2023年:幕間のひと時 第七章

 気がつくと、ホテルの一室だった。

 見知らぬ天井。この街に着いてから滞在しているホテルではない。

「気がつきましたか?」

 半身を起こした俺に、そんな声が投げ掛けられる。

「ソフィアさん……」

 声の主はソフィアさん。少し離れたソファに座って、心配そうな顔でこちらを見つめている。

「ここは……」

 ここはどこですか? と聞こうとして、それよりもしなければならない質問を思い出す。

「縁は!?」

 ベッドから飛び起きる。その拍子に酷い眩暈が襲ってきて、もう一度ベッドに倒れ込みそうになったが、なんとか堪える。

「縁は……あいつは大丈夫ですか? それに……あの時何故イレーネは……」

 まだ僅かに鈍痛が残る首筋を撫でる。こうして生きてベッドに寝ていたということは、敵ということは無いのだろうが……

「イレーネさんに関しては、許してあげてください。決して悪気があった訳ではなく、あなたを助けたい一心だったのです」

「俺を……助ける?」

 意味が分からない。あの行為が何故俺を助けることに繋がるのか、さっぱり分からなかった。そんな俺に、ソフィアさんが静かに語りかける。

「とにかくあの場は危険でした。どんな方法で、どこから敵の襲撃に遭うか分かりませんでしたので。だから一刻も早く、あの場から立ち去る必要がありました。それに――」

「縁様に頼まれていたんです。いざとなったら、気絶させてでも、あなたを安全な場所まで引っ張ってけって」

「イレーネ……」

 いつの間にか、部屋の入り口にイレーネが立っていた。疲労のせいか、酷い顔色だ。

「イレーネさん、如何でしたか?」

 ソフィアさんがイレーネに駆け寄り、荷物を受け取りながら尋ねる。

「駄目ですね。病院の方は警察が張っていて、とてもじゃないが近づけない。後でISSAから根回しするしか無さそうです。遺体が監察医に回される前に、なんとかこちらで回収しないと」

「そうですか……畏まりました。それでは、ISSAには私から連絡しておきます。間に合うかどうか、賭けになってはしまいますが……可能な限り努力いたします」

「えぇ、お願いします。紫様にこれ以上、無用な苦痛は与えたくありませんから」

「はい。もちろん、私も同じ気持ちです」

 二人の間で何やら会話が進行している。しかし、俺には一ミリも理解できなかった。

 病院? 遺体? 無用な苦痛って……一体何の話だ?

「イレーネ……どういうことか、説明してくれ。縁は……紫は……一体どこにいるんだ?」

 気づくと、声が震えていた。抑えようにも、何故か抑えることができない。まるでこれじゃあ、この先を聞くことを恐れているみたいだ。俺は単に、二人の無事を聞いて、安心したいだけなのに。

「和人君……」

 何故か、イレーネの顔が苦しげに歪む。だが、そんな顔をしてもらいたい訳じゃない。俺はただ、知りたいだけなんだ。

「二人はどこにいる?」

「お二人は……」

 イレーネの目が俺から逸れ、虚空を彷徨う。

「まず、縁様は……分かりません。きっと悪魔の心象領域の何処かだとは思うのですが……それと、紫様については…………」

 そこで、沈黙。荒い息遣い。そして、決意したように息を呑む音。

「紫様は、亡くなられました」

 次の瞬間、そんな言葉が降ってくる。呆然として、目を背けることもできない。

「ごめん……ちょっと良く聞こえなかった。何か変な言葉が聞こえて――」

「縁さんは行方知れず。紫さんは亡くなりました。ライフル銃の狙撃による臓器損傷と、それに伴う大量出血が死因のようです。恐らく、即死だったと推定されます」

 俺の言葉を遮るように、ソフィアさんが言葉を被せる。その言葉に押し倒されて、組み伏せられて……ようやく事態の重大さを知る。

「そんな馬鹿な……だって、死んでるなら魂が……縁みたいに魂がいる筈で……」

「縁さんの例は特殊です。普通は長期間現世には留まれません。が……それにしても、姿がまったく見えないというのも普通ではありません。恐らく紫さんの魂も、悪魔に囚われたと考えて間違いないでしょう」

