2023年:蜃気楼のような女の子 第八章
「目が覚めた?」
意識が覚醒して最初に聞こえたのは、そんな声だった。
「ソフィア……さん?」
ゆっくりと体を起こす。そこは一面草原の、他には何もない空間だった。そこにただ一人、豪華な黒椅子に腰かけたソフィアさんがまっすぐに俺を見つめている。
「一体何がどうなって……ここはどこです?」
重い頭を振りながら尋ねる。答えは、すぐに返ってきた。
「ここは縁さんの結界の中よ。祥子の侵食からあなたを守るため、縁さんが咄嗟に結界を張った。その上で私が、ちょこっとあなたの魂をそこから抜き取らせてもらったの。ねぇ、そんなことよりも……」
ソフィアさんが前のめりになり、俺に向かって問いかける。
「今、どんな気分?」
「は? どんな気分って?」
「決まっているじゃない。自分が死んでいたことについてよ。そのことに気づかされて、今、あなたはどんな気分?」
再び、ソフィアさんの質問。それで、ようやく思い出した。
「そうだ……あの時、俺は死んでいて……それからもずっと死んだままで……なんでだ? なんで今まで、そんなことにも気が付けなかった?」
「見たいようにしか、見ていなかったからでしょう?」
つまらなそうな素振りで再び背もたれに身体を預け、ソフィアさんが冷たく言い捨てる。
「おかしいところは沢山あったはずよ? 肝試しの後、学校で葵さんと会った時、自分より小さな紫さんの後ろに隠れられたことに疑問を感じなかった? 諏訪支部の運転手が、あなたの言葉に何の反応も返さないことに、違和感を覚えなかった? 生きている紫さんを置いて、霊である縁さんと心象領域に入っているあなた。少しは、おかしいとは思わなかった?」
言われると、その通りだった。他にも不自然だったことは沢山ある。何故気づかなかったのかと責められるのもわかる。でも、それでも……
「縁も、紫も……そんなことは一言も言わなかった。それにあなたも! 何故です?」
思わず声が大きくなる。しかしソフィアさんは、意外にもニコッとほほ笑んだ。
「そう。その質問が正解。何故みんな、あなたが死んだことを秘密にしたのか。その答えが、今の状況そのものでもあるのよ。そして私は、それを説明するために縁さんの結界に侵入して……いえ、スイスからわざわざ海を渡って、こんな極東の島国にやってきたの。分かる?」
言われて、首を振る。何が何だか、さっぱり分からなかった。
「じゃあ説明するとね、このややこしい事態は、あなたが普通じゃないから起こったのよ」
「普通じゃ……ない?」
「そう。それも、祥子に殺された直後からね。だから余計に面倒なことになった。祥子があなたに取り付けた蜘蛛線を、縁さんが切断して終わる筈だったのに、死ぬことで覚醒したあなたが事象改変の力を発現したせいで、すべてがおかしくなった」
事象……改変? 発現した? なんだ、それは?
「事象改変っていうのは、自分の過去を捻じ曲げてしまう力のことよ。しかも厄介なことに、あなたの場合は半オートだったのね。自分が死にそうな時だけは、その意思に関わりなく勝手に発動して、しかも他人の過去まで書き換える。その上、改変前の記憶は誰にも残らない。それは和人君、あなたも含めてね」
ソフィアさんの視線が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「あの日――祥子によって殺されたあなたには、蜘蛛線が取り付けられた。三村裕也の家に捕えられていた彼らのように、祥子はあなたのことも心象領域の中に閉じ込めようとしたのでしょうね。けれど、間一髪のところで縁さんが間に合い、あなたを救出。蜘蛛線を切って、あなたを助けようとした。けれど――」
ソフィアさんが、薄く微笑む。
「蜘蛛線は切れなかった。霊子線と蜘蛛線を混同したあなたの無意識が、事象改変を行使して、蜘蛛線を切らせまいとしたのよ。だから結局、縁さんは蜘蛛線を切ることは諦めて、それを封印することにした。でもそのためには、『殺された記憶』は邪魔なの。それを思い出すと、折角の封印が解かれてしまうから。だから縁さんはその記憶を抜き取り、全てを秘密にした上であなたを匿うことに決めた」
そこで、一度ソフィアさんは言葉を切り、改めて身を乗り出す。
「それが、あなたの死に纏わる真相よ。どう? 理解できた?」
ソフィアさんが、俺の顔を覗き込む。だがそのあまりに突拍子もない話に、まだ全然ついていけていなかった。そもそも――
「なんでそんな訳のわからない力を……俺なんかが使えるんです?」
そうだ。俺はついこの間まで、本当に普通の、何の取り柄もないただの高校生だったのだ。どう考えても、そんな大それた力を使えるような人間ではない。
「あなたが力を得た理由については、我々評議会にとっても、謎だったのよね」
俺の疑問に、ソフィアさんは肩をすくめた。
「ベリアルの一件。あなたがそこで事象改変の力を使ったことは、縁さんに施した霊的パスを経由して評議会に伝わってきた。だから私がここに来たわけだけれど……それでも、何故あなたにそんな力が宿っているのかまでは分からなかった。ある程度自信を持てる推論を得たのは、つい先日のことよ」
それだけ言うと、ソフィアさんは、思いがけない名前を口にした。
「桐生真名って、あなたのお母さんよね?」
「……え?」
唐突に出てきた名前に、言葉を失う。当たり前のことだが、ここで母親の名前が出てくるとは、まったく予想していなかったのだ。
「桐生真名……経歴は巧妙に偽装されているし、更には魔術的な隠匿も施されている。あなたという手掛かりがいなければ、絶対に気が付くことは出来なかったわ」
意味の分からないことを次々と口にするソフィアさん。一体、この人は何を言っている?
