2027年:災厄の中に咲いた花 第三章

 続報は、次々と入ってきた。

 どうやら、落下したミサイルのすべては、都市部ではなく米軍基地を中心とした軍事基地を目標としていたらしい。一般市民への直接的な被害は、その攻撃の規模に比べると限定的なレベルに収まっているという情報は、ひとまずはみんなを安堵させた。

 彼らの地元は神奈川県の片田舎で、今回の被害地域には入っていないが、親族が被害地域に住んでいるという人も多い。だから、身近な人が亡くなった可能性をこれで多少なりとも少なく出来たのは、かなり大きな収穫だった。

 けれど……それ以外の情報が最悪だった。

 まず、落ちたミサイルはどうやら単なる弾道ミサイルではなく、戦術核を搭載していたらしいということが分かった。被災範囲があまりに広く、かつその数も多いせいで、未だ被害の詳細情報は入ってきていないが、将来的な被曝なども考慮に入れると、生半可な被害で済まないことは明らかだろう。

 更に、悪い情報はそれだけではない。

 どうやらミサイルの被害に遭ったのは、日本だけではないようなのだ。

 日本に落ちた数と同数、あるいはそれ以上のミサイルが、韓国とアメリカにも飛来した。勿論、その多くは途中で迎撃されたようだが、すべてを防ぎ切ることは不可能だったようで、落下してしまったものもあるらしい。

 これは未確認だが、一部の衛星が撃墜されたなんていう情報もあった。他にも『北朝鮮の指導部が悪魔に支配されている』といったよく分からない情報から、『ロシアもこの機に乗じて北海道に侵攻を始めた』なんていう真偽不明の情報まで――

 とにかく、情報が錯綜しているのだ。自由なネット空間で、みんな好き勝手に情報を発信し、特に調べもせずにそれを拡散する。そんな中、正しい情報のみを選別するのは、ほとんど不可能に近かった。

「どうなるんだろ? 取り敢えず、修学旅行なんてしてる場合じゃないよな?」

「多分……明日になったら、流石に帰るんじゃね?」

「来月のワールドカップ、どうすんだろ? やるのかな?」

「それはやると思うけどな。開催国は別に関係ないし」

 けれど、そんな情報の氾濫の中でも、生徒たちは各々ネット上をサーフィンしながら、活発に意見を交換し合っている。

 ここは、ホテルの宴会場。緊急事態だからと、教員たちは生徒を各部屋に分けることなく、ひとまずこの大広間に集合させていた。そして、教員だけは別室へ。生徒たちが仲良く井戸端会議を開いているうちに、今後の動き方を協議してしまおうということなのだろう。

 それが、今の彼らの状況だった。

 日本全国にミサイルが落ちたとは言え、今はもう夜。しかも修学旅行先となれば、話し合う以外にやることはない。全員を一箇所にまとめていることが、せめてもの危機感の表れなのだろう。

 だがそんな中で、焦っている人間が一人だけいる。 

(一刻も早く、ここから逃げるべきだ)

 そう考えているのは、言うまでもなく修だ。

 修は、別段軍事に詳しくない。歴史の勉強も学校以外でしたことはなく、過去の戦史等にも通じている訳ではない。けれど、ここが危険であることは直感的に分かっていた。

 悠長に、朝を待っているべき時ではない。もしバスがないのなら、徒歩であっても逃げるべき。彼の第六感が、ひっきりなしにそう叫んでいる。

(でも……)

 歯がゆいかな、それを説明する術がない。何故なら、彼が感じている現実は、あまりに世間の常識と乖離したものであり、更には、その根拠となる力を得た経緯も、フィクションとしか思えないようなファンタジーな内容だったからだ。

 故に、それを根拠として自分の主張を展開することは、この場では何の説得力も持たないことは、試みるまでもなく明らかだった。となれば、無駄に場をかき乱して、教師陣の打ち合わせの邪魔をするべきではない。もしかしたら、彼らの協議の結果、ここを早急に離れるという決定を下す可能性だって、まだあるのだから。

 だから修は、焦りながらも黙る。時の流れを粛々と待つ。

 スピーカーから館内放送が流れてきたのは、それから約、一時間ほど経ってからのことだった。

『当館に宿泊中の皆様へ。ただいま、隣国の不安定化と国内への第二次攻撃に備え、近隣の避難所への避難が推奨されております。皆様におかれましては、速やかに宴会場にお集まり頂き、避難に備えるようお願い申し上げます。皆様がお集まり次第、これからの避難についてご説明いたします』

