2023年:幕間のひと時 第六章
「紫、結婚して下さい」
「うん、嫌です」
にこやかな笑みから放たれた、紫の無情なる一言。俺は、我に返った。
「は!? あまりに綺麗過ぎて、思わずプロポーズしてしまった……」
条件反射のように口からついて出てきた愛の告白。それを誘発させたのは、紛れもなく紫のその装いだった。
薄紫の可憐なドレス。
両肩を大胆に露出させたベアトップドレスが基調となっているが、胸元まで降りてきた二本の首紐が胸の一部を淑やかに覆い隠すことで、とても上品な仕上がりとなっている。
大きい胸を活かしながら、同時に雅びさも演出する。完璧なバランスだった。
「ふぅ……危ない危ない。やっぱり事前に試着しておいて良かった。こんなドレス、とてもじゃないけど紫には着させられないよ」
カミーユ、アネット両名を暗殺するにあたって忍び込むことになったオペラ公演。ただの公演ならそれほどガチッと洒落込む必要もないのだが、今回は少し特殊だった。
パリオペラを支える特別支援団体――実はカミーユとアネットはこの団体の会員であり、今回はその団体が主催するガラ公演なのだ。
故に、ドレスコードも相応に厳しい。男性はタキシード、女性はイブニングドレスかカクテルドレスが指定されている。そのため、相応しいドレスを新調する必要があり、今日はその試着に来た訳だが……お陰で俺は今、ホッと胸を撫で下ろしている。
「そんなドレスを着て入ったら、衆目の視線がすべて紫に集中して、ワンチャン、オペラが中止になるまであるからね。そしたら当然、作戦は失敗でしょ?」
それは、許容できない事態だ。何が一番許容できないかって、紫のこの姿が白日の下に晒されるのが最も堪え難い。彼女の美しさを愛でることができるのは、世界に俺一人で十分だ。
「どんどん思考がヤバい方向に向かってますね。多分あと五分もすると、『世界を滅ぼす』とか言い始めますよ、この人」
「あ、縁。いたの」
いつの間にか縁が俺の横に立っていた。
「えぇ、いましたとも。紫の後から部屋に入ってきましたよ。和人君には一瞥もされませんでしたけど」
恨みのこもった目で見つめられ、流石に心苦しくなるが、それも仕方がないのだ。なぜなら――
「だって縁。いつもと同じ格好じゃん」
そう。縁は霊体だから、オペラ公演に参加するに当たって特に正装を必要としないのだ。だから今日は、あくまでも付き添い。
流石に、見慣れたいつもの制服姿に感動するほど、俺も情緒豊かではない。
この俺の至極当然な主張に、しかし縁は不満顔だ。
「前はあんなに褒め散らかしてた癖に。良いですよわかりました。ならもう一度、女子高生の制服の魅力を骨の髄まで叩き込んであげます。そして和人君は思うんです。ドレスなんて、所詮ただの布っキレに過ぎないとね!」
とそんなことを、制服という名の布っキレを纏った縁が声高々に宣言する中、一度は閉じられていた扉が再び開け放たれた。
「随分楽しげに何かを話されていましたね。廊下まで聞こえてきましたよ?」
そんなことを言いながら、まず俺の目の前に登場したのはイレーネ。彼女も当然、ドレスを着用している。紫とは対照的に露出を抑えたそれは、ボートネックのAラインドレス。ボートネックにあしらわれた繊細なレースが良い味を出している。イレーネの大人っぽさを最大限に引き出すことのできる、素晴らしいドレスだった。
(だが……)
と、俺は内心で前髪をかきあげる。
俺は経験を糧にできる男である。故に、紫に見せたような失態を繰り返すような真似はしない。ここは俺も大人っぽく、洒落た言葉に彩られたの賛辞の一つでもプレゼントし――
「――ッ!?」
しかし、そんな俺の余裕は、イレーネに続いて入ってきた人物を見て木っ端微塵に吹き飛ばされた。
その人物――ソフィアさんがあまりにも美しかったからだ。
スレンダーラインのドレスは、ソフィアさんのモデルのような体型を一層際立たせ、勿忘草を思わせる清涼な水色が、透き通るように白いソフィアさんの肌と絶妙にマッチしている。
更に太腿まで大胆に露出した短いスカートは、普通であれば淫らな印象を与えかねないのだが、斜めにカットされたスカートのデザインと、太腿にさり気なくあしらわれた銀色の装飾が、そういったマイナスなイメージを覆い隠している。むしろ、長身で足の長いソフィアさんにとって、これ以上に相応しいドレスは他にないだろうと確信させる、最重要の要素にまでなっていた。
