2023年:幕間のひと時 第三章
『和人くん! そっち行きました!』
『了解!!』
俺は素早くテレパシーで縁に返事をすると、廊下の曲がり角に向けてレーザーガンを構える。
(一……二……三…………いま!)
心のなかで数を数えて、打ち合わせ通りのタイミングでレーザーを放つ。放たれたレーザーは一直線に廊下を進み、丁度角を曲がって姿を現した祥子本体に直撃した。
「ぎゃああぁぁ」
直撃を受けた顔を掻きむしりながら、祥子は絶叫して動きを止める。そしてその後ろでは、既に空中に飛び上がった縁が刀を構えていた。
「地獄で反省してください!」
縁はそう叫ぶと、華麗に空中で回転し、そのままの勢いで祥子の首を刎ねた。
「――ッ!!」
声なき悲鳴と共に、祥子の首が地に落ちる。だがそれが地面につくことはない。この世界で活動するだけの霊力を失った祥子は、あっという間に霧散し、縁が着地する頃には跡形もなく消え去っていた。
「お疲れ」
心象領域が消滅し、揺らぐ世界の中で縁に声をかける。
「えぇ、和人くんも。良いコンビネーションでした」
満足気に微笑んだ縁は、『タタタッ』と俺に駆け寄り、手を上げる。
俺もそんな縁に笑いかけると、目の前に掲げられた掌に、自分の掌を勢いよく合わせた。
パンッ!!
小気味良い音が辺りに響き、それを合図としたように心象領域が完全に消滅した。
「二人共、お帰りなさい」
現実世界では、俺の肉体を肩で支えた紫が出迎えてくれていた。
「ただいま。無事、終わったよ」
「良かった。上手くいったみたいだね」
縁の声を聞いて、紫が安心した顔をする。
「うん。和人くんのお陰。初戦にしては大活躍だったよ」
「そっか。凄いね、和人くん」
紫が嬉しそうに、微笑みかけてくれる。
「アシストくらいしか出来なかったけどね」
その可愛らしい笑みに向かって、俺も笑顔を一つ返すと、流れるように幽体離脱を解除した。直後、視界が切り替わる。
「紫、肉体を守ってくれて、ありがとう」
自分の肉体に戻って紫の肩から離れると、両足に力を込める。
「どういたしまして」
そんな俺に、相変わらず笑顔を浮かべた紫がそう返事をするが、心なしか、その笑みには寂しさのようなものも加わったような気がする。
そして俺にも、そんな彼女の変化がよく理解出来て……だからこそ、努めて明るい声で二人に言った。
「帰ろうか。明日、迎えの車が来るのは確か六時だよね?」
明日の予定。
それは、二人がこの地を離れる時間であり、同時に……俺と彼女たちとの、別れの時だ。
その別れの時が過ぎるまで、俺は――
ずっと笑顔でいようと、決めている。
「えぇ、そうです」
きっと、そんな俺の想いを汲んでくれたのだろう。微笑んだ縁が優しく答えて――
「今日は疲れたでしょうから。早く休みましょう。明日に響きます」
静かな声で、そう告げた。
「……うん、分かってる」
縁の言葉に、やはり少しだけ躊躇いがちの表情を見せる紫。でも、もうそれも一瞬だ。
次の瞬間、紫が浮かべた笑顔には、どこにも寂しそうな影は見られなかった。
(ありがとう)
そんな彼女たちに、心の中でそう小さく感謝して……侵入口にした一階男子トイレへ向かって、歩き始める。これで最後になる、三人一緒に歩く廊下の感触を、心に焼き付けながら。
***
夜の神社は暗い。
小高い山の上に立地しているから当然付近に街灯なんてないし、社務所の灯りも留守中は消しているから、月明かりくらいしか光源がないためだ。そのため、普段日が暮れた後に神社に出入りする時は、スマホのライトを点灯させるようにしている。
勿論、紫くらいの実力者になれば、明かりなどなくとも問題なく神社への石段を登っていけるのだろうが……まだ俺は、そこまでの域には全然達していないのだ。
だから今日もいつものように、俺は石段の前まで来るとスマホのライトを点灯させようとした。しかし……
その動作を実行に移す前に、スマホを持った手が紫によって掴まれていた。
「?」
その行動の意味が分からず、頭上に疑問符を浮かべて紫を見る。すると顔に警戒の色を浮かべた紫が、囁くような小声で呟いた。
「誰かが……神社にいる」
「え? ……神社に?」
思わず、階段を見上げる。すると、言われるまでは気が付かなかったが、確かに最上段の向こう側から、僅かな明かりが漏れてきているのが見えた。
(……はて?)
