2023年:蜃気楼のような女の子 第六章
縁に後ろから刀を突き付けられた時、死を覚悟した。
状況は分からない。大切な存在になっていた女の子がもう十年も前に死んでいて、今はこうして俺に刀を突き付けている。その事実は眩暈がするほどのショックを俺に与えたが、しかし不思議と、静かにそれを受け入れている自分もいた。きっと、『彼女になら殺されても良い』――なんて、頭の片隅で考えてしまったからだろう。
どんな理由があるかは分からない。しかし俺を殺すことが、なんらか彼女の救いになるのなら…………俺は、それでも構わな――
「人聞きが悪すぎる!!」
「おふっ」
不意にバンっと前に突き飛ばされて、その場でたたらを踏む。
「何で私が救いを求めて和人君を殺すんですか!! どんな不成仏霊ですか、私は!!」
振り返ると、ぷくっと顔を膨らませた縁がキッと俺を睨みつけている。
ちょっと意味が分からない。
「あれ? 今って幽霊に魅入られた主人公が、遂に取り殺されちゃうってシーンじゃないの? バッドエンドまで一直線って状況じゃないの?」
「違いますよ。今は可憐で可愛い女の子の幽霊が、お茶目な悪戯を主人公に仕掛けて、『ビックリした?』『ビックリした!』ってお互いに笑いあうシーンですよ。あっ、あと主人公はやっぱり私です」
「いや、絶対に違うから。お茶目な悪戯に日本刀が登場するような世界線はこの時空に存在しないから。あと、しれっと主人公アピールするの止めて」
縁の雰囲気に流されて、気づくといつものように馬鹿なことを言い合っていた。最初に感じたショックも、いつの間にか薄れてしまっている。
縁を見ると、穏やかな顔で俺を見つめていた。
「縁……本当に死んでるの?」
だから改めて、そう尋ねた。すると、縁は頷く。
「えぇ、死んでいます。十年前の交通事故で。ずっと秘密にしていてごめんなさい。いきなり幽霊が出てきたら、きっと驚いて私たちから逃げてしまうと思ったから。でも……こんな形でバレるなら、もう少し早く言っておけば良かったですね」
言いながら、縁が机の上の日記帳を見る。既にページは閉じられており、パッと見は何の変哲もないただのノートになっていた。
「いや……それは、もう良いよ。俺のためだったってのは分かるし……うん、そこは別に疑ってない。だから、むしろそれよりも……」
再び、目の前に立つ少女を見る。やはりどう見ても、彼女が迷っているようには見えなかった。
「何で縁は幽霊に? エクソシストなんだから、まさか迷ってる訳じゃないよね?」
「はい。そういう意味だと、確かに霊ではありますが、幽霊とは言わないかもですね。私は自分の意思で、この世界に留まることを決めたんですから。家族で唯一生き残った、紫を守るために」
それは、ある意味で予想通りの答えだった。この世で迷っていないのなら、この妹想いのお姉ちゃんがこの世界に残る理由は、それくらいしか思いつかない。
「そっか……本当に、縁は紫が大切なんだね」
「もちろんです。紫を守ること、紫が幸せになること……それが私の存在理由ですから」
そう言うと、縁は照れ臭そうに微笑んで、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「だから……前も言いましたよね? 嬉しかったって。和人君が紫に話しかけてくれて、私は本当に救われたんです。救世主とまでは言わないですけど、あの瞬間、和人君は紛れもなく、私にとってのヒーローだったんですよ?」
揶揄っている風ではない。その瞳に、冗談の色は一切なかった。
「ヒーローって……いくらなんでも、大袈裟だろ?」
それが分かったから、そんな風にしか言葉を返せない。思わず目を逸らそうとする俺を、しかし縁が押し止める。
「大袈裟じゃありません。あなたは、私のヒーローなんです。だから……だから今度は、絶対に私があなたを守ります。祥子なんかに渡さない。何があっても、絶対に守り切ってみせます。信じて……くれますか?」
包み込むように、縁の両手が掌を包み込み、水気を含んだ瞳が俺を射抜いた。
冗談はなく、けれど、水面のように揺れる瞳。
俺は、ようやく気が付いた。
平静に見せながら、落ち着いている風を装いながら、それでも縁は、不安を感じているのだ。縁が霊であることを知った俺が、離れて行ってしまうことを。そしてその不安は、『疑っていない』という言葉だけで払拭できるほど、小さく、安易なものではないことを。
だから縁は、不安で瞳を揺らしながら「信じてくれますか?」と問いかける。その切実さは、鈍感な俺にすら、これほど強く伝わるほどだ。
にもかかわらず……あぁ、そんな縁にどんな言葉で応えられるだろうか。
こんな時、詩人だったら良かったのにと思う。たとえば、かの名劇作家――シェークスピアのように言葉を紡げたら、きっと縁の不安を氷解させることも簡単だったろうに。
でも、俺は彼ではない。誰かを感動させる言葉なんて、一日中考えたって出てこない。歴史に残る名文句を、縁に囁きかけることは不可能だ。
(それでも……)
それでもと、思う。たとえ言葉は紡げなくとも、少なくともこの想いは本物であるに違いないと。俺を救い、今も守ってくれている彼女を大切に思うこの気持ちだけは、舞台の登場人物にすら負けるものではないと。
ならきっと、この想いを伝えるのに……
言葉なんて、なくて良い。
「和人……君?」
驚きを孕んだ声。唐突に抱き締められたこの状況に、理解が及んでいないことがすぐにわかる声。だから、縁の背中に回した手に、少しだけ力を込めた。
「信じるよ、縁。この地球上の、誰よりも」
あぁ……やっぱり。言葉にすると、なんと陳腐な響きだろうか。
俺は、詩人にはなれない――そのことを改めて痛感し、更に強く、縁を抱き締めた。