 この場にいた全員の顔が強張った。その放送の内容は、思っていたよりも遥かに深刻で、しかも自分たちと関係のある内容だったからだ。

 事ここに至って、修以外の彼らの当事者意識は、決定的に低かった。ミサイルが落ちたのは、こことは違う別の場所。自分たちが戦火に巻き込まれるなんて可能性は、想定もしていなかったに違いない。

「おい! 今の放送、聞いたな」

 そんな中、教師たちが大声を上げながら戻ってきた。後ろには、このホテルの従業員も付いてきている。

「点呼を取るから、担任の指示に従ってクラスごとにまとまれ! 全員いる確認取れたら、すぐに避難だ」

「避難って、どこに行くんですか? そこって、ここより安全なんですか?」

 早口で指示をする教師に、生徒の一人が尋ねる。教師も余裕はないのだろうが、イラついた顔をしながらも、それでも質問には答えを返した。

「相川(あいかわ)中学校っていう学校だ。この付近の人はみんなそこに避難することになっている。自衛隊の人が、守ってくださるそうだ」 

 その一言で、目に見えて安堵が広がった。

 普段は意識すら滅多にしないが、こんな時、自衛隊という名前ほど頼りになるものはない。なにせ、憲法上の解釈やらで何かと問題はあるものの、それは歴とした軍事力なのだから。自らの安全を任せるのに、日本中で彼ら以上の適任者はいないだろう。

 質問した生徒も、明らかにホッとした顔になり、

「それなら……」 

 と、一歩身を引く。弛緩した空気が、一瞬でこの大広間を包み込んだ。

「先生。相川中学校ではなく、もっと南に逃げるべきです」

 にもかかわらず……

 そんな空気に水を差す人間がいた。

 しかもその人物は、この場にいるほとんどの人にとってはあまりに意外過ぎる生徒だったから、非難や怒りよりもまず先に、驚きの感情が湧き起こる。

 みんなが呆ける中、その生徒――春夏冬修の具申は続く。

「赤泊(あかどまり)港まで逃げて、そこから本土行きの船に乗るか、それが駄目でも、そこで救援を待ちましょう」

 教師も、口をポカンと開けたまま、呆気に取られて修を凝視した。

 修は、自己主張をしないタイプの生徒だ。時々、無謀とも思える〝人助け〟をすることもあるが、それは往々にして、人に知られない形で行われる。だからこの場にいる大勢にとって、彼は単なる虐められっ子以外の何ものでもなかった。そんな彼がこの緊急事態に先生の――いや、国の指示に意見した。それは、驚くべきことだ。

「いや……春夏冬。おまえも、今の放送聞いてただろ?」

 だが、いつまでも呆けている訳にもいかない。予想外の意見に気勢を削がれつつも、けれど一刻も早い避難を使命と考えている教師は、湧き上がる怒りをその声に乗せて、生意気な生徒を黙らせようとする。だが―― 

「敵が上陸してくるとしたら、日本海側に位置する北岸――つまりここです。なのに、同じ相川町内で移動したって、何の意味もありません」

 この生意気な生徒は、思いがけないことを言ってきた。いや、実際は『思いがけない』なんてことはなかったのだが、敢えて考えないようにしていたから、そのように感じたのだ。

「敵が上陸って……何を馬鹿なことを……」

 全くもって、穏やかじゃない。

(敵とは一体どういうことだ? この令和の時代に、軍隊がこの日本に攻めてくるとでも言うのだろうか? あまりにも馬鹿げている。もしかしたらこの地味な生徒は、所謂ネット右翼か何かなのかもしれない)

 一瞬の間にこの教師が考えたことは、大体そんなところだった。その結果、これ以上この生徒に真面目に付き合うべきではないと判断した。ネットで息巻いているような連中だ。少しばかり脅したら、もうそれで腰砕けになるに違いない。

「おい、いい加減にしろ! あまり馬鹿なことばかり言うようなら、お前だけ置いて行くぞ!」

 これで終わりだ。自分だけ置いていかれると知って、尚、抗弁など出来るわけがない。

「それはご勝手に。俺はいずれにせよ、相川中学校に行く気はありませんから」

「……なに?」

 だが、教師の目算は外れる。この生意気な生徒は、許しを乞いたりはしなかった。

「相川中学校に逃げたら、助かりません。もし生きて家に帰りたいなら、俺と一緒に来るべきだ」

 後半は、教師ではなくこの場にいる生徒全員に言った言葉だった。特にその視線の先には、咲希がいる。

「…………」

 咲希は、その視線を受け止めた。受け止めて、けれどそれを受け入れることを躊躇した。

 もし、以前と同じような関係であれば、咲希は迷いなく修のことを受け入れただろう。どんな荒唐無稽なことでも、無条件で聞き入れたに違いない。

 けれど今は……咲希には、修の考えていることが分からない。いつもは目立たないようにしている修が、何故突然ステージの――しかもスポットライトの只中に入ってきたのか、その理由がさっぱり分からなかった。