「桐生真名……旧姓、藤瀬真名。藤瀬厳正(げんせい)と藤瀬つかさの子供で、藤瀬敦の妹。〝時渡りの魔女〟として有名な彼女の子息なら、この特殊な力を有していても、納得がいく」
口を挟む間もなく次々と出てくる名前と、聞いたことのない名詞の数々。その一つとして理解はできず、けれどその中に含まれていた三文字の単語だけはくっきりと耳に残って、思わず俺は、その単語を繰り返した。
「ふじ……せ?」
そう。それは……
〝縁と紫〟の……苗字なのだ。
「藤瀬真名は、縁さんたちの叔母に当たる人物よ」
驚く猶予さえない。俺の躊躇いなど完全に無視をして、ソフィアさんは即答した。
「私も驚いたわ。まさか、実家にこんな近いところで、藤瀬真名が子孫を残しているなんて。灯台下暗しとは、まさにこのことかしら」
「……何を、言っているんですか?」
ソフィアさんの言葉は聞こえている。話す日本語も理解している。ただし、まったくと言って良いほど、その内容は理解できない。
「つまり……俺の母親は魔女で? その力が俺には遺伝していて? 更には……俺と縁と紫は……いとこ同士?」
自分で言葉にして、その非現実性に頭がくらんだ。一体どんな空想家なら、こんな訳の分からない話を受け入れられるだろうか。
「混乱するのも無理はないわ。でも、私たちにとっては、これは納得の理由なのよ? 縁さんたちを見ても分かると思うけれど、藤瀬家は霊的にかなり特別な家系なの。事象改変なんていう特殊な能力が発現する条件として、藤瀬家の血統であること以上に相応しいものは、だから早々ありはしないの」
そういう話ではない。そういう問題ではない。言いたいのは、そういうことではない。
でも……ソフィアさんは言った。
「まぁ別に、そんな話はどうでも良いのだけれど」
唐突に椅子から立ち上がったソフィアさんは、底冷えするような冷たい視線を俺に向ける。
「あなたが考えるべきは、お母さんのことなんかではないの。これからあなたを待ち受ける試練に対して、どう考え、どう対処していくのか。授けられたその力を如何に使うのか。ただ……それだけなのよ」
いつの間にか、ソフィアさんが目の前に立っていた。ゆっくりと、彼女の顔が耳元へと寄せられる。
「うまく立ち回りなさい。力をよく理解し、上手に使いなさい。でなければ、きっとあなたは、望む未来に辿り着くことが出来ないのだから。ただ私は、それをあなたに伝えたいだけなの」
ソフィアさんの囁きが鼓膜を揺らす。と、同時に――視界に、霞がかかり始めた。
「ではごきげんよう、和人君。また会える日を楽しみにしているわ。期待を……裏切らないようにしてね」
その言葉の直後、あっという間にソフィアさんの姿が滲み、形を失っていく。
「ソフィアさん!」
だから俺は、消えゆく世界にしがみつくように、必死で言葉を紡ぎ合わせる。
「待ってください! 力を上手く使えって、一体どういうことですか!? あなたは、何を知ってるんです!?」
言葉が終わるころには、既に両目はその用を為していなかった。何も見えない視界の中で、ソフィアさんの声だけが届く。
「無駄なことは考えず、今はただ、目の前のことを頑張りなさい。最善だと思える選択肢を選び続けなさい。だってまだ――あなたの物語は、終わっていないのだからね」
そして、何も聞こえなくなった。
***
「……かず……く……かずと……くん……和人……君!」
気が付くと、再び草原の中に立っていた。だがそこにいたのは、ソフィアさんではない。
「え……にし? あれ? ソフィアさんは?」
「ソフィアさん? 彼女は、ここにはいませんよ。ここは私の結界の中ですから」
心配そうな顔で、縁が顔を覗き込んでくる。状況がつかめない。
(あれ? もしかして、さっきのは夢だった?)
成程、それなら納得だ。あの信じられない話の数々も全部夢だった……そう考えた方が余程しっくりくる。ソフィアさんが口にした、あの訳のわからない話に比べたら。
「それよりも和人君。今の状況を説明させてください」
だが、どうしてだろう? 顔を強張らせた縁が、俺のことを正面から見つめている。今の出来事がすべて夢ならば、そんな怖い顔はしなくて良いはずなのに。
「驚かないで、聞いてください」
それに、どうしてそんなことを言うのだろう。それじゃあまるで、今から信じられない話をしようとしているみたいじゃないか。
「和人君はあの日……肝試しをしたあの夜に――」
そして、縁が話し始める。俺は、働かない頭で考える。
(あぁ……止めてくれ。縁まで、こんなバカげた話をしないで欲しい)
だって、〝それ〟が縁の口から出てきたら、信じざるを得ないのだから。
世界中の誰を疑っても……縁を疑うことなんて、出来やしないのだから。
「ごめんなさい。突然こんなことを告げられて……簡単には整理できないですよね」
長いようで短い、縁の語りが終わる。俺は終始静かに、決して口を挟むことはせず、その語りの中で身をすくませていた。
終わってから、ようやく顔を上げる。
「……」
頭を整理するのに、少し時間がかかった。
『俺は既に、死んでいる』
縁の口からも語られたこの事実は、もう目の逸らしようがない現実だ。葵さんが言うように、俺はあの時祥子によって殺されたのだろう。
(でも……)
不可解な点もある。それは、ソフィアさんによって告げられた、更なる事実についてだ。
母親のこと。母親の出自とその力。更には、俺と縁たちの関係性。
俺に追い打ちをかけたこれらの話は、しかし縁の口からは、一言も語られなかったのだ。
まるで何一つ知らないとでも言うように……いや事実、『何故、蜘蛛線が切れなかったのか分からない』と口にしながら、まるで虫食いのような説明に終始し、お陰で、どこまでが真実でどこからが嘘なのか判断できない。
縁が口にしたこと。それは真実だろう。
では、ソフィアさんが告げた事実は、一体どこまでが真実なのだろうか?
「事象改変」
だから、その単語を発することにした。その不可解な四文字を縁にぶつけ、自分で考えても決して分からない疑問を、縁と共有することに決めた。
縁の顔が……目に見えて、驚愕の色に染まる。
「和人君……どこで、その言葉を?」
それだけで、早くも分かってしまう。
この単語を、縁は知っている。いや、知っているだけでなく、この単語が普通では決して出てこない類の、特殊なものであることを理解している。
この単語の重要性を……熟知している。
「ソフィアさんに……教えて貰ったんだ」
ならばもう、選択の余地はない。逡巡の意味はない。
夢などではなかったソフィアさんとの一幕を思い出しながら、この不思議な体験と、そこで聞いた奇妙な話を、縁にすべて話して伝える。
今度は縁が、一言も口を挟まずに、俺の話に耳を傾ける番だった。
「突拍子も……ない話ですね」
話を聞いた縁が、眉間に皺を寄せて唸る。
「和人君のお母さん。彼女が持つ特殊能力。そして、彼女の本名である藤瀬真名……どれも、私が初めて聞く話です」
そう言った直後、何かを思い出すように、縁がこめかみをトントンと叩いた。
「真名……真名……いや、この名前は見たことがありました。お父さんの日記に確か……私たちの名前の吉凶を、妹に占って貰おうとか何か。その時に、妹のことを『マナ』と書いていた記憶があります」
言われて、俺も思い出す。確かに、そんな記載があった気がする。
「ただそれだけです。お父さんの妹が和人君のお父さんと結婚していて、ましてや魔女だなんて話は、聞いたことがありません」
