2027年:災厄の中に咲いた花 第二章

 世の中には、おかしなことがたくさんある。

 都市伝説と呼ばれる怪奇現象。ネス湖のネッシーに代表される未確認生命体。更には上空に目を向ければ、星のように瞬きながら移動する円盤状の物体。

 たくさんの〝奇妙〟が横行するこの世の中で、しかし修ほどそういったものに縁がある人間は、世界中のどこを探しても、中々見つからないかもしれない。

 そもそも、生まれた時から、彼の頭上にはとびっきりの奇妙が鎮座しているのだ。

 『春夏冬』

 さて、あなたなら、なんて読むだろうか?

 『はるなつふゆ』だろうか? けれど、思い出して欲しい。これは彼の頭上に鎮座する〝奇妙〟の話なのだ。故にこの三文字熟語――彼の苗字は、こう読む。

 『あきなし』

 理由の説明はいるまい。

 春夏冬修(あきなしおさむ)は、生まれながらにして、〝奇妙〟に愛された男だった。だから成長してからも、彼の十四年間の人生の節々で奇妙なことが起こった。

 思えば、今、教室で、修が一人落書きだらけの机に座っているのも、その顕れの一つなのだろう。

「おい、ちょっと今月金欠なんだよ。金、貸してくんね?」

 大人しく座っていた修に、ガラの悪い少年が近づいてきて、そう言い放った。公衆の面前で行われる明確なゆすりに、流石に周囲から非難の声が上がるかと思いきや、誰も何も言わない。

 多くの者が知らんぷり。眉を顰める人間も数人はいるが、中にはニヤニヤと笑う人間もいるくらいだ。その空気感を知るだけで、このやり取りが常習的なものであるという事実が、ほとんどの者には察せられるだろう。

「構わないけど、持ち合わせはこれしかないよ」

 修が、そう言って財布を取り出す。その財布は修によって開かれる前に、不良によって奪われた。

「ちっ……五千かよ」

 露骨に残念そうな顔をした不良が、

「隆(たかし)、こいつ五千しかないとか言ってんだけど、どうする?」

 後ろにいた仲間に、そう指示を仰いだ。

 すると、隆と呼ばれたもう一人の不良は、

「ほっとけよ、そんな奴。五千もあれば、充分だろ?」

 と、興味無さそうにそっぽを向いて、教室の外に出て行ってしまった。

「ておい! ちょ待てよ! 俺も行くって!」

 それを見た不良は、五千円を財布から抜き取ると、空になった財布をその場に投げ捨てて、急いで隆の後を追った。

 不良の姿が見えなくなってから、修はノロノロと、床に落ちた財布を拾おうと身を屈める。が――

 修の目の前で、財布の上に何かが降ってきた。

 それは見たところ、靴のようだった。学校指定の上履きで、白い生地に青いサイドラインが入っている。

 修は視線を上げる。すると、さっきまで彼ら不良の後ろにちょこんと立っていた少年が、薄ら笑いを浮かべて彼を見下していた。

「ごめん、足が滑った」

 一言だけ、馬鹿にするようにそう言い放つと、

「隆くん、和樹(かずき)くん、僕も行くよ!!」

 と大声で叫び、慌ただしく彼らを追って走り去ってしまった。

 修は数秒の間、身を屈めたままの姿勢でじっとしていたが、やがて思い出したように財布を拾い、手のひらでパンパンと叩く。幸い、財布についた靴跡は、それだけで綺麗さっぱり消えてくれた。

「……ねぇ、少しはやり返しなよ」

 そんな彼に、またどこかから声がかかる。

 顔を上げると、一人の女子生徒がそこに立っていた。彼女は、長い黒髪と気の強そうな鋭い眼光が特徴的な、クラスの中でも一目置かれている、所謂トップカーストの女の子だ。

 名前は、九条咲希(くじょうさき)。

 彼女が修の幼馴染であることを知っている人は、実は案外少ない。その理由は単純で、公衆の面前で咲希が進んで修に話しかけるなんてことが、ここ二年間では一度もなかったためだ。

ちなみに誤解がないように付言しておくと、誰も見ていない所でも、その回数は片手で足りるくらいしかない。

「別に良いよ。誰も、不幸になってないし」

 しかしその割に、修の反応は淡白だ。久方ぶりに美少女幼馴染に話しかけられたのだから、もっと嬉しそうにすれば良いものを、むしろ素っ気ないくらいの態度で応対する。これが、緊張で固くなった結果とかであればまだ分からなくはないのだが、修の場合は、そんな要素が欠片もないのだから厄介だ。

 故にこの奇妙な会話劇も、この場にいたクラスメイトからしたら、一週間は口の端に上るくらいには、奇妙な現象であるに違いない。事実、少しだけ教室がざわついた。

「修がなってるじゃん。さっきだって……なに? 高村(たかむら)くんに財布まで踏まれて。元は、虐められてたの、高村くんじゃん」

 だが彼女も、そんな周囲のざわつき程度で止まるつもりはない。

当然だ。彼女の今の行動は、長年の我慢と鬱憤の発露なのだから。

 自分の幼馴染が、群れることしか能がないような不良に虐められている。それは彼女にとって、居ても立っても居られないくらいに、歯痒いことなのだ。いくら修に避けられていても、もういい加減、口を出さずにはいられなかった。