 分からないから、動けない。修の言葉に、頷くことができない。

「…………」

 咲希ですら、こうなのだ。他の誰が、修の言葉なぞに従うだろうか? 教師の言葉に逆らって修について行こうなどという酔狂なことを考える人間が、この場に一人としているだろうか?

 いるわけがない。考えるまでもなく明らかだ。だから結局――

「おい。こんな馬鹿に付き合ってらんねぇよ。早く避難しようぜ」

 気が早い奴が、そう口火を切る。見ると、それはいつも修を率先して虐めている和樹だった。もとより、彼が修の言うことに従うはずもない。

「じゃあ俺らは避難するから、修君はちゃんと港まで頑張って逃げて下さいね。勿論一人で」

 修のことをせせら笑いながら、襖の方まで歩いていく。そんな彼を止める人はいない。いやむしろ、すぐに何人かはその後に従おうとした。

 ちなみにその何人かの中には、普段和樹と行動を共にしていない人間も含まれている。だから彼らが和樹の後に従ったのは、別に和樹のことを好いてではない。単に、和樹の言うことは尤もだと思ったからだ。

 下らない言い争いで時間を無駄にするくらいなら、さっさと移動を始めた方が良い。みんなが移動を始めたら、先生も勿論それを先導することになるから、不毛な言い争いは無くなるだろう。

 それは、実に理に適った考えだ。感情論ではないし、先生の指示にも従っている。が……

 一つ大きな落とし穴がそこにあることに、みんなはまだ気づいていない。

 残念ながら、この島には……


 『理(ことわり)』


なんてものは、もうどこを探したって、少しも残ってはいないのだ。

「……え?」

 そして、それに気付けなかったツケは重い。仕方のないことであろうと、その選択の責任は、自らで負わなければならない。だから――

 そのツケの順番は、先行した和樹に真っ先に降りかかる。

「え? ……え?」

 独りでに開いた襖。その先に現れた三人の兵士。

 彼らは一様に銃器を手にしており、その内の一つは今、和樹の額に照準を合わせている。

 それは、あまりに現実離れした光景だった。その展開は、まったくもって理に適っていない。中東やアフリカなどの紛争国ならいざ知らず、ここは世界一平和な経済大国、日本なのだから。故に――

 そんな嘘みたいな現実を前に、その『え?』が、唯一和樹に許された反応であり、

 ――カチャ。

 その無慈悲なまでに冷たい撃鉄音が、いつまでも自分の常識に縋ったことへの代償だった。先程も述べた通り、自分の選択の責任は、自分が負わなければならない。

 

 パンッ!


 けれど……幸いなるかな。この地には既に、理(ことわり)はない。

 だから、当たり前の常識や、想定された現実がない代わりに、予想もし得ない救いなら、もしかしたらあるのかもしれない。物語の中にしかいないヒーローが、ここにはいるのかもしれない。

「お……修?」

 そう。それがその、ヒーローの名前だ。

 和樹と兵士の間に割って入り、和樹の代わりにそのツケを身に受けた少年。

 修の身体から噴き出した鮮血で、大広間の一画が、見る見るうちに真紅に染まる。

「うそ……」

 その瞬間は、咲希の位置からでもハッキリと見えた。

 恐らく、救いに入ったのだろう。常識的に考えて、今の一瞬で和樹を庇えるような場所まで移動することなど不可能だったが、それでも、咲希の目に映じた事実は変わらない。

「嫌……」

 そしてそれは、咲希にとってはこの上なく残酷な事実だ。

 咲希は、修のことが理解出来なかった。だから、修の言葉に頷くことが出来なかった。伸ばされた手を取ることが出来なかった。それは、この事態を招いた決定的要因ではないだろう。咲希が頷いたところで、みんなの行動は変わらなかったろうし、ましてや、和樹は言わずもがなだ。それでも、それが……