「ちなみに……魔女ってそっちの世界には普通にいるものなの?」
恐る恐る尋ねる。悪霊やら悪魔やらエクソシストやら。こういった単語はもはや日常になっていたが、まさにファンタジー世界の代名詞のようなその言葉は、これまで聞いたことがなかったのだ。
「西洋にはいます。ただ……普通は魔女とは言いません。魔術師――それが、一般的な呼称です。魔女という言葉が使われるのは……特に強い力を有した忌み者にだけです」
「忌み者?」
「平たく言えば、危険人物です。もしエクソシストの中にそれに該当するような者が出た場合、そのエクソシストは封印指定を受けて、抹殺されます」
「……」
俄かには信じられなかった。確かに、母さんは変わったところもある人だった。今も昔も、父親と一緒に世界中を飛び回っているから、あまり一緒にいた記憶もない。それでも、そんな危険人物だとは、到底思えない。
「その気持ちは分かります。私も本来であれば、ただの夢だと断言していたと思います。でも……あの単語だけは、それでは説明できない」
「あの単語……」
縁が頷く。
「事象改変――この単語です。この単語は、ISSAの中でも評議会直轄の精鋭で構成されていた『AESU』という特殊部隊の中だけで囁かれていた噂なんです。評議会が、事象改変の能力を使って、新しい世界の創造を目指しているという噂です」
「新しい……世界?」
「えぇ。その世界には悪霊も悪魔も、不成仏霊すら存在せず、まさに善人の楽園のような……そんなユートピアが実現していると。そんな……夢物語のような話でした」
言ってから、縁は首を振る。
「完全に眉唾です。私も当時は、一笑に付しました。部下たちに、くだらないことにかまけるなと注意したくらいです。でも、大事なのはそこではない。その噂の真偽じゃありません。ISSAの中でもごく一部の人間しか知らないような単語が、和人君の口から出てきたという事実です」
縁が、顎に手を当てる。
「つまり、和人君の前にソフィアさんが現れたのは、少なくとも事実だということになる。では次に考えるべきは……一体何が真実なのか……」
ブツブツ呟きながら、考え込み始める縁。その様子を見ながら、ふと思った。
「取り敢えず、俺の蜘蛛線を切ってみたら良いんじゃない?」
「え?」
呆気に取られた顔で縁が俺を見る。そんな縁に、頭上の蜘蛛線を指さしながら言った。
「ソフィアさんの話が本当なら、今これを切っても事象改変は発動しないでしょ? もうこれが霊子線じゃないって、俺は知ってるんだから」
「……まぁ、そういうことになりますね」
「それなら、切ってみても損はないでしょ。切れたらそれは儲けもんだし、祥子の脅威も取り敢えず無くなるから、落ち着いて考える時間もできる」
「……確かに、一理ありますね」
「でしょ? なら善は急げだよ」
そう言って、切りやすいようにお辞儀する。すると数秒の沈黙の後、呆れた声が頭上から降ってきた。
「相変わらず状況に適応するのが早いですね、和人君は。初めて霊の存在を伝えた時のことを思い出しましたよ。迷いがないというかなんというか……」
そして、溜息の音が聞こえる。「フフッ」という小さな笑い声も。
「分かりました。じゃあ切ってみましょう。もしうまくいったら、紫と合流して、ソフィアさんを問い詰めましょうね」
「あぁ、そうだな。まだ遠くには行っていない筈だ」
俺たちはそんなことを言って静かに笑い合うと、二人同時に黙る。そして――
ヒュンッ
風を切るような音が頭上で響き、そのすぐ後に、縁の声が続いた。
「……切れた」
顔を上げる。すると、呆然と俺の頭上を見つめる縁の顔があった。
「元に戻らない……本当に、切れてる……」
未だに信じられないといった様子の縁が、ポツリと呟く。どうやら思った通り、上手くいったみたいだ。
「良かった。取り敢えず、これで祥子の脅威からは逃れられたのかな?」
「えぇ……その筈です。まだ近くにはいるでしょうが、少なくとも和人君が無条件に連れていかれるようなことはありません」
戸惑いながらも、しかし徐々に実感が湧いてきたのだろう。緊張が解けたように頬を緩ませながら、縁がそう言って頷いた。だから俺も、明るく返す。
「そっか。それなら良かった。じゃあ縁、そろそろ外の世界に戻ろうか」
死霊線が切れたからと言って、まだ問題が解決したわけではない。それに、紫を外に残しているのだ。きっと、こちらのことを心配しているに違いない。
「えぇ、そうですね。私と紫は繋がっていますから、結界内のことはおおよそ分かっている筈ですが、顔を見せてあげた方が安心するでしょうし」
そして、縁が微笑む。
「それじゃあ和人君、また後で」
「あぁ、また」
その言葉と共に、景色がぼやけ始める。それは、心象領域から離脱する時の感覚だ。きっと、結界が解かれようとしているのだろう。
しかし――
(……うん? なんだ、あれは?)
その時だった。ぼやけた視界の先で、黒い煙が立ち込めているのが見えた。そしてそれは、一瞬きのこ雲のように広がると、その傘を俺たちの方へと向け……
そのまま恐ろしい勢いで、一直線に突っ込んできた。
(危ない!!)
咄嗟に叫ぶ。しかし、もう声は出ない。ただ俺の異常な様子に、縁は気が付いたようだった。すぐにパッと振り返ると、こちらに突進してくる煙をその目で見る。そして――
空間が……切れた。俺と縁の間に横たわる空間を、縁が日本刀で切断したのだ。直後、一気に景色が不鮮明になる。あっという間に視界が薄れ、すぐに何も見えなくなる。
最後に見えたのは、刀を振り切った姿勢のまま、煙に呑み込まれた縁の姿だった。
***
目を開くと、紫がいた。青い顔をした紫が、上から俺を覗き込んでいる。
「ここは……神社か?」
辺りを見渡す。先ほどまであった草原は既になく、見慣れた木造の廊下が続いている。
「紫。縁は?」
紫の膝から頭を起こし、まずそれを尋ねる。黒い煙に呑み込まれた縁の姿が、目に焼き付いて離れない。
「分からない。和人君が起きる直前、いきなり繋がりが切れたの」
そう言って首を振った紫の瞳は、今まで見たことが無いほどに不安に揺れている。
「あの黒い煙……紫は何だったか分かるか?」
紫が、結界内の出来事を把握している前提で尋ねる。紫も、戸惑わない。
「分からない……けど、多分祥子だと思う。ずっとお姉ちゃんの結界に入ろうとしていたみたいだったから。もしかしたら、結界が解かれた瞬間、介入できるようになったのかもしれない。お姉ちゃんがそんなミスをするとは、ちょっと思えないけど……」
紫が自信なさげに言う。でも実際、結界にその煙は入ってきたのは事実だし、状況を考えれば、それが祥子によるものだと捉えるのが最も自然だ。とすると……
「じゃあそう考えると……縁は今どこにいる?」
「……祥子の心象領域に囚われている可能性が高いと思う。場所は多分、学校。そこが、祥子が最初に作った心象領域だから」
(くそっ……)
唇を噛みしめる。俺のせいで縁が囚われた。俺に力が無かったせいで。俺が不甲斐なかったせいで。俺が足を引っ張ったせいで……
いくつもの後悔が頭を巡る。無力な自分を責め立てる思いが、次々と脳内を過ぎっていく。だがその後悔に紛れて、不意にソフィアさんの言葉が、水面に浮かぶ木の葉のように、ぽっと浮かび上がった。
(ソフィアさんは、俺のことを『普通じゃない』と言った。そしてその普通じゃない力を『よく理解し、上手に使いなさい』とも。なら……今がその時じゃないのか? この力を使って、縁を助け出すことができるんじゃないのか?)