 ……そう。ここでもう一つ、奇妙な事実を明らかにせねばなるまい。

 親密とはどう逆立ちしても言いかねるこの二人の関係は、クラスのトップカーストに君臨する咲希が、冴えない幼馴染を邪険にした結果出来上がったものではなく、その内実はまったく逆なのだ。

 実のところ、離れて行ったのは……修の方からなのである。

「それなのに、自分を助けてくれた修が代わりに標的になった途端、虐める側に回るとか、頭おかしいんじゃないの?」

 そんな背景を知ると、この、美少女の口から出てきたとは思えない汚い言葉のわけも、多少なりとも理解出来る。先にも述べた通り、これは長年の我慢と鬱憤の発露なのだ。

 それに、彼女のこの指摘も、言い過ぎかと言われれば別段そんなこともない。

 修への虐めを黙認している他のクラスメイトであっても、高村くん――つまり高村翔吾(たかむらしょうご)に対しては、冷ややかな視線を崩さないという事実が、それを証明している。

 ちなみに、高村翔吾がさっきのような過激な行動に走る理由は、『みんなから一目置かれる存在になって、その冷ややかな視線をなんとかしたい』と考えているからなのだが……現実は成程、中々どうして、ままならない。

「ホントにムシャクシャしてきた。今度もし何かやられたら、今度こそ私、止めるから」

 溜まりに溜まった鬱憤が、彼女をどんどん過激にさせる。普段は比較的穏やかな性格であるはずの彼女が、人目も憚らず激昂する様はかなり刺激的だ。最初はただ好奇の視線を向けるだけだったクラスメイトの顔にも、次第に強張りが目立つようになってくる。

 だから……なのだろうか?

「気にしてないから」

 黙って咲希の言葉を聞いていた修が、一言、そう漏らしたのだ。

 客観的に見て、突き放したと言って良い。それくらいそれは、感情の篭らない……けれど、冷たい一言だった。

 咲希は、喉元まで上がってきていた、すべての言葉を失う。

「……そう」

 咲希はようやく、その一言を絞り出す。

「……もう、勝手にして」

 それが、精一杯だった。これ以上何かを口にすれば、それはすぐに嗚咽に変わってしまいそうだった。

 彼女なりに、勇気を振り絞っていたのだ。

 彼にまた、拒否されるかもしれない。クラスのみんなにも、変な目で見られるかもしれない。そんな不安は当然あったけれど、それでも見ていられなくて、席を立った。

 それなのに結果として返ってきたのは、「気にしてないから」という、無気力で無感動な一言だけだったのだ。それに……

 かつての彼なら、口が裂けてもそんな台詞は言わなかっただろう。

 そう……

 咲希が泣きそうになった真の理由は、実はそれなのだ。彼に拒否されるより、クラスのみんなに白い目で見られるより、

『かつての彼はもう存在しない』

と告げられる方が、彼女には余程辛かった。何故なら、大好きだった彼女のヒーローは、やっぱりとうの昔にいなくなっていたのだと、そう突き付けられているような気がしたから。

 咲希は、行き場を失った拳を力無く開き、俯いたまま踵を返す。肩を落として、とぼとぼと、弱々しい足取りで自分の席へと帰る。

 そんな彼女の、悲しげな背中に向けて、

「……悪いな」

 と、懺悔の言葉が一つ放たれたが、届かないよう調整されたその声は、咲希の背中を目前にして空中分解する。結果、咲希は一度も振り返ることなく自分の席に帰りつき、顔を見られないよう机に突っ伏した。

これで悪くとも、誰かに涙を見られることはない。


 『涙』


 咲希が人前でそれを見せなくなって、もう随分と立つ。今の出来事の後では俄には信じられないかもしれないが、昔の咲希は、大人しい泣き虫だったのだ。

 昔から容姿は整っていたから、小学生男子特有のノリで、よく意地悪をされた。その度に、咲希はなんで意地悪をされるか分からず途方に暮れて、そのまま泣いてしまったこともしばしばだ。しかしそうなると、咲希を泣かせた男子が、今度は女子の総攻撃を受けることになる。咲希はそれが忍びなくて、やがて人前では泣かなくなった。みんなの前では困ったような笑顔を浮かべ、人知れず、自分の家である神社の影で、一人泣くようになったのだ。

 そんな悲しい習慣は、数ヶ月――小学一年のとある夏の日……彼と出会う日まで、続いた。

 彼――春夏冬修とは、別のクラスだった。だから、ちゃんと顔を合わせたのはその時が初めてだ。けれど修は、泣いている咲希に気がつくと、おもむろにポケットからハンカチを取り出して、仏頂面のまま突き出してきた。咲希がそれを受け取らないと、いつまで経っても突き出してきた。