この熱がきっと、拙い言葉を補完してくれることを信じて――
「……まったく、和人君は」
しばらくして、縁の声が耳朶をくすぐった。
「こんなことしなくても、私はあなたの考えが読めるんですから。あなたの想いくらい、言葉が無くても伝わりますよ」
呆れたような声。頭からすっぽりと抜け落ちていた事実に、愕然とする。
(ほんとだ……すっかり忘れてた)
「まったく……本当に、和人君は」
でも次の瞬間、縁の腕が、背中に回っていた。
「仕方のない人ですね」
もう呆れたような響きはない。優しく、慈しむように。無防備な俺に囁きかける。
それは、とても心地が良い感触で……全身を包み込む温かい熱と相まって、まるでこの瞬間、縁と溶け合っているような……そんな錯覚さえ覚える。
「ありが………ざい…す……大……です」
その時、縁が何か言ったような気がした。でも、その声はあまりに小さくて……心地よい熱に身を委ねていた俺には、聞き取ることができなかった。
でも……それでも、構わないと思った。今この瞬間に、言葉など不要なのだから。
どれだけ技巧に溢れた表現も、シェークスピアがどれだけ束になったとしても……この感覚には、絶対に敵わない。
だから俺たちは、伝え合う。もう言葉はなく、ただ静かに。
お互いの熱で、お互いの想いを伝え合っていた。
縁と一緒に居間に降りると、紫とソフィアさんがソファに座っていた。どうやら、祥子退治について話し合うために集まったらしい。縁が書斎に来たのも、元々はそれを俺に伝えるためだったようだ。
「こほん……では早速ですが、祥子の件について今後の動き方を決めてしまおうと思います。紫に、考えがあるみたいなので」
その言葉を聞いて、紫が隣でコクンと頷く。しかし……
「……確かに、祥子退治に協力するっていう交換条件ではあったけど……二人の水着姿をしっかりと拝めていない以上、この取引は成立していないと思うんだ」
そう異議を唱える。確かに、縁は俺のことを守ってくれると約束し、俺はそれを信じたが……それとこれとは別問題だ。死なないと分かっていても、お化け屋敷には入りたくない――その感覚に似ている。
「往生際が悪いですね。それに拝めてないと言っても、少なくともプールに入る時と出る時は見た訳じゃないですか。それ以上何を望むんですか」
「俺の心のフィルムに焼き込むのには、少なくとも一分の時間を要する」
「心の中アナログ過ぎでしょ……早いとこ、デジカメに買い替えておいて下さい」
「効率を求め過ぎるのは如何なものかと思う。愛は効率じゃないことを知るべきだ」
「いきなり人格者にならないで下さい。そういうキャラじゃないでしょ、和人君は。どちらかと言うと、愛をコンビニで買おうとするタイプじゃないですか」
「……俺、そんな嫌なタイプに見える? ちょっと反省に入るから、夕食の時間になったら呼びに来て」
「おい、ナチュラルに逃げようとするな。紫の話を聞け」
「聞け」
無機質な声で紫が続く。そのトーンで言われるとマジで怖いんでやめて下さい……
諦めて、ソフィアに座った。
「……え? なに? どうして君、私の上に座ったの? 脈絡が無さ過ぎて意味がわからないんだけど」
「あ、すいません。ソファに座るつもりが、間違えて〝ソフィア〟に座ってしまいました」
「ドヤ顔で何を言ってるんですかあなたは……」
頭痛を堪えるように、縁が額に手を当てる。ソフィアさんは、俺の下でピクピクしている。そんな二人の動きが、動物的直観に優れた俺に囁きかける。
これ以上のエスカレーションは、百害あって一利なし。この辺りで撤退するのが望ましい。
瞬時に、ビスマルクの如き英断を下した俺は、そのまま紫の隣に座った。
ちなみに、ビスマルクが何をした人かは知らない。
「何が『そのまま』なのか説明して下さい。机一周してきましたよ、今」
ふむ……やはり、知らない人の真似をするものではないようだ。すかさず、縁が揚げ足を取ってきた。
「さっきから縁のツッコミが激しい……なんか一挙手一投足にいたるまでチェックされてる気がする」
「あなたの行動が自由奔放過ぎるんです。嫌ならもう少し自制して下さい」
「うん、大丈夫。全然嫌じゃないから」
「キモい……」
(……ッ!?)
「今のは紫か! 紫が言ったのか!?」
紫が初めて発した辛辣なコメントに、金槌で脳天を叩き割られたような衝撃を受ける。
「私もビックリです。紫がそんな露骨に感情を示すなんて。さすがは、和人君です」
「これは全然嬉しくない。てかやめて。紫、離れていかないで。俺が悪かったから。これから自重するから」
「……ホント?」
「はい、本当です」
「そう、なら良い」
紫がまた隣に戻ってくる。良かった、危うく泣くところだった。
「はい。じゃあ無駄話はそこまで。方針について話し合いましょう。じゃあ紫、宜しく」
「うん」
そして、紫が話し始める。
「むやみに心象領域を破壊して回れないなら、敵にとっての重要拠点を、まずは潰すべきだと思います」
あ、紫が敬語だ。なんか可愛い。
「そこ、うるさいからちょっと黙って」
「黙ってるよ!?」
「思念が騒がしいです。ていうか、敬語くらいでいちいち反応しないでくだ――」
「お姉ちゃん、うるさい。黙って」
「……はい」
ハッ、怒られてやがる。いつも人の思考に干渉してくる罰だ。
……いや、待てよ。今の状況、何考えても怒られないんじゃないか? からかい放題なんじゃないか?
「クッ……」
おっと、縁が悔しそうな顔をしている。やはり、紫に怒られる手前、強くは出れないと見える。よし、積年の恨み、ここで思いっきり――
「和人君、うるさい」
「なぜに!?」
まさかの紫からの注意。あれ? 今声出てた?
