2023年:蜃気楼のような女の子 第九章

 高校一年の夏休みは散々だった。

 終業式当日、これから楽しい高校最初の夏休みが始まると思っていたのに、原因不明の発作で意識不明の重体。幸い、命に別状はなかったものの、夏休み中はずっと病院のベッドの上で過ごす羽目になってしまった。

 お陰で、葵さんと仲良くなる機会だと思っていた肝試しにも当然参加することはできず、灰色の高校生活に向けてまっしぐらだ。

 まぁ俺がいなかったせいで校舎内に入ることすらできず、結局肝試し自体が中止になったというから、抜け駆けの心配がないことだけは朗報だったが。

 それにしても、意識を失っていた期間が長いからだろうか? 退院して三日が経過し、二学期の始業式を迎えた今日になっても、まだ頭がボーとする。なんだか、とてつもなく長い夢を見ていて、起きた後も夢の残滓を引きずっている。そんな感じなのだ。

 たまにふと頭を掠める風景が、過去に体験した出来事なのか、それとも夢の中の出来事なのか、それすらわからなくなるくらいだ。

 いや、普通に考えたら夢の中の出来事なんだろう。薄暗い夜の校舎。ぼんやりとしたホテルの一室。中世ヨーロッパのような石造りの建物。そして……ぼやけて誰かも分からない、女の子の満面の笑顔。

 どれも見たことのない光景ばかりだ。

 ただ、どうしてだろう? それらを思い出すたびに、とても寂しいような、懐かしいような気分になるのは。

 どうしてだろう? どうしてこの記憶に触れるたびに、俺の目からは、決まって涙が出るのだろう。

 不思議だった。この奇妙な感傷は、目が覚めた後も消えることがなく、むしろ、時間と共に強くなっている気さえする。

 本当に、どうかしてしまったのかもしれない。それでも……もう今日からは新学期なのだ。いつまでも、この正体不明の感傷に浸っているわけにはいかない。気合を入れて、新しい一日を始めなければ。

 教室の前で、改めて自分に喝を入れると、力いっぱいドアを開け放つ。

 そこには、久しぶりの日常が広がっていた。教室のあちこちでお馴染みの集団ができあがっている。彼らは口々に、夏休み中の出来事を報告し合い、あるいは、夏休みの宿題ができていないことを嘆き、人によっては猛烈な勢いで宿題の残りにペンを走らせている。

 ……というか、あれは智治だな。新学期から変わらぬ馬鹿っぷりを、早速披露しているみたいだ。

 だが、ソレの横に立っている人の存在に気づき、思わず鞄を落としそうになった。

(あいつ、いつの間にそんな……宿題を写させてもらうほど、葵さんと仲良くなったんだ!?)

 あまりのショックで軽く眩暈を覚えつつ、しかしこれ以上の接近を防ぐためにも、急いで、彼らの方へと向かう。

 しかし――

 その途中で、気付くと足は止まっていた。窓際の、とある一角が目に入ったからだ。

 その一角だけ、異常なほどに人がいなかった。ただ一人の女の子が席に座り、静かに本を読んでいるだけだ。

 初見の人間からすれば、それは異様な光景だろう。でも、この教室で長い時間を過ごした我々にとっては、もはや見慣れた日常の一部。変わらないクラスの風景の……はずだった。

 それなのに、俺の目には、いるはずのない二人目の姿が映し出されていた。藤瀬さんの机に頬杖をつき、彼女の本を覗き込んでいる、もう一人の誰か。

 それが、誰かなんてわからない。その誰かが藤瀬さんに異様に似ていることも、どうしてか、不思議と気にならなかった。

 ただ俺は、無性に彼女たちに話しかけてみたくなった。無性に、彼女の声を聞きたくなってしまった。


 だから、彼女たちに向かって歩き出す。

 涙で滲み、見えにくくなった視界の先に、しっかりと、彼女たちの姿を捉えながら……

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