 数分くらいそんな状態が続き、流石に根負けした咲希が、黙ってそれを受け取ると……

 今度は、満面の笑顔を浮かべた修が言ったのだ。

「よし! じゃあさっさと涙拭いて、遊びに行こうぜ!」

 それが、修との出会いだった。

 餓鬼大将で、みんなのリーダーだった修は、それ以来咲希を守った。泣き虫な咲希が泣くと、その度にハンカチを貸してくれた。

 餓鬼大将らしく、傍若無人なところも目立ったため、彼のことを悪く言う人の数も少なくはなかったが……それでも、少なくとも咲希にとっては、とても良い友人だった。

 彼と一緒に山野を駆けた思い出は、今でも咲希の最高の宝物だ。彼は紛れもなく、咲希にとってのヒーローで……そして、憧れの人だったのだ。 

 でも、どういうわけか……ある日を境に、その楽しい日々は終わりを告げ……

 それ以来、修はまるで別人のようになってしまった。

 自信に溢れた言動はすっかり鳴りを潜め、何かを恐れているかのように、いつもビクビク。その癖、咲希のことを必要以上に気にかけて、気持ち悪いくらいに優しくしてくるのだ。

 それだけで、周囲の人間からすれば充分な異常事態だと言えたが、それはまだ、序の口だった。そんな状態が一ヶ月ほど続いた後、修の行動が更に変化したのだ。

 一言で言えば、優しくする範囲が広がった。今までは、咲希に対してのみ向けられていた優しさが、それ以外の友人、更にはその周辺、終いには、見ず知らずの他人にまで広がった。同時に、彼は人前に出なくなる。まるで人の視線を避けるように、見えない所でひっそりと善行を働き、表では、うだつの当たらない日陰者に成り下がる。

 その姿は、もう頼りになるリーダーなどではない。精々が、弱々しい善人で精一杯か。

 そして、そんな変化と連動するように、修は咲希から距離を取るようになった。いやむしろ、明確に咲希のことを避けるようになった。

 咲希にとって、それらの変化はまさしく青天の霹靂だったが、しかしどうすることもできない。始終肩を並べていた二人の仲睦まじい姿は街から消え、一人トボトボと歩く咲希の姿が、至る所で散見されるようになった。

 そして――今に繋がる。

 修から突き放された咲希は、ひと月ほどは意気消沈していたが、元々性格が良かった彼女の周りには、すぐに友達が集まった。そうなると、彼女は持ち前の気遣いを遺憾無く発揮するし、修と遊ぶ中で培われた芯の強さがそこにプラスされていたから、あっという間にみんなの輪の中心になった。

 その後、そう時を経ずして、咲希はクラスのトップカースト入りを果たし、修との接点は完全に消滅。時々噂として、修が隣町の不良を相手に派手に喧嘩しただとか、何故かヤクザとやり合って警察沙汰になったとか、そんな物騒な話も流れてきたことはあったが……誰もそんな話は信じないし、咲希だって、もはやその真偽を確認する術もない。

 まるで双子のようにいつも一緒にいた二人は、今となっては、方やクラスの人気者。方やクラスの虐められっ子。

 昔のように肩を並べて過ごすには、二人の間に立ち塞がっている壁はあまりに高く、そして嫌になるほど、分厚く頑強だった。


「なんか咲希、今日暴走したらしいじゃん?」

「え?」

 バスケ部の練習を終え、更衣室で制服に着替えていた咲希は、不意に部長に話しかけられて、驚いて振り返った。

「別に暴走なんて……そもそも、なんで先輩がその話を?」

「男バスの奴らが騒いでた。美人が怒るとチョー怖ぇって」

 部長が、揶揄うように言う。すると、隣で着替えていた友人の一人が、

「あ。そう言えば、美穂(みほ)ちゃんが心配してたけど、もしかしてその話かな?」

 と、何かを思い出したかのように顔を上げた。咲希が、その整った眉をピクリと上げる。

「美穂……また余計なことを」

「良い友達じゃん。私もその話聞いたけど、それ話してきた子は、なんか面白がってる感じだったし」

 また別の友人が、会話に入ってくる。

「てか、なんでこの女バスには、咲希と同じクラスの子がいないわけ? これじゃ、噂ばっかで目撃談が聞けないじゃない」

 部長が、不服そうに腕を組む。

「聞かなくていいですよ、別に」

 咲希がうんざりした顔をするが、「あ、私、結構詳しく聞きましたよ」と更にもう一人の部員が話に加わる。

「なんか、咲希のクラスにめっちゃ地味な男子がいるんですけど、咲希がその男子が虐められているのを見て庇ったらしいんですよ」

「うわ、咲希らしい。でも、そういうの気を付けた方が良いよ? 相手、変な勘違いしちゃうから」

「と、思うじゃないですか。でもなんか、そん時はその男子が『俺に構うな』的なこと言ったらしいんですよ」

「うわ、マジで? 普通にキモいんですけど。てかそれって、なんか変なアニメとかに影響受けてんじゃないの?」

「あぁ……かもですね。見た目は結構よさげなのに、髪とか全然気にしてなくて、確かにそんな雰囲気あるかも」

 女子たちが盛り上がる。それを脇に見ながら、咲希は辟易とした顔でさっさと自分の着替えを進めていたが、

「でも、咲希も結構ショック受けてたんでしょ?」

 と、再び話の矛先を向けられた。

「……受けてない。ちょっと、むかついただけ」

 思わず、渋面になった。思い出すと、自分に腹が立ってくるのだ。

 もうかつての修がいないなんてこと分かり切っていた筈なのに……それなのに、未練がましく声をかけた。性懲りもなく修に期待した。そんな女々しい自分自身が、咲希は一番許せない。

