2023年:幕間のひと時 第一章
「はぁ……憂鬱だなぁ」
平凡な日常、ありふれた景色――そんな当たり前の連続を十七年間繰り返してきた由岐にとって、今の状況は少々刺激が強過ぎた。
「はぁ……学校行きたくないなぁ」
深々と溜息をつく。先日の学園祭以来、由岐はこんなことばかりを考えている。平凡ではありながらも、それなりに幸せだった毎日。それが今は、遠い夢の世界のように感じられる。それくらい、今の由岐の環境は様変わりしてしまっていた。
しかし由岐は、このことを誰にも相談することができないでいた。何故なら、彼女にとっては世界を変えてしまうほどのインパクトを持ったこの出来事も、人によっては「何だそんなこと」と一笑にふしてしまうような、そんな小さな出来事に過ぎないかもしれないと、そう勘繰っていたからだ。
さて、ではそんな彼女の身に降りかかったこととは一体何なのか。端的に、一言で、何の感慨もそこに込めずに、結論だけを言ってしまうと……
〝彼女は、友人に無視されるようになってしまったのだ〟
「何だそんなことか」
と、やはり思った人もいることだろう。しかし、この無視という行為は、案外直接虐められるよりも悪質だったりするのだ。しかも由岐の場合、『ある日登校したら自分の机の上に花が供えられている』という何とも古典的な展開から始まっている。思春期がまだ終わっていない多感な少女にとって、それは辛すぎる仕打ちだった。
しかし由岐は、それでも不登校になったりはしなかった。嫌なのに、辛いのに、それでも気がつくと足が学校に向いているのだ。
『もしかしたら、今日こそは』――なんてことを考えて……それでも結局、教室に入っても誰にも相手をして貰えなくて……何度も泣いて、嫌になって……
それでも、今日も通い慣れた道を歩く。まるで楽しかった日常の残滓に、縋ろうとするかのように……
「すいません、少し道を尋ねても宜しいですか?」
そんな風に声をかけられたのは、通学路を半分ほど歩いた先にある、とある坂の前だった。
物思いに沈み、軽く俯いていた由岐は、その声を聞いて顔を上げる。最近無視されてばかりいた由岐にとって、それは久しぶりの自分に向けられた言葉だった。
「へ? あの……私、ですか?」
しかしだからこそ、思わず口をついて出てきたのはそんな言葉。声も随分か細くて、オドオドした感じになってしまった。変な子だと、思われてしまったかもしれない。
「えぇ、そうです。その制服……
しかし話しかけてきた男の子は、そんな由岐の態度を気にした様子もなく、気さくに答えを返してくれる。それでようやく、由岐も本調子を取り戻すことができた。
「はい、そうです。双葉の三年で……あなたは
私服姿だったから確信は持てなかったが、その可能性が一番高いと思った。この辺りの学校で、私服登校が許されているのは、星稜高校だけだったから。
そしてその推理は、やはり正解だったようだ。男の子は頷く。
「えぇ。生徒会の用事で双葉に行く必要があるんですけど、俺、場所が分からなくて……案内して貰っても良いですか?」
「え? 分からないの?」
普通に驚いてしまう。双葉と星稜はお隣さん同士の高校だ。距離は多少離れているため、確かに目視できるほど近くはないが、それでも場所くらいは知っている人は多い。お互いの学園祭にも良く行き来している。
「いやぁ……お恥ずかしい」
そしてその男の子も、それくらいの事は知っていたようで、恥ずかしそうに頭を掻く。
「俺は一年生で……実はまだ一度も行ったことがないんですよ。双葉祭にも今年は行けてなくて」
「あぁ……そういう……」
聞いて、由岐は納得する。確かに一年生ならば、知らない可能性だってあるだろう。由岐だって、一年の時に星稜祭に行っていなかったら、しばらくその場所を知る機会は訪れなかったかもしれない。
「うん、分かった。私も今から学校行くところだから、案内してあげるね」
年下であることが分かり、由岐は言葉遣いを改める。しかし、それは決して傲岸な感じではなく、温かみがあるタメ語だった。こんなところからも、由岐の人当たりの良さが分かる。本来由岐は、唐突に虐めや無視の対象にされるようなタイプではないのだ。
「ありがとうございます! 時間的に厳しくて、遅刻を覚悟していたところだったんです」
その男の子が嬉しそうに頭を下げる。由岐としても、久しぶりの人との交流に心温まる想いだった。
「別に気にしないで。でも、場所くらいスマホで調べれば良いのに」
今の時代、スマホさえあれば何でも調べられる。目的地への道順は勿論、美味しい食事屋さんも、評判の良い美容院だって。だから、道を人に尋ねるという発想自体、少しばかり新鮮だった。
しかしその男の子は、困ったような笑みを浮かべる。
「いやぁそれが……家に忘れてきちゃいまして。ついこの間ようやく買って貰ったんですけど、未だに慣れないんですよね」
これまた、少しだけ驚く。つい最近までスマホを持っていなかったなんて……それはさぞかし、不便な日常を送ってきたのだろう。
(でも……よく考えたら、私も小さい時は持ってなかったな……)
思わず、懐かしさに目を細める。今でこそ手元にないと不安すら覚えるこの機械だが、かつてはそれがない生活が当たり前だったこともあるのだ。
(……あれ? でもそう言えば……最近スマホ見てないな)
男の子との何気ない会話で気付いたが……思い出してみると、最近スマホを使った記憶がない。
(何でだろう?)
