2023年:幕間のひと時 第二章
「
神社へと繋がる石段を登り、
「……ただいま。遅くなったことは謝るけど……それより、
社務所の屋根の上に腰を下ろしている縁に、思わずそう問いかける。
縁は幽霊だから、普通の人間と同じ扱いをしてはいけないとは言え、いくら何でも奇抜過ぎる気がする。
「分かりませんか?」
しかし、縁は逆にそう問うてくる。
まるで、『分かって当たり前』とでも言わんばかりのその態度に、もしかして俺の方に何か手落ちがあったのではないかと、ついつい不安になってしまう。
だがその直後、まるで天啓に撃たれたかのような衝撃が、俺の全身を駆け抜けた。
いや……謙遜する必要はないだろう。それは、正しく天啓と呼ぶに相応しい、素晴らしい閃きだった。
だから俺は、気付かれないように深呼吸を一つ。興奮する心を落ち着かせると、何気ない会話で縁を誘導しつつ、ゆっくりと移動を開始する。
「いやぁ……どうだろう? 無知で蒙昧な俺にはちょっと分からないかな。それよりも縁。その社務所の屋根、全然汚くて掃除してないから、早く立ち上がった方が良いよ? 可愛いお尻が汚れちゃうよ?」
計算し尽くされた適度な話術。お陰で、話し終えた頃には予定通り、所定の位置への移動が完了していた。あとは、縁が立ち上がるのを待つばかりだ。
「……」
しかし、一向に縁が立ち上がる素振りを見せない。それどころか、何か白けたような目を向けているような気さえする。
(はて……何か間違えただろうか?)
「色々と言いたいことはありますが……」
すると、縁が立ち上がる代わりに、ゆっくりとその口を開く。
「和人君、下心見え過ぎです。そんな言葉に惑わされて立ち上がる女子がいる訳ないでしょう? 前世から出直して来てください」
怒られてしまった。どうやらどこかで間違えたらしい。
「更に言えば、『汚くて掃除してない』って何ですか。普通逆ですよね? いくらなんでも、テンパり過ぎでしょ。普通にキモいです」
(……確かに)
思わず唸ってしまう。ぐうの音も出ないとはこのことだ。どうやら思った以上に、縁のスカートの中の誘惑は、俺の心を大きく掻き乱していたらしい。
「……まったく。相変わらずですね、和人君は。どうせそうやって、今日も他の女の子でも追い回してたんでしょ?」
些か以上に棘のあるその言葉に、反論しようとして口を開きかけるが、自分がしてきたことを思い出して口を閉じる。
言われてみれば、他の女子の所に行っていたのは事実なのだから、反論などできよう筈がない。そして……俺が他の女子を気にかけたことに、まるで嫉妬でもしているかのようなその言い草に対して、否定的なことを言う気は毛頭無い。
「はぁ、別に嫉妬じゃ…………あっ……べ、別に和人君が他の女子に優しくしようが、私には関係ないんですからね!」
そして、何故かツンデレ風に言い直す縁。
一見意味不明なこの縁の態度も、今や藤瀬姉妹マスター(自称)である俺からすれば、どういうことか一目瞭然だ。まったく、縁はいつまで経っても照れ屋さんなんだから……
と、一瞬だけ悦に入ったその刹那――
「お花畑な思考、いい加減やめて下さい。除草剤、撒きますよ?」
と、そんな過激な言葉と共に、縁は一瞬だけヒョイと立ち上がると、スカートの裾を押さえたままピョンとジャンプして、そのまま綺麗に地面に着地した。
流れるように洗練された所作。あまりに一瞬の出来事だった。
そして、地面に降り立った縁を見てようやく、何の目の保養もできないまま、この千載一遇のチャンスを逃してしまったことに気がつく。
「馬鹿な……まさかさっきのツンデレは……俺の気を逸らす作戦だったとでも言うのか!?」
堪らず、その場に崩れ落ちる。藤瀬姉妹マスターが聞いて呆れる。どうやら藤瀬姉妹には、まだ未知の領域が存在するようだった。
(……ふむ。藤瀬姉妹、男の子のロマンだな)
「馬鹿なこと考えてないで、早くこの子に何か食べさせてあげて下さい」
「この子?」
俺は顔を上げる。すると、縁の足元にうずくまる一匹の子猫が目に入った。
「アレ? いつの間に……」
俺の記憶が確かなら、ついさっきまでこんな猫は居なかった。どうも弱っているようだし、この僅かな合間にここまで駆けて来たとは思えないんだが……