 咲希が自分の選択に、後悔しない理由にはならない。

「嫌ァァぁぁぁぁ!!」 

 絶叫が響く。咲希の慟哭が空間を満たす。けれど、泣いてももう遅い。

 後悔しても、もう手遅れだ。

 彼女が好きだった彼は、自分を理解してくれない彼女たちを庇って、銃弾をその身に浴びたのだから。その銃弾は確かに、彼の身体を穿ったのだから。

 だからここが、今まで通りの世界なら、紛れもなく手遅れだったろう。彼女の涙が、彼に届くことはなかっただろう。だが――

 何度も繰り返すが、この地にはもう……

 理(ことわり)なんてものは、どこにも存在しないのだ。

「…………なに?」 

 最初に気が付いたのは、隆だった。

 当事者である和樹は、目の前の衝撃的な光景に自失しており、他のギャラリーのほとんどは、咲希のように目を瞑るか逸らすかしていたから、そもそも見ている人が少ない。

 修の右手に、一本の剣が出現したのだ。

 それは、信心など欠片もない隆であっても神々しさを感じるほどの、この世離れした輝きを放っていた。もし隆がゲーム好きであったなら、突然空中から出現した事実も併せて、それを〝宝具〟とでも呼んだかもしれない。

 そんな剣を、瀕死の怪我を負ったはずの修が振るう。目にも止まらぬ速さで突き出されたそれは、刃を向けることなく、その側面で相手の脇腹を打つ。 

「うぐっ……」

 低い呻き声を上げ、まずは一人目――銃を発砲した男がその場に倒れた。この段階で、まだ大部分のギャラリーは、事態の変遷に気付いていない。

「젠장(クソ)!」

 残った二人の兵士が、銃を構え直した。あまり褒められたことではないが、単純に油断していたのだ。

 ここ日本で、民間人に奇襲をし、逆襲を受ける。

 そんなパターンは、彼らの如何なる演習でも想定されていなかったから、仕方がないと言えば仕方ない。彼らは、運がなかったのだろう。

 修が、身を翻した。 

 パンッ!

 直後、再び銃声。けれど今度は、血飛沫は飛ばない。

 代わりに、鋼と銃弾の二重奏が空気を震わし、兵士の両眼が大きく見開かれる。

「――――」

 隆も、言葉が出なかった。目の前の光景が信じられなかったのだ。

 隆には、武術の心得があった。単に、親が剣道の師範で、幼い頃に無理やりやらされたに過ぎなかったが、それでも隆には才能があったから、恥ずかしくない程度には、武術を習得していた。

 そんな彼から見て、今の修の動きは――剣で銃弾を弾くという行為は、人智を超えていた。そして、そこからの一連の反撃は、芸術の域にまで達していた。

 しかも修は、刃(は)を使わないのだ。

 平打ちと呼ばれるその技法は、相手を殺さずに無力化するための技。刀身を著しく傷つけるし、かける力の割に威力は出ないから、基本的には実戦ではまず使われない。にもかかわらず、修はそれを貫いた。躊躇なく自分たちを撃ってきた、そんな相手に対して。

「強すぎるだろ……」

 何もかも、隆の理解を超えている。

 気がつくと、もう立っているのは、修だけになっていた。剣を持ったまま振り返り、その場で腰を抜かしている和樹に「怪我はないか?」声をかける修を見ながら、隆は自分の頬をつねる。

 痛みはある。だがこれが現実だとは、ちょっとまだ信じられない。

「……何が……どうなったの?」

 それでも、隆はまだ良い方なのだ。夢だろうが何だろうが、少なくとも目の前の現状は理解しているのだから。

「春夏冬が、入ってきた敵を全員倒した。あの剣で、一刀のもとに全員斬り伏せやがった」

 平打ちだから、正確に言えば斬っていないのだが、わざわざそこを補足して説明してあげるほど、隆は優しくない。

「え? 嘘……だって修は……撃たれて……」

「本人に聞け」

 意味が分からず立ち竦む咲希に、隆はそうとだけ答えて前に出る。修と和樹の横を通り越し、倒れている三人の男のもとに向かう。

「やっぱり……死んじゃいねぇか」 

 脈を取り、彼らの生存を確認する。どれだけの間伸びているかは知らないが、このまま放置は出来ない。

 隆は、落ちている銃を拾う。使い方はよく分からないが、一度発砲している以上、安全装置は外れているだろう。狙って撃つくらいは、出来るはずだ。

「おい。何をしてる?」

 だが、トリガーに指をかける前に、隆の腕は修によって掴まれた。

「おまえの後始末だ。こいつらを生かしておいても、良いことは何もない」

 隆は振り返りもせずに答える。本当なら、無視をしてさっさと撃ってしまいたかったが、修に掴まれた腕はどうしてかピクリとも動かせなくなっており、そうする以外に術がなかった。