気づくと立ち上がっていた。
頭の中では、物すごい速度でやるべきビジョンが構築されていく。まるで、ずっと昔からこの力を熟知しているかのように、祥子を倒すための力の使い方が描かれていく。
「行こう。助けに」
だから、そのビジョンに一歩を踏み出した。
「行こうって……和人君も?」
突然の言葉に、紫が驚いた顔をする。その言い方から恐らく、紫は紫で、この後一人で助けに行くつもりだったのだろう。でも――
「行くよ。縁は俺のせいで捕まったんだ。ただ待ってるなんてできない。それにもしかしたら、この力も使えるかもしれない」
「この力って――事象改変のこと?」
やはり、結界内部での縁とのやり取りは、紫には伝わっているらしい。
俺は頷いた。
「あぁ」
「でも……上手く使えるかな? 改変前の記憶は消えちゃうみたいなんでしょ? それだと、どんな理由でどんな事象を変えたのか、分からなくなっちゃうってことだよね?」
それは、ソフィアさんが話していた力の制約のことだ。
確かに紫の言う通り、使い勝手は決して良くないだろう。だけど、上手く使えばやりようはある。
「大丈夫。紫と力を合わせれば、きっと縁を救い出せる。だから、一緒に行こう。歩きながら説明する」
紫にそう告げると、答えを待たずに玄関へと向かう。
「……まったく、強引なんだから」
そんな俺を見て、紫が小さくぼやく。でもすぐに隣まで走ってくると、
「でも、分かった。和人君を信じるよ。一緒にお姉ちゃんを助けよう」
そう言って、俺の手を優しく握ってくれた。
「……平和だな」
正門から校内の様子を見て、思わずそんな声が漏れる。俺たちの横を、ランニングの外回りを終えた陸上部の生徒が颯爽と通っていく。校舎の中からは、吹奏楽部員が思い思いに楽器を奏でる音が、絶妙な不協和音を構成して耳に届く。夏休み中とは言え、学校は活発に活動している。とてもここに縁が囚われているようには見えなかった。
「心象領域の中のことは、外からじゃわからないから。急ごう」
紫はそう言って手を引く。
「心象領域へは、どこから入る?」
「屋上。ただ、その前に私たちの教室に寄らせて」
「教室へ?」
「そう。私の肉体を置いておく必要があるから」
「あぁ。なるほど……」
今までずっと、縁と一緒に心象領域に入っていたから、気にもしていなかったが……考えれば当たり前だ。肉体では心象領域に入れない。例外は……
既に死んでいる俺と縁だけだ。
教室に着き、扉を開けた。夏休み中だから当然、中には誰もいない。
「じゃあ紫。待ってるから、早く霊体になっちゃって」
紫の机の前まで歩いていくと、後ろから付いて来ている筈の紫にそう声をかける。
「……」
しかし、紫からの返事はなかった。俺の横を通って、自分の椅子に座る様子もない。
「?」
そのことを不審に感じ、紫の様子を確認しようと後ろを振り返るが……
「あれ?」
そこには、誰もいなかった。
いる筈の紫はおらず、開けっぱなしにしていた扉は、いつの間にか固く閉ざされている。
「紫?」
周囲を見渡すが、教室内のどこにもいない。ただ夕焼けの光に照らされた沢山の机が、赤い光沢を静かに放っているだけだ。
「……ちょっと待て。なんで夕焼けが?」
ようやく異常に気が付いた。何故なら、今は昼前なのだ。世界が赤く色づくには、まだ六時間以上気が早い。
状況が呑み込めず、呆然と目の前に広がる赤い世界を見つめる。目前の光景を理解しようとするのに意識を傾け過ぎて、背後への注意を怠る。
だから……気づくのが遅れた。
すぐ後ろに、誰かが立っていることに。俺をじっと見つめている、その冷酷な視線に。
気づくことが出来なかった。だから――
「――ねぇ、私に構わないでくれる?」
その一声が、呪いとなった。
瞬時に四肢の感覚が遠くなり、体の支配権が失われる。その事実に抗う猶予もなく体はひとりでに振り返り、そこにいた少女と対面する。
驚くほどの、美少女だった。
髪型はショートボブ。目鼻立ちはまるで人形のように整っていて、更に彫が深く、目が大きい。藤瀬姉妹もかなりの美少女だが、もしかすると彼女はそれ以上ではないか。そんな風に思えるほど、彼女の美貌は浮世離れしていた。
そんな女性が、真正面から俺を睨みつけている。
「いや……なんか最近、岩村さん元気無さそうだったから」
俺の制御から外れた体が、暴走を続ける。
まるで、口が勝手に喋り出したような感覚。更には、出てきた声も俺のものではないのだから、いよいよ意味が分からなくなる。
しかもその間にも、会話は続いているのだ。俺ではない、けれど〝聞き覚えのある〟男の声と、目の前の美少女が会話を始める。
「元気無いって……別に翔太には関係ないでしょ!」
「そ、そうだけど……でも、ほら! 今日、岩村さんが見たがってたバトルロイヤルのDVD、貸してあげるって約束してたから」
「良いってそんなの! くだらないことで私に話しかけないで!」
「で、でも……」
「うるさい! 翔太と話しているとイライラするの! もう放っておいてよ!!」
叫ぶようにそう言うと、美少女は脇を通り抜けて、教室から出て行ってしまった。
だが、俺の体は動かない。相変わらず、その支配権は俺の手元には戻ってきていない。
それでも……もし仮に、体を自由に動かすことが出来ていたとしても、この瞬間だけは、身動きひとつ、取ることは出来なかっただろう。
男の声だけではない。翔太――呼びかけられたその名前にも、聞き覚えがあり過ぎて、思わず絶句してしまっていたからだ。更には絶句する俺の目に、夕暮れに沈む教室の窓が飛び込んでくる。そこには、外の風景が映る代わりに、教室の中が映し出されていた。
その中には当然、俺の姿も――
いや…………違う。
(まさか……親父、なのか?)
そこにいたのは、俺ではなかった。俺に似てはいるけれど、確かに別人。かつてアルバムで見たことがある、親父の若かりし姿。
(じゃあもしかして……祥子が好きだった男子生徒って……)
夏休み前のあの日、智治と話した内容が甦る。あの時は、祥子の事件がいつ起こったのか知らなかったから有耶無耶になったが、この件に深く関わった今なら、それが何年前の出来事なのか知っている。
それは十八年前――現在三十六歳の両親が、最高学年としてこの高校に通っていた年だ。
(そういうことか……くそ……)
唇を噛みしめる。縁が話していた俺が狙われる理由。それがまさかこんなことだとは、思いもしなかった。つまり……間違われたのだ、自分の父親と。
(しかも祥子は、本来親父がいた位置に俺を組み込んで、思い出のワンシーンを繰り返そうとしているのか?)