 まるで、死刑宣告だ。ソフィアさんの言葉が重石のようになって俺の心に堆積する。

「そんな……馬鹿な……」

 だから俺は、そんな言葉を繰り返すしかなかった。少しでも身動きを取れば、そのまま重石に押し潰されてしまいそうだった。

「ソフィアさん……もう少し言い方を……」

「取り繕っても、仕方ないことです。現実を認識した上で、何をどうするかを考えるべきです。少なくとも、縁さんと紫さんの魂は、まだ救える可能性があるのですから」

 遠くで、二人が言い争う声が聞こえる。そして、その言葉の中に聞き捨てならない内容が混ざっていて、俺は顔を上げた。

「……魂を……救う?」

 ソフィアさんが、俺に向き直って頷く。

「そうです。既に肉体は取り返しがつきませんが、魂だけなら、まだ間に合うかもしれません。ですので、取り返しがつかなくなるほど悪魔の侵食が進む前に、手を打たなければ」

 その言葉が、何度も俺の中で反芻される。


『悪魔の侵食が進む前に、手を打たなければ』


「……急ぎましょう」

 俺は立ち上がる。彼女たちを救う手段があるのなら、ぐずぐずしている暇はない。

「一刻も早く、フィルマンの心象領域を見つけないと。そのためには、カミーユとアネットが手掛かりですよね? 今二人はどこにいるんですか?」

 だがソフィアさんもイレーネも、微妙な顔をして顔を見合わせる。結局答えたのは、イレーネだった。

「カミーユもアネットも、もういません。二人とも、もう死にましたから」

「……死んだ?」

 予想外の言葉に耳を疑う。

「はい。その点、縁様はしっかりとその任を果たしました」

 ソフィアさんが言葉を引き継ぐ。

「ですので、評議会としては一応この結果に満足しています。フィルマンこそ放逐できませんでしたが、重要な手駒を失った以上、彼の影響力は減退せざるを得ませんから」

「満足って……」

 紫が死に、二人が囚われたのにか? 

「ですので、評議会からの増援は期待できません。そもそも、カミーユとアネットという要人二人が死亡した以上、この事件に対してISSAの関与が疑われるような行動は取れませんから」

 それは、ISSAは二人の救出に一切協力出来ないという宣告だった。そしてそこに属する以上、当然ソフィアさんもイレーネも、そのために動くことは出来なくなるだろう。

「そんな……」

 二人の力を借りれない。つまり……俺一人でやるしかない。でも……

(俺一人に何が出来る? 悪霊一人倒せない。精々幽体離脱が出来る程度の俺に……)

 それは、絶望的な現実。逃れがたい、非情な濁流。ただの人でしかない俺を、嘲笑うような巨壁。どうすれば乗り越えることが出来るのか、想像もつかない。

(……ふざけるな)

 だから俺は、そんなことを喚く自分の理性を、そいつに向かって投げ捨てた。

 どんなに困難な未来でも、二人を見捨てるという選択こそあり得ない。たとえどんな手を使っても、何を犠牲にしたとしても、必ず二人を助け出す。もし理性や常識が邪魔をするなら、そんなものはまとめて全部くれてやる。

「早とちりしないで下さい」

 だがその時……俺の肩に何かが置かれた。

 それは、優しい温もり。我に返って目線を上げると、イレーネの顔が飛び込んでくる。その横には、ソフィアさんも。

「確かにISSAのエクソシストとしては協力出来ませんが、個人的な動くことは可能です。元々私は、今休暇中の予定でしたし」

「私も、私怨ということにして動きます。というか、その許可は既に評議会から頂きました。フランス政府を過度に刺激しない範囲であれば、自由にして良いということです。評議員の皆さんも、本音ではお二人を失いなくありませんから」