「必要ない。彼らが目覚めるより先に、俺たちはここを離れる。それに、ここはホテルだ。ロープくらいはあるだろう」

「無駄な手間だ。殺した方が早い」

 隆には分からない。何故、彼らを殺さないのか。殺られる前に殺る。殺られる可能性があれば殺る。

 当たり前のことだ。そしてそれだけの力を、不可解ながらも、修は持っている。

「殺しはしない。最期まで人であるために」

 けれど、修は迷うことなく首を振った。隆は、眉を顰めて修を見る。

(人であるため? 一体どういうことだ?)

 だが、その疑問は隆の口から出ない。修のその表情と迷いない口ぶりから、修が頑として彼らを殺さないつもりなのが、よく分かったから。

「……分かったよ」

 もとより、この場の主導権は隆にはない。敵を撃退し、圧倒的な力を見せつけたこの虐められっ子が、この場の全権を有している。弱肉強食を旨としている隆は、あっさりとその事実を受け入れた。

 心情的にはかなり不本意だが……今この場において、群のリーダーは修だ。

「ありがとう」

 修が隆の腕の拘束を解く。隆は痺れた腕に血液を通すように、二、三回腕を振って、ライフルをその場に投げ捨てた。そして――

「おい。立ち上がれ。ったく……情けねえな」

 未だ腰を抜かしている和樹に近づき、強引に引っ張り上げようとする。

 和樹と隆の引っ張り合いが始まった。

「ねぇ……修」

 そんな二人を横目に、修に近づく女子がいる。

「その怪我……大丈夫なの?」 

 まさに、恐る恐るといった調子だ。上目遣いの咲希が、修の前まで来てそう尋ねた。

「大丈夫。俺、回復速度早いから」

 修は、そう答えて笑う。見たところ、確かにもう血は止まっているようだった。痛々しいことには変わりはないが、咲希もひとまず安堵する。

「そっか……良かった」

 よく考えれば、こんな短時間で血が止まる筈もないし、それどころか、もう傷が塞がりかけてすらいたのだが、咲希にはそのことを深く考える余裕も、傷口の状態をまじまじと確認するゆとりもなかった。

 色々な感情がないまぜになっている。

 安堵、歓喜、高揚――こういったプラスの感情も勿論ある。けれど……

 困惑――彼が今も手に持っている、その剣について。

 咲希は、九条神社の神主の娘だ。当然のように、修が持つ剣が九条神社の御神体と瓜二つであることに気が付いていた。

 あの日、二つに折れた筈のその宝剣。何故それを、修が持っているのだろうか?

 そして、咲希の感情はそれだけではない。更には……罪悪感。

 こちらの方が決定的だろう。他のあらゆる感情を押し除けて、この感情は、咲希に目を伏せることを強要する。修の顔から、目を逸らさせようとする。

 咲希は、ずっと修が変わってしまったと思っていた。頼りになるヒーローから、弱々しい善人へと。咲希が憧れた彼は、もうこの世界のどこにもいない。そう思い込んでいた。

 けれど……

 この場にいる百名近くの生命を助けた修は、紛れもなくかつての……いや、かつてとは比べ物にならないくらい頼りになる、圧倒的なヒーローで……

(もしかして……)

 咲希は思う。

(私は……ずっと勘違いをしていたの?)

 修は、本当は変わっていなかった。その本質は、咲希が好きだったあの頃のまま。ただその事実に、咲希が気付いてあげられなかっただけなのではないか。

(だとしたら……私は……)

 咲希は、益々顔を伏せる。後悔と罪悪感で、押し潰されてしまいそうだった。

 何も知らずに、修を責めた。知ろうともせずに、彼から離れた。挙句の果てに、彼の忠告に耳を貸そうともしなかった。

 つまり咲希は……彼のことを信じることが出来なかったのだ。一人泣いていた咲希に手を差し伸べてくれた修を、今度は咲希が一人にしてしまったのだ。

(何を言われたとしても、誰よりも、私がそばにいてあげるべきだったのに……)