と、ここまでツラツラと感想を述べたが、要するに一言で言うと――
「Итак, ...... София была небесной женщиной. ......」
「は? 何故にそこだけロシア語?」
訝しげな縁の声が聞こえるが、別に明確な理由などない。ただ無性に、ソフィアさんの母国語でこの賞賛を贈りたいと思ったのだ。
「Спасибо(ありがとう)」
すると、ロシア語で一言、ソフィアさんからお礼の言葉が返ってくる。更に、今度は英語で続く。
「でも天女なんて畏れ多い。私はただの人間ですし、同じ人間なら紫様の方がよほど可愛らしく、イレーネさんの方がより麗しい。そうは思いませんか?」
実に謙虚で、かつ正鵠をついた言葉だった。
確かに、三人がそれぞれに素晴らしく、そこに優劣をつけるのは愚かな所業だろう。その方向性は違っても、それぞれがその個性に則った素晴らしさを演出していることに、変わりはないのだから。
「含蓄ですね。勉強になりました」
俺はソフィアさんに頭を下げる。ソフィアさんはそんな俺を優しげに見つめると、「どういたしまして」と歌うように囁いて、紫とイレーネの横に並んだ。
「さて、これで全員の試着が済んだね。ソフィアさんの言う通り、皆さん素晴らしく良く似合ってると思うよ。紫の魅力が外に漏れてしまうことだけは懸念だけれど、今の俺はとても大らかな気分だからね。少しくらいはみんなに幸せを分けてあげるのもやぶさかじゃないさ。さて……じゃあそろそろ、次の目的地に移動しようか。どこかで早めの昼食でも取ってね」
ドレスで着飾った三人に囲まれたことで、まるで映画のワンシーンに飛び込んだかのような感覚を味わって、少しだけ台詞っぽい口調でそう提案する。
この後、俺たちは件のオペラ公演の会場であるオペラ・バスティーユに下見に行く予定なのだ。午後の時間はたっぷりあるものの、早めに入って悪いことはないだろう。
「そうはいきません」
しかし、何故かそんな言葉と共に、縁が俺の前に立ちはだかった。そして――
「不公平です」
「……へ?」
「不・公・平・です!!」
気づくと、縁の目尻には僅かに光るものが溜まっている。
「三人だけ不公平です! 幽霊だって、ドレスくらい着たって良いじゃないですか!」
「いや……でも縁さっき、制服の魅力を叩き込むとかなんとか……」
「さっきはさっき! いまはいまです!」
縁が両の腕を振り上げる。
「とにかく、私だってドレス着るんです! 和人君だって、私のドレス姿を見たいでしょ?」
言われて、頭の中で思い描く。
縁のドレス姿――見た目は紫にそっくりだが、妹に比べて背が高く、更に胸がない分見た目がスラっとしているため、イレーネが着ていたようなボートネックのAラインドレスが良く似合うだろう。あるいは、オフショルダーのドレスにストールを掛けてあげるというのも、アクセントがあって良いかもしれない。組み合わせ次第で、色々な楽しみ方ができるだろう。
「それです!」
縁が俺を指差して、パチンと指を鳴らす。
「そのイメージ、良いじゃないですか」
「でも、公演は明後日だし。もうそんなドレスを作ってる時間は……」
「何を言ってるんですか、和人君」
しかし、縁が俺の言葉を遮る。
「私は霊体です。だから、着ている服装だってイメージ次第で思いのままなんです」
「……確かに!」
言われてみればその通りだった。じゃあ何でさっきまで、『不公平!』だの『私も着てみたい!』だのと言ってむくれていたのか、正直さっぱりだったが、そんなことは今はどうだって良い。
自分の思い描く理想のドレスを、クラス一の美少女に着せ替えできる――そんな現実の前ではすべてが些事だ。
「じゃあ、縁。早速スカートのデザインだけど……」
結局その後、そのドレスショップを後にしたのは、既に太陽が頂点を超え、徐々に傾き出してからだった。
いつの間にか残りの三人も参戦していた、その一着のドレスを巡った大論争の顛末は、また別の機会に述べるとして、今はただ、建物を出た時の縁の顔に、満足げな笑みが確かに浮かんでいたと言うことだけ、伝えておこうと思う。
俺たちは近くのカフェで遅めの昼食を済ますと、その足でオペラ・バスティーユに向かった。
