」

 和樹だった。遂に彼は、修を貶めるに留まらず、実際的に反旗を翻す。

「さっきホテル出る前に調べたけど、大体八時間弱くらいだと思うよ」

 用意周到な秀一が、律儀にそう答えてくれるが……

「八時間!? 俺はパス」

 馬鹿にした顔でせせら笑って、和樹は席を立った。

「ここまでの途中にあった学校って、相川中学校だろ? 俺、やっぱりそっちに行くわ。夜中に歩かされるより、そっちの方が遥かにマシだし」

 本当にそのまま、バスを降りようと出口へと向かう。修は慌てて、その前に立ち塞がった。 

「馬鹿言うな! ここで引き返したら、これをした奴らの思う壺だろうが!」

 和樹の行動の愚かさに、思わず強い口調で諌めてしまう。だが、プライドを傷つけられている和樹にとって、それは全くの逆効果だった。 

「あぁ!? てめえ、調子に乗んなよ! リーダー面してんじゃねぇ!」

 和樹にとって、やはり修は今まで虐めてきた相手に過ぎないのだ。自分よりも圧倒的に弱い存在。自分には歯向かえない存在。その筈だったのに……

 それなのに、先程の出来事から歯車が狂いっぱなしだった。狂った歯車は、早急に正さなければならない。

「そもそも! お前なんかが軍人を三人も相手に出来たのがおかしい。常識的にあり得ないだろ!」

 和樹は喚く。受け入れ難い現実を否定する。すると、どうしたことか……その否定を肯定するための推論が、和樹の脳内で音を立てて組み上がった。

 和樹はその甘美な響きに、涎を垂らして喰らいつく。

「そうだ……お前、本当はアイツらとグルだな? あそこで一芝居打って、俺たちをどこかに連れて行くつもりだったんだろ?」

 自分で口にして、自分で頷く。

(そうだ。そうに違いない。きっと、普段虐められている腹いせに、こんな汚い悪巧みを考えたんだ。卑屈な修らしい、実に卑怯なやり方で、みんなに復讐を遂げようとした)

 それは言い掛かり……というか、下手な妄想もいいところだったが、その音色は甘美に過ぎた。この図式を受け入れれば、和樹は虐められっ子に守って貰った情けない奴ではなく、汚い卑怯者の陰謀に気づき、みんなを救った英雄になるのだ。

 和樹は勢いよく振り返り、みんなに向かって吠える。

「よく考えてみろよ! さっきから、銃声の一つもしないじゃないか! もし本当に北朝鮮が攻めてきたなら、こんなに平和なわけないだろ! だからこれは、全部奴の狂言で、俺たちに復讐しようっていう卑怯な――」

 和樹の大演説は、そこで唐突に終わりを迎えた。

 突然響き渡った轟音が、少年の声量をいとも簡単に凌駕したのだ。

「なんだ!?」 

 みんな、一斉に窓から外を見る。

 すると東の方向が、やけに明るく光っていた。まるで、空が燃えているかのように。

「あの方角は……」

 目を皿のようにして凝視していた秀一が、ハッとして呟く。

「航空自衛隊の佐渡分屯基地があったはず……」

「ど……どういうことだよ」

 和樹が、唇をひくつかせながら尋ねた。

「分からないけど……自衛隊の基地が奇襲を受けたんじゃないかな? あそこには、対空の管制レーダーがあるから、多分それを狙われたんじゃ……」

「……決まりだな」

 その時だ。ずっと黙って事の成り行きを見守っていた隆が、遂に声を上げた。

「状況から考えたら、和樹の言ってることには無理があるだろ。なら、移動するのは早い方が良い」

「私もそう思う」

 その声に、咲希も続いた。更に、和樹に向き直る。二つの瞳に、怒りの炎を滾らせて。

「もうこの際だから言うけど、修は君が考えてるような人じゃないから。君なんかよりもずっと強くて、優しい人。助けられたのにそれが分からないなんて、ホントどうかしてるよ」

 それは、咲希自身の懺悔でもある。

 幼馴染でありながら、修を信じてあげられなかった。表面的な変化に囚われて、本当の修から目を逸らした。その後悔はそう簡単には消えないけれど、でもだからこそ、咲希はもう黙らない。

「いい加減にして。自分のプライドがそんなに大事? 人を見下すのがそんなに偉いの? そんなことより、大切なことは他にもあるでしょ!」

 まだ分からないことは多い。何故修が自分を犠牲にしてまで人助けに走るようになったのか、その理由は知らない。でもそれでも、信じるのだ。

 大好きだった幼馴染は、どこにも行ったりなんかしていない。

「そんな……いや……だって……」

 咲希の想いは強い。そして和樹には、それに対抗出来るだけの覚悟は何もない。

 気迫において完敗した和樹は、女の子に言い負かされて、俯いたままぶつぶつ呟くことしか出来なかった。逆上することすら忘れてしまったようなその様は、もはや可哀想になるくらいで……さっきまでの威勢は、もうどこを探しても見当たらない。