「だから、もう二度とあんなことはしないから」

 いい加減、今回のことで吹っ切れたと思う。あれからもう六年も経つのに、未だに忘れられないなんて、いくらなんでも一途すぎだ。そろそろ、新しい恋に踏み出したって、バチは当たらないだろう。

「それがいいよ。咲希はそもそも、お人好し過ぎるんだから」

 先輩が、何度も頷きながら咲希に同意する。それは、咲希の『もう二度とあんなことはしないから』に対しての返答に過ぎなかったが、まるで咲希が心の中で考えていたことに対しての答えのようにも聞こえて……

 咲希の心がまた小さく、ズキリと密かに、疼いたのだった。


     ***


「はぁ!? 佐渡島??」

 修学旅行の行先が佐渡島に決まった時、和樹を筆頭にクラスの至る所から不満の声が上がった。

 当然だ。例年であれば、彼らの学校は修学旅行に沖縄に行く。けれどつい先日、お隣の中国が台湾侵攻にかこつけて尖閣諸島を事実上占領したことで、沖縄行きは急遽変更の憂き目にあったのだ。

 沖縄旅行を楽しみにしていた彼らには気の毒だが、事情が事情だから仕方ない。

 結局は、生徒に過ぎない彼らが学校の方針に逆らうことなど出来ず、佐渡金山の『金塊チャレンジ』に幾ばくかの期待を寄せて、新潟行きのバスに乗り込むことになった。

 時期は五月。新緑が目に眩しい季節だ。

 修は車窓から見える景色を楽しみながら、今日もいつもと変わらず、一人でバスに揺られていた。

 ちなみに、隣には誰もいない。不良に目をつけられている修に自分から関わろうとする人間は、咲希のあの一件以降一人も現れなかったし、その咲希もあれ以来、修と目を合わすことさえ避けるようになっていたから、当然そこにはいない。

 今は修に目もくれず、小学校時代からの友人である敷島美穂(しきしまみほ)と楽しげな会話を続けている。

 一見すると、中々寂しい光景だ。修学旅行のバスの中、周りは楽しく友人同士でおしゃべりに興じているのに、自分には隣り合う人もいないというのは、普通なら精神的にかなりキツイ。

 けれど、修はその点、普通ではなかった。

 修が今心に抱いている感情は……平和ゆえの安らぎだ。

 修にとって、誰のことも気にかける必要のない時間というのは希少なのだ。いつもいつも、誰かしらの役に立てないかと気を張っている修にとって、その必要のない密閉空間での移動時間というのは、筆舌に尽くし難い価値があった。

 だからこそ修は、何もかも忘れて……あの日の神社での出来事も忘れて、コクリコクリとうたた寝だって出来る。

『無償の愛に生きよ』

 あの日、神社の中で途方に暮れていた修の耳に聞こえたその神聖な響きも、夢の中までは、追いかけてはこないのだから。


 結局、爆睡してしまった。

 新潟港にバスが到着し、みんながガヤガヤと席を立ち出して、ようやく修は目を覚ます。

「ふわぁぁ」

 大きな欠伸を一つ。修は手持ちの荷物をまとめて立ち上がり、みんなの後ろに続こうとする。だが――

「――ッ!?」

 足を何かに躓いて、危うくその場に転びそうになった。代わりに、椅子の角に額をぶつけて、一瞬視界に星が瞬く。

「わりぃ、わりぃ。存在感無さすぎて気付かなかったわ」

 額をさすりながら顔を上げると、ニヤニヤと品のない笑みを浮かべた和樹が、足を通路に突き出していた。

「でも、やっぱりそれって俺のせいじゃなくね? 存在感薄くて、おまけにこんなのに躓く鈍臭い奴のせいなんじゃねぇの?」

 そして、通路を挟んだ向かいに座っている翔吾に、話を振る。

「う、うん。本当にそうだと思う。和樹くんのせいじゃないよ」

 翔吾が、慌てて首を縦に振った。満足そうに、和樹が口角を上げる。

「だよな。こいつホント運動神経悪いから。おい! 謝れよ!」

 肩をどつかれる。まだ完全に額へのダメージから立ち直っていなかった修は、軽く後ろによろめいた。

「……悪い。ちゃんと前を見てなかった」

 それでも、言われた通りに謝罪する。和樹が、益々嫌らしく口角を上げたのが分かった。

「ほんとだよ。俺の靴が汚れたらどうす――」 

「おい。もう行くぞ」

 その時だ。更に嫌味を繰り返そうとした和樹の隣で不機嫌そうな声がして、和樹が口を閉じる。その和樹を押し退けるようにして通路に出た隆が、一瞥だけを修に送って、バスからさっさと降り、そのまま歩き去ってしまった。