「イレーネ……ソフィアさん……」

 思わず、涙が出そうになった。

 諦めていたからこそ、覚悟したからこそ、その言葉が余計に深く、心に響く。

「ありがとうございます」

 潤んだ瞳を見せないために、咄嗟に頭を下げてお礼を言った。二人が一緒にいてくれて良かったと、そう心から思う。

 けれど……いつまでもこうしてはいられない。

 俺はすぐに、前を向く。

「どうか力を貸してください。縁と紫を救うために、お二人の力が必要です」

 今はただ……一秒でも早く、二人の元へ。


「まず、縁さんに起こったことを特定する必要があります」

 あれから俺たちは、部屋に置かれた丸テーブルを囲んで、今後の方針を話し合っていた。

 まず、ソフィアさんが話す。

「客観的に言えば、こちらの勝利はほぼ決まっていた筈です。にも関わらず、何故縁さんは敵にやられたのか。そして何故ターゲットの二人も死んでいるのか。そこに、縁さんと紫さんを見つけるヒントがあるような気がするのです」

「……どうなんでしょう? 確かにそれは気になりますし、フィルマンと対峙する上で重要になる気はしますが、それで二人の居場所を特定できるでしょうか?」

 イレーネが難しそうな顔をして、顎に手を当てる。ソフィアさんも同じく、難しい顔をした。

「勿論、最良の手段ではないと思います。ただ残念ながら、現状他に手掛かりがないのです。カミーユとアネットが死んだ以上、フィルマンに繋がる糸はもうほとんど残っていないのですから」

 重苦しい沈黙が場を支配する。急がなければいけないのに、有効な手段が見つからない。焦りばかりが募っていく。

「……それでいきましょう。分からない以上、そこに何かあるかもしれない。現状では一番の手掛かりなのは間違いないんです」

 だが俺は、その焦りを無理矢理に抑え込んで、ソフィアさんの意見に同調した。

「……分かりました。私も異論がある訳ではありませんから」

 イレーネも頷く。

 方針は、これで決まった。あとは……当時の状況をどう把握するか。

「私は二階席の後方から見ていましたが……」

 まずは、イレーネがその時のことを振り返る。

「正直、良く分かりませんでした。上階から縁様が落ちてきて、カミーユとアネットの頭上で刀を振るったのは見えたのですが……その後すぐに縁様は消えてしまって。直後に階下から悲鳴です。混乱に乗じて、縁様が消えたところに駆けつけましたが、あるのはカミーユとアネットの死体だけでした。サッと見ただけですが、外傷は無かったように思います」

 その報告を聞いて、ソフィアさんが考え込む。

「そうですか……その話を聞く限り、予定通り霊子線を切断しているように思えますが。それなら何故縁様は不覚を取ったのか……フィルマンの気配も無かったんですよね?」

「はい。それは結局最後まで。だから二人を殺した後でフィルマンにやられたという可能性も無いと思います。そもそも、もうフィルマンは間に合わないと踏んだからこそ、縁様はそのまま霊子線を切ったのでしょうし」

「そうでしょうね……それはそうでしょう。そうである筈です。だとすると……」

 そこで、ソフィアさんが何か閃いたようだった。

「例えばですが……縁さんに呪いが掛けられていたという線は?」

「呪い?」

 恐ろしげな単語が聞こえて、俺は眉を顰める。

「はい。縁さんは霊体ですから、呪いの影響を受けやすいんです。呪いの中には、遅効性のものや特定の外部刺激がトリガーとなって発動するものまで様々あります。もしかしたら縁様には、そういう呪いが予め掛けられていたのかもしれません」

 イレーネが首を傾げる。

「そんな……縁様にですか? およそ信じられません。そんなことがフィルマン程度の悪魔にできるなんて……」

 しかし、ソフィアさんは譲らない。

「可能性の話です。縁さんは第一線を一年以上離れていたということですし、万が一にないとも言い切れません」

「仮にそうだとして……どうやってそれを特定しますか? 本人がいない以上、かなり難しいのでは?」

 可能性なら――と、イレーネはソフィアさんの言葉を一度容れ、しかしその検証の困難さを、今度は指摘する。

「そうですね……それが問題です。パリに着いてから縁様に起こったことを事細かく把握しない限り、どのタイミングで呪いが掛けられたのか分かりません」

 ソフィアさんも、そこには良いアイデアがないようだった。二人して、再び押し黙る。

 だが意外にも……俺に、閃きが降りてきた。

「……俺の記憶を漁ってみるというのはどうでしょう?」

「「え?」」

 二人して、不意を突かれたような顔でこちらを見る。

「俺はパリに着いてから、基本的にずっと縁と紫の近くにいました。ご存知の通り、泊まっていた部屋も同じです。それに俺はずっと縁を見ていましたから、例えその場では気づかなくても、俺の記憶の中にその光景が残っているかもしれません」