オペラ・バスティーユ――それは、かの有名なオペラ座の名に因んだ歌劇場。外壁には大量のガラスが使われており、コンクリート壁とガラス壁が共存した独特な外観は、伝統的なバロック建築であるオペラ座とは対照的だ。
そして、今やパリの名所となっているこの建物こそ、今回の任務の遂行場所――二人の人間と一人の悪魔をこの世から追放する場所である。
「でも……やっぱり罪悪感は抜けないね。華やかなオペラの裏で、奥さんが舞台上で演じる最中に、人を暗殺するっていうのは」
そう――今回のオペラ『パルジファル』のヒロインを演じるのは、名オペラ歌手として名高いカミーユの奥さんなのだ。大のオペラ好きであるカミーユはオペラ支援団体の会長の座に座ると、なんと一人目の奥さんと離婚し、オペラ歌手である現奥さんと再婚した。今回の演目も、カミーユのたっての希望で決まったと聞いている。
そんな、彼にとって天国のような場所で、彼とその友人の生命を奪う。そのことを考えると、どうしても溜息が漏れてしまう。暗殺なんて、世界ではそこそこありふれたことなんだろうが、平和な日本で長年過ごしてきた俺にとってはやはり抵抗感を強く覚える。たとえ、相手が社会に害悪を撒き散らす存在だとしても。
「『慣れろ』なんて言えませんし、言いたくもありませんが、割り切ることも大切ですよ」
すると、縁がそんな俺に語りかける。
「それに、この世で人に悪影響を与え続けるよりは、あの世に帰ってしまった方が本人にとっても幸せかもしれません。その分、罪が少なくて済むかもしれませんから」
罪が少なくて済む……確かに、そうかもしれない。死んだ後に魂が残る以上、この世でしたことのツケは確実に回ってくる。ならそのツケが少なくて済むという考えも、あながち間違ってはいないだろう。たとえそれが、自己正当化の願いに端を発するものであったとしても。
「ホントに……変なところは真面目ですね、和人君は」
苦笑した縁が、屋外階段の二段目にピョンと飛び乗って、振り返る。
「でも、自分の正しさを盲信して、人の痛みを感じなくなるよりは、余程良いと思います。完璧な善も悪もない。それを理解した上で、尚、善を選び取ろうと努力することが大切だと思いますから」
哲学者のような縁の言葉。正直キャラでは無いと思ったが、身につまされるのは確かだ。
「その心、忘れないように精進します」
「えぇ。忘れたら、またギュッてしてあげますね」
ガラスで反射した光に照らされて、縁の笑顔が眩しく揺れる。その笑顔がこれ以上先に行ってしまわぬように、俺も縁の後に続いて、階段を上り始めた。
今日、オペラ公演に先立ってこの建物を訪れたのは、内部構造を事前に把握し、手順を実地で確認するためだった。
当日、どのような手順で二人を殺害するか。その計画は既に机上では完成している。
これは有名な話のようだが、二人ともかなりのオペラ好きで、パリオペラに多大な寄付をしているらしい。そのため、二人とも当然のように最も良い席――舞台正面の二階ボックス席最前列を確保している。
であれば、対象が大人しく並んで座ることになる公演中のタイミングが、殺害実行の好機だと考えられた。
あとは、その殺害方法。
それは藤瀬姉妹ならではのアプローチだった。
まず動くのは縁。霊体である縁が二幕の終了間際に二人に近づく。彼女の姿を見ることができる人間は稀少であるため、まず気付かれることはないだろう。
本当に何事もなければ、そのまま二人の霊子線を切断し、殺害する。外傷は一切残らず、検死をしても突発性の心臓発作と診断されることになる。困難なく目標を二人始末できるという点で、最良の展開だ。
だが、まずそうはならないだろう。霊体で彼らに近づいた段階で、それを悪魔であるフィルマンが見逃す筈がない。彼らのことを今後も利用する気なら、確実に妨害にやってくる。そのため、その段階で縁の仕事はカミーユ・アネット両名の殺害からフィルマンの放逐に移行する。ちなみに、俺が参戦するのはこのタイミングだ。あくまでバックアップだが、霊体となって縁をサポートする。
さて、精神世界での戦闘の裏では、今度は紫とイレーネの出番となる。
二幕が終わり、幕間の休憩時間になると、劇場内のホワイエでシャンパンが振る舞われる。このガラ公演に参加した有力者たちの多くは、その時間に交流を図るのだが、この二人も例外ではない。カミーユは政治家として支援者への挨拶に余念は無いし、酒好きなアネットも必ずこの時間はホワイエに出てくる筈だ。