「おい! 隆、待てよ!」

 それを見た和樹が慌てて彼に続き、翔吾もそれに倣う。あっという間に、バスには修一人が残された。

 見方によって、隆に助けられたように見える場面かもしれない。けれど、去り際に隆が修に送った視線が、そんなことは全くないことを明示していた。

 隆のその瞳の奥には、これ以上ないほどの侮蔑の光が、しっかりと宿っていたのだから。

「ふぅ……」

 修は、額にたんこぶが出来ていないか触って確認してから、バスの出口へと向かう。

 運転手が心配そうな目を向けてくれていたような気がしたが、修は軽く会釈をするだけで顔を背け、運転手もそれ以上、何かを言ってくることはなかった。


 佐渡島行きの船の中でも、あまり変わり映えしない展開が続いた。

「そもそも、なんでお前、修学旅行来たの? 自分が来たら他の人に迷惑になるとか、考えないわけ?」

 普通だったら、気持ちの良い風によって心が洗われる癒し空間として、人気の高い甲板デッキ。しかしそんな癒し空間も、いまや、じめっとした虐めの現場に様変わりしていた。

「ホントだよな。マジこいつ、空気読めないから」

 ギャハハと、下品な笑いが響き渡る。いまこの場には、和樹たち以外にも四人ほどが詰めかけているが、残念なことに、珍しいという程ではない。

「……ごめん」

 理不尽極まる言い様だったが、修は謝る。確かに、彼らの言うように、修学旅行を休むという選択肢はあった。けれど、修にも両親がいるのだ。修学旅行を突然休むなんて言ったら、彼らが心配するではないか。自分は何をされても構わないが、両親に心配を掛けたくはない。修とて、それくらいのことは考えるのだ。それに――

 チラリと、輪の中にいる翔吾に目を遣る。もし修が参加しなかった場合、彼らは鬱憤を晴らす標的に、また翔吾を指名する可能性があった。小学時代から虐められていたらしい翔吾が、ようやく疎外感を味合わずに済む修学旅行になるかもしれないのだ。自分が休むことで、その機会を奪ってしまいたくはなかった。

「おい、こっち見るなよ。気持ち悪いな」

 翔吾が、口の片側を上げてせせら笑う。みんなも、どっと湧いた。

「こいつ、もしかして翔吾に気があるんじゃねぇの?」

「うわっキモ! マジかよ」

「いやいや、今は多様性の時代ですから。良いんじゃないですか? 修ちゃん」

 波の音を、笑い声が掻き消す。彼らのストレス発散は、まだ今しばらく、終わりそうになかった。


「……なんだか騒がしいな」

 島に船が到着し、ようやくみんなから解放された修は、島に上陸した瞬間、まずそんなことを感じた。

 まだ、人が大勢いるような場所には出ていない。だから、本来は騒がしく感じることなどあり得ないのだが……修には、空気を伝って流れてくる島民の感情が、異常なまでに揺らめいていることを感じ取ることが出来た。

(沢山の人の心が……ざわついている?)

 この感じは、センター試験の前の日に似ている。修はまだ中学生だからそんな感情とは無縁だったが、その日になると、確かに街がざわついた。

 他の例を挙げるなら、例えば、数年前にこの付近で大地震が起こった時なんかも、似たような空気感があったかもしれない。

 いずれにせよ、彼の過去の経験から、この感じはあまり歓迎されるようなものではないことは明らかで、ここの島民にとって何か良くないことが起こったのかもしれないと、そう修に想像させるのに、充分なインパクトを持っていた。

(一応、いつでも動けるようにしておくか)

 今は修学旅行の最中だが、自由時間がない訳ではない。もし自分の力を必要としている人間がどこかにいるのであれば、その時間を活用して助けに行くというのも、やぶさかではなかった。勿論、バレたらあとでめちゃくちゃ怒られるだろうが、時と場合によっては、それも仕方のないことだろう。

(出来れば、普通の慈善行為の範疇で済みますように)

 人知れず、修は心の中でそんな風に手を合わせてみるが、こればっかしは、修の一存ではどうにもならない。実力行使が必要なら、それも已むなしだ。

 密かに覚悟を決めた修は、周囲の様子に一層注意を傾けつつ、ひとまずはそのまま修学旅行のコースに乗る。何が起こっているか、何が聞こえてくるか、決して見逃すことがないように。