どうやら紫が言うように、誰かが境内にいるのは間違いないようだ。けれど、果たしてこんな時間に、一体誰が神社を訪れたりするのだろうか? それこそ、『五寸釘で藁人形を突き刺す』なんていう古典的な呪詛くらいしか、心当たりが思い浮かばない。
「私が、様子を見てきます」
そんな風に呑気なことを考えていた俺とは違って、縁の声はいつになく真剣だった。滅多に見せることがないエクソシストの顔になり、次の瞬間には姿を消している。
「私たちも、少しずつ近づこう」
その様子を見届けた紫も、縁と同じくらい真剣な表情で、俺に向かってそう告げる。それでようやく、今の状況が非常事態なのだと認識した。
「分かった」
短く答えて、スマホをポケットの中にしまう。きっと、両手は開けておいた方が良いだろう。
紫は、そんな俺を見て小さく頷くと、俺の手を取って石段をゆっくりと上り始めた。
しばらく、俺の足音と息遣いだけが聞こえる。これでも、可能な限り音は出さないように努力したつもりだったが、それでも、完全無音な暗闇の中ですべての音を抑え切るのは、どうしたって困難だった。
願わくは、この『耳をすまさないと聞こえない程度小音』を、尚聞き取るだけの実力者が、境内にいる不審者の中に混じっていませんように……
ただひたすらそんなことを祈りながら、次の石段へと足をかけ続ける。
「……待って」
恐らく、全体の半分くらいを上った頃だろうか。不意に紫がそう囁いて、足を止めた。
「紫?」
見ると、紫の額には汗が滲み、顔は緊張で強張っている。こんな余裕のない顔の紫を見るのは、間違いなく初めてだ。そして――
「お姉ちゃんの……気配が消えた」
その表情のまま、紫は一言、そう告げた。
同時に、俺の手を離して足を動かし、一つ上の段へと移動する。まるで俺を、境内の中にいる誰かから庇うように。
「和人君……走れる?」
更には、間髪入れず二言目。それは俺に対する問いかけだったが、その直後にはもう、質問から確認へと姿を変えている。
「万一の時のシェルター、分かるよね? そこまで走って、ISSAの日本支部へ連絡を」
有無を言わさぬ口調。けれどそれ以上に、その内容の深刻さが、俺からしばしの間、言葉を奪った。
万一の時のシェルター――それは、二人から戦闘訓練を受け始めた頃に教えて貰った避難所で、国道沿いに立っている民家のことだ。拠点――すなわち神代神社が制圧された際の籠城先、そして連絡拠点としての機能を有した建物。
ただ二人からは、あくまでもそれは保険のための設備であって、使うことはまず無いだろうと言われていた。
『使う時は、それこそ私たちのどちらか一人は、既に居なくなってるかもしれません』
そんなことを、少し脅かすような調子で言っていた、縁の悪戯混じりの顔を思い出す。
「分かるけど……でもそれって……」
だからこそ、ようやく言葉が出るようになっても、俺は自分の中に渦巻いた不安をはっきりと口にすることが出来ない。言葉にした途端、それは逃れらない現実となって目の前に現れてしまうのではないか。そんな漠然とした恐怖が、俺の身体を竦ませて。
「正確なことは分からない。けど――」
一方、紫は俺とは違う。想定される最悪な事態を直視して、加えて思考は停止しない。
「お姉ちゃんの気配を見失うなんて、今まで一回だってそんなことはなかった。だから、これは緊急事態。最悪を想定して動かないといけない」
そして、最初の言葉に戻る。
「分かったら、和人君は逃げて。逃げて、ISSAに連絡を。ここは、私が引き受ける」
余裕のない声でそう繰り返した紫が、明らかに臨戦態勢を整えて、僅かにその身を屈めた。
もう、紫の意識に俺はない。目の前の〝敵〟に、全神経を集中している。
「……分かった。気をつけて……」
だから、もう俺には選択の余地はない。紫の指示に反してこの場に残るなんて選択は、彼女を危険に晒す可能性がある以上、絶対に選ぶことは出来ない。
(今の俺がすべきことは、一刻も早くISSAに連絡し、救援を連れて戻ることだ)
自分のすべきことを自覚した俺は、身を翻す。恐らくここからは、一刻の猶予も許されない。
「――!?」
けれど、走り出しそうになった俺の身体を唐突に背後から誰かが抱き締めて、俺はその場から一歩も動けなくなった。
肩越しに、背後の様子を確認する。
「…………紫?」
敵ではないことがわかり、緊張で強張っていた身体から、スッと力が抜けた。
何故かは知らないが、直前まで神社の方にすべての意識を向けていた紫が、今は俺を抱き止めている。
「どうしたの?」
「動かないで。網を張られてる」
緩んだ緊張が、一瞬で戻ってくる。
「……網?」
慌てて、自分が踏み出そうとしていた前方に視線を這わす。けれど俺の視力では、異常と思われるものは何一つ、捉えることが出来なかった。
それでも、紫の言葉に従って、出しかけていた足をゆっくりと元の位置に戻す。
声が聞こえてきたのは、丁度そのタイミングだった。
「Great job, Captain. Apparently your skills have not dulled.(流石、隊長。どうやら腕は鈍っていないみたいですね)」
それは、始めて聞く声だった。
言語は英語。夜の神社で聞くには、あまりに不釣り合いな外国語。だがしかし、もしかしたらそう思ったのは、この場では俺だけだったのかもしれない。
何故なら、俺を抱きしめていた紫が躊躇なく振り返り、怪訝そうに眉を顰めながらも、その声に対して返事を返したからだ。
「That voice ...... and this web ...... could it be Carla?(その声……それにこの網は……もしかして、カルラ?)」
