2023年:蜃気楼のような女の子 第七章

 夏休みも終盤に差し掛かった八月十日、藤瀬家の神社にまたもお客さんが訪れた。

 いつも通り縁と一緒に、紫が境内の掃き掃除をする様子を眺めていた時のことだ。その時俺の内心は、如何にして紫に巫女服を着せるかで一杯だった。

 きっかけは、二日前に遡る。例のごとく、ソフィアさんが倉庫の奥から引っ張り出してきたのだ。男の子のロマン――そう、巫女服を!

 早速、紫に試着を懇願した。正直、この段階では俺の中での勝率は九割を超えていた。

紫は良くも悪くも自分の明確な意思を持たない。故に、頼めば巫女服くらい着てくれると思っていたのだ。既に藤瀬姉妹玄人になりつつある俺にとって、赤子の腕を捻るが同然の、簡単なミッションのはずだった。

 それが……何ということだろう。念には念を入れて、指の先まで魂を込めた華麗なる土下座まで披露したにも拘らず、だ。勝利を確信し、顔を上げた俺を待っていたのは、紫の冷淡な一言だった。

「絶対に嫌」

 これが例えば、僅かに頬を染め、手と足をモジモジさせながら、絞り出すように発した一言であれば、良いものが見れたと俺も諦めがつく。だがしかし、あのゴミを見るような目つきはいただけない。

 いや……別に良いのだ。正直に言えば、あの視線は充分ご褒美に値する。しかし以前、縁に強く言い聞かされている。紫にアブノーマルな方向での影響を与えるな――と。

 俺は、約束は守る男である。それでも理性が感情を上回るにも限度がある。よって、あの視線はいただけない。我慢できなくなる。

 と言うわけで、自らの紳士性を維持するためにも、こうして次善策を練っていたという次第なのである。時々、縁の執拗な妨害に合いながらも、必死に考えを巡らしていたところで、不意に縁が立ち上がった。

「おじさんだ……」

「おじさん?」

 いきなりのことに困惑するも、縁の視線がまっすぐ一点を捉えていることに気付き、そちらに視線を向ける。

 しばらくは何も見えなかった。だがやがて、境内に繋がる階段から一人の男性が姿を現す。

「紫ちゃん……縁ちゃんも」

 突然現れた男性は、嬉しそうな顔で二人を見つめてから、俺へと視線を移す。

「そしてこちらが……あれ?」

 唐突に、男性が首を傾げた。

「桐生……和人君、だよね?」

「あ……はい、そうです……が?」

 いまいち状況が掴めないが、取り敢えず頷く。するとその男性は、

「そう……だよね。ごめんごめん。少し、友人の妹にどことなく似ていたものだから……きっと、他人の空似だね」

 と、自分の考えを振り払うように首を振る。そんな男性に、今度は縁が話しかけた。

「おじさん、お久しぶりです。ずっとここを管理して下さって、ありがとうございます」

 ペコリと頭を下げる縁に、先程までの戸惑いはどこへやら。一転して嬉しそうな顔に戻った男性が答える。

「いやいや、君たちの大事な家だからね。それに敦(あつし)にも頼まれている。友人として、せめてそれくらいはさせてもらうさ」

「ありがとうございます」

 紫も頭を下げる。よく分からないが、どうやらこの人が、以前からこの神社を管理してくれていた人らしい。

「お疲れでしょう? 紫がお部屋を用意しているのでそちらで休んで下さい」

 その言葉と同時に、紫がその男性に近づき、荷物を持とうとする。

「いやいや、流石に女の子に持たせられないよ。いくらISSAのエリートだとしてもね」

 男性は軽くウインクし、家の方に向かって歩き出す。紫は一瞬迷ったようだったが、そのまま彼の後について歩き出した。

 二人が家の中に消えたタイミングで、俺は改めて尋ねる。

「それで? あの御仁は誰?」

「武藤礼司(むとうれいじ)さんです。お父さんの古くからの友人で、ずっとこの家を守ってくれていた人です。ちなみに、おじさんはISSAではなくて、神社本庁の人間ですよ。私たちがここに戻ってからは来なくなっていましたが、お盆期間中は先祖供養だったり、あとはこの神社名物のお悩み相談だったりがあるので、来てもらったんです」