「咲希、もういい」

 だからこそ、修がそう口を挟んだ時、周囲からいくつも安堵の息が聞こえた。普段優しい美人が目を吊り上げて起こっている様は、下手な罵声より恐ろしいのだ。自分が言われているのではなくとも、思わず縮み上がってしまう。

 咲希も修に諫められ、ようやく周りの様子に気が付いたようだ。

「ごめんなさい」

 小さな声で謝って、一歩後ろに下がる。

 修は、そんな彼女に心の底で感謝しながら、けれどまったく裏腹な口調で、冷たく言い放った。

「咲希、おまえの言ったことは間違ってる。俺は……強くもなければ優しくもない」

 肩を震わし、咲希が潤んだ瞳を修に向ける。修はその瞳を真っ直ぐ見つめ返した。

「俺には俺の目的があって、動いているに過ぎない。この力だって、本来ただ借り受けているものだ。俺の力じゃない」

 嘘ではなかった。むしろ、真実だった。

 誰が何を思おうと、その姿がどう見えようと、彼は聖人君子ではない。あるいは、スーパーヒーローでもない。一人の女性を好きになった、どこにでもいる、一人の少年に過ぎない。

 それでも……あぁ、もし本当に。

 彼が本物のスーパーヒーローだったなら、どれだけ良かっただろうか。もし本当にそうならば、こんな不器用な生き方をせずに済んだだろう。華麗に、劇的に、みんなの不幸を解決し、街中の誰からも感謝される。それでも彼は、そんなことには頓着せず、今日も困っている人を助けに行くのだ。まるでそれが、自分の生きがいだとでも言うように――

 しかし繰り返すが……彼はスーパーヒーローではない。物語の中の彼らのように、そんなスマートには生きられない。

 褒められれば嬉しくなるし、評価されたら得意にもなる。差し出された見返りから、目を逸らすにも限界がある。

 なら最初から、見返りを差し出されないようにするしかないではないか。それ以外に、『無償の愛に生きる』術はないではないか。

 だからこそ彼は、とんでもなく不器用にここまで歩んできたのだ。自分の身を削りながら、誰かのために愛を与え続けてきたのだ。それが自分に許された、唯一の道だと信じて。

 故に――

「俺に感謝する必要はない。恩義を感じる必要なんて、欠片もない。ただ、従ってくれ。俺が俺の目的を果たすために、この島から脱出する僅かな時間だけ、その命を俺に預けてくれ」

 修の言葉は、どこまでも冷たかった。けれど、有無を言わさぬ――ともすれば狂気すら感じられる程の強制力を伴って、聞く者の心に浸透した。

 和樹も含め、誰一人、口を開くことも出来ない。

「修……なんで……」

 いや。一人だけ、例外がいた。修の口上を聞いて、心底悲しそうに顔を伏せる女性が。

 けれど修は、目を背ける。

「さぁ、行こう。遅くとも夜明けまでには、山を越えたい」

 その瞬間、再び爆音が聞こえた。どうやら、どこかでまた、爆発が起こったようだった。心なしか、先程よりも音が近い気がする。

 みんな、バスを降りた。そして、車の間を縫って、遮断されていた向こう側に出る。

 明かりの一つもない。街灯はなく、懐中電灯すらない。かろうじて、みんなのスマホだけが行先を照らす一筋の光。そんな闇に落ちた一本の道を……

 修を先頭に、一行はゆっくりと進み始めた。


「……みんな静かに。しゃがんで」

 進み始めて、まだ十分と経っていなかったが、修は一行の足を止めた。

「どうした?」

 足を止めつつ、怪訝な顔をした隆が尋ねる。修は何も答えず、代わりに目の前に広がる闇の中、道路の先を指さした。

「?」

 隆は首を傾げつつ、闇に沈んだ向こう側を凝視した。最初は何も見えてはこなかったが、まず耳が、次いで目が、訪れた変化を知覚する。

「……車?」

 やがてヘッドライトが視界に現れ、辺り一面の地面を照らす。幸い、その光は修たちまでは届いていなかったが、少しでも身じろぎすれば、見つかってしまうような切迫感があった。

「총원에게 고한다. 사도시마 북안 1차 상륙작전은 예정대로 진행――」

 車が近づいてくるにつれ、エンジン音に紛れて人間の話し声も聞こえてくる。日本語ではないから意味は分からなかったが、どうやら朝鮮語らしいということは、彼らにも分かった。