「社務所の屋根の上で動けなくなってたんですよ。まったく、親猫は一体何をしてるんだか」
「あぁ……それでさっき屋根の上に……」
縁の謎行動の意味が判明する。しかし同時に、首を傾けた。
「アレ? 縁って物質触れないでしょ? どうやって猫、連れて来たの?」
「チッチッチ、甘いですね」
しかし、縁は人差し指を左右に振って、俺の浅慮を指摘する。
「私が本気を出せば、一瞬ものを浮かすぐらいは造作もないのです。フワッとできます、フワッと」
「マジで!? 何その奥義! 全然知らなかった!」
「
「何という宣伝文句……というか、罰当たり過ぎる……」
ちょっと、ウケそうだけれども……
「二人とも、何してるの?」
その時、不意に横から声が聞こえて、顔をそちらに向けた。
「あ、紫。早かったね。キャットフード買えた?」
「うん、これで良いよね?」
そう言って、キャットフードを満載したビニール袋を片手に登場したのは、藤瀬紫。縁の双子の妹で、俺のクラスメイトだ。
「居ないと思ったら、キャットフード買いに行ってたんだね」
缶切りを使わず、素手で猫缶を開け始めた紫に話しかける。最初は随分驚いたものだが、今となってはこの程度の芸当を見ても何も感じない。
「そう。さっきお姉ちゃんに頼まれて」
なるほど、俺に言ったようなことを紫にも言っていたらしい。紫も猫大好きだから、一目散に餌の確保に向かったのだろう。
それにしても……それなら俺にまで餌を所望する必要はなかったと思うのだが……
「さて、それじゃあ無事に猫も保護できたところで」
と、縁は俺の内心の疑問には答える素振りを見せず、話を前に進める。……いや、元に戻す。
「和人君、こんな時間までどこで油売ってたんですか? 今日の私との約束、まさか忘れた訳ではないですよね?」
縁との約束。もちろん覚えている。というか、忘れる訳がない。縁との組んずほぐれずの戦闘訓練――週に二回のトキメキイベントだ。
「組んず……ほぐれず? 脚色のしすぎもたいがいにして下さい」
縁が何か言っているが、別に気にしない。人間、思った者勝ちなのだ。
「……はぁ。話がどんどん脱線していくので、もうそれで良いです。それで? 私とのトキメキイベントに遅刻までして、和人君は何やってたんですか?」
最近、縁の会話交通整理術が向上している気がする。
「うるさい、早く話せ」
「はい……」
しゅんとして、話し出す。
「前、話に出したと思うんだけど、双葉高の天堂由岐さんに会いに行ってたんだよ」
「あ、じゃあ色紙はもうできたんですか?」
「うん、今朝方ね。八時に
「和人君、それは計画が甘いですよ。智和君が日曜日の八時に活動してくれる筈ないじゃないですか」
縁の指摘は尤もだった。縁は紫に付き添って半年近く学校に通ってるから、俺のクラスメイトの性格にも精通している。
「言葉もありません」
再度、しゅんとする。しかし、次に降って来たのは、縁の優しい言葉だった。
「でも……和人君、お疲れ様でした。それでこそ、和人君です」
同時に頭を撫でられる。
「お疲れ様」
見ると、紫が俺の頭を撫でてくれていた。その後ろで、縁も優しく微笑んでくれている。
それは――幸せで、温かい時間。かけがえのない、陽だまりのような宝物。
誇張なしに……
この時間さえあれば、他に何もいらないと。心の底からそんなことを思うのは――
(我ながら……単純すぎるな)
二人の優しさに抱かれながら、俺は密かに、肩をすくめるのだった。
「さて……時間もないので、今日は今までの復習だけにしておきましょう」
その後、紫は猫をお風呂へと連行し、俺はその先に展開するだろうパラダイスに後ろ髪を引かれつつ、縁と共に裏庭に向かった。先程言っていた戦闘訓練を行うためだ。
「了解」
ピンク色の邪念を一旦脇に置いて、意識を集中させる。もう数ヶ月間繰り返している工程だが、未だに難易度は高い。それでも、コツのようなものは既に掴んでいた。
自分のことではなく、大切な人のことを考えるのだ。
(縁と紫――俺は二人の力になりたい。いつまでも……二人の隣に立っていたい)
それが俺の心からの願いであり、そして、この力を手に入れる唯一の理由だ。だから――
「だいぶ……スムーズになってきましたね」
縁の声で、俺は目を開いた。想定通り、眼下では俺の肉体が、微動だにしないまま座っている。どうやら、上手くいったらしい。