そんな彼らに、イレーネが近づく。さる地元有力企業の役員の娘を演じて二人に接触。とある記憶を植え付ける。
そして、今度は紫。不注意を装って二人にぶつかり、そのどさくさに紛れて、ポケットの中にあるものを忍ばせる。
これで下準備は終了。
幕間が終わり席に戻った二人は、三幕が始まって程なくするとふと思い出すのだ。公演後に始まるパーティに備えるため、わざわざポケットに忍ばせ持ってきた、胃薬を飲まなければいけないことを。
彼らは何の疑問も抱かず、流れるような所作でポケットに手をつっこみ、そこにある薬を口に投じるだろう。そうなれば、突如ホールに響き渡る呻き声によって公演が中断されるまで、そう時間はかからない。
その後は、到着した警察や監察医次第だが、もし彼らが職務に忠実でなければ、二人とも急性心筋梗塞として処理されるだろうし、もし彼らが真面目なワーカホリックであったとしても、中毒症状が表れた時刻から、毒物を口に含んだのは三幕目開始以降であることが立証されるだろうから、結局は有力者二人による心中事件として扱われることになるだろう。
いずれにせよ、この作戦の要は縁だ。フィルマンが出てこない展開では言うに及ばず、フィルマンと戦闘になった場合でも、彼を放逐できるかどうかは
更には、カミーユとアネットに植え付けられた偽りの記憶にフィルマンが気付いてしまえば、その段階で作戦は失敗となる。そのため、フィルマンの気を常に逸らせ続ける必要があり、勝利条件はかなり厳しいと言えるだろう。
「まぁ大丈夫ですよ。針の穴に糸を通すような作戦は、割と日常茶飯事でしたから」
オペラ・バスティーユ内の廊下を歩きながら、縁があっけらかんとした調子で言う。
「そういう意味では、まだマシな方です。フィルマンという悪魔も、危険ではありますが封印指定を受けるほどではありませんし、なんとか私一人でも対処できると思いますよ」
「封印指定?」
恐らく初めて聞くであろう単語に首を傾げる。
「封印指定というのは、ISSAが『特に危険』だと認定した存在に与える烙印です。悪魔の一部と、離反したエクソシストが主にこの対象ですね。この指定を受けた存在は、霊体の隔離処理を受けます」
「……どういうこと?」
「つまり、もう二度と人間社会に関わることが出来なくなるように、魂をISSAが作り出した結界内に封印してしまうんです。そうでもしないと、彼らはいくら地上から追い払われても、悪事を働き続けますから」
なるほど。確かにそうでもしないと、ひたすらいたちごっこを繰り返すばかりになってしまう。それではあまりに効率が悪過ぎるだろう。
しかしそう考えると……どうにも納得出来ないことが一つ。
「でも、それなら何で一部の悪魔しか封印指定の対象にならないの? みんな有害なことに変わりないんだから、一律封印しちゃえば良いのに。あるいは……消滅させるとか?」
そうだ。それが一番手っ取り早い。罪人にだって死刑があるのだから、悪魔にだってそれに準じる刑があっても良いはずだ。
「それが、そういう訳にはいかないんです」
しかし、縁は首を振る。
「まず最初の疑問ですが、これは単純なマンパワーの問題です。悪魔の封印には、桁違いな労力と危険が伴います。これは、維持も含めてです。そのため、易々と乱用は出来ません」
「……なるほど」
「そして次に消滅についてですが……これはそもそも、我々には出来ません。人の魂を無くすことを、人間は神に許されていないんです」
許されていない……それはつまり不可能だということだ。能力とか技術、以前の問題。我々人間には抗う術がない。でも、それなら……
「いっそ神様が、悪魔をみんな消してくれれば良いのに……」
神が本当にいるにしては、この世には悪霊や悪魔がはびこりすぎている。『石を投げたら悪霊に当たる』――本当にそんな感じなのだ。神が本当に人の幸福を願うなら、そんなものは不幸とまとめて軒並み消し去ってしまえば良い。にも関わらずそれをしないのなら……神という存在は相当なものぐさか、なんとも意地悪な性格をしているに違いない。
「みんな、似たようなことを考えますよ」
すると、縁がそう言って微笑む。
「旧約聖書でも、同じような命題が出てくるくらいですから。きっとそれは、人類普遍の疑問なんでしょう。かくいう私も、そうなんですが」
「縁も?」