 今更、どんな顔をして修に近づけば良いと言うのだろうか。

「おい、春夏冬」

 俯き、一歩身を引いた咲希に代わって、隆がまた修の前に立った。

 見ると、ようやく和樹を立ち上がらせることに成功したのか、右手に和樹を掴んでいる。

「俺から礼を言う気はねえが、一応こいつには言わせようと思ってな」

 そんなことを口にする隆。どうやら彼は、意外にも道義に厚い人間らしい。対して和樹は、不服そうな顔で目を逸らしていたが、

「おい」

 隆にそう急かされ、本当に渋々といった調子で、首を垂れた。

「……まぁ、一応助かったよ。俺一人でも、何とかなったけど」

 随分と、子供じみている。だが、ずっと虐めていた相手にみんなの前で助けられて、プライドを大いに傷つけられた彼の気持ちも分からなくはない。修も、そんな和樹の気持ちはよく分かったし、何より本気で感謝をされても、それはそれで都合の悪いことになる。

 見返りはいらない。それは修にとって、凶器とまではいかずとも、少なくとも毒にはなるのだから。

「別に。大したことじゃない」

 だから修は、決まって他者からの謝礼や御礼は受け取らない。今回のような特殊ケースでも、それは勿論踏襲されて……

 けれどそんなことを知らない和樹の内心は、怒りで静かに打ち震えた。

(大したことじゃない? ――つまり俺は、その程度で腰を抜かす臆病者ってことか?)

 高いプライドを傷つけられた時ほど、えてして人は被害妄想が逞しくなる。和樹も勿論その例に漏れず、修への敵愾心を密かに燃やした。それでも、それを今この場で顕にしなかったのは、彼にも最低限の自制心くらいは備わっているということなのだろう。 

「それで? これからどうする?」 

 そして隆も、別にそこには頓着しない。謝らせた以上、その内心にまで踏み込む気はない。だから早々に、より緊急性の高い話題へとシフトした。

「この場で一番強いのは修、おまえだ。だから俺は、おまえの指示に従う」

「!?」

 瞬間、確かに場がざわついた。

 目の前で起こった非現実な事態を前に、どうすれば良いのか分からず立ち竦んでいたギャラリーたち。それが、隆が口にしたその一言に驚愕する。

(加山隆が……指示に従うだって?)

 隆は、札付きの悪だ。本人としては別にそんなつもりはないのだが、短気な性格と弱肉強食を旨とする価値観、そして才能に恵まれた腕っぷしの強さによって、知らぬ間にみんなに恐れられるようになっていた。生意気だとシメにきた上級生を、片っ端から病院送りにしたのもその一因に違いない。

 そんな札付きの悪が、素直に頭を下げたのだ。それも、ついさっきまで、単なる虐められっ子に過ぎなかったモブキャラのような男子に。そのような場面を見せられて、驚くのも無理からぬことだろう。

 けれど教師にとってみれば、そんなことは言っていられない。

「おい! 勝手なことを言うな!」

 他の生徒と同様呆けていた教師たちは、勝手に指揮系統を奪われたのを見て我に返る。状況はよく分からないが、生徒の暴走に任せていて良いはずがない。

「早くこちらに戻ってきなさい。そこで倒れている人たちは、先生の方で何とかするから」

「何とかする?」

 それを聞いた隆が、鼻で笑う。

「生徒に倒させといて、それはないだろ。あんたら、こいつらが起きてきたら何とか出来んのか?」

「……ぅ」

 一瞬、怯む。それを、隆は見逃さない。

「だろうな。まぁ別に、責める気はねぇよ。本物の軍人を相手に出来る教師なんて、そっちの方がおかしいんだからな」

 そう言い捨てると、もう黙っていろとばかりに教師たちから顔を逸らして、今度は修に尋ねる。

「それで? どうするよ」

「赤泊港まで逃げる。俺のことを信じられる奴は、ついてきて欲しい」

 修はその問いを受け、改めてこの場にいる全員に向けてそう告げた。

「俺は……春夏冬について行くよ」

 すると、真っ先に立ち上がった生徒がいる。

 その生徒は、一直線に倒れている兵士の所まで歩いて行くと、落ちている銃器を手に持って、まじまじと見つめた。

「AK―74――やっぱりカラシニコフか……」

「秀一、おまえ知ってんのか?」

 その生徒は、優等生の瀬戸秀一だった。秀一は銃器から顔を上げると、興奮した面持ちで話し始める。

「知ってるも何も、これは超有名なライフルの改良版だよ。旧共産圏でよく使われているはずの銃だから、この辺でまだ使っているとすれば……」

「北朝鮮か?」

 秀一の話を聞いた隆が、間髪入れずにその国名を挙げる。意外にも隆には、北朝鮮の政治体制を理解する程度には、世界史の知識があるらしい。

 秀一も、少し驚いた顔を見せつつも、素直に頷いた。

「多分ね」

 それから、少し考える素振りを見せてから、修の方を見て言った。

「だからやっぱり北岸から攻めてくるっていうのは、全然あり得ると思う。もしそうなったら、こんな島なんてあっという間に陥落しちゃうよ。だったら、この島から脱出した方が絶対良い」