ようやく、祥子の意図を理解する。そしてそれを裏付けるように、さっき教室から出て行った筈の祥子が再び目の前に現れ、先程と寸分違わない会話を〝おれ〟と始めた。
(まったく……悪趣味だな)
いつの間にか心の中には、胸を締め付けるような失恋の痛みまで湧き上がっていた。恐らくこれは、この時親父が抱いていた感情なのだろう。好きだった祥子に素っ気なく拒絶されてショックを受ける、年相応の少年の感情。こんなものまで再現して、俺(おやじ)をこの世界に囲おうというのだ。その執念は尋常じゃない。
(でもそれだけ親父のことが好きで……あの時振り返らなかった自分を、後悔してるんだな)
まだ取り返しがついた筈の最後の瞬間。決定的に狂ってしまうことになる歯車を、止めることができた最後の機会。死後、沢山の人を殺しながら、悪鬼に身を堕としながら、それでも心は、常にこの瞬間にあったのだろう。
だからこそ、俺(おやじ)を求めた。嗤いながら『みつけた』と何度も囁いて、俺を捕まえようとした。そんな哀れな彼女の怨念(ねがい)が……今は堪らなく悲しい。
「どうして?」
ふと、そんな声が聞こえて、意識を現実に戻した。
気づくと、祥子が腕の中に収まっていた。もしやと思って四肢に力を込めるが、まだ体は動かない、つまり、彼女を抱き締めたのは、俺ではない。
「どうして?」
祥子が繰り返す。不思議そうな顔でこちらを見つめ、俺の行動の意味を問う。つまり、これは祥子の意思でもない。
俺でもなく、祥子でもなく。残るは……親父か。
もしかしたら、親父の後悔がこの学校のどこかに漂っていて、息子である俺の体を動かしたのかもしれない。
「なんで――」
祥子が、再び口を開いた。それは、初めて聞く言葉。もう彼女は、同じ台詞を繰り返さない。
「なんであなたは悲しんでいるの? 私のためを想って泣いているの? 私をこうして抱きしめているの?」
言われて、初めて気が付いた。俺は泣いていた。両目から幾重もの雫が流れ、祥子の頬を濡らす。
「岩村さんを、行かせてしまったから」
口から、またも言葉が飛び出した。それは、やっぱり親父の声で……まるで俺の口を借りて、親父が祥子に語り掛けているみたいだ。
「自分のことばかり考えて、岩村さんを気遣ってあげることが出来なかった。何を言われても、拒絶されても、岩村さんを抱きしめることは出来た筈なのに」
それは親父の後悔だった。独りよがりで、祥子に手を差し伸べられなかった親父の後悔。もう取り返しはつかないけれど、だからこそ、忘れることなど出来ない深い悔恨。
それが今、俺の口から語られて……
振り返らなかったことを後悔する祥子と、止められなかったことを後悔する親父の想い。
この瞬間、二つの想いが時間と空間を超えて、ようやく行き会うことが出来た気がした。
「ふふっ」
そして、祥子が笑う。胸の中で顔をうずめたまま、小刻みに肩を揺らし……
「ふふふっ」
更に笑う。
笑って、哂って、嗤って……そして、顔を上げた。
「なんで?」
祥子は言う。
「なんであなたは、あの時それを言ってくれなかったの?」
言いながら、彼女は泣いていた。真っ赤な血液を両眼から流しながら、縋るようにして、更に言い募る。
「あの時! そう言ってくれていたら私は! こんな姿にならずに済んだのに!!」
流れる血で顔を深紅に染めながら、その瞳にありったけの憎しみを宿しながら、祥子は叫ぶ。蓄積し、変質し、膨張した憎しみの塊を、ただひたすら俺にぶつける。
「憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! あなたのことが、憎いィィぃぃ!」
叫びながら……祥子は変容していった。綺麗な顔が、醜く崩れていく。
皴一つ無かった透明な肌はどんどんとひび割れ、赤黒く変色していく。控えめだった小ぶりな口はメリメリと音を立てて裂けていき、ついに耳まで到達した。ビーズ玉のように綺麗だった茶色い瞳は、赤黒い色を湛えた腫瘍のように深く澱み、俺を睨み殺そうとする。
「くそ!!」
堪らず、身を捩った。動けないと分かっていても、もはやそれは条件反射。そのままじっとしていることなど、出来る筈がない。
「!?」
だが、それが幸いした。
動けたのだ。ついさっきまで、まるで命令を受け付けなかった体が、なんの抵抗もなく動く。意思に従って、後方へと飛び下がる。
直後、風景が一変した。
慣れ親しんだ教室は霧散し、代わりに周りに現れたのは、コンクリートの床と赤く染まった一面の空。そして――
「和人君!?」
体に伝わる衝撃。後ろに下がった俺を、柔らかい何かが受け止めていた。
「紫か?」
目の前で下半身を蜘蛛へと変容させていく祥子を見つめながら、問いかける。
「うん。ていうか、一体どこに行っていたの? 教室に入った途端にいなくなっちゃうから、すごい探したんだよ?」
成程。どうやらいなくなったのは紫ではなくて、俺の方だったらしい。知らぬ間に、祥子の心象領域に囚われていたみたいだ。
「ごめん、ちょっとごたごたに巻き込まれてて。それより、今はどんな状況?」
「それは私が聞きたい。どこを探しても和人君がいないから、もしかしたらと思って幽体離脱して屋上に来てみたら、いきなり祥子が現れて、それで和人君が飛び出してきた」
確かに、意味不明な状況だった。紫でなければ、俺は今頃質問攻めに合っていただろう。
「はぁ……お互い、訳が分からない状況だったってことは分かったよ。それでも、こうして二人一緒に祥子と相対できたってことは、ここまでは順調ってことで良いのかな?」
「……順……調? 祥子、すごい格好になってるけど」
意味が分からないといった顔で、紫が完全に蜘蛛へと変貌を遂げた祥子を指さす。