 身の危険を感じて、より一層頭を低くする。

「……行ったか?」

 走る車から、道端で蹲る彼らを視認することは困難だったのだろう。幸い、車はその速度を緩めることなく走り去り、十秒もするとタイヤの振動も感じなくなった。

「危なかったね」

 秀一がホッと息を漏らしつつ、車が去った方を見る。しかし、安堵しているように見えて、その表情は険しい。

「今の、多分軍用車だったよ。でもなんで、島の中心の方から来たんだろう?」

 その疑問は尤もだった。今の車は、彼らが向かう方向――島の南部方面からやってきた。

 その事実は、彼らが認識している現実と矛盾する。敵軍は島の北岸から上陸し、まだ彼らより南には進出していないはずだった。だがそうなると、今の軍用車は一体何なのだろう。

 考えれば考えるほど、悪い想像が膨らんでいく。もしかして、北岸からしか敵が来ていないと言うのは、自分たちの思い違いだったのではないだろうか?

「……大通りから逸れよう」

 しばらく考えて、修は予定変更をみんなに告げた。

「出来るだけ目立たない山道を進んで、島の中心街から少しだけ外れるルートを。万が一、街が既に敵の手に落ちていても、迂回出来るように」

 ここ佐渡島では、人口密集地のほとんどは島の中心に集中している。だからあわよくばそこに立ち寄り、避難の助けを得られればと考えていたのだが……もしかするとそれは、甘い考えだったのかもしれない。

「そうと決まれば急ごうぜ。さっきの奴らに、乗り捨てられたバスを見つけられる前に、ここを離れねぇと」

 まだ座り込んでいたみんなを、隆が促す。彼以外、まだそこまで頭が回っていなかったようで、ハッとした様子で急いで立ち上がった。

「……急ごう」

 修が言葉少なく先陣を切り、五十メートルほど進んだ所にあった脇道へと入る。道が一気に狭くなり、両脇に立ち並ぶ大木によって、空が今にも覆われてしまいそうだった。

「……怖い」

 美穂が、その入口で足を止める。今歩いてきた道も充分に暗かったが、ここから先は尚一層光が少なく、立ち並ぶ木々が不気味なアーチを構成し、まるで地獄の門の前に立っているみたいだ。

「大丈夫だから」

 震える美穂を、咲希が抱きしめる。咲希自身も本当は怖くて仕方なかったが、精神力でそれを抑え込んでいた。

 中には「えぇ? 怖いかな?」などとマイペースに首を傾げている女子もいるにはいたが、それは例外だろう。

 驚くべきは、立ち止まってしまった彼女たちを、和樹が文句の一つも言わずに待っていたことだ。先程の一幕が、どうやら相当堪えたらしい。女子に真っ向から叱られて、もはや振りかざすだけのプライドは、彼のどこにも残っていないのだろう。

「敷島さん、気持ちは分かるけど、ここは危険だ」

 先を歩いていた修が戻ってくる。

「早くしないと、乗り捨てたバスを見つけた連中が追手を差し向けるかもしれない。その前に、闇夜に紛れてしまわないと――」

 不意に修が言葉を止め、明後日の方へと視線を向ける。直後――

「!?」

 銃声がいくつも轟いて、一人残らずその場で立ち竦んだ。

「追手か!?」

 小声で、隆が叫ぶ。

「いや……音が小さいだろ? もっと遠くだ」

 けれど、修は一人冷静だ。静かにそう返し、再び、美穂に向き直る。

「でも、それも時間の問題だ。ここにいたら、いずれ見つかる。もう少し頑張ってくれ」

 それだけ言うと、咲希に目配せしてからまた一団の先頭に戻る。

 咲希は、修の背中に向かって小さく頷き、美穂の背中に手を回した。

「歩こう」

「……うん」

 一行は動き出した。そして幸い、山を抜けるまでの間に動きを止めたのは、この一回きりだった。ゆっくりではあったが、誰も弱音を吐かずに足を動かし、幸い敵に遭遇することもないまま、暗い山道を歩き切り……