「じゃあ和人君、イメージして」
次のステップ。今度は、この状態で戦うための力を得ること。そのための方法論は人によって様々異なるようだが、誰にとっても共通して言えるのは、より具体的にイメージしやすい方法を選ぶことが、大切だということだ。
何故なら魂の世界では、イメージこそが重要であり、想いこそが実在であるからだ。故に、そのイメージが強固であればあるほど、それは信頼すべき事象となって、俺たちの前に立ち現れてくれる。障害を砕く力になってくれる。だから――
一瞬、俺の脳裏に一本の見事な日本刀がよぎる。それは、以前見せてもらった縁の一振り。初めて見た時からやけに俺の心に残ったそのフォルムは、いつも決まって、この瞬間俺のうちに甦る。
けれど残念なことに、それはあまりに一瞬で精細な描写は困難であり、何より、日本刀など扱ったことがない俺には、あまりに不釣り合いな逸品だ。
だから結局、いつもそのイメージに追従することなく、昔大好きだった映画の中に登場したレーザーガンを、記憶の中から呼び起こすことになる。
これならば、少なくとも引き金を引いて撃つことくらいは出来る。命中精度に関しては……勿論、保証は出来ないけれど。
「良いですね」
イメージ通りのフォルムが俺の手の中に現れて、近づいた縁がそれに触れつつ、呟く。
「いつも思いますが……和人君、やっぱり才能ありますよ。まだ始めて半年も経ってないのに……」
才能というのは、霊子を扱う才能だ。今のところ、進路選択では文系一択の俺にはよく分からないが、霊子というのは、何でも素粒子の一つなんだそうだ。ただ、この世――つまり三次元世界ではなく、あの世――四次元世界以降に存在する素粒子のようで、人間には普通認識できない。ただ霊体になった俺はその霊子に干渉できる。それは、霊なら多かれ少なかれ誰でもできるみたいなのだが、どうやら俺はそれが上手いらしい。
と言っても、それで満足できるかと言われれば、苦笑するしかないのだが……
「まぁ……肉体での戦闘がいまいちだからね。これくらいはできないと」
そう。霊体での戦闘は、ある程度形になってきてはいるものの、肉体の方はからっきしなのだ。こっちの方は紫に週二回、指導をお願いしているのだが、また素人に毛が生えた程度のことしかできない。
「それで良いですよ。護身術程度で本来充分なんですから。元々、そういう約束でしょう?」
そうなのだ。俺としては大真面目に二人の力になりたいと思って始めたことなのだが、二人はあまりその事に対して良い顔をしなかった。だから今は結局、いざという時に身を守れるように――という目的で、訓練を付けてもらっている。
俺としては、そんな名目で訓練をしつつも、いつの間にか二人を助けられるほどの力が身に付いている――なんて展開を期待したのだが……人生、そんなにはうまくいかない。
「でもまぁ、いずれにせよ……もうあまり時間はないんです」
唐突に、縁がそう呟いた。
「今朝、ISSAの本部――中央委員会から連絡が来ました。もう……決着を付ける必要があります」
「え? ……それって」
『決着』の意味を理解して、言葉を失う。伸ばし伸ばし、騙し騙し、あやふやにして、時間稼ぎをしながらここまで来たのだが……
「
わざわざ、縁はそう言葉にして説明する。まるで、自分にもそれを言い聞かせるように。
「前みたいには……いかないかな?」
だから俺は、性懲りも無くそう言ってみる。
二ヶ月前にも、似たようなことがあった。その時は、追加任務が伴わない内容だったため、言葉巧みに断ったのだが……
「評議会からも直々に、命令書が届くようです。次の任地はフランスになるとか」
「……」
どうやら、以前とは違う。もう断らせないという意志が、そこにはっきりと感じられた。
「私も紫も、できればもう少しこの地にいたかったですが……これ以上は命令違反になります。それに、私たちの力を必要としている人がいるのも確かなんです。もうこれ以上、そこから目を逸らすこともできません」
諭すように、縁は言う。そして、彼女の言っていることは良くわかる。だから俺も、これ以上甘えることはできなかった。
「……祥子討伐はいつ?」
結局、俺はそう聞いた。
「明後日には」
「そうか……」