「Yes, it has been a long time, Captain. It's an honor to see you again while we're still alive.(はい。お久しぶりです、隊長。生きているうちにまたお会い出来て光栄です)」
英語で交わされる言葉たち。その内容から、どうやら相手は紫の知己であることが察せられる。
「I knew it. ...... Why are you in Japan?(やっぱり……どうしてあなたが、この国に?)」
殺気を消した紫が、それでも厳しい表情を緩めることなく問いかける。けれど、今度はそれに答える声はなく、代わりに一人の女性が暗闇の中から姿を現した。
恐らく、彼女がカルラなのだろう。見たところ、俺たちよりは年上だが、そうは言っても、まだかなり若い。短く切り揃えられた髪と切長の細い目。そして、そこから発せられる刺すような視線が、彼女という人間がどのような性格の人間であるのかを、明確に表現していた。
「Why? Did the captain just ask 'why'?(何故? 今隊長は、『何故』と問うたのですか?)」
実際、彼女の言葉には棘がある。頭の中の回路を、子供の頃に習得した英語圏のそれに慌てて組み変えている俺を尻目に、二人の会話は急加速で剣呑さを増していった。
「腕は鈍っていないと思いましたが……どうやら思い違いだったようです。まさか、隊長からそんな言葉を聞くことになるとは、夢にも思いませんでした」
回路の組み換えになんとか成功した俺は、日本語を介さずに英語を理解できるようになったが……
そんな俺の耳に飛び込んできたのは、カルラの大きな溜息だった。更には、まるで愛想を尽かしたと言わんばかりに、大袈裟な仕草で首を左右に振り――
「我々AESUが、エクソシストの前に現れた。その意味は、誰よりもあなたがよくご存知でしょう? 〝冷酷なる執行者(Ruthless enforcer)〟殿」
そう、静かな声で宣告した。
その意味をしかし、俺はまるで理解出来ない。『AESU』という単語も、『Ruthless enforcer』という呼び名も、俺にはまるで聞き覚えがなかったから。けれど――
間違いのない確かな事実は、その言葉の直後、紫の顔には驚愕の色が浮かび、次の瞬間、俺に向かって『逃げて!』と叫んだということだ。
紫のその尋常ならざる様子に、そしてそのあまりの急変ぶりに、俺は反応することも出来ず、日本刀を両手に出現させた紫が、カルラに飛びつくように斬りかかるところを、ただ見つめることしか出来なかった。
「本当に、呆れました」
だから当然、何も出来ない。
無慈悲な一言が空気を震わし、紫の身体がカルラに届く遥か前方で動きを止め、更には見えない十字架に絡み取られるように宙に浮き上がった姿を目の前にしても、声の一つも出すことが出来なかった。
「以前の隊長なら、こんなものに引っ掛かることはありませんでしたよ。そもそも、私が何の下準備も無しに、一人で貴女の前に立つわけがないではありませんか」
しかし――不甲斐ない俺のことなどお構いなしに、目の前の事態は進行し続けている。
完全に自由を奪われた紫は、もはや身動きすら許されず。そんな彼女に向かって、薄く微笑んだカルラがゆっくりと近づいていった。その姿はまるで、物語の中に出てくる死刑執行人そのものだ。
「……やめろ」
だからこそ、俺はきっと動くことが出来た。目前に広がる冗談みたいな光景が、麻痺した頭に更なる電流を流し込み、強制再起動を引き起こした。理性や常識、現実的な判断をどこか遠くへ押しやった。
俺は、彼女の名前を叫ぶ。
「紫!!」
叫びつつ、前へ。
彼女の元へと向かうため、階段を駆け上がろうと一歩を踏み出す。
「!?」
けれど――
「どうして……」
持ち上がらない。
まるで地面に縫い付けられてしまったかのように、両足がその場に固定され、ピクリとも動かすことが出来ない。
「そん……な……」
だから、ようやく気がついた。磔られたのは……紫だけではなかったのだ。
「あなたが……和人君ですね?」
そして、向けられる視線。顔を上げると、カルラの視線が真っ直ぐに俺を射抜いていた。
「初めまして。少しは、英語は解りますか?」
俺は答えない。だが、恐らく表情から察したのだろう。カルラは、満足そうに頷いた。
「良かった。言語が通じないと、何かと不便ですからね」
そう言うと、カルラは上品な所作で頭を下げて、澱みない調子で名乗りをあげた。
「私はカルラ。対エクソシスト特殊制圧部隊(Anti-Exorzisten-Spezialeinheiten zur Unterdrückung)――通称AESUに所属しているエクソシストです。あなた方を、殺すために参りました」
「止めて! 和人君に近付かないで!」
その名乗りを聞くや否や、紫が絶叫して身を捩った。その衝撃で、拘束する糸が紫の身体を傷つけたのだろう。身体中から、幾重もの血が滴り落ちた。
「隊長。ご存知でしょうが、あなた方を縛っているのは不可視の糸です。振り解こうなどと考えない方が良い。その前に、貴女の身体がバラバラになりますから」
その様子を、冷酷なまでに無感動な表情で一瞥したカルラが、一歩一歩階段を降りてくる。その視線を、まっすぐ俺へと固定して。
「それにしても、あなた方が不注意にもこちらのルートを使ってくれて助かりました」
その最中も、彼女の口は動き続ける。まるで自分の勝利を誇示するように、ペラペラと種明かしをし続ける。