 そして、六時間後。朝日が昇り、地上が徐々に熱によって温められだした頃。

 遂に、市街地の端へと辿り着いた。


「……人の気配はないな」

 茂みから様子を伺っていた修が、そっと顔を出す。

「気配がないって、どういうことだ?」

 同じく顔を覗かせていた隆が眉を顰め、立ち上がって道路の方へと歩を進める。それを見た他のみんなも、ぞろぞろと彼に続いた。

「美穂、大丈夫?」

「うん……」

 ただ、咲希と美穂だけは、まだ茂みの中から動かない。六時間に渡る夜の逃避行は、美穂の心身をかなり消耗させていた。そして勿論それは、美穂に限った話ではない。

 疲労の色が見えないのは修と隆くらいのもので、他は多かれ少なかれ、酷い顔をしていた。あれだけ元気だった晴菜も、流石にぐったりして言葉少ない。

「……一度休憩しようか。どこかの家を借りて」

 みんなのその様子を見て、修はそう提案する。本当なら一刻も早く南泊港に着きたいが、途中で動けなくなってしまったら元の子もない。

「うん。そうしてくれると嬉しい」

 美穂の世話をしている咲希が、少しホッとした顔をした。これから休みなしで、更に同じ程度歩くのは、流石に無理だと思っていたからだ。

「じゃあまずは俺が、街が安全かどうか確かめてくる。みんなはそこの茂みに隠れてじっとしててくれ」

 修がみんなに指示を出し、最後に隆に言う。

「ここは任せた」

「出来る範囲でな。武装した軍人に襲われたら、何も出来ねぇぞ」

「女子を庇うくらいは出来るだろ?」

「は? 馬鹿かおまえは。俺は人のために死んでやるほど、お人好しじゃねぇよ」

 隆は鼻で笑うと、しっしと修を追いやる仕草をする。修は一瞬微妙そうな顔をしたが、結局それ以上何も言わず、街の方へと向かって歩いて行った。

「さて。じゃあおまえら、その茂みに隠れろ」

 隆はみんなを率いて、先ほどまで隠れていた茂みに入った。ひとまず、ここで待機だ。

「みんな……避難したのかな?」

 落ち着いたところで、まず口を開いたのは晴菜だ。誰の姿も見えない街の方を見ながら、不安げに呟く。

「それでも、自衛隊くらいいるだろ?」

 和樹が答える。晴菜は「そう……なのかなぁ」と首を傾げた。正直、こんな状態で何が正解だなんて、まったく分からないのだ。

「もしかしたら――」

 そんな中、このメンバーの中で最もこういう知識に明るい秀一が、口元に手を当てつつ、一つの可能性を示す。

「ここら一帯は――いや、もしかしたらこの島は、既に放棄されたのかもしれない」

「放棄って……そんな馬鹿な。まだ逃げてない人がいるんだぞ?」

 和樹がすかさず異を唱えるが、秀一は変に確信した口調で答えた。

「情報がないから本当のところはよく分からないけど、もし実際に北朝鮮が攻めて来ているなら、この佐渡島じゃ絶対に耐えられない。勿論、敵が主導権を取る前に増援をして、一帯の制海権と制空権を確保できれば話は別なんだろうけど……日本全国の基地を攻撃されて、そんな余裕があるのかどうか……」

 秀一の言葉はそこで尻窄みになる。ただ頭の中では、軍事オタクらしく『自分が自衛隊の司令官だったら』と、一つの妄想を広げていた。

(もし俺が司令官なら……佐渡島は捨てて、新潟の沿岸に防衛線を敷く)

 なんとしても、本土上陸だけは防がなければならない。となれば、島嶼の防衛に戦力を分散している余裕はない。結果、必然的に島民に求められるのは、避難所への避難ではなく、島からの脱出だ。

(じゃあ……俺たちが夜彷徨っている間に、もう……)

 人口密集地である金井町がこの状態だ。それ以外の地区の避難も、あらかた完了してしまっているかもしれない。だとすると、果たしてまだ避難船は残されているのだろうか? 真っ先に敵に制圧されただろう相川町の島民が逃げてくる可能性を信じて、船をわざわざ残したりするだろうか?

(いや……俺ならきっと、切り捨てる)

 暗澹たる気持ちになった秀一は、力無く肩を落として顔を伏せる。もしかして、もう自分たちは手遅れなのかもしれない。

「あれ? 車?」

 けれど、彼女である晴菜が唐突に呟いたその一言で、秀一は再び顔を上げることになった。

「ほんとだ……街の方に向かっていくみたいだけど」

 咲希も、その車を目で追う。秀一もそれに倣った。

「あれは……」

 そして、思わず身を乗り出す。秀一には、目の前を走る車に見覚えがあった。

「もしかして、パジェロか?」

「パジェロ?」

 隆が尋ねると、秀一は興奮した面持ちで話し出す。

「自衛隊がほとんど全ての部隊に配備してる汎用トラックだよ。三菱自動車が作ってて……て、そんなことは今はどうでも良いんだ!」

 秀一が指差す。

「あそこをパジェロが走ってるってことは、あれに乗ってるのは自衛隊だってことだよ! だから、まだここは放棄された訳じゃなかったんだ!」

 沈んでいた分、喜びも大きい。秀一にはあの一台の車両が、まさしく希望の灯火に見えた。

 けれど次の瞬間、一つの可能性に気づく。

「そうだ……早く、保護して貰わないと」

 なぜなら、彼らは最後の一人。撤退する自衛隊の殿部隊なのかもしれないのだ。

 だとしたら、彼らを行かせるのはまずい。自分たちがまだ残っていることを、一刻も早く知らせなければいけない。

「!? おい! 秀一!」

 だから秀一は、気付くと飛び出していた。

 すぐに後ろから、自分を呼び止める声が聞こえてきたが、今、悠長に自分の思いつきを説明している時間はない。そんなことをしているうちに、車がどこか遠くに走り去ってしまう。