思わず空を仰ぎ見て、そして庭の中央へと視線を向ける。
「できれば……蜃気楼を一緒に見たかったな」
俺の目には、見事な竹の周囲に群生した、背丈の低い植物が映っている。今は冬であるため大分葉も落ちてしまっているが、五月には、綺麗な花が咲く筈だった。
「私たちの分まで、見てあげてください」
縁が寂しそうに笑う。
「写真……送るよ」
だから俺は、できる限りの笑顔でそう返した。
終わりが必然だからこそ、最後の瞬間まで笑顔でいたい。陽だまりの中で静かに微睡んでいたい。
そんなことが、俺の些細な我儘で……そして同時に、抗いがたい未来への、細やかな反抗だったから。
***
「俺、今死んでもきっと後悔しないな」
両手でスーパーのカートを押しつつ、感慨深げに呟く。
「死なないでね?」
その呟きを耳ざとく聞き取った紫が、横から俺の顔を覗き見る。紫にしては珍しい少し心配そうな表情と、少し首を傾けた上目遣いのダブルパンチが俺の心に追撃をかける。
「……いや、むしろ死んでも良いな」
「もう……そんなこと言って」
すると、紫は少し怒った顔をして、心なしか歩調を速めた。
俺も慌てて追いつく。
「だって、学校帰りにクラスの女子と一緒に買い物って、かなり凄いことだよ? しかも買い食いとかではなく、その日の夕食の材料だからね」
高校生の肩書きを持った紳士諸兄に統計を取ってみたい。きっと、こんなイベントに遭遇した幸運な紳士の数は、一パーセントにも満たないのではないだろうか? しかもその女子が、学校一の美少女ときたら、恐らく万に一つの確率でもないだろう。アニメの世界まで足を伸ばしてみても、決して多数派ではない筈だ。
「しかも、その横にはもう一人、美少女幽霊が同伴していますからね。もはや、他に類がないと言って良いでしょう」
お菓子コーナーから動かなくなっていた縁が、いつの間にか戻って来ていた。満足げな顔で、何度も頷いている。
「おかえり。何か面白いものはあった?」
紫が姉に問いかける。
「全然、私、お菓子になんて興味ないから」
すると縁は、髪をさっとかき上げつつ、そんなことを言った。
縁には、たまにこういうところがある。結構子供っぽいところがあるのに、無理に強がって大人ぶって見せるのだ。まぁそのチグハグさが、縁らしくて逆に愛らしくもあったり――
「……って、痛!」
唐突に、指に激痛が走る。
「な……なに? 今の……何があったの?」
まるで指が変な方向に捻じ曲がったかのような奇妙な感覚に困惑し、自分の手を見つめる。幸い、何の異常も見られない。
「お姉ちゃん、馬鹿なところで力を使わないで」
俺の突然の奇行を見て、紫が責めるような目を縁に向けた。
ていうか……縁のせいなの?
「和人くんが変なことを考えたせいですよ」
プイッと縁が顔を背ける。どうやら、縁のせいらしい。
「あ……まさか、あの時の?」
先日、子猫を屋根の上から救い出した際に使われた力を思い出す。アレなら、俺の指を一瞬捻り上げるくらいのことはできそうだ。
「今後は夜道に気をつけることですね」
縁は俺の問いには答えることなく、そんな物騒な言葉だけを残して歩き去る。痛いところを突いてしまったせいか、結構ご立腹のようだった。
「和人くんも、あんまりお姉ちゃんをからかっちゃ駄目だよ?」
紫が俺に『めっ!』をする。正直、抑止効果はゼロだ。むしろ積極的に挑戦していきたい。
「和人くん……」
紫が呆れた顔で俺を見る。紫は縁と違い、人の考えを読み取る力はない。それでも、結構な頻度で俺の考えを言い当てる。どうやら俺は、感情が顔に出やすいタイプらしいのだが……正直、良くわからない。
「わかったよ。今後は気をつける」
そう言って、今度は少し悲しくなる。今、俺は今後と言ったが……それも明日で終わりなのだ。今日お別れ会をして、明日祥子退治をして……それでお終い。二人はISSA本部があるジュネーブへと飛び立ってしまう。本当なら付いていきたいが、高校生でしかない俺には今すぐには無理だ。こんなことなら、学校を退学してバイトでもしておけば良かった。
「和人くん」
すると、紫が諭すような声で俺の名前を呼ぶ。だから俺は笑顔を向ける。今まで散々してきた議論を、こんなところで蒸し返すつもりはない。
「分かってるよ。それより、ほら。今日は鶏肉が安いよ」