「な……なるほど……」「そ……そうですか……」

 何故か、二人が何とも言えない顔をしている。だが、今は些細な事だ。

「イレーネは、俺の記憶にアクセスできる。なら、イレーネにそれをしてもらって、専門家の観点から異常が無かったかを調べれば良い」

 俺の言葉に、二人はしばらく口をつぐみ、考え込む。だが、やがて――

「……確かに、それは有効かもしれません」

 ソフィアさんが顔を上げた。

「イレーネさんなら、和人さんが意識的には忘れてしまっているような深い記憶にまで干渉できます。可能性はあるかもしれません」

 イレーネも頷く。

「そうですね。不可能ではないです。ただ……」

 イレーネが口籠もり、少しだけ申し訳なさそうな顔をする。

「深い記憶に干渉する場合、記憶の境界が曖昧になるんです。ですから、今回の件に関係ないような記憶も――特に縁さんに関わる記憶については、見えてしまうかもしれません」

 その言葉で、何故イレーネが申し訳なさそうな顔をしたのか理解する。俺たちのプライバシーに踏み込むことになるのが後ろめたかったのだろう。

 だが、今は四の五の言ってられる状況ではない。

「構いませんよ。緊急事態ですし、それに人に見られて恥ずかしいこともありません」

 夜の営みなんかをしていれば流石に恥ずかしかっただろうが、俺たちはそういう関係では無かったし、何より霊体である縁とは不可能(の筈だ……多分)。なら、恥ずかしがることはない。縁もきっと、許してくれるだろう。

「イレーネさん。和人さんもこう言っていますし、その方法でいきましょう。今は、一つでも手掛かりが欲しいのですから」

「……そうですね」

 ソフィアさんにも言われ、イレーネも頷く。

「分かりました。やりましょう。もう、始めますか?」

 俺は首を縦に振る。

「はい、お願いします。今は何より時間が惜しいですから。どうすれば良いですか?」

「何もしないで結構です。ただその場で目を瞑って。私に触れられても、抵抗しないでください」

 言われて、俺はすぐに言われた通りにする。

 時を経ず、額にイレーネの手が当てがわれた。

「それでは始めます。どこまで潜る必要があるかわからないので、時間がかかるかもしれませんが、和人君はその場でじっとしていてください」

「分かりました」

 その言葉を最後に、静寂が場を支配する。イレーネが、記憶への干渉を始めたのだ。

「……浅いところには、やはり何もありませんね」

 やがて、イレーネがそう呟いた。

「では、深いところへ」

 ソフィアさんが答える。

「……はい。では、和人君。少し、失礼します」

 一瞬の躊躇いの後、イレーネはそう言って、押し黙る。そのまま一分ほど沈黙が続いた。

「……アレ? これは?」

 不意にイレーネが声を上げた。すかさず、ソフィアさんが質問する。

「何か見えましたか?」

「いえ……何か呪いのような痕跡が。でも、これは……関係ない?」

「分かりません。ですから、調べてみてください。どんな情報でも今は貴重です」

「ですが、これは明らかに……」

「イレーネさん、お願いします。和人君も、それを望んだんです」

「………………分かりました」

 そう言って、また沈黙が始まる。だが今度の沈黙は、そう長くは続かなかった。まず、額に当てがわれたイレーネの掌が小刻みに震え出す。

「なに……これ……」

 掌と同じくらいに震えた声で、イレーネはそう呟いた。そして――

「そんな……そんな馬鹿な……これは…………ッ!?」

 直後、額から掌が離れた。俺は、思わず目を開ける。そこには、驚愕で目を大きく見開いたイレーネがいた。

「何故です!? 何故そこに、あなたがいるのです!?」

 半狂乱になったイレーネが、目を血走らせてそう叫ぶ。そしてその視線の先にいたのは……俺ではなく、ソフィアさんだった。

「あなた……本当は……」

 ガタガタと震えながらイレーネが後ずさり、そしてうわごとのように呟く。

「そうか、だから……だからか……このために、あなたはわざわさ私を、そしてお二人を――」

「ご苦労様。その記憶、貰いますね」

 

 ゴシュッ!!