「もし、あなた方が神社の裏手から登ってきたら……私には手の打ちようがありませんでした。紫様を絡め取れるほどの罠を、二つのルートに設置できるほどの余裕は私にもありませんでしたから」
種明かしというより、それはもはや暴露だった。まるで『過去に戻ってやり直せ』とでも言わんばかりのその口調は、セーブ&ロードが可能なゲーム世界の、NPCのようなセリフだ。
けれど当然、現実世界ではそんなことは不可能だ。俺に出来ることは、ただ瞬きもせず、近づく彼女を睨みつけることだけ。
「…………和人君に」
しかし――紫は違った。
「和人君に――」
まるで、ゲームやアニメの登場人物のように。
「和人君に――――近づくな!!」
不可能を、可能にしてみせる。
「――ッ!! 馬鹿な!?」
驚愕の声をあげるカルラの目の前で、紫が階段に着地する。その姿は、どこもかしこも血塗れで……しかし既に、紫を拘束する糸はどこにも存在していなかった。
「霊力で……糸の組成ごと吹き飛ばしたの!?」
信じられないという顔で、カルラは目を見開き一歩後ろへと下がる。だが、次の瞬間……
紫がその場から忽然と姿を消し、対してカルラは、その場に押し倒されていた。
「――ガハッ!!」
恐らく、紫が一瞬で距離を詰めたのだろう。地面に押し付けられ、更には胸の上から肺を強打されたカルラが、苦痛の表情で肺の中の空気を吐き出す。
それだけではない。痛打の衝撃から立ち直りカルラが目を開いた時には、既に紫の日本刀がその首筋に当てがわれ、一筋の血液が流れ出していた。
「昔の誼で殺しはしない。ただ、すべて話しなさい。何故、AESUが私たちを狙う?」
聞いたこともないほど冷酷な声で、紫は静かに問う。漂う殺気のあまりの強さで、俺が刀を向けられている訳でもないのに、冷たい汗が背中を流れていった。
「さす……が……隊長。やはり、前言は撤回します。隊長は以前と変わらないほど強く、しかも、前以上に恐ろしい」
だから当然、カルラも平気なわけがない。言葉こそ、どこか余裕を感じさせる内容だったが、その頬は俺から見ても、分かりやすく引き攣っていた。
「うるさい。早く、答えなさい」
けれど、紫は容赦がない。スッと刀が横に動き、流れる血液が目に見えて多くなった。
「う……」
カルラの瞳に、恐怖が宿る。
「隊長……これから種明かしをしますので、どうかその刀を退けてください」
「種? ……ふざけてるの?」
「いえ、滅相もありません。この顔をした隊長相手にふざけられるほど、私はまだ人間を辞めていません。だからそれは……紛れもなく、真面目な話なんです」
「…………」
沈黙。油断なくカルラを観察する紫の息遣いだけが微かに聞こえ、カルラも、そして俺も、息を殺す。
「はぁ…………また、評議会?」
そして、殺気が薄れた。未だ刀はカルラの首筋にあるものの、明らかに力が緩み、僅かに食い込んでいた刃先が皮との間に隙間を作る。
「はい。話が早くて助かります」
それで、カルラの顔からも緊張が消えた。
「評議会からの命令は、全部で三つありました。一つ目は、隊長方に罠を仕掛けて、実力の如何を確認すること」
「……腕が鈍ってないか、確かめろと?」
「そうは言われていませんが、恐らく。お二人が前線を離れて、既に半年ですから。ちなみに、境内の方では既に、縁様にこちらの精鋭三名が無力化され、一つ目の目的は果たされました。今は、評議会からの命令である旨を伝えて、結界の中に入って貰っています」
「そう……じゃあ、お姉ちゃんは無事なんだね」
紫の表情が、明らかに安堵したものになる。
「勿論です。我々は改めて、隊長の恐ろしさを体験させて頂きました」
苦笑いを浮かべたカルラが、「それで、二つ目の命令ですが――」
と、話を元に戻す。
「仕掛けた罠の綻び――つまりは、裏側の道が手薄だったということですが、それを桐生和人に伝えるようにと」
「…………?」
紫が首を傾げる。
「よく……言っている意味が分からないんだけど」
そして、その目がスッと細くなる。
「というか、和人君のことは評議会に報告していない。なのになんで、命令の中に和人君の名前が出てくるの?」
「我々は、命令を受諾しただけです。その経緯は、私が預かり知るところではありません」
カルラが、また少し緊張した面持ちでそう答える。紫は少しの間、細めた目でカルラの顔を見つめていたが、やがて「ふーん、そう」とだけ言って、何かを考え込むように眉を顰めた。
「それで? 三つ目は?」
だが、それも少しの間だ。すぐに元の表情に戻すと、最後の命令の内容について聞いた。
カルラは、一瞬言い淀んだ。
「えぇっと、それが……」
少しの逡巡。だが、紫の表情が険しくなったのを見て、慌てたように言葉を繋ぐ。
「桐生和人を連れて、評議会のもとへ――ベルンにある『黒薔薇の館』まで来るようにと……それが、評議会の三つ目の命令です」
そしてそれは、予想の斜め上をいく答え。俺も、そして紫も、呆気に取られて声を出すことも出来ない。
だから、静寂に包まれた闇世の中で、ただ、カルラがもぞもぞと紫の下から這い出る音だけが、静かに空気を震わせていた。
「お姉ちゃん……」
神社の境内に上がった紫は、無事な姿の縁を見つけて、安心したように姉のことを呼んだ。対して、縁は眦を釣り上げる。
「ちょっと……紫が傷だらけなんだけど。これ、どういうこと?」
そして、背後を振り返り、怒鳴る。
「イレーネ!」
すると、暗闇の向こうから1人の女性が姿を現した。
「申し訳ありません。こちらの、想定不足で……」
イレーネと呼ばれた女性は、カルラよりもまだ少しだけ、年下のように見えた。恐縮したように身を縮こまらせて、縁の声に答える。