その姿は、ギリシャ神話に登場するアラクネそのものだった。
屋上の三分の一を占めるほどまで巨大化した蜘蛛の体躯は、全身から青黒い光沢を放ち、更には腹の部分に施された赤と緑の配色が、見た目の毒々しさに一層の拍車をかけている。
そして、蜘蛛の頭から突き出ている祥子の上半身。その壮絶なまでの姿と形相は、地獄の悪鬼と形容しても何ら違和感はない。
それでも……
「何とかならないかな? 彼女を救ってあげたい」
先ほど聞いた彼女の悲痛な叫びが、脳裏に焼き付いて離れない。彼女も元は、普通の女の子だったのだ。父親のしでかした不始末は、息子の俺が片付けなきゃならない。
「前もお姉ちゃんが言ったと思うけど、それなら祥子を倒すしかないよ。この地上に留まっている限り、彼女が救われることはないから」
紫が、とある一点を指さす。
「だから二人で祥子を倒そう。そしてお姉ちゃんを助け出す。その結果、祥子もこの世界から解放される。今は、そのことだけを考えて」
紫が指さした先には、縁がいた。
屋上の中でも一段高いところに設置された給水タンク。そこに縁が磔にされていた。
「縁……」
酷い状態だった。太い杭が合計して五本、彼女の両手両足とその腹部から飛び出している。意識はないらしく、目を閉じたまま微動だにしない。
「……紫、行こう」
無理やり視線を縁から引きはがすと、もう一度祥子を見つめる。凄惨な過去によってもたらされた最悪の現在(いま)を、正面から見据える。
十八年間に及ぶ悲劇の連鎖を、ここで終わりにしなければいけない。
「うん……行こう」
いつの間にか、紫は日本刀を片手に持っていた。以前、死霊を殺した時に使っていた日本刀だ。
俺は、紫の手に添えるように、柄の下側を右手で握る。
これが、俺たちの選んだ戦い方だった。一つの刀を二人で扱う。精神世界では半人前の紫と、エクソシストとして素人の俺が選んだ戦い方。紫が持つ破邪の力と俺が持つ事象改変の力を組み合わせる。練習などもちろんしたことがなく、ぶっつけ本番だが、不思議と無理だとは思わなかった。
祥子が前脚を持ち上げる。それを合図として、俺たちは走り出した。
俺が前で、紫がその斜め後ろ。その体勢を維持したまま走る。
しかし、五メートルほど進んだところで、遂に前脚が振り下ろされた。恐ろしい速度。とても避けることなど出来そうにないが、体を少し傾けることくらいは出来る。お陰で前脚は予定通り、俺の体を貫いた。
~~~~~~~
五メートルほど進んだところで、前脚が俺たちに向かって振り下ろされた。恐ろしい速度。とても避けることなど出来ないが、幸い、前脚は俺たちを捉えることなく虚空を裂く。
どうやら、作戦はうまく機能してくれているらしい。
だから足を緩めることなく、祥子に向かってただ進む。
祥子まで、あと――
二十メートル。右足に向かって伸びてきた脚が、虚しく床を削った。
十七メートル。胸に向かって伸びてきた脚が、途中で脇に逸れていった。
十五メートル。頭に向かって伸びてきた脚が、耳の横を掠めていった。
十一メートル、九メートル、八メートル、五メートル――
すべての攻撃を掻い潜りながら、遂にその一本も俺たちの身体に届かせることなく、祥子の眼前まで迫る。祥子も、迫り来る危険を察知したのだろう。人間部分を庇うように脚を折り曲げ、届かせまいと遮る。
「紫!!」
俺が叫ぶのと同時に紫が前に出る。直後、刀から手を離し、その間に紫は刀を両手で掴み直す。そしてそのまま――横薙ぎに一閃した。
「ギィーーー!!」
不快な音がこだまする。切断された脚が地面に落ち、のたうち回る。蜘蛛がその口を大きく開け、苦悶の表情を浮かべている。だが、狙いはそこではない。その上。脚が切断されたことで剥き出しになったその人間部分。祥子の本体。
チャンスが訪れた。
再度紫の手を掴み、切断された脚の向こう側へと走り込む。脚の切断面からシャワーのごとく吹き出す緑色の体液を全身に浴びながら、ついにそこに辿り着く。祥子の本体が、間合いに入った。
「行け! 紫!」
叫ぶと同時に、右手を思いっきり頭上に振り上げ、紫を上へと運ぶ。紫もその勢いに乗り、蜘蛛の頭を踏み台として、一気に跳躍した。
(行け! 紫!)
もう一度、心の中で叫ぶ。
このまま一気に祥子を斬り裂け! そうすれば、このどうしようもない悲劇の連鎖は終結する。巻き込まれたすべての人の魂を解放できる。縁と一緒にあの家に帰ることが出来る。
俺の想いを乗せて、紫が跳躍する。精神世界では普通の人間とほとんど同じ動きしか出来ないにもかかわらず、紫はあっという間に祥子の本体と同じ高さに達し、最後の一撃を加えるべく、刀を振りかぶった。
「……ッ!?」
だがその瞬間、〝何か〟が紫の前に現れた。紫と祥子との間に割って入ったその〝何か〟は、まさに刀を振り下ろそうとしていた紫の動きを止める。
当たり前だ。振り下ろすことなんて……出来るわけがない。
〝縁〟を斬るなんて、紫に出来るわけがない。
突如目の前に現れた縁を前にして、ただ空中で無防備な姿を晒すことになった紫を、祥子が見逃す筈がなかった。
縁を運んだ中脚よりも僅かに遅れて到達した後脚が、硬直した紫の体を薙ぎ飛ばす。
それだけで、相当な衝撃だったろう。間違いなく、複数本の骨が折れたはずだ。だが、祥子は容赦なく、紫に追撃をしかける。
逆サイドの中脚が、吹き飛ぶ紫を下方向に叩き付けたのだ。
恐ろしいほどの勢いでアスファルトに叩きつけられた紫は、全身から血飛沫を上げながら、一度だけ大きくバウンドし……そしてそれっきり、動かなくなった。
「なん……で……」
一瞬だった。一瞬で形勢は逆転し、一人では無力な俺が残され、紫は血塗れで倒れたまま動かず、縁は祥子に身体を貫かれ、宙に浮いている。
(どこで……間違えた?)