 次の瞬間、目の前で血飛沫が舞った。

 ソフィアさんの手が、イレーネの喉元を貫いている。

「ごぼっ」

 そして、そんな声とも音ともつかない何かを口から溢し、イレーネはその場に倒れ込んだ。

「……ソフィア……さん?」

 まったく、状況が分からなかった。

 目の前に、首から血を噴き出しているイレーネと、右手を血で染めたソフィアさんがいることは分かるが、それが何を意味するのか、本当にこれっぽっちも分からない。

 ただ、声なき叫びだけが際限なく膨れ上がり、あてもなく、俺の心中を彷徨う。

(何だこれは……なんだこれは……ナンダコレハ!!)

「和人君」

 気がつくと、手をハンカチで拭ったソフィアさんが、俺を覗き込んでいた。

「何が……どうなってるんです?」

 それは、俺の声だ。弱々しく掠れた、しゃがれ声。実際には叫んでなどいないのに、まるで喉を潰してしまったようなその声は、まるで亡者の命乞いだ。

「大丈夫。すぐに分かります」

 対し、ソフィアさんはいつも通りに微笑んで、未だ血の跡が残るその右手を、そっと俺の額に押し当てた。

「――ッ!?」

 直後、流れ込んでくる膨大な記憶。

 それは正に、記憶の奔流だった。単なる情報としてでなく、まるで生きた獣のように、魂の内に働きかけ、無理矢理にその扉をこじ開けていく。

 そして溢れ出る様々な感情、想い。それら全てが一体となって、内側から俺を変容していく。

 形容し難い、不快感――


「ソフィアさん」

 一体どれだけの時間が流れただろうか。俺はようやく顔を上げて、前に立つ女性の顔を見る。色々と聞きたいことはあったが、真っ先に出た質問はこれだった。

「これも……キュレーターとしての仕事ですか?」

 すると、ソフィアさんは嬉しそうに、妖艶な笑みを浮かべる。

「えぇそうよ。久しぶりね、和人君。会いたかったわ」

「俺は、会いたくありませんでしたよ」

 ソフィアさんの言葉を吐き捨てて、辺りを見渡す。先程までとは、まるで違う部屋のようだった。

「それで? このタイミングで俺の記憶を戻したということは……使えるんですか? 事象改変の力を」

 イレーネの死体を眺めながら、さっさと本題に入る。ソフィアさんも、否はないようだった。俺の質問に、素直に答える。

「えぇ、そうよ。使い方は以前と同じ。ただ、願えば良いの。ただし、その特性が変わっている点には注意が必要ね」

「特性? 改変後に記憶を引き継げないとか、そんな話ですか?」

「そうそう。よく覚えているわね」

 ソフィアさんが、嬉しそうに手を叩いた。

「でも、その話はもう忘れてしまって良いわ。あの時和人君は霊体だったけれど、今は肉体を持ったまま、その力を使えるんだもの。制約の多くは、既に過去のものよ」

「過去のもの……ですか。相変わらず、あなたは何でも知っているんですね」

「それが私の仕事ですもの」

 歌うように、ソフィアさんが囀る。

「でも安心して。私にも知らないことはあるのよ。例えば未来。私は未来のことは予測できても、それを知っている訳ではないの。だから、今回みたいな賭けは、もうこれで最後にしたいものね」

「その口ぶりからすると、賭けには勝ったんですか?」

「今のところはね。これからについては、あなたの頑張り次第」

 ソフィアさんが、わざとらしくウインクする。

「さて。では、必要なことを話すことにしましょう。あなたも早く、縁さんと紫さんに会いたいでしょうから」

 そして、話し出す。

「さて、あなたが今知るべきなのは、さっきも少し話した、事象改変の制約と効果についてね。あなたは今からそれをうまく使って、縁さんと紫さん、ついでに、ここで寝ているイレーネさんを助けなければいけません」