「お悩み相談?」

「えぇ。ご存知ありませんでしたか? 結構この街では有名だと聞いていたんですが……心霊現象に関わる色々な相談に乗っていたんですよ。それも元々は、祥子による被害を少しでも軽減しようとして、始めたことみたいなんですけど」

「へぇ~。聞いたことなかった。まぁ、俺。心霊現象とかまったく信じてなかったからな」

「その割に肝試しとかやってたじゃないですか」

「信じてないから出来るんだよ。遊園地の延長」

「はぁ~。そうやって、沢山の人が日々呪われていっている訳ですね」

「……もうそれを冗談として、笑い飛ばせなくなっている自分が悲しい」

「この一夏が、和人君を大人にしたってことですよ」

「何それエロい」

「死んで下さい」

 そんな風にいつものごとく、馬鹿話を始めた時だった。突如、家の中から悲鳴が響き渡る。

「!? 縁、今のは!?」

 今の悲鳴は、恐らくソフィアさんだろう。普段あれだけ飄々としている人が出すような声ではない。何か、とんでもないことが起こったのかもしれない。

「……とんでもないことが、起きてしまいましたね」

 そして、俺の危惧を代弁するかのように、縁が険しい顔でそう呟く。

「おじさんがとんでもないものを連れて来てしまいました。ソフィアさんは声を出す余裕がありましたが、紫にはその余裕すら無かったのかもしれません」

「そんな……」

 先程二人が向かった離れの方を見つめる。

「行こう」

 考えるより先に、その言葉が出ていた。縁もしっかりと頷く。

「えぇ。早く行きましょう。二人には荷が重すぎる相手です。よりにもよって、ジャパニーズボブテイルとは……」

 『ジャパニーズボブテイル』

 恐らく、日本固有の悪霊なのだろう。英名が付いているあたり、世界にも知られるほど凶悪な存在なのかもしれない。一刻も早く、二人を助けに行かなければ――


 離れに向かうには、社務所の一階奥から渡り廊下を使うのが最短ルートだ。だから俺と縁は、社務所を一心不乱に走り抜けると、そのままの速度を緩めることなく、渡り廊下の入り口に飛び出した。

「!?」

 そんな俺の目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。あまりの衝撃に脳の処理が追い付かず完全に言葉を失って、その場でただ立ち竦む。

 しかし、そんな俺をよそに、縁は二人――紫とソフィアさんに近づいた。そして――

「なるほど……中々良い毛並みのジャパニーズボブテイルですね」

 その声に、二人が俺たちに気付いて顔を上げる。

「あ! 縁さん、良いところに来ました。見て下さいこの猫。本当に尻尾が短いんですよ!」

「にゃーにゃにゃにゃー。にゃ。にゃーにゃー」

 満面の笑みを浮かべたソフィアさんと、何故か「にゃーにゃー」うるさい紫が、一匹の猫と戯れている。

「当然です。ジャパニーズボブテイルは世界で唯一認められた純血種の日本猫ですから」

「あら。そうなの? 詳しいのね」

「一般常識です」

「にゃーにゃにゃにゃ」

 その頃になって、ようやく言葉を取り戻すことができた。縁の背中をツンツンつつく。

「縁、悪霊は?」

「悪霊?」

 縁が「は?」という顔をする。

「そんなもの、神社本庁に勤めているおじさんが持ち込む訳ないでしょう? おじさんは自分の飼い猫を連れて来てくれたんですよ」

「……ジャパニーズボブテイル?」

「はい。ジャパニーズボブテイル」

 目の前で、紫とソフィアさんと戯れている猫に視線を落とす。普通に、単なる猫だ。

「アレのどこが『とんでもないもの』なの?」

 すると縁は、「日本人なのに、そんなことも知らないんですか!?」と眦を吊り上げる。

「戦後に外国猫が沢山入って来たせいで、今や純粋な日本猫はほとんど絶滅危惧種なんです。そんな中、ジャパニーズボブテイルだけはその血統を守り抜いている。まさに、国宝級のとんでもない猫なんです」

「……いや、知らんがな」

 賭けても良い。日本人の大半は、そんなこと知らない。

「はぁ……これだから教養の無い人は……」

「にゃーにゃ。にゃにゃにゃー」

 とんでもなく理不尽に無教養扱いされた……

 ていうか、紫は一体どうしてしまったの? 何か変なものでも食べたの?