「カルラの不可視の呪縛にかかって、それで尚、まだ動くと思っていなかったのです。カルラが使う糸が、いかに強靭か、紫様もよく存じ上げているはずですから」
「不可視の?」
縁が眉を顰める。それから、紫の方を見た。
「紫……それは紫も無茶しすぎだよ」
「だって、和人君が危ないと思ったから」
「それにしたって……」
縁が呆れたように首を振って、でもすぐに――
「まぁ……仕方ないか……」
疲れた顔で、微笑んだ。
「私だって、同じ状況だったら何をしたかわからないし。あんまり、紫だけを責められないかな」
そう小さく呟くと、「はぁ」と、一回だけ小さく溜息をついて、また視線をイレーネに戻した。
「さて、イレーネ。じゃあ改めて、きちんと説明して貰いましょうか。あなたたちは何を指示されたのか。元々はジュネーブ本部に戻るつもりだった私たちを、黒薔薇の館に召集した理由は何か。しかも和人君まで名指しで」
「それは……先ほど紫様方が、カルラから聞いたと思うのですが……」
イレーネが、明らかに困ったような顔をする。
「聞いたけど、あんなのじゃ全然わからないから。改めて、イレーネからも聞いておきたいの」
しかし当然、縁は見逃すつもりは無いようだった。カルラが首筋に受けた傷を治すために、この場を離れた以上、聞く相手はイレーネ一人に絞られている。
「はぁ……わかりました。でも、末端の私に説明できる事はほとんどありませんよ?」
諦めたイレーネは、そう前置きした上で、ゆっくりと話し始める。
「まず、お二人の勘違いを解かせていただきたいと思いますが、私とカルラはAESUの人間ではありません」
いきなり、紫の首が傾げられる。
「? でも、さっきカルラはAESUだって……」
「それは演技です。そう言った方が紫様を刺激できるだろうと、カルラが。そこに関しては、目論見通りでした」
「……そりゃあね。あの組織の看板背負った人間が目の前に現れて、冷静でいられるエクソシストがいたら、それこそ見てみたいよ」
これは、縁の言葉。先程から気になっていたが、縁はこのイレーネという女性には敬語を使わない。今まで出会ってきた人たち(決してたくさんではないが)には、縁は総じて、敬語を使ってきた。だから実は、敬語を使わない縁を見るのはこれが初めてだ。彼らが明らかに知己であることを考えると、きっと過去に何かがあったのだろう。
「彼女は少し前まで、私たちの部下だったんですよ」
すると、いつものように俺の考えを読んで、縁がそう答えた。思わず、聞き返してしまう。
「部下って……明らかに、イレーネの方が年上だよね
?」
(それとも……イレーネの年齢は見た目通りじゃないのか?)
「いいえ、そんな事はありません。和人君の目算は合っていますよ。もちろん――」
縁が、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「私たちが実は年長者だった……なんてこともありません。普通に、十六歳の女子高生です」
そんな冗談を挟んだ上で、縁がこともなげに告げる。
「私たちは日本に来るちょっと前まで、AESUの隊長を務めていたんです。そしてその時の部下の中に、カルラとイレーネもいたんですよ」
「た……隊長!?」
確かに、カルラは紫のことをずっと隊長と呼んでいたが……まさか本当に、言葉通りの意味だとは思わなかった。
「それに……AESUって、なんか物騒な名前の部隊じゃなかった? 確か、『対エクソシスト特殊制圧部隊』とかなんとか……」
「はい。流石、よく覚えていましたね。AESUの主な職務内容は、離反したエクソシストの粛清です。だからまぁ……実際、物騒な部隊ですよ。エクソシストの前にAESUが姿を現したら、それはもう、死刑宣告みたいなものですからね」
縁が嫌そうな顔でそう言うが、しかしその直後、イレーネが横合いから口を挟んだ。
「お二人はそこで『冷酷なる執行者』と呼ばれ、恐怖と尊敬を一身に背負っておられました。だから未だ、当時の部下の多くはお二人を慕っているんです」
イレーネの表情に、一切迷いはない。彼女の言葉通り、縁と紫のことを本心から尊敬していることが、ストレートに伝わってくる。
「……慕われるようなことじゃないよ」
けれど、対する縁の表情は冴えない。
「カッコいい言い方をしたところで、やっていることは仲間の暗殺なんだから。イレーネみたいな人にどれだけ慕われていたとしても、ほとんどのエクソシストにとってはそうじゃない。私たちはあくまでも恐怖の象徴で、そして同時に、絶望の根源なんだから」
「だとしても!」
しかし、イレーネがそこで声を荒げた。
「お二人のお陰で、どれだけの人が救われたのか分かりません。闇に堕ち、悪魔に屈したエクソシストは、世界に混沌と恐怖を撒き散らします。それを未然に防いだお二人の功績は、決して低く評価されるようなものではない。まともなエクソシストなら、皆そう考えているはずです」
束の間、縁とイレーネの視線が交錯する。
「……私も、そう信じたいけどね」
最初に目を逸らしたのは、縁だった。
「確かに彼らの存在は、害悪が大き過ぎる。人の魂を貶め、傷つけ、利用するという行為は、肉体が滅んでからも消えない烙印となって、被害者たちを苦しめることになる。その罪は、単なる殺人とは比較にならない」
「はい。だからこそ、彼らの暗躍を許してはいけない」
イレーネが確信を込めて、そう同意する。そんな彼女に、しかし縁は、こう付け加えた。
「粛清対象が、本当に堕落していればね」
イレーネが、一瞬言葉に詰まる。
「粛清対象は評議会が決定する。でも、その決定は本当に正しいの? 彼らが堕落した確かな証拠は、本当にあるの?」