 秀一は頭をフル回転させる。

 友軍からの援軍が期待出来るなら、まだ少しは状況が違うのかもしれない。けれど、今回の北朝鮮の行動はあまりにも拙速だ。アメリカ大統領を暗殺し、その声明を出した直後に、核ミサイルまで発射した。更にはその混乱に乗ずる形で、闇夜に紛れた地上軍の侵攻だ。

(日本は……米国も含め、完全に後手に回っている)

 そう見るのが、妥当だろう。ならば、こんな状況で充分な規模の援軍を期待するのは、あまりに楽天が過ぎるというものだ。

(それに……)

 秀一が考えたのは、それだけではない。これはあくまで推論だから、口には出さなかったけれど……

(北朝鮮軍にとって、自分たちの戦略的価値はかなり高いんじゃないか?)

 根拠はある。

 恐らく、修が倒した敵は先行部隊だ。大部隊で攻め寄せる前に、敵地の撹乱や兵站の占拠、軍事拠点の破壊などに従事する部隊。そんな部隊が、一目散にこのホテルにやって来たのだ。それすなわち、このホテルには彼らの戦略上重要な目標が、存在していることになる。

 そしてここは、ホテルだ。しかも、今日の宿泊客は、修学旅行生である自分たちだけ。であるならば、自分たちの中の誰か、あるいは自分たち全員が、彼らにとって優先順位の高い収奪目標ということになる。

 とはいえ、自分たちの中に政治家の子供はいない。大企業の社長の息子も、芸能人の娘だっていない。至って普通の中学生しかいない以上、特定個人を狙ったとは考えにくい。

 ならばやはり、自分たち全員が等しく敵の優先目標であり、その利用価値は、恐らく人質と肉の盾なのだろう。島民よりも優先したのは、全員がまだ子供で、おまけに身寄りが本土にいる率が高いからと推察できる。

(そうなると……やっぱりここに残るのは、自殺行為だ)

 仮に佐渡島が北朝鮮に占拠された場合、秀一たちは真っ先に捕まり、交渉材料か、もしくは牽制のために利用されるだろう。最悪の場合、たとえ日本がその後勝っても、誰一人戦後を拝めない可能性すらある。したがって、この島に残るという選択肢は、絶対選ぶべきではなかった。

「秀一が行くなら、私も!」

 そんな秀一の深刻な考えなど知る由もなく、間髪入れず、晴菜が元気いっぱい声を上げた。

 単純に、恋人と一緒にいたいという感情故の刹那的な選択だったが、この場においては、紛れもなく正解だ。これは、時には感情に従うべしという好例だろう。

「咲希ちゃんも……行くの?」

 次に立ち上がったのは、咲希の親友の美穂だった。恐る恐る修たちに近づき、そう尋ねる。

「……うん」

 咲希は、短く答えた。後悔や罪悪感はあれど、ここで修について行かないという選択肢はない。

「分かった。じゃあ私も行くよ」

 美穂も、それで決心した。

 彼女も、咲希の幼馴染だ。つまり、修の幼馴染でもある。そして美穂は、修のことが苦手だった。引っ込み思案で臆病だった美穂は、餓鬼大将だった修のことが、どうしても怖かったのだ。それは実は、今もあまり変わらない。本心では、先生の言うことに従った方が良いのではとも考えている。

 けれど美穂にとって何よりも大切なのは、咲希とのかけがえのない友情だったから……彼女もまた、理性ではなく感性で、この場の正解を引き当てた。

 こうして、あっという間に、新たな四人が彼らに加わる。これに焦ったのは教師だ。

「おまえたちまで……特に九条! おまえはそんな生徒じゃないだろう」

 咲希は、優等生だ。カーストトップに位置しながら、教師からの覚えもめでたい。そんな彼女に行かれてしまったら、立つ瀬がなくなってしまう。

「ごめんなさい、先生。でも私は……修を信じたいから」

 けれど、咲希の決意は固い。深刻なまでに本気なその表情を見て、『これを叛意させるのは並大抵のことではない』と、教師陣がすべからく困り果ててしまったところで、一人の女教師が前に出た。

「あの……私が彼らの引率をやりましょうか?」

 それは、保健医の美和かな子(みわかなこ)だった。

 まだ年齢的に若い彼女は、ベテランの先生方の前ではまだまだヒヨッコだ。故に、事あるごとに仕事を押し付けられ、時にはセクハラまがいのことまでされていた。

 だから彼女にとっては、この修学旅行への随伴はストレス以外のなにものでもなく、一刻も早く終わって欲しいとまで思っていた。それなのに、ここに来て相川中学校への避難が課せられ、更なる拘束期間の延長は必至だ。

 それは彼女にとって、絶対に避けたいと思えるほどに、絶望的な未来だった。だから……

 ふと、思いついてしまったのだ。

(この機会を……利用できないだろうか?)