「あぁ……昔っからあの子、猫を見ると猫語を喋り出すんですよ。過去世で猫だったりしたんですかね?」

「斬新な設定だな……」

 はぁと一つ息を吐いて、その場に座り込んだ。なんだかどっと疲れてしまった……

「おや。お二人も来ていたんですね」

 丁度そのタイミングで猫の飼い主が戻ってくる。どうやら自分の荷物を部屋に置いて戻ってきたみたいだ。本当は紫がその案内役だった筈なのだが……

 そんな人の良い武藤さんが、ニコニコとして言う。

「実は今、私の猫をお二人に可愛がって貰っていたところなんですよ。お二人もどうです?」

 その瞬間、縁がピクッとわかりやすく反応する。しかし――

「いえ、別に私は。興味ありませんので」

 縁の口から出てきたのは、そんな強がり発言だった。なんの意地か分からないが、どうやら猫好きだとは思われたくないらしい。

 あんな蘊蓄を披露しておいて、今更としか言いようがないと思うが……

「って、痛!」

 手に鋭い痛みが走る。見るまでもなく、縁に爪を突き立てられたのだ。

「おまえ……何のつもりだ?」

「それはこちらの台詞です。いつ、私が強がったと? 別に、羨ましくなんかありません」

「……羨ましいなら、普通に混ざれば良いだろ?」

「だから違うと……それに私はもう子供ではありません。猫一匹くらいで騒いだりしない」

「どんな偏見だよ……それに、その理屈だとソフィアさんはどうなる? よっぽどいい大人でしょ? あの人」

「だから、私の方が大人だと、今証明されたわけです」

 と、縁が無い胸を張る。その姿を見れば、どちらが大人かなんて明白だと想うのだが……

「ぶち殺しますよ。それに胸の大きさは、大人かどうかには関係ありません」

「いや、少なくとも猫に対する反応よりは関係があるような……いや、何でもありません」

 縁の鋭い目つきを見て、これ以上の深追いは得策ではないと判断する。攻勢終末点の見極めこそが、名将と凡将を分ける最も重要なファクターなのだ。

 故に、話題を変えることにした。

「ところで、明日は久しぶりに晴天らしいね」

「……露骨な話題転換ありがとうございます。そして明日は豪雨です」

「……そうだっけ?」

 三分の一の確率に賭けたつもりだったが、世の中そう甘くはない。

「まぁ別に何でも良いですけど。大人な私は細かいところに拘りません」

 ……まだそこに拘っていた。一体なにが縁をそこまで駆り立てるのか……

「あ、猫ちゃん……」

 その時、突如聞こえてきたソフィアさんの寂しげな声が、例の如くツッコミを入れようとしていた縁の口を塞ぐ。

 俺たちは声がした方に顔を向ける。すると、なんと件(くだん)の猫がこちらに向かって一直線に駆け寄ってきたのだ。そしてそのままの勢いを保ったまま、スッと飛び上がると――すっぽりと縁の胸の中に収まった。

「この猫……できるな」

 まるで縁の見栄を見破り、更には気まで遣ったような猫の行動。当然、縁は嬉しそうに顔を綻ばせている。

「しょ、しょうがないですね。本当に甘えん坊な猫なんですから。少しだけ、相手をしてあげますよ」

 そんな嬉しそうな顔をして何を言ってるんだ? という感じだが、そこはみんな優しいもので、微笑ましげな表情を浮かべるだけで何も言わない。

「にゃぁ……」

 いや、そうでもなかった。紫がかなり残念そうな顔で、力なく鳴いている。

 すると、どうしたことだろう。縁の胸に顔を埋めていた猫がヒョイと顔を持ち上げ、紫の方を見ると、手をブラブラさせながら、ニャーと一声鳴く。その様子はまるで紫に『こっちにおいでよ』とでも言っているようだった。