と、少しだけ考えてみる。しかしその理由は案外そばに落ちていて……それに思い至った由岐は、再び気分が落ち込んだ。
(友達に無視されてるんだもん……使う機会なんて無いよ)
友達とのメッセージのやり取りも、電話だってしなくなった。twinterだって、怖くてとても見る気が起きない。
スマホに詰め込まれている大量の機能は、今や完全に“無用の長物”と化してしまっていた。
(はぁ……なんだか、泣きたくなってきたな)
自分の境遇を思い出して、俯く由岐。
そんな彼女の沈んだ表情を、男の子が心配そうな顔で覗き込んだ。
「……どうかしましたか?」
「え? ……うんうん。大丈夫、気にしないで」
しかし由岐は気丈にも首を振り、男の子に無理矢理笑いかける。こんな悩み、見ず知らずの人に言うようなことではないし、何より先輩としてみっともない。
「なら……良いんですが……」
それでも、完全には誤魔化すことは出来なかったようで、男の子は釈然としない顔をする。だが恐らく、突っ込んで聞いて良いような話ではないと判断したのだろう。それ以上その話題には触れようとはせず、代わりに明るい声でこう言った。
「でも、本当にあなたに会えて良かったです。何せ今日は日曜日で、登校している人に全然会えなかったものですから」
「……え?」
男の子のその唐突な言葉に、由岐は意表をつかれる。
(今日が……日曜日?)
「今日って……日曜日なの?」
「えぇ、そうです。今日は十二月十八日の日曜日。最近めっきり寒くなってきました」
そう言って、男の子は着ているダッフルコートをヒラヒラさせる。由岐はその仕草に釣られるように、自分自身の格好に目を落とした。
何の変哲も無い制服。スカートは少し短め。コートは……着ていない。いや、それどころか……この制服は夏用だ。
由岐は首を傾げた。
「今って、七月じゃなかったっけ?」
「いえ、違いますよ。今は十二月です。木にも葉っぱ、付いていないでしょ?」
言われて、周囲を見渡す。確かに言われた通り。雪こそないものの、周囲の様子はどう見ても冬のそれだった。
「……おかしいな。双葉祭って、七月だよね?」
つい先日終わったばかりの学園祭。それがもう五ヶ月も前とは……一体何の冗談だろうか?
「由岐さんって、新聞とか読みますか?」
唐突に、男の子が話題を変える。
「え? いや、読まないけど……」
浦島太郎のような気分にさせられていた由岐は、咄嗟にそんな生返事をする。してから……気がついた。
(アレ? 私、名前って教えたっけ?)
由岐と男の子の関係は、単なる道端で出会った他人以上ではない筈だ。電話番号は当然として、名前だって交換する仲ではない。
(それなのに……)
先程から、次々と奇妙なことが起こっている。日曜日に、十二月に……遂には、名前。
一体何が起こっているのか、由岐にはさっぱり分からない。対し男の子は、そんな彼女に笑顔を向けると、不意にバックをゴソゴソと漁り出した。
(一体……何を探して?)