「はい。うちは神社だったので元々信心深くて。だから小さい頃から、当たり前に神様を信じてはいたんです。でもだからこそ、幼心に和人君と同じ疑問を抱いて……ある日、お父さんに聞いてみたことがあるんです」
「お父さんって……確か、神主さんなんだっけ?」
「はい。でも、相手は人類普遍の疑問ですからね。多分、専門家でも荷が重い質問だったと思います。でも、お父さんはほとんど考える間も置かずに、答えてくれました。なんて……言ったと思います?」
縁が少し首を傾けて、俺に問いかける。
「分からないに決まってるだろ?」
俺ならさっきの通り、神は意地悪な存在だからと答えるが……まさか、神主がそんな答えは出さないだろう。
「少しは考えてみて下さいよ」
しかし、縁は口を尖らせて、俺に再考を促す。
(仕方ない……)
「……神様にとっては、些事だから?」
神様と言うからには、きっと我々人間とは違う視点を持ってるんだろう。なら、人一人に加わる不幸など、きっと些細なことに違いない。別にその人がどうなろうと、基本的にはそれで歴史が変わったりはしないのだから。
「ありがちな答えですねぇ……」
しかし、縁は溜息を吐く。
(こいつ……人に答えさせておきながら……)
「じゃあ正解は?」
だから少し投げやりになって、そう聞き返す。そもそも、それは縁のお父さんの答えであって、合ってるかも分からないのだ。何なら、俺の答えが正解かもしれない。
「それは確かに、そうですね。人間には答えは分からない。でも私は、お父さんの答えが好きだから……それが正解だと思いたいんです」
そう言った縁が、昔を懐かしむように目を細めて――
「お父さんはただ一言『人間には、永遠の生命があるからだよ』って言ったんですよ」
「…………?」
縁が言った言葉をしばらくの間反芻して、それでも結局意味が分からなくて首を傾げた。
すると、縁が悪戯っぽく笑う。
「ふふっ……当時の私も同じ反応をしました。霊になっていなかったら、今でも同じ反応をしたかもしれません。でも……いざ自分が幽霊になってみると、少しだけ分かったような気がするんです」
そう言うと、縁は紫の横まで歩いて行って、ゆっくりこちらに向き直る。
「私たちを見てみてください。生きている紫も、死んでいる私も、その存在形態は違うかもしれません。でも、同じように意志を持って考え、そして行動しています。つまり、死んでもそこで終わりではないんです。なら、私たちが不幸だと思うことは、本当に不幸なんでしょうか?」
「……どういうこと?」
まだ、よく分からない。
「例えば、勉強を思い出して下さい。好きでもない勉強を、夜遅くまでやらされる。もし受験というゴール、そしてその結果である大学合格や就職が無かったら、それってただただ苦しいだけですよね? でもその先があるのなら――その瞬間は不幸だった時間が、後の幸福の原因になる」
そこまで言われて、ようやく縁の言わんとしていることが分かる。
「つまりこの世の不幸や悪は……受験勉強と同じだと?」
「はい。難しい問題に直面して、それを解けば解くほど、それが未来の幸福に繋がるかもしれないんです。そう考えると、不幸や悪を消してしまうことの方が、逆に不幸だと思いませんか?」
思いもしない発想だった。思わず俺は黙り込み、縁は更に言葉を紡ぐ。
「悪魔だって、それは同じです。今は問題を解けなくて苦しんでいるかもしれませんが、彼らだって……永遠の時間の中で、いつか改心するかもしれないじゃないですか。その瞬間を、神はじっと待っているんだと思います」
そして、縁は少し寂しげな顔で微笑む。
「そう考えると、封印という行為は実は罪深いのかもしれませんね。神の意思には、反しているのかもしれません」
表情は柔らかい。けれどそれとは対照的な言葉の硬さが、その表情が作り物であることを窺わせる。
もしかすると、父親の言葉と自分の行動が矛盾していることに、ずっと罪悪感を感じていたのかもしれない。
それに思い至った時、俺の口は自然に動いていた。
「でも、封印指定とかいう行為も、人間がその問題に対して出した、答えの一つなんだろ?」
俺の言葉を聞いて、縁が驚いた顔をする。しかしそれはすぐに、可笑しそうなクスクス笑いへと変わり――
「まさか、そんな風に返されるとは思ってもみませんでした。これは一本取られましたね」
と、いつもの縁らしい満面の笑みを俺に向ける。その顔は、一面の窓から射し込む黄色い光によって、煌びやかに輝いて……