「にゃー!」

 そして、嬉しそうに近づいて行く紫。

 ……何だか、この猫。本当は宇宙人なんじゃないかと思えてきた……

 その後は、ソフィアさんを再び混じえて、三人はいつまでも猫と楽しく戯れていた。

 結論――一番の大人は猫でした。


     ***


 武藤さんが神社に来てから二日後。次なる攻略目標を決める会議の直前、俺は余った時間を使って、縁と一緒に神社の裏庭に足を運んでいた。

 きっかけは、先日見た藤瀬父の日記だ。そこに記載されていた七夕の日の出来事。縁と紫の幼き日の姿が描かれた貴重な記録。

 その話を、居間で寛いでいた縁に振ったところ、幼いながらも、ちゃんとその日のことは記憶していた。だがそれ以上に驚いたのは、日記の中に出てきた竹がまだ現存しているという事実だった。どうやら、あの竹は七夕用に切ってきたものではなく、元々神社に自生していたものだったらしい。

 となれば、是非見てみたい。縁と紫の大切な思い出の一ページ。二人と過ごした日々がまだ短い俺にとっては、そんな思い出の共有が、とても大切なことのように思えたから。

 だからそんな想いを汲んで、縁が裏庭散策を提案してくれた時は、一も二もなく飛びついた。この神社に来てから、既にニ週間以上経過していたが、中々周囲を散策する機会は無く、この裏庭に足を踏み入れたことは一度もなかったのだ。

 裏庭は思っていたよりも広く……というか、もうその先は普通に山の奥へと続いていた。もし仮に、その山をも『庭』の中に含めるなら、とてもじゃないが一邸宅の付属物として収まるような規模のものではない。散策も、一日掛かりを覚悟しなければならなかっただろう。

 だが幸いにも……と言っても当たり前ではあるが、竹が自生していたのは、『庭』の入口部分――人の管理が行き届いている範囲だった。

 竹林というほどには群生してはいなかったが、それでも十本近い竹が、天に向かって見事に稈を伸ばしている姿は中々壮観だ。藤瀬父が『見事』という形容詞を採用したのも頷ける。

 そんな風に感心しながら眺めていると、竹の群生地のすぐ脇に、緑の葉が青々と茂っている空間があることに気が付いた。単なる雑草にしては、どうも整然とし過ぎている。

 気になって、隣を歩いていた縁に問いかけた。

「あそこの一帯って何か育ててるの?」

 縁は、俺が指さす方向に目を向けると、

「あぁ……葉だけしかないのに、よく気が付きましたね。あそこには、日本桜草が植えられているんですよ」

 と、言った。

「日本桜草? 桜の花に似ている葉っぱ、みたいな?」

 それを聞いて、縁は苦笑する。

「桜の花に似ている葉っぱって……それ既に葉っぱじゃないですよね。これです、これ」

 そう言って、縁は掌の上に一枚の花を出現させる。

「これが、この日本桜草の花です。多年草なんですが、三月から五月頃にかけてこの花が咲くんです。花の形が桜に似ているから、桜草って名付けられたみたいですよ。もう少し早ければ開花しているところを見れたんですけどね。一斉に開花すると、すごい綺麗なんですよ」

「へぇ。確かにこの花が一面に咲いたら見事だろうね」

 その青紫の花を手に取ってみる。確かにそれは、まるで藤色の桜みたいで、何とも上品な趣があった。

「でもこんな花、流石に自生はしないでしょ? お父さんが植えたの?」

「えぇ。アレは私たちが小学校に入学した少し後くらいですかね。お父さんが『お前たちによく似た花を見つけた』とか言って、持って来たんです。古今和歌集にある紫草の歌、読みましたよね? お父さんはこれをその草に見立てたみたいで。確かに綺麗な紫の花を咲かせますからね、この草は」