「殺した張本人が良く言いますよ」

 白い目を向けるが、ソフィアさんは気にした様子もない。

「だって仕方ないでしょう? 私の力はイレーネさんほど万能ではないの。潜在意識にまではそもそも踏み込めないし、何より記憶を拝借しようとすると――」

 ソフィアさんがイレーネの死体を指さす。

「殺さなくちゃいけなくなっちゃうから」

「なんて物騒な力だ……」

「力なんて、総じてそういうものよ」

 そう鼻で笑ったソフィアさんは、俺の前に指を四本掲げる。

「あなたが覚えておくべき点は四つ。一つ目は、記憶について。さっきも言ったけど、今回は事象改変の力を行使しても、記憶はほぼ消えない筈よ。今あなたが持っている記憶がそのまま、改変後に引き継がれるわ」

「それは……」

 随分便利で、有り難い話だ。でも同時に、都合が良すぎる気がする。

「……何故そんなことに?」

 だから、確認しておく必要がある。上手い話には、必ず裏があるものだ。

「疑い深いわね」

 しかし、ソフィアさんは笑う。

「心配しないで良いわよ。別に隠されたデメリットなんてない。単純に前回とは条件が違うだけ。最初に言った通りね」

「霊体と肉体の差……ですか?」

「そう」

 ソフィアさんが頷く。

「この力は、あなたの幽体だけを同一世界線の過去に飛ばすの。でもそれは、魂そのものではなくて、その周りを覆っていたエネルギーに過ぎないから。魂の記憶は付随していない。その代わりに、幽体はあなたの肉体を忠実に再現していて、肉体が持っていた情報はそのまま引き継いでいる。ここまで言ったら……分かるかしら?」

 唐突にボールを投げられて、慌てて考える。

「……つまり――」

 すぐには分からなかったが、しばらく考えていると、徐々に、答えの輪郭が見えてきた。

「魂だけでなく、脳にも新しい記憶は一部メモリーされていて……それは改変後の肉体に引き継げる?」

「その通り」

 満足そうに、ソフィアさんが頷く。

「だから勿論、引き継げるのは記憶だけじゃないわ。もしその肉体が新たな力を獲得していれば、それも一緒に引き継げる。これが、覚えておくべきことの二つ目」

「……ちょっと待ってください」

 一見、メリットの大きい話のように聞こえたが、俺はそこで止める。

「肉体情報を引き継ぐということは……傷は、どうなりますか?」

 もし怪我をして、それも引き継いでしまうようなら、力を使う場合はかなり慎重に考えなければならない。

「それについては、あまり心配しなくても良いわよ」

 しかしソフィアさんは、それは杞憂だと言った。

「改変後のあなたの肉体が本能的に嫌がる情報は、簡単には引き継げない。拒否されるから。勿論、それを潜り抜ける方法もあるけれど……修練も必要だろうし、今は取り敢えず良いわよね?」

 少しだけ考えて、頷く。確かに気になるのは事実だが、今すぐ必要になるとは思えない。なら今は、取り敢えず置いておいて良いだろう。

「じゃあ三つ目。と言っても、これは前とおんなじ。あなたが変えられるのは、自分の過去に限られてる。他者の過去には干渉できない。それが許されれるのは、自分が死に直面した時だけ」

「死んだ時は、他者の行動を変えて、それを無かったことにする……思えば、それが一番都合の良い改変ですね。絶対に、死なないんですから。それも……理由を教えて貰っても?」

「ん〜構わないけれど……少し、難しいわよ?」

 そう前置きした上で、中空に視線を泳がせながら話し始める。

「人間には自我があるの。その自我が、自己と他者とを明確に区別する力になっているんだけれど、でも実は自己と他者って別々の存在ではないのよね。例えるなら、地上から顔を出した新芽はそれぞれ独立して見えるけど、地中では根っこで繋がっている――みたいなものかしら。だから本当は自己と他者って一体なんだけど、自我がその認識を阻害しているの。だから自我があるうちは、自分の因果しか変えられない。分かる?」

 ソフィアさんの目線が俺を捉える。俺は、曖昧に頷いた。

「でも人は死んだ時、一瞬自我が希薄になる瞬間があるの。だからその一瞬だけ、その地下茎にアクセス出来るようになる。そしてその一瞬の間に、あなたの場合は自動的に事象改変が発動するの。だから、他者の因果にも干渉できる。そういうメカニズム」