「顔がうるさかった」
「何それ!? 初めて言われた!」
「和人君、結構顔に出やすい。今のはお姉ちゃんの悪口を考えてる顔」
バカな……そんなピンポイントな顔なんてあり得るはずが……
「取り敢えず話が進まないから、二人とももう少し真面目になって」
「「はい……」」
俺たちの返事に満足そうな表情を浮かべ(と言ってもほとんど変化はないが)、紫が話を再開する。
「むやみに心象領域を破壊して回れないなら、敵にとっての重要拠点を、まずは潰すべきだと思います」
あ、最初から始めるんだ。さすが、紫。真面目。
「はい、質問」
「はい、お姉ちゃん」
「確かにアリだと思うけど、それだと、あの悪魔と遭遇する可能性が逆に高くなったりしないかな? 良い狩場なのは、向こうさんにとっても同じわけだから」
「うん。だから、第三者にとってはそうでもないけど、祥子にとっては重要。そういう場所を狙おうかなって」
その言葉で、縁には紫の言わんとしていることが分かったみたいだ。紫の意図を、わかりやすく言葉にする。
「つまり……捕まえてる魂の数は少ないけど、祥子にとっては逃したくない魂がいる領域を狙うってこと?」
「そう」
紫は静かに頷く。縁も「まぁ、それが妥当だね」と同意して、俺の方に顔を向けた。
「ということで、囮から盾に昇格した和人君、早速明日から仕事ですよ」
「そんな朗らかに言われても……やらないよ? 囮は勿論、盾の仕事も。だって俺、Z世代で耐久性に難ありだから。多分、俺のことを知っていれば、『矛盾』なんて言葉は出来なかったに違いないね。盾の一人負けだから」
「自分で言ってて、悲しくなりません?」
縁が憐れみを含んだ視線を俺に向ける。だが俺たちはストレス耐性が低い分、多様性への理解がある。自分のM気質を難なく受け入れることが出来れば、その視線は単なるご褒美だ。
「その考え、今ここで口外してあげましょうか? ふふっ……紫の反応が楽しみですね」
「?」
縁の言葉に、紫は不思議そうに首を傾げる。俺の首からは、汗が吹き出した。
「謹んで、盾の仕事、お引き受けいたします」
「よろしい」
厳かに、縁が頷く。その姿を見て、もう一度、紫が大きく首を傾げた。
「話し合いが一段落したところで、少し良いかしら」
きっとタイミングを見計らっていたのだろう。俺のソファになってからずっと黙り込んでいたソフィアさんが、おもむろに手を挙げた。
「祥子の心象領域に行くなら、私も連れてってくれるかしら?」
「ソフィアさんも?」
縁が僅かに眉を顰める。
「理由を聞いても?」
「私は和人君を見守るために日本までわざわざ来ているのよ? 危ない可能性がある所についていくのは当然でしょう?」
至極、尤もな主張。しかし、縁はそうは思っていないようだった。
「そこ……なんですよね」
更に訝しげに顔をしかめて、ソフィアさんに問いかける。
「最初から気にはなってたんですけど、なぜ、わざわざ中央から人員が? 和人君のケースは、そこまでの重大事ではない筈です。それが極東本部を通り越して、ジュネーブから人が来る。あまりに不自然すぎます」
「ベリアルは最高位階悪魔の一人よ? 特別視されてもおかしくはないのではなくて?」
「そうだとしても、そもそも本当にベリアルであったかすら疑わしい。それに、相手はすぐに逃げて、和人君には何の被害も出ていないんです。にもかかわらず、たった数日で人員を派遣しています。その理由は何です?」
「予防的措置よ。確かに情報の信憑性は確実ではないし、その被害も確定している訳ではない。ただその上で、その情報を無視することによって生じる被害可能性と人員派遣によるコストを天秤にかけ、前者がより大きいと判断した。何も不自然ではないわ」
縁が黙り込む。だが、それも束の間。すぐに口を開いた。
「……あなたの経歴を調べました」
ソフィアさんが目を細める。
「へぇ……それで? 何か不自然な点でも」
「何も。あなたが優秀なSC――精神治療のプロフェッショナルであること以外は、特筆すべき点は何もありませんでした」
「そう。なら良いのではなくて?」
「優秀過ぎます。今回の件には過分です」
「あなたにそれを言って貰えるなんて畏れ多いわ。でも、あなたたちの案件だもの、釣り合いが取れているんじゃない?」
再び、縁が黙る。今度の沈黙は少しだけ長く、色々と考えているようだったが、これ以上の追求は難しいと思ったのだろう。諦めたように、首を振った。
「……ふぅ。まぁ良いでしょう。元より、あなたの指揮権は私たちにはありません。好きにしてください」
「ありがとう」
ニッコリとソフィアさんが微笑む。
俺はというと、今のやり取りをボーと見守っていた。どうやら縁はソフィアさんに何か思うところがあるみたいだ。同じ組織に属していると言っても、規模が大きいときっと色々あるのだろう。よくある話だ。アニメとかで。
てことで、話を締めようか。
「じゃあ結論として、明日からここにいる四人で祥子の心象領域潰しを再開するということでいいのかな?」
「えぇ。みなさん、宜しくお願いします」
紫がペコリと頭を下げる。こういう素直なところが紫の可愛いところだ。どこかの姉にも見習って貰いたい。
「クッ……紫、そろそろ心の声に反応しても良い?」
「ダメ。まだ、どこの心象領域に行くかを決めてない」
縁が悔しそうに唇を噛む。今日はまだ暫く、遊べそうだ。
「和人君、うるさい」
「なぜ!?」
そんな調子で、夏休みの一日は過ぎて行った。
***
「まさか、ここが例の殺戮現場だったとは……」
翌日、攻略ステージに選ばれた空家の前に立ち、一人静かに感慨に耽る。
そんな俺の顔を、縁が覗き込んだ。
「ほぉ。その言い方からすると、以前から知っていたようですね。もしかして、幽霊屋敷として有名だったり?」
「いや、そういう事はないんだけど。この家十年以上前から空家でさ。小学生の頃、よく窓ガラスに石を投げ入れて遊んでた」
途端に、縁が呆れ顔になる。
「とんだ悪餓鬼ですね……あの一帯の窓だけ綺麗に割れてる理由がやっとわかりましたよ」
「ピンポンダッシュ Ver空家って感じかな」
「可愛らしい言い方をしないで下さい。普通に器物破損です」
「子供のやることだから……ところで、ここの所有者は誰なの? 被害者……というかイジメ加害者の父親?」