 島に上陸した時に感じたざわつきの原因は、思いの外早く、明らかとなった。

 港から最初の見学先――『西三川ゴールドパーク』へと向かうバスの中で、その原因だと断定して良い出来事が、みんなの話題に上がったのだ。

「え!? マジかよ……」

 最初は、クラスの中でも比較的優等生で知られている男子――瀬戸秀一(せとしゅういち)の声からだった。

「なになに?」

 秀一の彼女である日比谷晴菜(ひびやはるな)が、隣で彼が弄っているスマホを覗き込む。

「んと……アメリカ大統領が……急死?」

 晴菜が、ピンと来ていない顔を傾ける。周りのみんなの反応も、そんな感じだ。

「え? なに、病気?」

「今の大統領って、何歳くらいだっけ?」

「てか、名前なんだっけ?」

 中学生らしい、あどけない感想。普通の中学生の国際知識なんて、興味がない限りそんなものだ。修学旅行のバスの中で、国際ニュースなんかを見ている秀一の方が珍しい。

「……いや、大事なのはそこじゃない」

 でもだからこそ、秀一はすぐにたどり着いた。

「北朝鮮が、声明出したらしい」

「? なんて?」

「大統領を殺したのは……自分たちだって」

「え? そうなの?」

 晴菜が身を乗り出す。

「どうやったの? あ、もしかして! 今流行りの、ドローンとか?」

 事態の深刻さを全く理解していない晴菜は、まるで芸能ニュースについて話すようなノリで、以前秀一から聞いていた知識を使って質問する。

 きっと秀一は、ちゃんと話を覚えていた自分のことを褒めてくれるに違いない――そんなことを、内心では期待しながら。でも……

「いや……」

 秀一は、晴菜を褒めなかった。

「なんか……」

 正確には、褒める余裕が無かった。何故なら――

「呪い殺した……らしい」

 そう、それが理由。記事の中で踊る、その場違いな単語のインパクトがあまりに大きくて、秀一にはとてもではないが、他のことに意識を割いている余裕なんてなかったのだ。

 だが……

「…………」

 みんなにとっては、違う。一瞬だけ、呆気に取られたような沈黙がバスの中を支配するものの……

 ドッ――

 その一瞬が明けると、けたたましい笑い声が、バスの中でこだました。

「呪い殺したって、どんな映画だよ」

「え? てかそれマジ? マジで言ってる?」

「なんかヤバそうな国だとは思ってたけど、ホントにヤバい国だったね」

 誰一人、まともに相手をしなかった。だが、それも当然だろう。中世以前ならいざ知らずこの令和の時代に、一国の大統領を呪い殺したなんて嘘、幼稚園児だって吐かない。ということは、北朝鮮という国は、幼稚園児以下の知能だと言うことだ。

 秀一も、そんなみんなの反応を見て、

「あ……あぁそうだよな。ほんと、あの国はなんでもありだから」

 と、一瞬でも真に受けてしまった自分を恥じたのか、慌てて軌道修正をして、話をみんなに合わせた。だから結局、この話はそれで終わりになった。またいつもの、陰謀論的なフェイクニュースの類として。自分たちとは関係ない、世界のどこかのお話として。

 唯一眉を顰めている修には、当然のように誰も気づかないまま。

(呪殺……か)

 修は、車窓から外を眺めながら真剣に考える。

 何故なら、他のクラスメイトと違って、修にとってこの言葉は荒唐無稽なファンタジーなどでは決してなく、またそれを、幼稚園児が吐く嘘だと片付けることが、逆にどれだけ無知であるのかを、よく知っていたからだ。

(そんなこと、本当に有り得るか?)

 だからこの場合の〝有り得る〟とは、呪殺という行為の有無についてではなく、その成功可能性についてだった。

(例えば……俺なら出来るか?)

 誰が聞いても噴き出しそうなことを、修は真面目に考える。自分なら、アメリカ大統領を呪い殺すことが出来るか……

(普通に無理だな……)

 でも、結論は案外普通。当然の如く、〝不可能〟という結果を導き出す。

(じゃあ、アメリカ大統領と関連の深いものを持っていて、かつ強い怨みを抱いていたとすれば、どうだ?)

 しかし、修の考えはそこで終わらなかった。

(無理だ。でも更に……『無償の愛に生きる』という前提を捨てたなら……)

 性懲りも無く、幾度も自問を繰り返す。一度で終わりにしておけば良いものを、何度も、新たな質問を追加する。それは、ほとんどの人が『不毛』と断言するような、一見無意味な試行に過ぎなかったが、それでも修にとっては重要で、だから結局、どうしようもなく、必然だった。

(それなら……出来るかもしれない)

 試行の末に、得られた結論。それは、意味もない仮定によって編み上げられた、荒唐無稽な一つの答え。まさに机上の空論と断じて良いようなその思考は、しかし例え空論でも、妄想ではない。

 そう、妄想ではないのだ。つまり、条件さえ整えば……やり方さえ間違わなければ……それを実行する人間さえ確保出来たなら……

 修の知っている知識の範囲内で、アメリカ大統領を呪殺することは、充分に実際的な手法になる。

 修は一瞬、身震いした。想像したくもないその可能性に、体が震えるほどの恐怖を感じた。それが実現された時、世界中で何が起こるかを思い浮かべて、束の間眩暈を感じたほどだ。

(……まさかな)

 だからこそ、修は頭を振って、その馬鹿げた思い付きを否定する。

(不可能じゃない。けれどそんなことを言い出したら、何だって可能だ)