その一瞬の間に、畳み掛けるような縁の言葉が続き……イレーネも遂に、目を逸らした。
「……でも証拠が揃うのを待っていたら、事件を未然に防ぐことは出来ません」
反論をするも、それはやや弱い。案の定、縁はそれでは納得せず……続く言葉を口にした。
「でもそのせいで、冤罪が生まれているとしたら? いや……冤罪ならまだ良いかもしれない。冤罪どころか、証拠が曖昧なのを良いことに、評議会が自分たちの意向に合わないエクソシストを処分しているとしたら?」
「処分って……」
それは、あまりにも過激な意見だった。思わず、口からその言葉が漏れて、それを縁に拾われる。
「そう疑っても仕方のない事件が、二年前にあったんよ。私たちはそれをきっかけに、AESUの隊長の座を降りたんです」
縁の視線が俺を捉え、それから確認するように、紫を見た。紫が、黙ったまま頷く。
「……そうだね。折角だから、和人君にも話しておこうか」
縁も頷き、再び俺を見る。
「決して面白い話ではありませんが、評議会が和人君に興味を持っているのなら、知っておくべきことかもしれませんから」
「縁様、いけません」
けれど、縁が話し始めるよりも前に、イレーネがそこに割り込んだ。
「それは、明らかに機密情報です。軽々しく、無関係な人に話しても良いようなことでは――」
「軽々しくでもないし、和人君は無関係でもないでしょ」
「規定上は、無関係です」
「じょあ、黙認してよ。イレーネが誰にも他言しなかったら、問題ないでしょ?」
「!? そういう問題では……」
だが、その表情から縁が本気であることを悟ったのだろう。大きく一つ、溜息をついた。
「……分かりました。私は少し、席を外します」
「ありがとう。話が早くて助かる」
「はぁ……一度言い出したら、縁様は聞きませんからね。何を言っても、もう時間の無駄です」
疲れた顔で首を振って、足早にその場を後にした。
「さて……では邪魔者がいなくなったところで、昔話を始めましょうか」
イレーネがいなくなった方向を満足げに眺めた縁は、そんな前置きを挟みつつ、ゆっくりと話し始めた。
それは、地球の裏側で実際に起こった、一つの暗殺劇だった。
***
私が評議会の指示に疑問を抱いたきっかけは……ブラジルの僻地で、一人の元エクソシストを粛清する任務に従事した時のことです。
彼は……三年ほど前にISSAを辞めた、元エクソシストでした。十年以上エクソシストとして働いてきた熟練者でしたが、体力的に厳しくなってきたのでしょう。ISSAに辞職を申し入れ、それは穏便に受理されました。そして彼は、その時に貰った退職金を使って、故郷でコーヒーショップを経営し始めました。
ちなみに、このような形でエクソシストを辞められる方は決して多くはありませんが、珍しくもありません。半数以上のエクソシストは、そうなる前に死ぬか、再起不能になるか、あるいは離反していきますが、幸運にもその運命を辿らなかった方々のほとんどが、そのような未来を選択するからです。そういう意味で、彼は非常に優秀で、かつ使命感に篤い人だったのでしょう。
でもそんな彼に……評議会は粛清命令を下しました。
罪状は……人身売買です。とある悪魔とグルになって、貧困に苦しむ家族からお金と人間性を毟り取っているっていう話でした。
その話を聞く限り、ターゲットには、出来るだけ仲睦まじい家族が選ばれているようでした。まず狙うのは、親と子供の仲です。子供のことを『愛すべき庇護対象』ではなく、『厄介な穀潰し』と思わせるように悪魔が働き掛けます。そして機が熟したタイミングで、その元エクソシストによって手配された奴隷商人が、彼らの下に行く……奴隷誕生の瞬間です。しかも、評議会は『彼はこれから、更に新しいビジネスを展開する気だ』と言っていました。
その『新しいビジネス』における次なる顧客は……子供を奴隷商人に売り渡した、その両親です。
***
縁が、そこで一旦口を閉じる。
俺はというと……あまりに酷い内容に、言葉を失ってしまっていた。
文字通り、被害者は骨の髄まで絞り尽くされるのだ。子供が売られ、そしてその両親が殺し合う――こんな最悪のシナリオが、他にあるだろうか。
「はい。私たちもそう思いました。こんな非道、許されて良い筈がないと……だから私たちは、一目散に現地に飛びました」
縁が宙を見つめ、遠い目をする。
「その元エクソシストの所在はすぐに知れました。その街で人身売買が行われているという、確かな痕跡も出てきました。躊躇う必要なんてない。私は彼の家に侵入しました」
横で、紫がそっと目を瞑る。その時のことを、思い出しているのかもしれない。
「彼は、私のことを認識するだけの能力を持っていました。更に言えば、とても優秀なエクソシストでした。だからあと少しのところで、私の侵入は気づかれました……それからは必死の攻防戦です。それでも、戦況は終始私の優勢でした。霊体である私は、肉を持った人間に対しては、やはり圧倒的に有利なんです。だから、最終的にはすべての抵抗を叩き潰し、彼の霊子線を切断することができました」
淡々とそこまで話していた縁だったが、そこで初めて表情が変わる。そこに表れたのは、苦悩の色だった。
「彼を殺す直前、彼の思考が流れ込んできました。それまで、彼は自分の思考が読まれないように固くプロテクトをかけていたのですが、死を前にして、遂に保てなくなったのでしょう。だから、私はその時初めて知ったんです」
そこで、一度縁は言葉を切る。
その間に……俺は考える。果たして、死の直前に人は何を考えるのだろう。
家族のことだろうか? 来るはずだった未来予想図だろうか? それとも、過去の思い出だろうか?