「そのようです。もうその人はこの街には住んではいないようですが」
「まぁ流石に住めないよね。息子含め五人も殺された場所に。逆に、よく取り壊されないで残ってたね」
「何だか計画自体はあったみたいですけどね。結局途中で立ち消えになっています。詳しくは教えて貰えなかったみたいですが」
「教えて貰えなかったって……会ったの?」
「これです」
そう言って、縁が紫に目配せする。姉の視線を受けて紫は頷き、ポケットを漁ると……
「あぁ、そうか。それないと入れないもんね」
ポケットから出てきたのは一本の鍵だった。
すると、一連のやり取りを眺めていたソフィアさんが、俺たちを急かす。
「じゃあ、早く中に入らない? いつまでもここに立っていると不審がられるわよ。ただでさえ、こんな空家に女性二人はミスマッチなんだから」
言われて気付き、ハッと周囲を見渡すと……確かに向かいの家の住人と思しきおばさんが不審げな顔でこちらを見つめていた。思わず会釈をするが、おばさんはそれに見向きもせず、胡散臭そうな眼光を俺たちに向け続ける。
ガチャ――
その時、不意に背後で音がした。振り返ると、いつの間にか、紫がドアの鍵を開けて中に入ろうとしている。おばさんもその姿を見て、ようやく俺たちから目を逸らした。
(さて……じゃあ行きますか)
気を取り直して、開いたドアの前に立つ。
鬼が出るか蛇が出るか――紫の後に続いて、家の中に足を踏み入れた。
玄関は、血の海だった――
なんてことはなく、何の変哲も無い、普通の玄関だった。長らく使われていないせいで、大分埃は溜まり、至る所に痛みは見えるが、元が新しい建物だったのだろう。まだ十分に使用には耐えると思われる。
俺たちは、まず居間に入った。一般的なダイニングキッチン。全体的に白を基調としており、所々埃や汚れでややくすんでいるものの、長い間放置されているとは思えないほど綺麗で、ましては祥子の心象領域があるようには見えなかった。
「何か感じる?」
隣にいる縁に問いかける。
「そうですね、巧妙に隠してはいるようですが……何はともあれ心象領域に入るのが早いでしょう。てことで。和人君、お手」
「ワン」
条件反射的に、差し出された縁の手を取ってから気づく。
「あれ? 紫とソフィアさんは行かないの?」
先程から興味深げに置物の狸のお腹をツンツンしている紫と、キッチンの戸棚の中を検めているソフィアさんに声をかける。
「行っても、私はあまり役に立てないから。ここの陣地を守ってる」
「右に同じよ」
ソフィアさんはともかく、紫は俺よりは役に立つんじゃないだろうか? ただこの場に残って、狸のお腹をツンツンしたいだけなんじゃないかと邪推してしまう。
「さて、じゃあ行きますからね。奥歯噛み締めて下さい。舌噛みますよ」
「え? ちょっと待って。俺たちはこれからどこに行くの? そんな衝撃が今か――」
最後まで言わせて貰えなかった。次の瞬間、視界がグニャリと歪み、紫が視界から消える。そして――
「わ~お」
幸い、舌を噛むようなことはなかったが、衝撃を受けるという意味では確かにその通りだった。坂東邸の場合は、まるっきり違う空間に飛ばされた感じだったが、今回は同じ建物ではあっても、その変わり具合が大分えげつないことになっていた。
白かった内装は灰色に変色し、至る所に血痕が付着している。そこら中に割れた皿が散乱し、家具はあらかた破壊され、もはや廃墟と言って差し障りない程度には荒廃していた。
「そのモノローグからかなりショックを受けたような印象を受けますが、その衝撃を受けた第一声が『わ~お』だったことを考えると、途端に嘘っぽくなりますね」
「いや、人間って本当に衝撃を受けると、語彙が貧弱になるっていうじゃん?」
「あなたの場合は一律『わ~お』でしょうが。一体何の癖ですか、それは」
「まぁ細かいことは良いではないか。それよりどう? 祥子とか、出てきそう? もしホントに出てきたら、俺はそこの机の下に隠れる方針でOK?」
「OKじゃありません。普通に私の後ろから離れないでください。私から離れたら、その瞬間に『ぱくっ』ですよ」
「え? ……可愛い。もう一回言って」
「がぶっ」
「いたっ!!」
飛び退いて、いきなり噛まれた腕を見る。見事に、縁の歯型が残っていた。
ドキッとするほど、綺麗な歯並びだった。
「歯並びに興奮する、歯医者さんの気持ちが初めて分かった」
「唐突に酷い風評被害ですね……そんな特殊性癖の歯科医は、この日本にはいません」
「そんな馬鹿な……彼らはプロだろう?」
「プロだから何か?」
縁が呆れた顔をして、周囲に視線を走らす。どうやら、俺の相手をしてくれるのはここまでみたいだ。
「……いました。歯並びで興奮する変態」
だがそういうことでもなかったらしい。唐突に顔を歪ませた縁が、吐き捨てるように言う。
「え? それはもしかして、あの駅前の――」
「違います。一歩間違えれば訴訟に発展しそうな名誉棄損は止めてください。あそこの医院長、普通に良い人なんですから。そうじゃなくて……その変態っていうのは、ここで祥子に暴行した人のことです」
言いながら、縁は部屋の隅へと歩いていき、傷だらけのソファに触れる。そして――
「辛い、苦しい。そして……後悔と、罪悪感」
「縁?」
その瞬間。明らかに、縁の雰囲気が変わった。今まで俺と馬鹿話をしていた緩い雰囲気は一瞬にして消失し、虚ろな目で中空を見つめる。
「そうか……それが、あなたの後悔。あなたが、生まれた理由ですか」
中空を走る視線。やがてそれは、中央に俺を捉えて、止まる。
「今、この場に滞留していて祥子の想い――つまりは記憶が、私の中に流入してきました。恐らく、祥子の原点になっている、後悔の記憶です」
驚く俺を軽く一瞥した縁は、目を閉じて、語り出す。
「彼女、好きな男の子がいたみたいなんです。その男の子は決してクラスで目立つような子じゃなくて、勉強も運動もそんなに得意じゃなくて……でも、とても優しい子でした」
伝聞調の語り口が、徐々に変化していく。まるで祥子が、縁の口を借りて語り始めたかのように。
「私が虐められるようになって、でもまだ、取り返しがつかなくなるより前……辛い思いをイライラという形で彼にぶつけてしまった。でも言ってから、後悔した。彼は何にも悪くない。なのに、私はそれが言えなくて……背を背けて彼の元を離れた。彼は……私を追ってはくれなかった……」