 分かるような、分からないような……そんな話だった。頭では何となく理解出来るが、実感としては分からない……そんな感じ。

「だから言ったでしょ? 難しいって。もしこれを本当の意味で理解出来たなら、死を介さずとも自分の意思で、他者の因果にも干渉出来るようになるんだから」

 確かに、それは凄まじい。もしそんなことが可能なら、何から何まで思いのままだろう。

「まぁでも、今はひとまず忘れて良いわ。それよりも、大事なのは四つ目。これが恐らく、一番あなたを悩ませることになる制約。時間制限――つまり……この力を使うと、改変後のあなたにも相応の負担が掛かる」

「相応の……負担?」

「簡単に言えば、魂が摩耗する。それは跳んだ時間的距離に比例して大きくなるから、具体的にどの程度とは言いづらいけど……前回は、約半月飛んだだけで、それと同じくらいの間入院する羽目になったでしょ? あの時と、今のあなたで能力的な差はほとんどない筈だから、おおよそ、それくらいの負担を考えておけば間違いないと思うわ」

 言われて、思い出す。夏休みの初めに、原因不明の発作に見舞われ、一時は意識不明の重体にまでなったのだ。まさかアレが事象改変の副作用だったとは……

「それはかなりのデメリットですね……実質、長時間の跳躍はできないってことじゃないですか」

「確かに、そうかもしれないわね。だからあなたも本当はもう急がないと。いつに戻るかは知らないけれど、少なくとも紫さんが殺されてから、そろそろ八時間になるわ」

「な!?」

 そうだ。俺はずっと気を失って……

 というか、どうなんだ? 例えば二日前に戻って、それで二日間寝込んだら、まったく意味がないじゃないか……

「良く考えなさい。悩めば悩むほどペナルティは大きくなるけれど、無駄に魂を摩耗させるよりはマシかもしれないわ」

「……」

 無駄に魂を摩耗させる……か。それが意味することは、恐らく一つだろう。

 〝摩耗した魂は回復しない〟

 恐らくこの力は、回数制限付きなのだ。それが何回なのかは分からないが、回数を重ねるほど、キツくなるのは間違いない。でも……

(関係ない)

 そう、関係ない。二人を助けるためならば、俺の魂くらい、いくらでも捧げてやる。

「ひとまず……二日前に戻ります」

 それは、オペラ・バスティーユに下見に行った日だ。それでどの程度負担が大きいのか、確認してみよう。それに、最初疑っていた『呪い』の線は、イレーネがすぐに見つけられなかった以上、かなり薄いと言って良いはずだ。であれば、無理してパリに到着した二週間前まで遡る必要はない。

「そう。あなたがそう決めなら、それで良いと思うわよ。それじゃあ、二日前で会いましょう」

 俺の言葉に、微笑むソフィアさん。

 そんな彼女に、最後に尋ねた。

「あなたは、なぜ何もかも覚えていられるんですか?」

 これは事象改変――過去を変える力なのだ。〝変えられた過去〟の世界に生きる人間が、〝起こらなかった未来〟の記憶を持っているのはどう考えてもおかしい。

「ふふっ。そうよね、不思議よね。当たり前よ、だってそんな奇妙なこと、起こっていないのだから」

「え?」

 しかしソフィアさんから返ってきたのは、そんな謎かけのような言葉だった。だから、改めてその意味を問いかけようとして、口を開く。

 しかし――

「さようなら」

 俺が言葉を発するよりも、ソフィアさんの方が早かった。ソフィアさんは、そんな別れの言葉を一つ残すと、ポケットから何かを取り出し、素早く自分のこめかみへと当てがう。そして……


 パンッ!!


 そんな、ドラマの中でしか聞いたことがない音と共に、血飛沫が飛び散った。

「……ソフィアさん?」

 鮮血が舞い、血の華がいくつも床に折り重なる。そうして出来た緋色の絨毯は、そこに倒れたソフィアさんの身体によって、すぐに見えなくなった。

 代わりに、深紅の川が流れを作り、俺の足元まで届く。

「……なんなんだよ……一体」

 嘆息し、両手で顔を覆う。

 何から何まで、もううんざりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る