その光に導かれるままに、窓から外を仰ぎ見る。
視界に映ったのは、綺麗な黄金色に染まった世界。そして、早くも動き始めた垂れ絹の、妖しげな躍動。
そろそろ、夜になりそうだった。
***
公演は、十五時から始まった。
最初に聞いた時は、随分と日が高いうちからやるものだと不思議に思ったものだが、驚くなかれ。なんと予定通りだと公演終了は二十時にもなるのだ。
実に五時間にも及ぶ公演である。途中二回休憩を挟むとは言え、演者の負担も相当なものだろう。流石プロだと、お見それするばかりだ。
とは言え、今回は閉幕まで演じられることはない。残り一時間ほどを残して、公演は中断されることになっている。いや、そうするために、俺と縁はこうして、二人並んで三階席に腰掛けているのだ。
何故三階席? と疑問に思った方もいることだろう。カミーユとアネットは二階席に座っているのだから、そっちに座った方が楽なのでは? と。
実際、俺もそう考えたのだが、縁としてはそうではないらしい。後方から走って近づくよりは、真上から落下した方が素早く霊子線を切断できるというのだ。流石、幽霊には俺たちの常識では推し量れない理論がある――
なんてことを、オペラの公演中にツラツラと諸兄諸姉に話し始めたのには、もちろんワケがある。そしてそのワケを説明するにあたって、まず共通認識として、今の時刻が『十六時三十五分』であるということを、知っておいて貰いたい。
さて、察しの良い方なら、この情報だけで既にお気付きのことだろう。開幕から既に一時間半が経過しているという事実と、それが導く抗い難い一つの真理に……
つまるところ、今の状況は人間の生理的限界の埒外にあるということなのだ。
一体どういうことか。もう少し分かりやすく説明すると……つまり人間は、一時間半以上も集中力を保てるようには造られてはいない。
であれば、舞台の上で聖杯騎士の皆さんが見事な合唱を披露している最中に、ついつい脳内の友人たちに語りかけてしまったとしても、決して責められることではないだろう。
いやむしろその責は、人間の生理的限界を考慮しなかったワーグナーにあると、声高に主張しても良いくらいだ。
まったく……ワーグナーも人が悪い。
『いきなり何を言い出すかと思えば……きっとこんな理由で作曲者の責任を追求した人間は、古今東西一人もいないと思いますよ?』
ふと、俺の頭の中だけで声が響く。いつもの如く、縁が俺の思考に干渉してきたのだ。
『そもそも、その理論を適用するならハリウッド映画なんて軒並み駄目じゃないですか。今時、二時間超えの作品なんてザラですよ?』
……しかも、意外に説得力のある反論を展開してきた。本当に厄介な幽霊である。ここは適当に煙に巻くのがベターだ。
『そんなことより、フィルマンの気配はやっぱり感じない?』
オペラ公演中なので声には出さず、頭の中だけで問いかける。答えはすぐに返ってきた。
『感じませんね。まぁ悪魔は芸術に興味が無いことが多いですから、一緒にオペラを見たりはしないだろうとは思ってましたが……それにしても、カミーユとアネットからもあまりフィルマンの霊力を感じないのは少し意外でした。少なくともここ一週間ではまったく接触して無さそうで……これはもしかすると、二人の霊子線を切って終わるという展開も本当にあるかもしれません』
少しだけ憂鬱そうな縁の声に、首を傾げる。
『なんだか気が重そうだね。そっちの方が楽なんじゃないの?』
『楽ではありますが、フィルマンを放逐できないというのは少し……それに、一週間以上も接触してないとすると、今は他の人にメインでついている可能性がありますから。既に用済みになったモグラを叩いても効果は薄いですからね』
どうやら縁は、任務後の展開を気にしているようだった。確かに、この任務の結局の目的はこの世に対する悪影響の除去にあるのだから、フィルマンが他で悪影響を広げ始めたらあまり意味がない。
しかし、だからと言って俺たちには何も出来ないのも、また事実なのだ。
『えぇ、分かっています。だから、少し言ってみただけです。気にしないでください』
縁が俺に笑いかける。少しだけ、ぎこちない笑顔で。
その笑顔は、一幕の間中ずっと、小骨が喉に刺さったように、俺の脳裏から離れることはなかった。