どこかで選択を誤ったのは明らかだった。ただ、どこで間違えた? 紫を宙に投げたのが悪かったのか? しかし、そうしなければ祥子の本体には届かなかった。あそこでグズグズしていたら、蜘蛛の頭に噛みちぎられるか、脚に薙ぎ払われていただろう。
では、先に縁を助けるべきだったか? だが、祥子の攻撃を躱しながら、縁の拘束を解けたとはとても思えない。そもそも、あそこまで辿り着くこと自体が容易ではないのだ。
それに時間が経てば経つほど、俺を攻撃する無意味さに気付かれる可能性が高くなる。そうなれば、紫を守る術はない。
結局……手がない。届かない。今の俺と紫では、どうあっても祥子を倒すことは……
「ナイスだよ、紫」
しかし、その声は届いた。
諦めかけていた俺の顔を上げさせたその声は、一つの信じられない結末を瞳に映じさせる。
日本刀で祥子本体の頭を斬り飛ばした、縁の姿がそこにあった。
***
声が……聞こえる。
濃厚な闇の世界に囚われた私のことを、その声は、何度も呼んでいる。とても激しく、とても優しく、そして、たくさんの愛しさを込めて。
お姉ちゃん! と、その声は言う。
縁! と、その声は言う。
その涼やかなる響きは、怒りと憎しみの感情に満たされた心の中を一直線に突き進み、私の深淵に届く。
そうだ。私はこの声を守らなければならない。
小さい頃から、ずっと私の後についてきた可愛い妹。あの子を守るために、私はこの地上に留まることを決めた。だから私は、今までもそうであったように、最後まで彼女を守る。それが、姉として在ることを選んだ、私の存在理由だ。
初めて好きになった男の子。まさか、誰かを好きになる日が来るなんて、思ってもみなかった。一緒にいれた時間はとても短かったけれど、そのささやかな彩りは、非日常を生きてきた私にとってはかけがえのない宝物で……彼を守りたいという気持ちが、私がこの世界で過ごしてきた証だ。
だから、最後にやるべきことがある。もうどれだけ体が動いてくれるかわからない。どれだけ、心が保ってくれるかもわからない。ただ、その願いを叶える力くらいは、残っていると信じる。
外の世界では、紫が祥子本体を攻撃しようとしている。でも……駄目だ。祥子は私を盾にして、その攻撃を防ごうとしている。だから、その攻撃は通らない。反撃されたら、紫は防げないだろう。そうなったら、二人に挽回の機会は訪れない。
なら……私がその攻撃を引き継ごう。最後に一振り、あの刀にすべての力を込めて……
『自らを守る盾が、自らを貫く刃へ』――中々、粋な趣向だ。
私はクスクスと、一人で笑う。和人君ならきっと、気に入ってくれるに違いない。
さて、最後の出番だ。まず紫に作戦を知らせよう。時間的にはかなりギリギリだが、殴られざまに日本刀をパスするくらいは、紫ならきっとできるだろう。
ちょっと痛いかもしれないけど……
ごめんね、紫。
***
何が起きたのか、分からなかった。
先程まで中脚で貫かれていた縁が、その拘束を逃れ、祥子に日本刀の一撃を浴びせたのだ。更には、胴から離れた頭を掴んで両断し、逆手に持ち替えた刀で、留めとばかりに胸を貫いた。
それは、一瞬の間の三撃。まったく無駄のないその動きは、まるで華麗な舞を踊っているようで……息をすることも忘れて、ただただ魅入ってしまう。
そう。きっと彼女は、この地獄のような世界に咲いた一凛の花なのだ。絶望の淵で辺りを照らす、希望の灯台なのだ。だからこそ彼女の一刀は、闇の根源を確かに討ち果たす。
祥子が……消えていく。
光に当てられた闇がその姿を保てないのと同じように、縁によってバラバラにされた祥子がこの世界に留まる術はない。あたかもビデオのスロー再生のようにゆっくりと――まず、縁によって切断された頭部が消滅した。続いて、胴体が霧散していく。
崩壊する巨体。対照的にその形を保っている縁は、崩れる祥子の残滓を身に纏いながら、重力に従って地面への軌跡を辿る。
やり遂げて、安心したのだろう。いつの間にか、その手からは刀が消えていた。
きっと、力を使い果たしたのだろう。体からは力が抜け、眠ったように動かない。
だからあたかも、縁も落ちているようだ。翼を失ったイカロスが重力に逆らえなくなったように。落ちる以外の結末を選べなくなったように……
まっすぐに、地面へ――
――ぐちゃ
そして、縁が落ちた。
発してはいけない音を立て、固いアスファルトに衝突した縁は、唖然とする俺の目の前で全身を震わし、その衝撃で二つに分かれる。つまり――
縁の体が……ちぎれた。
「縁!!」
信じられなかった。いや、信じたくなかった。
縁は、祥子に勝ったはずではなかったのか? 闇を斬り、霧散させ、この地獄に終止符を打ったのではなかったのか?
(それなのに……なんで……)
縁に駆け寄り、あまりの光景に目を逸らす。
ちぎれた上半身と下半身。かろうじて皮一枚で繋がっているものの、祥子が縁に穿った杭によって傷口はもうぐちゃぐちゃで、真っ赤な肉と白い骨が表層に現れている。
どう考えても、致命傷だった。彼女がもし肉体であれば、きっと即死だったろう。
「……縁」
その場にしゃがみ込み、縁を抱きかかえる。彼女の体には、もう温もりは残っていなかった。死んでいるかどうかは関係ない。今までずっと縁から感じていた彼女の熱を、もう少しも感じなかった。
「縁……紫のところに行こう」
そう静かに話しかけ、そっと彼女を持ち上げる。
立ち上がると、既に辺りは元の校舎へと戻っていた。祥子の心象領域の面影は、すっかり消え去っている。
紫は十メートルほど向こうに倒れていた。真っ赤な血の池の中で、ボロボロになった体が無造作に晒されている。
「紫。縁が祥子を倒したぞ」
紫のすぐ隣に縁を横たわらせると、声をかけた。すると、紫の体がピクッと動く。
「……お姉ちゃん?」
目を開き、隣に横たわる縁を見つけた紫が、まだ折れていない左手で、そっと縁の頬に触れた。
「お姉ちゃん?」
すると、今まで死んだように動かなかった縁が、僅かにその相好を崩した。
「……紫、良い連携だったよ」
目は閉じられたまま、しかし、縁は確かにそう言った。紫も、安心したように微笑む。
「お姉ちゃんとの連携は、ずっとやってきたから」
「それだけじゃない。和人君との連携も。息ピッタリだった」
「うん。和人君だったから」
「そうだね」
縁が嬉しそうに笑う。そして、ゆっくりと目を開き、俺の方へ顔を向けた。
「和人君。紫を守ってくれてありがとうございました」
俺に向かって礼を言う。だが、俺にそれを受け取る資格はない。
「いや……こんな大怪我をさせちゃって……ごめん」
「謝らないでください」
縁は、優しく微笑む。
「紫の霊子線は切れていません。ですから、見た目の傷は酷いですけど、生命には別条ありませんよ。それに紫一人では、恐らく無事に祥子まで辿り着くことは出来なかったから。だから、ありがとうです。紫を守ってくれて」
じゃあ縁は? そんな言葉が喉元まで上ってくる。
俺は……縁を助けることが出来たのだろうか?