「おーい! こっちだ!!」

 秀一は手を大きく振って叫ぶ。すると……

 間一髪。今にも目の前を通り過ぎようとしていた車が、俄に速度を緩め、すぐそこの道路に停車したのだ。

「秀一!」

 これは、晴菜の声だ。どうやら、突然彼氏が駆け出したことに驚き、それでもしっかりとついてきたらしい。

「晴菜、これで助かるよ! これで、一緒に連れてって貰える」

 秀一は振り返って、晴菜に喜び勇んで説明する。

 大手柄だった。もし、大人しく修が帰ってくるのを待っていたら、彼らに気付いてもらうことができず、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。

 言うならば、秀一はみんなの救世主になったのだ。

(俺だって出来るんだ。力はなくとも、頭を使えば)

 思えば、北朝鮮軍と自衛隊の車両の違いが分からなかったら、こうはいかなかっただろう。来る日も来る日も飽きもせず、自衛隊の装備資料を見続け、頭に叩き込んできた苦労が報われた。

 だからきっと、晴菜も喜んでくれるはず。いつもみたいに、「秀一すごい!」と、手を叩いて褒めてくれるに違いない。


 ――パンッ!


 ほら。まさに今、拍手の音が聞こえてきた。

 いつもの晴菜の拍手よりも大きいその音は、まるで彼女の喜びの大きさを表しているようで……その証拠に、彼女は涙で顔をくしゃくしゃにしている。

 感情表現が豊かな彼女らしい。少しだけ、過剰な気もするけれど。

(おっと……)

 不意に、秀一は躓いた。何に躓いたかは分からないが、下半身の制御が効かなくなって、その場に倒れてしまったのだ。だからきっと、何かに躓いたのだろう。

「晴菜! みんな、逃げろ!!」

 その時、不意に大きな声が聞こえた。見なくともわかる。この声は、隆だ。

 それにしても、一体何をそんなに騒いでいるのか、秀一にはさっぱり分からない。

(何か叫ぶ前に、まずじっくり考えたら良いのに)

 秀一は、自分の内心を表すために肩をすくめようとする。けれど……

 どうしてだろう? 力が何故か、入らない。

(あ……れ?)

 薄れゆく意識の中で、秀一は不思議そうに首を傾げて……

 その直後、響き渡った銃声の大合唱を聞くことなく。

 一人静かに、事切れていた。


(くそ! 最悪だ!!)

 隆は、目の前の惨状を前にして立ち竦んでいた。

 自衛隊の車両だと説明するや否や、突然飛び出して行った秀一。その後を、すぐに晴菜が追って、それを見た車が速度を緩めた。

 やがて停車した車から出て来たのは、明らかに自衛隊だった。全員で三名。みんな銃を手にしており、これが敵だったら大変な脅威だが、逆に味方なら、これ以上心強いことはない。

「良かった!」

 だから、秀一と晴菜以外のみんなも、彼らの姿を目にすると一様に破顔し、茂みの中から飛び出した。

 残ったのは、疲れ切っていた美穂と、彼女を支えていた咲希。そして、なんとなく自衛隊の歩き方に違和感を抱いて観察を続けていた隆と、動かない隆に後ろ髪を引かれ、その場から動けなくなっていた和樹の、計四名。

 それだけだった。たったそれだけがその場に留まり、そして地獄へ立ち入ることを免れた。

 硝煙と、血の匂いが立ち込める阿修羅地獄――それが、今隆の目の前で進行している現実だ。

 始まりは、先頭に立っていた自衛官だった。

 その自衛官は、後ろを振り返り晴菜に話しかけている秀一に向けて、おもむろにライフルを構えると、ほとんど何の予備動作を入れることもなく唐突に発砲したのだ。放たれた銃弾は吸い込まれるように秀一の背中へと消え、代わりにまき散らされた鮮血が、辺りの地面を赤く染める。

 けれど、それはまだ序章に過ぎない。

 撃たれた衝撃で、前のめりに倒れた秀一が地面に到達するよりも尚早く、後ろに控えていた二人のライフルが、飛び出してきていたみんなに照準を合わせたのだ。

 その後、数秒の沈黙。この束の間の空白時間が、みんなが逃げられる最後の機会だったろう。だが実際は、誰一人、その場からピクリとも動くことが出来なかった。

 当然だ。みんな、助けてもらうつもりだったのだから。

 長い時間続いた緊張感から解放され、安堵と共に彼らに向けて駆け寄ったのだ。決して、ライフルを向けられるために飛び出した訳ではない。だからこそ、目の前の現実に自失し、それを受け容れることが出来なくとも、それは仕方のないこと。

 これがまた、あと五秒程度、時間的猶予があれば話も違ったかもしれない。少なくとも何人かは現実を受け容れて、生き残るための行動に移れたかもしれない。

 けれど、結果は違う。その時間的猶予は与えられず、秀一を銃撃したライフルが再び照準を正面に戻した時、それが始まってしまった。

 息つく暇もない発砲。しかも今度は単射ではない。連射だ。

 遮蔽物もない開けた平野で、一体誰がそれを躱すことが出来るだろうか?