(いや……違うな)
彼は考えたはずだ。もし縁が疑うように、彼が本当に無実だったのであれば。エクソシストとして、恥じることのない生き方をしてきたのであれば。
彼はきっと――
「『何故、私は殺されるんだ?』――それが、死の間際に立った、彼の思考でした」
改めて口を開いた縁が、そう答えを告げる。
苦しそうに顔を歪ませて、縁は続ける。
「愕然としました。刀を仕舞うのも忘れて、彼の死体の側で立ち竦みました。もし彼が本当に人身売買をしていたのなら、AESUに狙われた理由が分からない筈がない。にも関わらず、それが分からないのなら……その理由を、私は一つしか思い付けませんでした。そして私は、その時になってようやく気が付いたんです。彼と手を組んでいた筈の悪魔が、結局最後まで姿を見せなかったことに……」
その言葉を最後に、縁の昔語りが終わる。後に残ったのは、なんとも後味の悪い感覚。拭いきれない、組織への疑念。
「改めて申しますが……私は、それでもやはり根拠としては薄いと思います」
いつのに間にか、イレーネが闇の向こうからこちらに戻ってきていた。その顔に、ただ寂しさのみを漂わせて。
「それだけの手練れなら、最後に縁様の動揺を誘う為、偽の思考を読ませた可能性もあります。それに、戦闘中に悪魔が参戦してこないことも、決して珍しくはありません。彼らにとって、人間とは所詮駒に過ぎないのですから。不利と踏んだら、わざわざ死地に飛び込むようなことはしません」
そう語るイレーネは、今何を思っているのだろうか。寂しげな表情と、縁の考えが間違っていると指摘するその行動の乖離。俺にはそれが、彼女の複雑な心中の表れに思えてならない。
尊敬している縁と、仕えるべき組織。その捨てることの出来ない両極の狭間で、イレーネはきっと苦しんいる。
それは、俺にも分かる程度のことだ。勿論、縁も分かっているだろう。だからこそ縁は、イレーネと同じように寂しそうな顔をして……しかし、茶化すようにこう続けた。
「あれ? 機密どうこうは良いの? 聞いちゃったなら、私を捕まえなきゃ」
寂しげな顔のまま、イレーネは一瞬だけ微笑む。けれど……
イレーネもすぐに、その気遣いに乗った。表情から寂しさを消し、わざとらしく淡々と言葉を返す。
「桐生和人……和人君を黒薔薇の館に連れて行くと言う任務を果たす上で、必要な譲歩だったと考えることにしました。その場合『守秘義務の例外』条項を適用することが可能になりますので。そしてそれは、AESU隊員が持つ現場裁量権の範囲内で処理可能ですので、評議会への報告も省略することにします」
つらつらと、イレーネがそんな解釈を披露する。それが、縁には随分可笑しかったのだろう。楽しそうに、クスクスと笑った。
「イレーネも、随分と悪知恵が働くようになってきたね」
イレーネが、ニコリと微笑む。
「はい。ですので、和人君を黒薔薇の館に連れて行くことに関しては、グズらないで下さいね。その前提を崩してしまうと、私は今の解釈を放棄せざるを得なくなってしまいますから」
途端に、縁の顔から笑みが消えた。
「それは少し……悪知恵過ぎはしない?」
「縁様に仕込まれましたから」
笑顔で、イレーネが答える。どうやら、単なる苦労人というわけではないみたいだ。
「お姉ちゃん、どのみち連れて行くしかなかったよ」
そこで、今まで黙っていた紫も口を挟む。
「評議会が直々に和人君の名前を出したんだもん。ここで拒否しても、また要求されるのは目に見えてる、今度はもっと強硬な方法で。もしそれからも逃げようとするなら……それこそ、世界中を逃げ回らないといけなくなるでしょ?」
紫の言葉に、縁はむっと推し黙る。だがすぐに、諦めたような息を吐いた。
「……分かってるよ。ただ、最終的な結論を出す前に、さっきの質問には答えて。あなたたちの――評議会の目的は何なの?」
その改めての問いに、イレーネは困ったような顔をする。
「……先程も言いましたが、大したことを話せないというのは本当なんです。縁様もご存知のように、評議会は懇切丁寧に任務の目的を説明してはくれませんから。ですから、唯一話せることがあるとすれば……『この任務を命じられた我々が、どんなチームに所属しているのか』――ということくらいでしょうか」
「そういえば、さっきも言ってたね。今はもう『AESUじゃない』とかなんとか。もしかして、かなり特殊な組織なの?」
「はい。縁様と紫様がAESUを抜けて一年後くらいでしょうか。私とカルラは、評議会直属の新設部隊に招集されたんです」