一幕に比べ、二幕はあっという間だった。時間的にも約半分というのもあるし、暗殺の瞬間が近づいてきて緊張が高まってきたというのも大きい。
本来であれば魅入っていただろう、クンドリという妖艶な女性によるパルジファルへの誘惑シーンも、ほとんど頭に入って来ない。
そして気づくと……聖槍がパルジファルに向けて放たれていた。
「行ってきます」
その一投を合図として、縁が素早く立ち上がる。
「気をつけて」
小さく、声に出して縁を激励する。そんな俺に、縁は軽く笑みを返し――宙へと跳んだ。
三階席は最上階ではあるが、天井まで十分な距離がある。それでも、天井ギリギリまで飛び上がった縁は、前列を一気に飛び越えて最前列まで飛翔すると、頂点でクルリと回転し、次の瞬間には階下に向けて疾駆していた。手には、いつの間に取り出したのか、彼女の愛剣『
俺は、縁の姿が階下に消えたことを確認すると、いつでも幽体離脱できるように精神集中に入る。
ここからが、正念場だった。
落下を始めた段階で既に、縁は何とも言えない違和感を感じていた。
目線の先には、予定通り二人の影。おあつらえ向きに隣り合って並び合い、肉体と重なってはいるものの、銀色の
あとは一瞬後の未来に、その手にある刀を振るい、霊体と肉体を繋ぐその糸を切断すれば良いだけだ。
懸念していたフィルマンの妨害も、もうこの段階まで来れば、ほぼ間に合わないと考えて良いだろう。真上という地の利を抑え、コンマ一秒で届くというところまで、懐に入り込んだのだ。フィルマン如き中程度の悪魔に、今から対処できるとは思えない。
にも、関わらず……
(このまま予定通り、二人の霊子線を切断しても本当に大丈夫? 何か……大きな見落としをしているような……)
そんな思いが、縁の脳裏を掠める。自分の取るべき行動について、再考を促す囁きが聞こえる。
だが同時に、それはあまりに小さな危惧の声であったことも、また事実だった。
誰しも生きていれば、ふとした瞬間に『虫の知らせ』を覚えることはあるものだ。
例えば、家から駅に向かう道中――本当に玄関の鍵は掛けただろうか?
例えば、車で道路を左折する時――見えないところから、自転車が出てきやしないだろうか?
例えば、学校のトイレで手洗い場に立った時――鏡にあり得ないものが映ったりしていないだろうか?
これらの危惧は、ほとんど気のせいみたいなもので、現実にその通りになることは滅多にない。だから普通はそんな危惧を覚えても、精々気をつけるくらいのことはしても、自分の行動をガラリと変えたりはしないものだ。
そしてそれは、この場合の縁にとってもまったく同様であり、しかも作戦の成否に直結する場面での無用な躊躇は、しばしば最悪の結果を招くことを身をもって知っていたが故に、余計にその声に耳を傾けることは困難だった。
だから縁は、その違和感を頭から振り払うと、目の前で鈍く輝く霊子線を……一刀の下に切断した。
紫は一階席で、静かにオペラに魅入っていた。
もちろん、これから始まる作戦のため、意識の半分は二階席に座るターゲットと三階席で待機する自分の姉に振り分けてはいたが、それでも、残り半分はオペラに向けていた。いや、向けざるを得なかったというのが正確かもしれない。
端的に言って、圧巻だった。
今まで劇に分類される類のものは、それこそ幼稚園の演劇まで遡らなければ見たことがないような人生を送ってきた紫にとって、今目の前で展開している世界レベルの歌劇は、彼女の予想を遥かに凌駕するものだった。
(すごい……)
豪奢に装われた舞台、響き渡る美声とそれを支えるオーケストラ、そして、その中で華麗に舞う演者たち。そのどれからも、目を離すことができない。
僅か二時間の公演で音をあげていた和人と違って、紫は脇目も振らず、オペラを鑑賞し続けた。
「……始まった」
だから紫は、縁が三階席で立ち上がって初めて、舞台から目を離した。舞台は二幕の最大の見せ場に突入していたが、それで自分の職務を忘れるほどに紫は子供ではない。縁が跳躍した時には、既に意識は完全に上階に注がれていた。
縁は綺麗な放物線を描きながら、一気にターゲットとの距離を詰め、取り出した刀を振るう。
意外にも、懸念していたフィルマンの妨害は無い。そのことに、心の中で小さく安堵した紫は、縁がターゲットの霊子線を切断するのを静かに見守った。
「……え?」
だが次の瞬間、紫は呆然として、思わず腰を上げた。二階席で起こった出来事を目撃して、咄嗟に身体の動きを抑えることが出来なかったのだ。