 言いながら、縁は手の上の花を見つめる。その視線は何とも優しげで、きっと色々な思い出が詰まった花なんだな、ということがわかる。

「クスッ」

 不意に、縁が笑い声をあげた。

「思い出と言えば、あの子――紫ですけど、お父さんが言ったことを真に受けて、ずっとこの花を紫草だと思っているんですよ。自分と同じ名前の花だって譲らなくて」

 その時の紫の顔を思い浮かべて、思わず可笑しくなる。きっと、見た目ではほとんどいつもと変わらぬ無表情で、だけどほんの少しだけ、不満げな顔をするのだ。この二週間で、大分それがわかるようになった。そして、そんなことが、今は無性に嬉しい。

「そうか。それだけ、紫にとっても大切な花なんだな」

 そう言うと、縁も「えぇ」と嬉しそうな顔をする。

 また一つ、彼女たちに近づけたと思えた時間だった。


 裏庭からの帰り道。本殿に向かう縁と別れて、宮司宅二階の自分の部屋に戻るべく廊下を歩いていた。すると、客間の前で奇妙な行動を取っているソフィアさんに出くわす。

「おはようございます。どうしたんですか? こんな所で」

 俺の声に、ソフィアさんが振り返った。

「あら、おはよう。実は今お客さんが来ていてね。どうも、相談者らしいのよ」

「相談者?」

「そう。この神社恒例のお悩み相談。メインは心霊現象絡みの相談みたいだから、私も興味があって。同業者として、日本の神官がどんな風に相談に乗るのか聞いてみたいのよ」

 そう言えば、武藤さんが来た日に縁がそんなことを言っていた。こっちに来て二日で早速始めるとは、流石に仕事熱心だ。それにしても……

「……それで? 何でソフィアさんはこんなところで壁に耳を張り付けているんですか?」

 まぁ聞かなくてもわかるが……一体何をしているんだか……

「だって、中には入れて貰えなかったんだもの。次善策よ」

「次善の策が既に最悪ですね」

 溜息を吐き、この場を離れようとする。俺には変な野次馬根性はない。

 だが、そんな俺の手は、ソフィアさんによってがっしりと掴まれる。

「……何ですか?」

「君も聞いていきなさいよ」

「……なぜ?」

「今来ている子たち、高校生らしいの。きっと和人君の参考にもなるわよ」

「なりませんよ……」

 俺はもう、ちょっとした心霊現象に一喜一憂するような幸せな世界にはいない。それに……もし参考になるとしても、聞き耳を立てるような趣味はない。

「そんな堅いこと言わないの。ほら、耳をつけて」

 だがソフィアさんは、そんな俺の意志を華麗にスルーし、半ば強引に壁に押し付けてくる。そのせいで、壁とソフィアさんによってサンドイッチ状態にされてしまった。

 背中に、未体験の柔らかさを感じる。しかも人肌に温まったそれは、並の紳士であれば、一瞬で理性を刈り取られるほどの威力を有していた。

 とはいっても、(皆は気付いていないかもしれないが)俺は並の紳士ではない。故にこんなことで、簡単に冷静さを失ったりはしない。あくまで紳士的に、冷徹そのものの態度で、今の状況について考察を開始する。

 ここは一つ、よく考えなければならない。

 人の相談を盗み聞きするのは良くない。そんなことは誰だって知っている。しかし、その『常識』というものがもたらす弊害についても、それを遵守しようとすればするほど、一考しなければならないのではないか。なぜなら常識とは、その存在自体が過去に依拠するものだからだ。もっと言えば、それ自体が過去の人間によって形成されたものだからだ。そして言うまでもなく、完璧な人間などいない。そんな不完全な人間が、しかも過去の事実に基づいて決めた陳腐な取決めを真に受けて、現在、そして未来に繋がる行動を制限するというのは、あまりに馬鹿げた慣習ではないか? 