いつしか、縁の目からは涙が溢れていた。縁の顔で、祥子が泣いている。
「その日の放課後……私の身体は穢れてしまった。もう取り返しがつかなくなった。彼と目が合わせられなくなった。その後も、どんどん穢れていった。どんどん取り返しがつかなくなった。もう穢れてないところなんてない。私はもう誰とも……誰とも顔を合わせられない。この顔がおぞましい。この口が疎ましい。この匂いが恨めしい」
止まらない。祥子の想いが止まらない。
「なんでお母さんは、私をこんな風に産んだの? なんでお父さんは、私なんかを育てたの? 生まれなければ、死んでしまっていたら、あいつらに会うことなんて無かったのに……あぁ、許さない。私は奴らを許さない。私をめちゃくちゃにした奴らを、決して許さない。殺してやる。殺してやる。殺してやる。奴らを殺して、奴らを生かした世界を壊す。壊して、壊して、壊して、壊して。すべてを、私が跡形もなく、すべて……」
そこで、ようやく声が途切れる。口を閉ざした縁は、流れた涙を両手で拭うと、俺が立つ所まで戻ってきた。
「これが、祥子の原点です。苦痛と、後悔と、罪悪感。そして怒り。それらがすべてごちゃまぜになって、これから先の感情は流石に再現できません。でも……ただただ暗い。比喩でもなんでもなく、今なお地獄の中を、祥子は彷徨い続けているんです」
そう話す、縁の頬に残る涙の痕が生々しい。乾いた後も消えないその痕跡が、死んだあとも人を苦しめ続ける、業(カルマ)の象徴のように見えた。
「なんだか……本当に祥子を退治して良いのか、分からなくなってきたな……」
だから、思わずそんな言葉が口から溢れる。死者に鞭打つではないけれど、苦しみ続けている祥子にこれ以上の苦痛を与えるのは、どうしたって良心が痛んだ。
でも……縁はゆっくりと、首を振る。
「違います。退治しなければいけないんです。彼女がこれ以上罪を作る前に。彼女の止まった時が、再び動き出すように。彼女がもう一度、笑顔を取り戻せるように。だって――」
縁が俺の手を握る。
「魂は、永遠なんですから。何があっても……どんな失敗をしても……もう一度やり直すことができる。再び、歩き始めることができる。だから彼女にも、その機会を」
そして、縁が俺の手を引っ張る。
「行きましょう。それが私たちの使命です」
二階は一階と遜色無い、いやそれ以上に荒廃していた。もはや傷ついていない家具を見つけることは難しく、また視界内に血痕を収めないでいることは不可能に近かった。しかも二階に上がった途端薄暗くなり、一気に周りが見えづらくなる。
俺たちは床に散らばった何かの残骸を踏みつけないように慎重に進む。二階にはざっと見たところ三つの部屋が存在し、それぞれの部屋から明かりが漏れていた。
「どこから行く?」
そう尋ねると、縁は迷わず即答した。
「奥から行きましょう。攻めるなら、最初に一番手強そうな所から始めるべきです」
そう言うと、縁は先行して進み始めた。ものの数秒で目的地の前に辿り着く。
縁は深呼吸を一回挟むと、ドアノブに手を掛けた。その姿を見て、ふと嫌な記憶が甦る。
「何だかこのシチュエーション、嫌なデジャブを引き起こすな……この先に、騎士服のコスプレした男とかいないよね?」
「私の見立てでは、今度はメイドですね。マントの需要を満たしたんですから、ここで日本お馴染みの給仕服が出てこなければ、片手落ちも良いところです」
「確かに、もっともな意見だ。その時は縁も着用体験に挑戦してね」
「……嫌ですよ、何でそうなるんですか」
「ヒロインのメイド服姿はお約束でしょう。本当はここで巨乳ヒロインと貧乳ヒロインが一人ずついて、それぞれの違いをコメントするところまで含めて、様式美なんだけど」
「ぶち殺しますよ。誰が貧乳ヒロインか。貧乳バカにすんな」
「月並みな台詞で申し訳ないけれど、胸の大小に貴賤はない。あくまでもそれは装飾の一つ。むしろそのパーツ一つを取って、大きいのが貴いだの、小さいのがステータスだの言っている風潮に物申したいね。なぜ多様な要素の集合美こそが真に重要なのだという単純な真実に、人は気付かないのか」
「その意見には僕も賛同するね」
「「!?」」
思いがけないところからの同意に、俺と縁は飛び上がる。その声は、開きかけたドアの中から聞こえてきたのだ。
「ほら、そんな所に立っていないで、早く入っておいでよ。祥子以外のお客さんは久しぶりなんだからさ」
縁と顔を見合わせる。何か出てくるなら祥子だろうと思っていたから、これはかなり意外な展開だった。しかし縁は肩をすくめ――
「入ってみましょ。進まないことには何も分かりません」
そのまま、ドアを開いた。
ごく普通の部屋だった。いや、もちろん正常な部屋と比べると、汚れも目立つし、壊れた家具も目につく。ただ、これまでに見てきた建物の様子と比べれば、被害が少ないのは一目瞭然だった。そしてその部屋の約三分の一を占めるベッドに、その男は腰掛けていた。
「三村裕也(みむら ゆうや)……ですか」
縁が納得したように頷く。その男――三村裕也は縁の呟きを聞いて、驚いたようだった。
「僕のことを知っているのかい? 申し訳ないけど、僕は君たちのことは知らないな。どこかで会っているかい?」
裕也の問いかけに、縁は首を振る。
「いえ、私が一方的に知っているだけなので、お気になさらず。それよりあなたは、この家の持ち主ですね?」
「僕の父親がね。まぁ今となっては父親かどうかも疑わしい。僕もまとめて、この家を祥子に売り渡したんだからね」
「どういうことです?」
縁が眉を顰める。
「だってそうだろう? あの日、瀬戸(せと)のバカが祥子を家に連れてきてから、ずっとこの家に軟禁状態だ。この家に来るのは祥子だけ。きっと祥子に誘惑されて、家ごとあげちゃったに違いないよ。良い大人が、普通女子高生に手を出すかね」
唖然とした。一見まともそうなのに、自分が生きたまま祥子に監禁されていると思っているのだ。常識で考えれば、今がどれだけ奇妙な状態なのか、わかりそうなものなのに……
『人は自分の見たいようにしか、世界を見ませんから』
ふと、縁の言葉が蘇る。今やっと、その言葉の意味を理解した気がする。一体、彼にはこの世界がどんな風に見えているんだろうか?