そして……
プシュン――
何かが空気を切り裂くような音が微かに響く。直後、あらゆる恐怖を濃縮したような甲高い悲鳴がホール中に響き渡った。
悲鳴を上げたのは、紫の前に座っていた年配のご婦人だった。彼女は、この日のために新調した深緑のイブニングドレスを身に付けていたが、今やそのドレスは見る影もなく、真紅の鮮血で真っ赤に染まっている。
そしてこのご婦人にとって何より不幸だったのは、突如立ち上がった紫の気配に驚いて、思わず後ろを振り返ってしまったことだろう。
もしそんなことさえしていなければ、ここまでドレスが汚れることも無かったし、大量の血液を顔で受け止めるような事態にもならなかっただろうから。
ご婦人は真っ赤に染まった口を、目一杯大きく広げ、恐怖の悲鳴を上げ続ける。
そんな、哀れなご婦人に向け――
胸から大量の血液を撒き散らした紫が、ゆっくりと倒れ込んでいった。
『和人君! 逃げて!』
縁の叫び声が頭の中に木霊したのは、俺が精神集中に入った直後のことだった。
『どうした!?』
訳も分からず、それでも辛うじて声には出さない程度の分別は持ったまま、縁に慌てて問いかける。
だがいつまで経っても、答えが返ってくることは無かった。代わりに階下から悲鳴が響き渡る。
俄に、ホールが騒がしくなった。俺がいる三階からでは何が起こったのかまったく分からなかったが、尋常ではない叫び声とすぐに中断された演奏、そして幾何級数的に大きくなっていく喧騒が、何かとんでもないことが起こったことを教えてくれる。
「……くそ!」
とにかく急いで、状況を確かめなければいけない。そのためには、まず縁のもとに向かわなければ。
紫やイレーネ、そしてソフィアさんと合流するという手もあったが、縁の叫び声が頭にこびり付いて離れない。真っ先に彼女の状態を確認したかった。
俺は幽体離脱するために、再び目を瞑る。しかし、結局その目的を達することはできなかった。
「……ソフィアさん?」
突如誰かに腕を掴まれ目を開けると、いつの間にかソフィアさんがそこにいた。顔には、焦りの色が浮かんでいる。
「作戦は失敗です。急いで、ここを離れます」
「失敗!? でも離れるって言っても、縁がまだ作戦中で――」
「和人さん!!」
俺の両肩をソフィアさんが掴み、俺の身体を固定する。そして絞り出すようにして、先程の言葉を繰り返した。
「作戦は……失敗したんです」
その言葉で、ようやく状況を認識する。認識して、尚聞く。
「……縁は?」
「今、イレーネさんが対処しています。とにかく、ここを離れましょう。スナイパーが私たちをまだ狙っているかもしれません」
そうして、ソフィアさんが俺の腕を取った。俺は彼女に引かれるままに、ホールを後にする。頭が働き方を忘れてしまったみたいに、何も考えることができなかった。
「紫は?」
逃げ惑う人の波を掻き分けながら、ようやく歌劇場の外に出た俺は、まだ紫が自分たちに追い付いていないことに気がついた。紫がいたのは一階席だから、俺たちよりも早く外にいてもおかしくない。
「縁を助けに行ったのかな?」
恐らくそうだろう。縁の窮地に、紫がジッとしている筈がない。ならやはり、俺も援軍に行ったほうが良いのでは――
「イレーネさん! こちらです!」
「イレーネ?」
突然大声を上げたソフィアさんにつられて、俺は歌劇場の方を見る。すると、人混みの中にイレーネの影が見えた。しかし……縁の姿はない。
「イレーネ! 縁は!?」
俺は近付いてきたイレーネにほとんど縋り付くように取り付き、彼女の安否を尋ねる。すると、イレーネは俺を軽く一瞥して、しかしすぐに目を逸らす。そして――
「ごめんなさい」
次の瞬間、首筋に衝撃が走った。急速に、意識が薄れていく。
「うそ……なんで?」
訳が分からなかった。分からないままに、何とか顔を上げてイレーネを見る。だが、もう彼女の表情も見えない。薄れゆく視界の先に、彼女の唇が動いた気がしたが、もうその声が俺の脳に届くことはない。
「え……に…………」
遠くなっていく意識の中で、一瞬縁の笑顔が浮かび上がる。しかし、それもすぐに形を無くし、暗闇の中に霧散していく。
俺は、意識を失った。
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