 例えば、超凄腕のハッカーがいて、アメリカ大統領の外遊計画を事前に入手することが出来たとする。更には、超凄腕のスナイパーがいて、シークレットサービスが想定しえないような地点から、大統領を射殺出来たとする。そんな二つの凄腕を揃って雇い、不断の意思を持って大統領暗殺のために奔走する組織があれば、きっとこの難業は成功するだろう。

 けれどそれは、もはやアニメの世界だ。現実では、都合よくその三つが結びついたりはしない。いや、仮についたとしても、それ以外の外的条件に左右され、目的を達成する前に解けて消えてしまうに違いない。

 故に、沢山の〝可能〟を積み上げたら、それが〝大きな可能〟になるなんてことはないのだ。何かを積めば、何かが落ちる。考えるまでもない、不朽の真理。

(そうだ。だから……心配のし過ぎだ)

 もしかしたら、少し神経質になり過ぎていたのかもしれない。アメリカ大統領の呪殺というパワーワードに引っ張られて、冷静な思考を失っていたのかもしれない。

(止めよう。考えても、埒が明かない)

 だから修は、そう結論づけて目を瞑った。

 それは、決して悪いことではない。いやむしろ、たいていの場合において正しい選択だ。杞憂は人生を不幸にする。実現可能性の低い未来に思いを馳せて、現在の心を掻き乱すのは愚かな所業だ。しかし……

 何事にも、例外は存在する。そしてその例外は脈絡もなく、えてして一番来て欲しくないタイミングでやってくる。来て欲しくないからこそ、ひと際強く目を瞑って、だから余計に、目前に迫っても気付かない。

 そして気付いた時には……

もうきっと、すべては手遅れになった後なのだ。


 砂金採り体験は、予想以上に盛り上がった。

 やはり中学生にとって、砂金が取れるというイベントは大変心が躍るのだろう。それも、友達とどれくらい採れるか競い合いながら出来るのだから、これで盛り上がらない方が嘘だ。この時ばかりは、修への虐めもすっかり影を潜め、みんな目を輝かせながら砂金に向かっていた。

本当なら退屈してもおかしくない資料館の見学も、自分が手に入れた金の歴史となれば話は別。みんな興味深げに見て周り、一日目の日程は無事終了した。

 あとは明日以降に備えて、少し早めではあるけれど、ホテルに帰って休むだけ。

 ちなみに、今回の修学旅行でお世話になるホテルは、彼らが宿泊している間は完全に貸切状態にしてくれているようだった。恐らく、一般客との面倒なトラブルを避けたい先生サイドの思惑が強く働いた結果なのだろうが、彼らのような中学生にとっても、一般宿泊者に気兼ねなく好き勝手出来るのは嬉しい。

「着いたら、ホテルの中探検しようぜ」 

 そんなことを和気藹々と言い合いながらホテルへと向かう道中は、まさに平和そのもので……何十年も繰り返されてきた一般的な修学旅行の、お手本のような姿だった。

 でも――

 既に、歯車は狂い始めている。取り返しのつかない事態が、世界規模で進行している。修が首を振って否定した馬鹿げた思い付きが、現実のものとなっている。

 だからこの平和は、紛れもなく仮初。それに気づくことが出来なかった彼らは、逃げ場を失った、哀れな羊だ。

 ホテルの正面玄関にバスが停まり、いざ降りようと席を立った瞬間に鳴り響き始めた不穏な通知音が、遂にその現実を、彼ら全員に突き付けた。

「な……なんだ?」

 誰かが言い、別にその声に急かされたからではないが、皆一様にスマホを取り出して、音の原因を探る。

「……Jアラート?」

 原因はすぐに分かった。全国瞬時警報システム――通称Jアラートが、緊急速報メールを全国民に流したのだ。内容は……

「北朝鮮が弾道ミサイルを発射? なんだ、いつものやつか……」

 みんなの顔から、心なしか緊張の色が取れる。

 理由は単純で、それは決して珍しいことではないからだ。韓国か、アメリカか、あるいは日本相手かもしれないが、いつもの通りの威嚇射撃。あるいは、人工衛星の発射実験だろうか? まぁ別に何でも良いが、大袈裟に言えば、そんなことはひと月に一回は起こっている。どうせまた明後日の方向か、近くてもEEZ(排他的経済水域)内にでも落ちるだけだろう。だから――


『今更緊張感を持つなんて、心配性を通り越して、もはや馬鹿げている』


 それが彼ら……いや、大部分の日本国民の、偽らざる感想だった。

「あれ? ……またか?」

 けれど、ここで少し、おかしな展開になる。今までであれば、通知はこの一回きりで、後からニュースで『どこそこの海に落ちました』なんていう報告を聞くだけなのだが、なんと今回は、もう一度Jアラートが鳴り始めたのだ。

「直ちに避難。直ちに避難。直ちに頑丈な建物や地下に避難して……下さい?」

 通知された文章を、誰かが読み上げる。見慣れない不穏な文体に頭がついて来ず、よく分からないまま首を傾げる。 

(なんだかまるで……映画に出てくる空襲警報みたいだな)