「お父さんに会ってきました」
その時、突然縁が思いがけないことを口にする。
「父親に? またどうして? もしかして、君も父親と援助交際でもしているのかな? あぁ、それでこの場所に来れたというわけか。言うなれば、君が僕たちの新しいご主人様になるのかな?」
「あなたのお父さんは、あなたのことを宜しくと。もしまだ囚われているなら、解放してくれと言っていました」
裕也が怪訝そうな顔をする。
「……どういうことだ? まるで親父がここのことを知らないみたいな口振りだな」
「その通りです。あなたのお父さんが知っているのは、十八年前、あなたがここで祥子に殺されたことだけです」
その言葉で、今まで飄々としていた裕也の表情が変わった。
「……なんだって? 今なんて言った?」
「あなたはここで祥子に殺されました。もう十八年も前のことです」
「…………ハハハ……何を馬鹿なことを。じゃあ今ここにいる僕は一体何なんだ? ベッドにだって座れる。ドアだって触れる。君たちにだってきっと触れるさ。そもそも、君たちは僕のことが見えてるじゃないか。こんな幽霊がいるものか」
「それは、あなたがそう認識しようとしているからです。あなたの常識が現実を受け入れることを拒み、自ら虚構を作り出しているからです。でも、そろそろ良いんじゃないですか? そろそろ、前に進んでも良い頃です」
それだけ言うと、縁が裕也に近づいた。裕也は警戒するように、ベッドの上で少しだけ後退する。
「裕也さん、私に触れてみて下さい」
「……何を……」
「どこでも良いですよ? 何なら、胸でも構いません」
縁は優しげに、でも少し悪戯っぽく微笑む。
警戒していた裕也だったが、その笑顔に釣られるように手を持ち上げ、控えめに縁の頬に手を当てがった。
「!? 透け……た?」
俺も初めて見た。裕也の手は縁を捉えることが出来ず、縁の顔の中に入り込む。
「えぇ。何を隠そう、私もあなたと同じで死んでいるんです。でも、どうです? あなたには私がどう見えますか? 死んでいるように見えます?」
裕也は黙って首を横に振る。
「さぁ、では今度は自分のお腹を触ってみて下さい。一度自分の常識は取り払って、自分は死んでいるものと思って、触ってみて下さい」
裕也は不安そうに縁の顔を見つめる。縁は優しげな微笑を崩さず、静かに頷いた。
裕也が、ゆっくりと自分の手をお腹に添える。
「……透けた……」
自分の中に入り込んだ手を、裕也は呆然と見つめる。だが、縁を触った時のような驚きは感じられなかった。
「死んでも魂は残ります。そして魂には物理的制約は働きません。でも本人の意思次第では、虚構の制約を作り出してしまうことも可能です。この世の常識が、あなたの魂の自由性を阻害しています。あなたも本当はこんなところに囚われている必要はないんです。もっと自由に――ただ、それを受け入れれば良いんです」
しばらくの間、自分の中に手を出し入れしていた裕也は、やがて力なく首を振る。
「にわかには信じがたい。悪い夢でも見ているみたいだ」
「いえ、実際に見ていたんです。今までの十八年間は本当に悪い夢でした。だから、そろそろ目覚めなければいけません」
「目覚めるって……どうやって? 僕は祥子によってここに閉じ込められている。祥子……話から推察するに、あいつも死んでいるのか?」
「えぇ。あなたたちを殺して、すぐに飛び降り自殺を」
「はぁ……本当に迷惑な奴だな。そもそも、僕は別に虐めてなんてないんだぞ? ただ、瀬戸に脅されてこの家を貸していただけだ。完全に俺は被害者だ」
「……そうですね、そうなのかもしれません。ですが、周りは誰もあなたの人生に責任を持ってはくれません。どんなに理不尽だと思っても、自分で責任を取るしかないんです。だったら、少しでも自分にとってプラスになることをしましょう? それは不満を言うことではなく、自分に出来ることを模索することだと思います」
「そうは言っても……君が言うにはもう僕は死んでるんだろ? なら今更じゃないか。僕の人生は終わっている」
「でも……命は続いていますよ。そして、それはこれからも。だから、まだ全然手遅れではありません。出来ることをしましょう? 私がそのお手伝いをします」
しばらくの間、裕也は動かなかった。どうすれば良いのか、何が正しいのか、判断がつかないのだろう。だがそれでも裕也はやがて、諦めたように首を振った。
「まぁいいさ、どうせここにいても何も出来ないんだ。なら、君の話に乗ってみるのも悪くないさ。それで? これから何をするんだ?」
「それなんですが……あなたには、ここに囚われている人に私たちを紹介して欲しいんです。確かここでは、あなたの他に四人殺された筈なのですが」
「あぁ……あの日一緒にいたメンバーかな? だとしたら、三人は近くの部屋にいるよ。瀬戸だけは、見かけないけど」
「瀬戸……虐めの主犯格ですね?」
「そう。奴の姿だけはしばらく見てないな。まぁ一番怨みを買っているのは間違いなくあいつだから、どこか別の場所で特別な待遇を受けているのかもしれないけど」
……特別な待遇ね。
「そうですか。なら取り敢えず今いる三人をお願いします。皆、それぞれ別の部屋ですか?」
「いや、一人と二人に別れているね。まず一人の方に案内するよ。まだ、そっちの方が人間味が残っているからね」
と、そんな不穏なことを言ってから、裕也は「よっこらしょ」っと、立ち上がった。
「この部屋なんだけど……」
裕也が階段側に位置する部屋の前で立ち止まる。この部屋からも確かに灯りが漏れているが、他の二部屋と比べて、随分と暗い印象だ。
「案内ありがとです。じゃあ、説得もお願いして良いですか?」
「無駄だと思うけど……」
そう裕也は呟きつつ、ドアをノックする。
「理衣(りえ)さん? 入って良い?」
返事はない。
「理衣さん、理衣さん」
しばらくの間、裕也の呼び掛けは続いた。だが、中からは何の反応も返って来ない。
「ふ~。やっぱり駄目みたいだね」