 そんなこと、考えるまでもない。よって――

 悲鳴と銃声。肉が破裂し、血が飛び散る音。

 この世のものとは思えない、醜い音の連なりが視界全てを席巻し……

 それらが鳴り止んだ時、待っていたのは静寂だった。

 そこら中に肉塊が散らばり、まるでそれを繋ぐように、血の川が幾重にも流れている。

(なんなんだ……これは……)

 たった数秒で変わり果ててしまった景色を前に、如何に隆といえど、言葉もない。況んや、生き残った他の三名にとって、その光景は……

 筆舌に尽くしがたい悪夢に違いない。

「あ……あ、あ……」

 美穂は、電池の切れかけたお喋り人形のように無意味な音を発しながら、両目から涙を流した。

 和樹は、腰を抜かしたのだろう。身体を半分茂みから突き出しながら、必死に逃げようと四肢をめちゃくちゃに動かしている。

 対して咲希は……流石に気丈だ。顔面は他の二人にも負けず劣らず蒼白だったが、それでも眼力は消えていない。それどころか、立ち竦み未だに声も出ない隆に視線を向けると――

「私が囮になる」

 はっきりと、その言葉を口にした。

「!?」

 隆は生まれてこの方、今以上に驚いた時はない。昨日今日と、普通の人の人生何回か分くらいの驚きに遭遇しているが、それでも、今ほどはきっと、驚かなかった。

(この女は、馬鹿なのか?)

 思わず、そんな風に思う。

 目の前で繰り広げられた惨劇。一瞬にして、十名近くの仲間が肉塊に成り果てた。その直後、自身に同じ運命を辿らせることになるだろう選択を、迷いなく選ぶことが出来るなんて、頭のネジがどこかイカれているとしか思えない。

 それも、自分ではなく他人のためにだ。

(春夏冬といい、なんなんだこいつらは)

 隆は、二人が幼馴染であることは知らない。それでも、誰かのために生命を賭けようとするその姿に、どこか共通する薄気味悪さを感じた。

(こんな人間、本当にいるのか?)

 世の中、いい格好しいは多い。人にどう見られるかばかりを気にする、見せかけだけの善人の群れ。隆はそういう人種が大嫌いで、修のことを軽蔑していたのもそれが理由だ。誰かを助けるために、代わりに自分が虐められる境遇を選ぶ――そんなものは、彼にとっては偽善以外の何ものでもなかったからだ。

 けれど修は、部屋に銃器を持った敵兵が飛び込んでくるというあの極限状態で、和樹のために血を流した。自分を虐めていた人間を守るために、迷いなく銃弾の前に飛び出した。

(そして……この女)

 ここにいる人間を守るために、囮になって死ぬと言う。どう考えたって、そんなことをしても彼女に得は何一つない。故に、そこに偽善的な打算はない。

 つまり彼女のそれは、紛うことなき本心なのだ。

(馬鹿じゃないか?)

 立ち上がり、茂みの外へと飛び出していった咲希を見つめながら、隆は改めて思う。

 本当に訳が分からない。そんなに自分の生命が軽いのだろうか? 他人の生命が大事なのだろうか? その心理は、隆には露ほども理解できない。けれど……

「本当に……馬鹿ばっかりだ、くそ!」

 深く考えている時間はなかった。隆は、未だ地面にひっくり返っている和樹を掴んで茂みの奥へと放り投げると、自分も咲希の後に続いて、茂みの外へと飛び出した。

(これは誰かのためじゃない。自分のためだ)

 咲希の背中を追いながら、隆は何度も自分に言い聞かせる。

 今のこの行動は、自己犠牲などという酔狂な価値観に基づいている訳ではない。単純に、女に守られて生き長らえることを恥だと思っているからだ。そんな生き恥を晒すくらいなら、死んだ方がまだマシだと考えているからだ。

(そうだ、そうに違いない)

 隆は頷く。それが自分の美学だと、自分の行動を正当化する。

 何故なら、それは必要な行為なのだ。でなければ、自分までもが誰かのために銃弾に身を晒すような、愚か者だということになってしまう。そんな愚かな行為に、憧れにも似た感慨を、抱いていることになってしまう。