なるほど……そう考えると、常識とは盲信するべきものにあらず。むしろ、未来に生きる者にとっては有害とすら言える。

 ……危ない。危うく俺は、『常識』という名の、聖者の皮を被った暴君の奴隷と化すところであった。

 内心で「ふぅ」と一つ息を吐くと、笑顔でソフィアさんに答える。

「確かに。この街を祥子から守る立場である俺が、聞かないわけにはいきませんね」

「フフッ、そうこなくっちゃ」

 ソフィアさんと笑顔を交換すると、ソフィアさんの柔らかさに身を委ね、ついでに壁の向こう側から聞こえてくる声に、耳を傾けた。


「あの日、六人で校舎に忍び込んでから、毎日夢で見るんです」

 聞こえてきたのは、女性の声だった。

 内容から察するに、恐らく学校で肝試しでもしたのだろう。しかしそこには本当に幽霊がいて呪われてしまったと……恐らくそんなところだ。まったく、安直としか言いようが……

 あれ? そのシチュエーション、どこかで……

「夢の中では、私は自分の部屋にいるんですけど、外から妙な視線を感じてカーテンを開けるんです。すると外に……外に女の人が……しかもその姿は、あの日学校で見た女子生徒の幽霊――祥子にそっくりなんです」 

 驚いた。どこかで聞いたことのある話だと思ったら、思いっきり自分たちのことだった。よく聞けば、この声も普通に知っている。他ならぬ、葵さんだ。

「それで祥子がゆっくりと家に近付いてきて、玄関の前に立つんです。私はそこから目を離すことができなくて……こっちに気が付かないでって必死に祈るんですけど、最後は必ず祥子が私に気付くんです。そして何かを口にする。声は聞こえません。けど、何て言っているかは不思議と分かります。あれは、きっと……」

 そこで葵さんの声が途切れ、代わりに男性――公彦の声がその後を引き継ぐ。

「『つかまえた』――そう言っているんです。和人の時と同じように……底冷えするような不気味な声で」

 俺の時……確かに、覚えている。後ろから聞こえてきた不気味な女の声。

 俺の場合は『みつけた』だったが、みんなも同じような経験をしているらしい。

「私たち……どうすれば良いんでしょうか? 何だか……すごい嫌な予感がするんです。いつかドアが開いて……本当に祥子が入って来ちゃうんじゃないかって」

 葵さんの声が恐怖に震えている。あの不気味な声を聞いて、しかもその後もそんな夢を見続けているなら、それも当然だ。しかも祥子は幻ではなく、実際に存在する悪霊なのだから。放っておくと、みんなに本当に危害が加わる可能性も否定できない。

(やはりみんなのためにも、一刻も早く祥子を――)

 だが、そこで思考は止まる。それ以上考えることが出来なくなる。次の瞬間聞こえてきた葵さんの震えた声が、脳を完全に停止させたのだ。


「私は殺されたくないんです。あの日の和人君みたいに」


 咄嗟に、何を言われたのか分からなかった。停止した頭が、その意味するところを求めてゆっくりと動き出そうとするが、しかしその前に、啜り泣きと共に葵さんの言葉が続く。

「私……あの日見た光景が頭から離れないんです。祥子が、和人君の後ろに立っていて……そしたらいきなり窓が割れて、和人君の首から血が……私、怖くて怖くて……逃げ出して……でも逃げられてなくて……私も殺される……死にたくない。あんな風に死にたくない」

 葵さんの啜り泣きを聞きながら、ただ立ち竦む。

 意味がわからなかった。彼女が何を言っているのか、まったく理解できない。彼女が何を言いたいのか、まったく理解できない。彼女の言葉が理解できない。

(カノジョハ……一体ナニをイッテイル?)


 ポタッ――


 その時、血が一雫、床に落ちた。

 俺は壊れたロボットのようにノロノロと腕を持ち上げると、自分の首筋に手を押し当てる。『何か』が、指の隙間から零れ落ちていった。

 その『何か』に誘われるように、ゆっくりと視線を下ろした。すると、服が真っ赤に染まっていくのが見えた。

 もう一度、首筋に手を当てる。まるで噴水のように、『何か』が噴き出しているのが分かった。

(あぁ……)

 全身血まみれになりながら、ゆっくりと天井を仰ぎ見る。

 分かっている。頭が理解しようとしていないだけで、もうすべて思い出している。

 降りかかってきたガラスが首を切り裂くこの感覚。血が噴き出し、生命が消えていくこの感触。忘れていたことが不思議なくらいに、すべての感覚が鮮明に甦る。そして……

 あぁ、声が聞こえる。すぐ後ろに、誰かがいる。

 どうやら、いつの間にか始まっていたこの鬼ごっこも、ここでお終いのようだった。

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