「新設部隊? 知らなかったな……紫は知ってる?」
縁が紫を見るが、紫も首を振る。
「知らなくて当然です。対外的に公開はされていませんから」
「ふ〜ん、まぁ良いや。それで?」
「はい。私たちが召集されたのは、特務機関第十三分隊という新設部隊でした。略称は13SSです。13SSの任務は、主に情報収集。紛争が起こっている場所、犯罪が多発している場所、政治的な問題が起こっている場所などに赴いて、悪魔の活動の痕跡を調査し、それを評議会に報告します」
すると、縁が何かに納得したように頷いた。
「あぁ……なるほど。じゃあ評議会は、完全にジュネーブ本部から独立して活動できるようになったわけね」
「はい。これによって国連の監督下からも離れましたから、より大胆な――国連から承認が降りないような活動も可能になりました」
「そうなるだろうね。よく言えば、より柔軟かつ公平に動けるようになったってことになるんだろうけど……」
「はい、私はそう解釈しています。勿論、縁様に言わせれば、〝より不透明になった〟ということになるのでしょうが」
「まぁね。でも、それをここで議論しても水掛け論にしかならないから、今は脇に置いておこう。それで? そんな調査組織が私たちの力試しや伝言やらの任務を請け負ったと……どう考えてもおかしいけど、それに対する弁明は?」
「……私は、指示されたことを達成するのみですので」
いきなり事務的になったイレーネが答える。恐らくそのことに関しては、イレーネ自身も納得のいく解釈を出せていないのだろう。
そんなイレーネを見て、縁は「ふん」と鼻を鳴らした。
「まぁ良いよ。その辺りの事情や都合は、直接本人に聞こうと思うから」
「評議会の皆様が、素直に話して下さるとも思えませんが」
遠慮がちに、イレーネはそう呟く。縁はまた、鼻を鳴らした。
「ふん、分かってるよ」
そして、俺の方に向き直る。
「さて……話の通りです。和人君は評議会に招集されました。その目的は明らかではありませんが……私は評議会を『正義の組織』だとは考えていないので、和人君にとってあまり良くない未来が待っている可能性も否定しきれません。ただ……そこから逃げるのもまた難しい。だから私は、この招集命令に応じるのはやむを得ないとも、考えています」
そこで縁は一度言葉を切り、紫と目配せする。紫は小さく頷き、縁はそれを受けて、再び口を開いた。
「ですが、それも和人君次第です。もし和人君が拒否するならその時は……私たちは全力で、和人君の意思を尊重します。安心して下さいとは言えませんが、全力で守るとお約束します。だから、選んで下さい」
縁が、両手を俺へと伸ばす。
「左はスイス。右は日本。いずれにせよ、その次の行き先がどこになるかは分かりませんが――」
「二人の手を取ることに、変わりはない」
俺は縁の言葉を遮って、手を差し出した。
「この手を離さない限り、俺はどんな道でも後悔しないよ。二人と一緒にいられることが、俺の望みだったんだから。だから……前に進もう」
そして取ったのは――左。
一切の迷いなく、俺はその道を選択する。心の奥底で、ずっと願ってきた未来をその手に掴む。
「分かりました」
躊躇うことも、驚くこともなく、最初から分かっていたように、縁が頷く。紫も、隣で同じように。
そして――
「ラクレット」
ポロッと、紫の口からそんな単語が飛びした。
「ジュネーブに、美味しいラクレットを出してくれるお店があるの」
普通なら、その唐突な呟きに、首を傾げたりするのかもしれない。しかし俺には、紫の考えはしっかりと伝わっている。
だから俺は笑顔で、そして縁も楽しそうに、紫の誘いに乗った。
「あぁ……行こうか、三人で。ベルンでの用事が終わったら。きっと、それくらいの時間はあるだろ」
「うん」
紫が嬉しそうに微笑む。
その笑顔は、こんな状況でも本当に幸せそうで……それは、ずっと願っていた――夢にまで見た笑顔だった。
だからこそ、心の底から、堪えきれない感情が湧き上がってくる。
(二人と……一緒にいられる。二人の側で……これからも一緒に……)
俺は一度目を瞑り、そして再び開く。目の前の光景が、幻でないことを確認するために。陽炎の如く消え去ったりはしないかと、そう用心するかのように。
それでも、その光景は変わらない。二人の笑顔は変わらず、そこにあり続ける。だから――
「二人と一緒なら、どこまでも」
俺はそっと、二人の手を取った。
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