 それは、たとえこの一瞬後に死んでしまうとしても、決して我慢ならないことだった。

 だから……

 隆は走る。持ち前の脚力をフルに使って、目の前の咲希に追いつこうと地面を駆ける。

 どうせ死ぬのだ。ならば、せめて女の盾くらいにならなければ、割に合わない。

 ――カチッ。

 しかし、現実は残酷だ。いくら隆が脚力に自信があろうとも、咲希と隆との間に出来ていた数秒のタイムラグは、今の状況ではあまりに決定的な時間差だった。

 既に、ライフルはすべて、咲希に照準を合わせ終えている。すなわち発射まで、どう贔屓目で見ても一秒以上のゆとりはない。おまけに、彼ら自衛官の練度は、世界の軍隊の中でもトップクラス。単射のピストルならいざ知らず、連射可能なライフルで狙いを外す可能性は、万に一つもあり得ない。したがって、結論は一つ。咲希が銃弾から逃れる未来は……

 逆立ちしたって訪れない。

 

「すまない。みんなを残していくべきじゃなかった」


 あぁ……それなのに。

 確かに、その声は聞こえた。

 その声は、力強くなんかない。そこに宿るのは、ただただ後悔の白。

 どこからか風のように現れて、一刀で全ての銃弾を叩き落とした。そんな紛れもない偉業を成し遂げながら、その声音はどこまでいっても、普通人のそれだ。

 春夏冬修。咲希を抱きかかえた孤高の剣士。大切な人を守りながら、しかしその表情は暗い。

「春夏冬……」 

「すまない。咲希を頼む」

 一拍遅れて修に追いつき、咲希のそばに辿り着いた隆に、修はただ一言、そう返す。

 隆は言われるがままに、力が抜けて足腰が立たなくなっている咲希を受け取った。

 修はすぐに、身を翻す。

「修……」

 その背中に、咲希は手を伸ばした。それは、実に反射的で衝動的な行動だ。気丈に振舞い死地に飛び込んだ彼女が、自分をそこから掬い上げてくれた修にそばにいて欲しいと願う、実に当たり前の感情。

 その想いは、修の心には勿論、過不足なく辿り着いた。彼が咲希の、そんな心情を理解できないはずがない。でも、だからこそ。

 修は首を振った。肩越しに振り返り、優しく静かに、ただ一回微笑んで。

 咲希が更に何かを口にする前に、彼女の前から姿を消した。直後、自衛官が未だ構えていたライフルが、空高く、天を舞う。まるでそれが、開戦の狼煙とでも言うように。

 ライフルが再び地表に足をつけるまでに、修の身体が縦横無尽に動き回る。敵の間を縫い、剣の平でその急所を打つ。

 それは明らかに、人間離れした挙動だ。どんな武道の達人でも、たとえオリンピック選手でも、今の修と相対せよと言われたら、尻尾を巻いて逃げ出すだろう。それくらい、修の動きは洗練されており、武道になんの心得もない咲希であっても、思わず見惚れてしまうほどの、見事な演舞だった。

 それでも咲希は……その演舞より前に、修が浮かべたあの表情が、脳裏に焼き付いて離れない。

 見覚えがあったのだ。あの、寂しさと後悔を内包したような薄い微笑みに、咲希は心当たりがあったのだ。だからこそ、これで二度目になるその微笑みを前にして……

咲希は遂に、気付いてしまう。

(修が変わったのは――あの不思議な力を手にしたのは……私のせいなんじゃないの?)

 気のせいだと言われてしまえば、それまでだ。そう否定する声に抗うだけの根拠を、咲希は持たない。それでも……不思議と確信があった。

 何故なら咲希は、覚えているからだ。六年前のあの日、地震の直後、目を覚ました自分を覗き込んでいた彼の寂しげな笑顔を。

 今、咲希を助けた修が浮かべていたのは、まさにその笑顔だった。ならば、同じ笑顔を浮かべていたあの時も、何かから咲希を守った直後だったのではないか?

 そんな風に考えて、だから咲希は思ってしまう。

辿り着いてしまう。

六年間もの月日を経て、その一つの結論に。

(私は……ずっと修に守られてきたの?)