やがて、諦めた裕也が息を吐く。
「そうですか。仕方ありません、勝手に入室しちゃいましょう」
それを見た縁が、そう言うが早いがドアノブに手をかけ、開け放つ。瞬間、気温が五度くらい低くなった。
「何だ……ここは」
今までのどの部屋とも違う。一言で言えば、洞窟のような空間だった。と言っても、内装が違うわけではない。環境が違うのだ。薄暗くて、ジメジメしていて、何より漂っている空気が腐っている。『陰鬱』という言葉がここまで似合う部屋は、中々無いだろう。
「この部屋の主は、随分と暗い性格の方みたいですね」
縁が部屋の奥を指さす。その先、ベッドと壁の隙間に彼女は嵌るように座っていた。顔を下にして蹲り、俺たちが入って来たにも拘らず、微動だにしない。果たしてアレは『暗い』なんていう簡単な言葉で形容しても良いような存在なのか、俺にはわからなかった。
「さぁ、裕也君。話しかけてみて下さい」
「無駄だと思うけどなぁ……」
裕也は再びそう繰り返しつつも、ゆっくりと理衣さんに近づいていく。
「理衣さん、久しぶり。ちょっと話良いかな?」
遠慮がちなオドオドした声。当然、理衣さんも反応を返さない。
「ダメみたいだね」
裕也がこちらに振り向く。その様子を見て、縁は小さく頷き、
「わかりました。少し私が話をしてみるので、場所を空けてください」
そう言って、裕也の脇をすり抜け、理衣さんの前に立つ。
「理衣さん。私の声が聞こえますか?」
反応はない……いや、少し……声が聞こえる? 聞き取れないくらいの小さな呟き。
俺は耳を澄ました。
「……あいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだあいつのせいだ」
思わず後ずさる。それは、聞くだけで気分が悪くなりそうな、そんな呪詛の塊だった。
「これは……結構精神にきますね」
縁が引き攣った顔で、俺の方を見る。当然だ。縁は他者の思念を読み取る。言葉だけでも気分が悪くなるほどなのだ。縁が受けているストレスはその比ではないだろう。
「無理するな。早く片付けよう」
「……いえ、大丈夫です」
しかし、縁は俺の言葉を抑えると、一度深呼吸をしてから、また彼女に話しかけた。
「理衣さん。あなたを助けにきました。もう大丈夫です。だから、少しお話しましょ?」
縁の優しげな声が部屋に響く。意外なことに、その声を聞いて理衣さんの呪詛が止まった。
「知らない声……誰?」
理衣さんが俯いていた顔を上げる。そんな理衣さんに、縁が自己紹介をした。
「縁と言います。あなたを助けに来た、エクソシストです」
「エクソ、シスト? ……それって、よく映画に出てくるみたいな?」
「はい、そうです。よくご存じですね」
縁が微笑む。しかし、理衣さんはそれには答えなかった。
「エクソシスト……エクソシスト……」
譫言のように『エクソシスト』という単語を繰り返しながら、光を失った目でじっと縁を見つめる。そして――
「なら、教えて? 人を呪う方法を。人を呪い殺す方法を。エクソシストなら知っているでしょ? 私じゃダメみたいなの。だって、ずっと呪っているのに、全然死んでくれないんだもの。早く殺さなきゃいけないのに……殺さなきゃ……殺さなきゃ……ころさなきゃ……」
再び、呪いの言葉を呟き始める。やはり、まともな精神状態ではないらしい。
(これは一旦撤退して、先に他の人を説得するなり、祥子を退治するなりした方が良いかもしれないな……)
そんな風に考えた俺は、その考えを伝えようと縁の方を向いて、言葉を呑み込んだ。床に膝をつき、震える理衣さんを抱きしめる縁の姿を見たからだ。
「理衣さん……」
縁の手が、ボサボサになった理衣さんの髪を撫でる。
「大丈夫。もう誰もあなたを傷つけません。だから、もう誰も呪わなくて良いんです」
その手が、何度も彼女の背中を行き来する。
「呪いたい気持ちもわかります。怨みたい気持ちもわかります。でも、私は……あなたに幸せになって欲しい。あなたに再び笑顔を思い出して欲しい。だから、敢えて言います。もう人を呪うのはやめましょう? あなたはもう充分苦しみました。だから、これからは幸福に向かって進む時です。いつまでも過去に囚われていてはダメです」
まるで縁の声が柔らかい絹となって、理衣さんを包み込んでいくようだった。縁の優しさが理衣さんを抱きしめ、冷たく凍りついた彼女の心を溶かしていく。
理衣さんが再び顔を上げるまで、そう時間は掛からなかった。
顔を上げた理衣さんが言う。
「幸福? ……あいつが生きている限り、私は幸福になんてなれない」
「あいつ……あなたを虐めていた人ですか?」
「そう……私はいつもあいつに利用されてた。それが……標的が祥子に代わって……やっと安心したのに。それなのに……また巻き込まれた。全部あいつのせい。中学の時からずっと……私の人生はあいつのせいでおかしくなった。あいつのせいで……」
憎しみが奔流する。長年にわたって積み重なった負の蓄積は、そう簡単に消えたりしない。それでも、縁は引かなかった。その全てを受け止めて、優しく理衣さんの頭を撫で続ける。
「そうなのかもしれません。それはきっと間違ってない。でも……でもね。不幸だけでなく、幸福までその人に左右される必要はない筈です。だってあなたは、自由なんですから。環境は変えられなくても、他の人の行動は変えられなくても、でもあなたの心の中だけは、完全にあなたの自由なんです。だから……理衣さん、幸福になりましょう? 不幸の連鎖はここで終わりにしましょう?」
理衣さんの幸福を心から願う縁の言葉。それはきっと、理衣さんにも伝わったのだと思う。理衣さんは考え込むように、黙り込んだ。
「……」
沈黙の時間が流れる。次に理衣さんが口を開いたのは、随分と時間が経ってからだった。
「でも……やっぱり許したくない。すべてを台無しにしたあいつを」
一言だけ、そうポツリと呟く。しかしそれを聞いても尚、縁は微笑みを崩さなかった。彼女の頭を撫でながら、優しく告げる。