 きっと、そんなことを考えたのだろう。

 だが、その認識は間違っている。この通知は初めから、紛れもない空襲警報なのだから。

「!?」

 その事実を裏付けるように、更に警報が続く。

 今度は、市が街中に設置しているスピーカーから、同じ文章が声になって流れ始めたのだ。

「え? 何これ……こんなことって、今まであったっけ?」

 あるわけがない。それは、長らく平和を享受してきた彼らが、ほぼ一世紀ぶりに聞く戦争の音だった。

「おい! 全員ホテルに入れ!」

 一同、打ち合わせをしたかのようにその場で立ち竦んでいると、一足早くホテルの中に入っていた先生が飛び出してきて怒鳴る。どうやらこの教師は、生徒たちに比べれば、今の状況を正しく理解しているらしい。 

 先生の指示を受けて、ようやく動き出す人波。

 みんなの顔にも、流石にこの非日常に対する不安感が浮かび始めている。それでも、かろうじてまだ統制が取れているのは、なんだかんだ、まだ現実感が薄いからだろう。

「…………」

 修も、その中の一人だった。ホテルへと続く流れの中を、俯きながら歩く。

 果たして何が起こっているのか。それは、修にもよく分かっていない。

先ほどから、何度か〝未来を視よう〟と試みている。あの日――『無償の愛に生きる』と神に誓ったあの日以来、常に自分の傍らにあったこの力(未来視)を行使しようと、既に三回は試しただろう。

けれど、極めて不安定なこの力は、今の修にはなにものも示してはくれず、どんな情景も映し出してはくれなかった。まるで、既に使用残数が切れてしまっていると言わんばかりに、ツンとすまし顔を逸らしたまま、修の要請に答える素振りは一切ない。

 こうなってしまえば、いくら修が、今まで様々な奇怪な現象に遭遇し、人よりも遥かに多くのことを知っているとはいえ、状況の推移を予測することは困難だった。

 ともかく、規模が大きすぎるのだ。

 修はこれまで、実に様々な問題に対処してきたが、しかしそのほとんどは街のトラブルバスターとして取り組む程度の事柄か、あるいは校内の虐め防止だ。時には、警察も絡んでくるような厄介な問題もなくはないが、それでも、街の規模を超える話ではない。

 しかし、今の状況は――

 分からない。その深刻さの程度すらも、もはや判断がつかない。

 果たしてこれは、またいつものような〝お騒がし〟で終わる可能性があるのか。それとも、考えたこともないような悲劇に繋がることなのか。

 今の修には、まだこれっぽっちも分かっていなかった。けれど……

(嫌な予感がする)

 虫の知らせ、あるいは第六感。言い方は色々とあるだろうが、修は確かにそれを感じていた。港で感じた、あのざわつきとは違う。

 今になって思えば、あのざわつきの原因は、アメリカ大統領の呪殺を知った人たちの念波が、修に届いた結果だったのだろう。だから予感というよりは、それは単なる事実だった。言うならば、森の中で鳥たちが騒がしく鳴いている声を、聞くようなもの。

 でも今回は、そうではない。

 それは漠然とした予感だ。それは例えるなら、夜道を歩いている時に、背後に感じる嫌な気配のようなもの。それは、事実ではない。後ろに何かがいる事実は何もない。けれど確かに、後ろに何かの存在を感じるのだ。

「…………」

 修は、心の中で剣の柄を握る。

 それは、九条神社で宝剣に触れたあの日以来、初めてのことだった。これまで、未来視の力は惜しみなく使ってきた修であったが、授けられたこの宝剣(ちから)については心の底から嫌厭していて、使おうと思ったこともない。けれど今は、そんな我儘が許される状況ではなかった。

(もし……必要なら……)

 修は、剣の感触を確かめる。そこから伝わる確かな熱を、自分の心に馴染ませるように。

 訪れるだろう絶望の未来で、迷いなくこの力を振るえるように。そう――

(咲希を守る……ためになら)

 その結果、たとえ何が起こっても。取り返しのつかない事態が、自らの身に降りかかったとしても。それでも――

「――ッ!?」

 その未来を変えるためなら、どんなことでもしてみせよう。

「今度はなんだ!?」

 もう運命が、そこまで回ってきてしまった。

「またJアラートかよ!」

 因果は巡る、粛々と。

 共業が、この島の全てを覆い尽くす。日本全土を包み込み、世界に向けて、その真っ黒な触手を広げていく。

「……おい、嘘だろ?」

 故に、もう一人一人に赦されるのは――

『ミサイル落下。ミサイル落下。ミサイルが北海道、東北地方、関東地方、関西地方、九州地方、沖縄県に落下した可能性があります。続報を伝達しますので、引き続き屋内に避難して下さい』

 審判の時を待つことだけだ。逃れられない運命の濁流が、自分と、自分の愛する人を呑み込まないことを、ただひたすらに祈ることのみだ。何故なら――


 当たり前だと思っていた平和は、もうこの世界のどこにも、存在しやしないのだから。

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