 それは咲希にとって嬉しくもあり、けれど同時に、酷く残酷な真実だった。

 

「……また、殺さなかったのか」

 倒れて動かなくなった三人の前で佇む修に近付いて、隆はそう声をかけた。修は、肩越しに答える。

「いや……頚骨を折ったから、恐らく死んでいる」 

 隆は眉を顰める。

「頚骨って……なんでそんなまどろっこしい真似を。だったら素直に、その剣で斬れば良かったろうが」 

 修は、今度も平打ちだけで全てを終わらせた。剣を振るいながら、一度もその刃を敵に向けなかったのだ。

「言っただろ。人間として生きるためだ」

 しかし、修はそんな煙に巻くようなことだけを言って、それ以上話さない。当然隆はそれだけでは納得出来なかったが、唐突に聞こえてきた雑音が、それ以上の追求を許さなかった。

『……き……るか?』

「「!?」」

 修と隆は同時に反応し、その音源を目で辿る。

 近づいてきていた咲希は、ビクッとその場で足を止めた。

『こちら、……せ……ごう司令部。こち……』

 その声を発しているのは、死んだ自衛官が所持していた無線だった。そこから、男の声が途切れ途切れ聞こえてくるのだ。

 最初は雑音が酷く、まったく聞き取れなかったその声も、時間が経つごとに次第にクリアになっていき、やがては一人の男性の言葉となって、彼らの耳に届いた。

『こちら、自衛隊統合作戦司令部。聞こえているか?』

 三人で顔を見合わせる。

 自衛隊の無線だ。勝手に反応しても良いのだろうか?

『これは自衛隊の無線だが、話しかけている相手は君たちだ。遠慮なく、反応してくれて構わない』

 揃って凍りつく。まるで、こちらの考えを読まれているかのようなその言葉に。

そもそも……

(自衛隊の無線で、〝俺たちに〟話しかけているのか?)

 訳が分からず、隆は途方に暮れる。普通に考えて、そんなことあり得ないだろう。

 それは、無線の使い方ではなく電話の使い方だ。いや、見ず知らずの他人を媒介している時点で、それは電話ですらない。一体そんな方法で、どうやって特定個人に繋げられると言うのだろうか。

「……こちらは、箱根中学の三年だ」

 だが、修は隆のように呆けたりはしなかった。早々に、この無線の相手がどのような類の人間かを察して、静かな声のまま対応する。

「俺たちのことが見えているみたいだが……霊視でもしているのか?」

(……霊視?)

 隆は、その聞き慣れない――けれど、意味は何となく分かる単語に反応する。

 霊視――完全にスピリチュアルの領域だ。普段であれば、その言葉には胡散臭さしか覚えない。けれど……

(そうか……春夏冬の力は、その類か……)

 人間のものとは思えない超常的な修の力。それを理解するためにスピリチュアルの助けくらいは借りても、別に構わないだろう。

 無線の相手も、それを否定しない。

『よく知っているな。やはり君は、単なる民間人ではないらしい』

 更に、言い募る。

『あまり時間はない。速やかに、情報を伝達する。佐渡島では、一時間前を最後に戦闘は一旦終結した。既にその島の中央・北部地域には、我が国の自衛隊は残っていない』

「残ってないって……ふざけるなよ!」

 それを聞いた隆が、激昂する。

「じゃあコイツらは何だ!? いきなり銃連射してきやがって! お陰で、何人死んだと思ってんだ!!」

 自衛隊の死体を蹴る。変装なんかじゃない。どう見ても、彼らは日本人の自衛隊だった。

『彼らは死霊だ』

 けれど、無線の相手はそうは言わなかった。

『確かに元は自衛官だったが、地獄の悪鬼に取り憑かれ、敵軍の尖兵となった。殺すのに、苦労しただろう? 奴らは痛みを感じないから、動きを完全に止めるためには、脳からの信号を遮断するしかないんだ』

「……あぁ?」

 隆には、それは意味不明な言葉でしかなかったが、修にとってはそうではないようだ。納得したように頷き、

「……そうか。それで首を折るしかなかったのか……」

 と呟くと、それを無線の声が拾う。

『その通りだ。だから、彼らを倒し切るのは大変難しい。その点、君はよくやったよ。君ほど優秀な人材はそう多くない。今回のことが終わったら、是非うちの組織にスカウトしたいくらいだ』 

「組織?」

『国連の機関だ。別に怪しいところじゃない。今も、自衛隊に協力してこの事態を収めようとしている』

 そして、一呼吸。

『君の名前は?』

「……春夏冬修だ」

 誰とは言われなかったが、修が答え、隆も口を挟まなかった。電話の相手も、訂正しない。

『君たちは、今から赤泊港を目指せ。本日の一八○○に最後の救助船が出ることになっている』

(六時か……)

 隆は時計を確認する。まだ半日近く、時間には余裕があった。

 話は続く。

『目下のところ、敵の進軍を阻み、あわよくば押し返すための作戦が進行中だが、それもどの程度上手くいくか定かではない。制海権や制空権を、今後日本がどれだけ保持し続けられるかも不透明だ。故にこのタイミングを逃せば、島からの脱出が絶望的になる可能性もある。必ず、遅れないようにするんだ』

 そして――

『幸運を、春夏冬修』

 こちらから何かを言う暇もなく、無線の声はそこで途切れ……

 それっきりもう二度と、そこから声が聞こえてくることはなかった。

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