「私にはまだ、仕事が残っているみたいですから」
すると、縁はそう言った。いつものように、俺の思考を読んで。
「祥子は一人がきっと寂しいんでしょう。私の霊体を強く侵食していきました。今はまだ押し止めていますが、そろそろそれも限界です。吞み込まれれば、私も祥子と同じ場所に行かなければいけません」
悪戯っぽく微笑んだ縁。まるで二泊三日の旅行にでも行ってくるような、そんな気軽さで言う。
「しばらく、祥子と一緒に地獄探訪でもしてきますよ」
そんな未来、受け容れられるわけがない。
「……紫はどうなる? 紫にはお前が必要だ」
これは、足掻きなのだろうか? 執着なのだろうか? でも、例えそうだったとしても、こんなことは無駄だと分かっていても、それでも、言わずにはいられない。
「お前がいない世界で、紫を一人にする気なのか?」
いや……違う。そうじゃない。俺が本当に伝えたいこと、それは――
「和人君。あなたは、私のヒーローです」
けれど、言葉はそこで遮られた。縁が、真っ直ぐに俺を見つめている。
「あなたは、私に希望を見せてくれました。人と仲良くすることを諦めていた、紫の心を開かせてくれました。お陰で私の心は、今こんなにも穏やかなんです。あなたになら、紫を任せられる。だからこれからも、紫と一緒にいてあげてください。私の代わりに、紫を支えてあげてください。そして出来れば……彼女に普通の人生も経験させてあげてください。それが、私からの最後のお願いです。引き受けては……貰えませんか?」
あぁ……これほどまでに純粋な願いが、一体どこにあるだろうか。誰かの幸せだけを願う無垢な想いが、どこに存在するだろうか。
彼女はいつだって、自分の運命よりも、妹の幸せを優先するのだ。
(でも……だからこそ……)
やはり伝えなければいけない。
たとえ彼女たちのことを忘れてしまうとしても、もう二度と笑い合うことが出来なくなるとしても、それでも――
縁が紫の幸せを願うように、縁の幸せを願う誰かがいることを。
彼女が妹を大切に想う分、彼女のことも大切に想う心があることを。
そしてその誰かの中の少なくとも一人は……
世界を変える力を偶然手に入れただけの、ただの凡人に過ぎないのだということを。
だから――
「悪いな。俺は、おまえの願いには応えられない」
「え?」
俺の答えに、縁は目を見開いた。まさか断られるとは、夢にも思っていなかったのだろう。だから、更に言葉を紡ぐ。
「知っての通り、俺は欲望には忠実なんだ。そして俺は、ヒーローなんかじゃない。ただ、好きになった女の子を守りたいだけの、どこにでもいる普通の人間に過ぎないんだよ」
「え? それは……どういう……」
普段は、嫌になるほど心を読んでくるくせに、こういう時は察しが悪い。
縁にも見えるように、その考えを心の表層に浮かべた。
その瞬間、縁の顔が一瞬で真っ赤に染まって……でもすぐに、その瞳が左右に大きく揺れたのが分かった。俺が何をしようとしているのかも、一緒に読み取ったからだろう。
「まさか、そんな……本気ですか?」
黙ったまま頷く。それを実行したら最後、何を失って何を得るか。そのすべてを理解して、しかしもう、躊躇うつもりはなかった。俺は、そう――
「大好きな妹の隣で、縁にはずっと笑っていて欲しいんだ」
それこそが、俺の願いを叶える唯一の方法だと、知っているのだから。
縁も……
もう、尋ねない。
「本当に……馬鹿な人ですね」
ただ、そう言って困ったように微笑んで……代わりに涙が一滴だけ、頬をつたって流れて消えた。その雫の跡を、指でそっと拭う。
「そんなことしたら……全部台無しじゃないですか」
「それでも、縁が笑っていられるのなら」
「私は……あなたと紫に、笑っていて欲しかった」
「充分だよ。俺はもう充分、二人のお陰で笑顔にしてもらった。これ以上を望んだら、罰が当たる」
「それなら私だって……あなたのお陰で、私は……」
「なら、お互い様だ。お互いに笑顔になって、お互いがそれ以上を望まない。それなら、元の形に戻そう。この奇跡みたいな夏休みに、別れを告げよう。それがきっと、この物語の結末なんだ」
縁の頬に手を添えて、再び流れた涙を拭う。彼女は身動きせず、俺の言葉をただ待っている。だから、気負わず続けることができた。
「縁。ここで、お別れしよう」
「……はい、分かりました」
泣きながら、笑いながら、縁はそう答える。
俺はその笑顔に頷きを返すと、隣で横になる紫に視線を移した。
「ごめんな。結局こういうことになっちゃって。もう少し上手くやれれば良かったんだけど」
「うんうん」
紫が首を振る。
「そんなことない。お姉ちゃんを守ってくれてありがとう」
そして紫は目を瞑り、俺の前に左手を掲げると、ゆっくりとその手を広げた。
「これは……お前たちの花か」
そこには、今朝縁が出してくれたのと同じ、紫色の花弁を持った可愛らしい花があった。
「知ってたんだ?」
俺の言葉を聞いて、紫が少し驚いた顔をする。
「そう。これは私とお姉ちゃんの花。昔、お父さんが買ってきてくれた紫草。和人君に持っていて欲しい」
紫に誘われるがままに、その花を手に取る。改めて見ても、本当に紫色の桜のような、花蓮で美しい花だった。
「そういえば、この花の名前を聞いてなかったな。なんて品種の花なんだっけ?」
ふと気になって、そんなことを尋ねる。こんなに綺麗な花をつけるのだ。きっと素晴らしい名前が付いているに違いない。
「変なの。花は知ってるのに、名前は知らないんだ」
すると、紫が可笑しそうにクスクスと笑う。
「仕方ありませんよ。和人君ですからね」
と、今度は縁がクスクスと悪戯っぽく笑う。まったく……白々しいとはこのことだ。
「ふふっ、そんなこと言わないで。ちゃんと教えてあげますから」
そんな内心の不平を聞いて、優しく俺に微笑みかけた縁は、愛おしむようにその花を見つめると、そっとその名を口にした。
「『蜃気楼』――それがこの花の名前です」
「蜃気楼……」
確かめるように、その名を紡ぐ。
『蜃気楼』――まさに、二人にピッタリな名前だ。
改めて、目の前の二人を見つめる。
つい二週間前までは、想像もしなかった。学校一の美少女には姉がいた。でもその姉は実は死んでいて、霊になってからも地上で妹を守り続けていた。
そしてその二人だけの家族はエクソシストになって、目に見えない存在と日々戦っていた。この世で生きる人たちが、霊的な存在によって苦しめられないように。
それは、俺の知っている世界ではなかった。俺が生きてきた世界でもなかった。それでも……確かにここに実在する、真実の世界だった。
それはまるで、この世界の中で彷徨っていた俺の前にいっとき現れた、蜃気楼のようだと思った。この蜃気楼は、砂漠の只中に立つ俺には決して見えない、水平線の彼方に隠れた世界を垣間見せてくれたのだ。
「ありがとう」
だから、二人に感謝する。
例え蜃気楼のように、一時の幻になってしまったとしても――
俺の前に現れてくれて。俺にたくさんのことを教えてくれて。俺にかけがえのない時間をくれて。本当にありがとう……
「じゃあ、縁、紫。元気で」
そんな想いを胸の中に大事にしまうと、二人に別れを告げる。精一杯の笑顔で別れを告げる。そんな俺に紫は、はにかんだような笑みを浮かべる。
「うん、和人君も。一緒にいてくれて、嬉しかった」
最近、ようやく見せてくれるようになった紫の笑顔。しっかりと、心の奥底に刻む。
「和人君」
屈託のない笑みを浮かべた縁が、俺の名前を呼ぶ。もう決して聞くことができないだろう声。俺は、心の中で何度もそれを反芻する。万が一、別の世界で聞けた時に、足を止めることができるように――
「!?」
不意に、唇に柔らかい何かが触れて、目を大きく見開いた。そのかけがえのない温もりは、ほんの一瞬だけ唇に滞在すると、すぐにそこから離れる。
「和人君、幸福な思い出をありがとう。忘れても、愛しています」
そして、視界いっぱいに広がる、縁の笑顔。
その笑顔が――滲む。徐々に滲み、歪み、薄くなる。それでも、その笑顔はずっとそこにあって……俺のことを優しく見つめてくれているのがわかる。
だから俺は、意識が途絶えるその時まで、いつまでも、彼女の笑顔を追い続けた。
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