特売のシールが貼られた鶏むね肉を手に取る。百グラムあたりで四十五円。隣の鶏もも肉と比べると、五十円以上安い。
「駄目。むね肉はパサパサするから。唐揚げにするには、もも肉の方が良いの」
「へぇ~そうなんだ」
驚く。むね肉ともも肉の違いにではなく、紫がそんなことを知っていたということに対して。正直、こんな家庭的な子だとは思わなかった。
「紫は幼稚園に通ってた時から、よくお母さんの手伝いをしてたんです。だからISSAに引き取られた後も、結構料理とかしてたんですよ」
いつの間にか戻っていた縁が、俺の疑問に答える。どうやら、もう機嫌を直してくれたみたいだ。
「確かに言われてみれば、既に何度も紫の家庭的なところは見てたね」
訓練やら何やらで、藤瀬家に居座ってそのままご飯を御馳走になったことは何度もある。そもそも、今日のお別れ会の食事は紫が作る。だから、普通に考えれば紫が家庭的なのは当たり前なのだ。ただ、彼女の生い立ちとその仕事柄から、どうしてもイメージが湧きにくい。その結果、こんな些細なことにも驚いてしまう。
「まぁ縁はイメージ通りだけどね」
ステーキコーナーをキラキラした目で見つめている縁を横目で見つつ、俺はそんな感想を漏らす。もちろん、今は幽霊だから仕方ないのだが、普段の縁の言動を見ていると、例え肉体があったとしても、絶対に料理とかしなかっただろうなぁと思う。もしかすると、洗濯物を畳むことすら、難儀するのではないだろうか?
「むむ……馬鹿にしないでください」
すると、縁が如何にも不満げに頬を膨らませながら、俺に対して反論を始める。
「私だって、昔はお母さんのお手伝いを良くしていたんです。『縁はお手伝い沢山して偉いね。だから、もうお外で遊んできて良いんだよ?』なんて、良く言われたものなんですから」
「紫、本当?」
俺はすぐに、熱心に鶏もも肉の鮮度を調べている紫に問いかける。すると紫は鶏もも肉から目を離すことなく、半分上の空で答えた。
「ん? う~ん……うん、本当。だって、お姉ちゃんがお手伝いすると仕事が増えるから。いつもお姉ちゃんが散らかしたのを私が片付けて……だから私、お父さんからは『お姉ちゃん処理係』って呼ばれてた」
「嘘!?」
縁が、驚愕の声を上げる。十年越しで明らかになった真実は、少しばかし残酷だった。
「全然知らなかった……」
ショックで顔を強張らせる縁。流石に可哀想になる。
「縁……大丈夫、今どき家事ができない女の人なんていくらでもいるよ」
「そう。それに、まだちっちゃい頃だから」
咄嗟に俺がフォローを入れ、それに紫が続く。珍しく紫の言葉にも若干の焦りが見えることから、きっとこのことは、紫なりに秘密にしていたことだったのだろう。それが、鶏もも肉に意識を集中させすぎた結果、ポロッと口から出てしまったのだ。
鶏もも肉、なんと罪深い……
「うぅ……ショック」
だが残念なことに、俺たちのフォローが功を奏することはなく、すっかり落ち込んでしまった縁は、よろよろとスーパーの隅に向かって歩いて行ってしまう。それを見た紫は、俺の手に乱暴に鶏もも肉を押し付けると、急いで姉の後を追った。
「お姉ちゃん、待って! 私が悪かったから! …………て、何してるの?」
心配そうな顔から一転。不審げに目を細めた紫が、本日の目玉商品である国産本マグロの中トロに目を奪われている縁を見て呟く。
「紫見て。今日、お刺身も良いんじゃない?」
「お姉ちゃん……さっきまで落ち込んでなかった?」
「さっきはね。でもこんな美味しそうなお刺身を前にして、落ち込んでなんかいられないでしょ? ほら紫、早く買って!」
「……」
そんなやり取りを始める藤瀬姉妹。俺から見ていても騒々しいそのやり取りは、縁の姿が見えない他の客にすれば、単なる紫の一人芝居にしか見えないだろう。何人かの客が通りすがりに、紫に不審げな顔を向けている。
「まったく……本当にしょうがないな……」
俺は苦笑を浮かべつつ、わざとらしくやれやれと首を振って、二人に向かって歩き始める。
(不審者と思われるなら、一人よりも二人の方が良いだろうしな)
そんなことを、苦笑の奥で考えながら。
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