由岐は混乱した頭で考えながら、その様子をただ見つめる。しかしろくに考える暇もなく。すぐさま男の子は目的の物を見つけたようで、手の動きを止めた。
そして、笑顔で“それ”を差し出してくる。
「実は俺も全然読まない人だったんです。でも最近は読むようにしていて……お陰であなたに気付くことができました」
それは、新聞だった。この辺りでは最もポピュラーな地方紙で、由岐の家でも取っている。読むことはないが、目にする機会は多い。
訳が分からず、由岐は男の子の顔を見る。すると男の子は、ただ一言。「どうぞ。読んでみて下さい」とだけ言った。
「……」
首を傾げながらも、由岐は視線を落とす。普段はまず読まない紙面へと、視線を走らせる。
そこに書かれていたのは、いくつかの地方ニュース。どれも知らないことばかり。そんな中、とある見出しが目についた。
『双葉祭から帰宅途中の女子生徒、軽乗用車にはねられ死亡 過失致死容疑で、四十歳男性逮捕』
これも、知らないニュースだった。同じ学校の生徒が死んで、知らない筈がないのだけれど……
(じゃあ一体……どういうこと?)
「
不意に呼びかけられて、由岐は顔を上げる。その男の子は、今度は残る左手で、一枚の色紙を由岐に差し出していた。
「……これは?」
由岐は恐る恐る、その色紙を手に取る。
「あなたの友達からです。あなたへの沢山の想いを、預かってきました」
「友達……」
由岐はそこに書かれた文字に目を走らす。
丸っぽい可愛らしい文字。薄い線の几帳面な文字。少し豪快な男らしい文字。そして――
「
中学時代からの親友の文字。女の子とは思えない汚い字で、良く男子に揶揄われていた。
由岐は、静かに読み始める。
『由岐、私の大切な友達。あなたがいなくなって、本当に寂しいです。でもきっと、由岐は天国で幸せに暮らしているだろうから……私も由岐に心配されないように、精一杯頑張るよ。だから……ね? お土産話、期待してて。一杯一杯、楽しい話持って帰るから』
そこに記されていたのは、先立つ友人への別れの言葉。そして、その言葉に込められた親友の想い。言葉と共に、佳奈の優しい気持ちが胸に染み込んでくる。
「佳奈……」
由岐は色紙をそっと胸に抱き締める。
ずっと感じていた息苦しさも、新聞を読んで感じたどうしようもない不安感も、すべて塗り替えられていくようだった。それくらい、みんなからの言葉は嬉しくて、そして温かかった。
(私は、友達に無視されている訳でも、虐められている訳でもなかった。今もみんなは、こんなにも私のことを想ってくれている……)
「良い……友達ですね」
男の子がポツリとそう溢す。由岐は泣きながら、その言葉に何度も頷いた。
「由岐さん」
由岐が泣き止むのを待って、男の子は再び由岐に話しかけた。
「もうお気づきでしょうが、あなたは今年の七月に交通事故で亡くなりました。だからそろそろ、元いた世界に帰りましょう。あなたの友達も、あなたが天国で幸せになることを願っています」
その言葉に、由岐はゆっくりと顔を上げる。
「元いた場所……天国――そんな世界が本当にあるの?」
「えぇ。あなたが今――そして友達が将来帰る場所です。一足先に行って、みんなの帰りを待ってあげていて下さい」
それは、とても不思議な話だった。それでも、由岐にはそれが本当の話なんだと何となく理解できた。だから由岐は、しばらくしてコクンと頷く。
「そう……よね。みんなも頑張ってるのに、私だけこんな所でウロウロしてちゃ駄目よね」
由岐は自分に言い聞かせるようにそう言うと、もう一度決意するように力強く頷いて、そして、その不思議な男の子に向かって微笑んだ。
「じゃあ私、もう行くね。色紙、届けてくれてありがとう」
「いえ、お役に立てて良かった。あなたの来世が、幸福に包まれますように」
その言葉を最後に、男の子の笑顔が霞んでいく。そんな薄れゆく笑顔に、由岐は感謝の気持ちを込めて精一杯の笑顔を送ると、ゆっくりと目を瞑った。
そして、この世から消える間際、ふとこんなことを思う。
(そう言えば、男の子の名前、聞くの忘れちゃったな)
次の瞬間、由岐はこの地上から姿を消した。
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