 そもそも、教師陣がこうも強く反対している理由はこうだ。

 勝手な行動を取った生徒たちが、自業自得とは言え実際に怪我をしてしまった時、校長や教育委員会に攻められるのは誰か。

 言うまでもなくそれは、勝手な行動を取った生徒ではなく、そんな行動を許した教師たちだろう。保護責任がある以上、保護対象である生徒の安否は、彼らの進退に直結するのだ。故に、生徒たちの勝手な行動を許すなど言語道断。けれど……

 スケープゴートさえいれば、話は別だ。

 保健医である彼女を引率させたという事実があれば、必要な措置を講じたと釈明出来るし、場合によっては彼女一人に責任を押し付けることだって出来るかもしれない。

 それは、ベストな選択肢ではないかもしれないが、従わない生徒たちを説得できる可能性が限りなく低い以上、ベターな選択肢であるのは間違いない。

 妥協点として、決して悪くない――はずだ。

「……確かに、保健医であるあなたが引率してくださるなら……」

 そして、かな子の思惑は当たった。色をなしていた教師たちの顔に思案の影がよぎるのを見て、かな子は内心でほくそ笑む。

(上手くいった。あとは……)

 彼らをより、安心させること。彼女に任せるのが良いと、思わせること。

「はい、私はこんな時のためにいるのですから。彼らのことはすべて、私にお任せください。だから先生方は安心して、他の皆さんを安全な所へ」

 彼女はチラリと、学年主任の胸ポケットを見る。そこには、先程の職員会議を記録するために使っていたボイスレコーダーが入っているはずだ。そしてかな子は、未だにそれが動き続けていることを知っている。自分の言葉が、言質として録音されていることを知っている。

(今の言葉で、満足でしょう? おじさん)

「分かりました。美和先生がそれほど仰るなら、お任せしましょう。ただ、彼らも大事な生徒です。どうか、くれぐれも彼らをお願いしますよ?」

 素晴らしい。何から何まで、かな子の思惑通りだ。

 かな子は、思わず上がってしまいそうになる口角を必死で抑えて、神妙な顔で頷く。

「お任せください」

 教員になって二年。かな子がこの時ほど力強く『お任せください』を口にしたのは、思い返すまでもなく、初めてのことだった。


 それから、一同は速やかに動いた。

 かな子が引率役となったおかげで、正式なグループとして認められた修たち一行は、更に六名のメンバーを加入させ、移動用のマイクロバスを借り受ける。

 一足先にと、百名近くの人員を引き連れて、大型観光バスで敷地から出て行ったみんなを見つめながら、隆は隣の修を見た。

「こっちに来たのが、結局一三人。それを案外多かったと見るか、それとも少なかったと見るか……そこんところは、どう思うんだ? 春夏冬」

 ホテルから離れて行くバスを見送りながら、隆は修の横顔に聞く。

「多いも少ないもない。ここに残ってくれたメンバーと一緒に逃げる。それだけだろ?」

「ハッ、まあな」

 隆は振り返って、残ったメンバーの顔を見る。

 半数が、彼らと馴染みのない他のクラスの生徒たちだ。結局、あの後修たちについていきたいと手を挙げた人間の中に、彼らのクラスメイトは一人もいなかった。いつも、隆と和樹の後ろをついて回っていた翔吾の姿すらない。恐らく翔吾にとっては、今この瞬間が、大手を振るって隆たちと別れられる、絶好の機会に映ったのだろう。

「じゃあ……行くか」

 いずれにせよ、残ったメンバーで進むしかない。全体の二割に満たない十三人という人数は、数だけで見れば決して多くはないのだろうが、さりとて、少人数とも言えないのだ。何が起こるか分からない夜のドライブを敢行する以上、それは決して気を抜いても良い理由にはならない。

 一向は動き出す。マイクロバスに乗り込み、一路、南を目指す。

 幸い、外はまだ、一面の静けさが辺りを支配していた。

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