「台無しなんかじゃ、ありませんよ」
「……え?」
理衣さんが驚いた顔で縁を見る。そんな理衣さんに、縁が笑いかける。
「だって、あなたは絶望から立ち直ることが出来たんですから。暗闇の中で、光に向けて歩き出すことを決めたんですから。その記憶は、きっとあなたの宝物になります。あなたの道を照らすカンテラに、きっとなってくれる筈です。だから――」
縁が理衣さんから離れ、手を伸ばす。
「だから……行きましょう? 幸福が、この先であなたを待っています。呪うことをやめて、前に進む勇気があるのなら、幸せになる勇気があるのなら……私の手を取ってください」
それでも、理衣さんはすぐには動かなかった。逡巡するように目を泳がせ、微笑んだ縁の顔と、差し出されたその手を交互に見つめている。でも、やがて――
「うん。私も……幸せになりたい」
縁に向かって小さく頷くと、差し出された縁の手に、自分の手をゆっくりと重ねた。
「ありがとう」
嬉しそうに微笑んだ縁。理衣さんの手を掴み、小さく囁いた。
「じゃあ……少しだけ、待っててね」
「?」
縁は、不思議そうな顔をする理衣さんにニッコリと笑いかけると、唐突に右手を後ろに向かって振り抜いた。
「ギャアァァ!」
叫び声と共に上がる血飛沫。ドスンという鈍い音とナイフが床に落ちたカランという高い音。俺は隣で起こった一瞬の出来事に、声を上げることも出来なかった。
「ふ~。人が変わったような突然の殺意。やはりあなたは、祥子に繋がっていましたか」
立ち上がりつつゆっくりと振り返った縁が、床に尻餅をついている裕也を見下ろす。裕也は手首から先が無くなった右手を庇いつつ、座ったまま後ずさった。
「いや、違う。何だか突然手が動いたんだ。僕にそんな気はまったくない」
「嘘をつく相手は選んだ方が良いですよ。私にはあなたの思考が見えるんです」
縁は切先を裕也に向ける。
「祥子の残滓は色濃く残っているのに、あまりにその気配を感じないので不思議には思っていたんです。でも内偵が紛れ込んでいるのなら、祥子の介入は最小限で済む。こうして虚をつくこともできる……考えていますね。もはや悪霊のレベルではないのかもしれません」
冷静に語りかける縁とは対照的に、裕也の顔は苦痛と怒りでどんどん歪んでいった。
「おまえ……僕だって理衣と同じで被害者だぞ! なんでそいつは助けて僕のことは斬ろうとするんだ!」
「私だってそんな気ありませんでしたよ。でも、あなた――祥子と繋がり過ぎです。穏和な手段は無駄だと判断しました。故に、強硬策を取らせてもらいます」
そう言うが早いが、縁は裕也の頭上に向けて、刀を一振りした。
「……おまえ、何をした?」
何かを察知したのだろう。裕也の声が震える。
「祥子があなたに付けた蜘蛛線(ちちゅうせん)を切断しました。もうこれで、あなたはこの空間に止まれない」
瞬間、裕也の顔が恐怖に歪む。
「おまえ……切ったのか? そんな……そんなことしたら……また地獄に落ちちゃうじゃないか!」
「そこが、あなたのいるべき場所です」
「ふざけるな! おまえ……あそこがどんな場所か知っているのか!? 嫌だ……もうあんな目には二度と――」
「そこで、反省してください。それが、あなたのやるべきことです。いずれ、出てこれるでしょう」
その言葉が終わる頃には、もう裕也は跡形もなく消えていた。まるで、元々そこには誰もいなかったとでも言うように。裕也の唯一の残滓は、床に転がった一本のナイフだけだ。
「……さて、お待たせしました」
俺は……そして恐らく理衣さんも、その声で我に返った。呆気に取られていた俺たちは、再び理衣さんに向き直った縁の顔を見る。
「私も……裕也君みたいに地獄に行くの?」
理衣さんの顔には、恐怖が宿っていた。当然だ。今のやり取りを見て、自分の行き先に不安を覚えない方がおかしい。
「いえ、あなたは同じにはなりません」
けれど、縁は迷いなくその恐怖を否定した。
「あなたはまず、普通の人と同じように三途の川へ。その後の行先は、そこで示されるでしょう」
とは言っても、大丈夫とは言わない。天国に行くとは言ってあげない。そのことに俺は気付いてしまい……果たして理衣さんも気付いたのだろうか?
理衣さんは未だ顔を強張らせたまま、落ち着きなく視線を彷徨わせて……そんな理衣さんを縁がもう一度、優しく抱き締めた。
「でも一つだけ……これだけは覚えておいてください。あなたは一人じゃない。たとえこれから何があっても、神はいつもあなたを愛しています。あなたの傍らで、あなたを支えてくれています。そしてそれは、あなた以外の人に対しても同じです。だから……自分を愛してあげて。他人(ひと)を愛してあげて。そうすればきっと、世界は輝いて見えるはずだから」
語り掛けながら、縁の手は動く。先程裕也の死霊線を切断した刀が再び空を切り、理衣さんの頭の上を通り過ぎた。
ぴくっと、理衣さんが震える。それでも、縁の抱擁から逃れようとはせず、縁の肩に顔を預けたまま、一言だけ、小さく呟いた。
「ありがとう。私、頑張ってみる」
「………はい」
しばらくして、縁は言葉を返した。既に誰もいなくなった、その虚空に向かって。
「頑張ってください。ずっと、応援していますから」
それから、ゆっくりと立ち上がった。佇むその後ろ姿に、俺は声を掛ける。
「終わったのか?」
「はい」
「理衣さんは……この後……」
「言った通りです。三途の川に行って、その後は生前の行いによって裁かれます。もしかしたら……彼女も地獄に行くかもしれません」
「そう……か。何とか出来なかったのか?」
「何とも……出来ないんですよ」
そこで、縁が振り返った。寂しげで……けれど、ハッとするほど美しい表情が、そこに広がっている。
「何か勘違いしているかもしれませんが、私は別に救世主なんかじゃありません。彼らを成仏させる力なんてない。ただ、彼らをこの地上に止めている束縛を切断する。その後の行き先は、彼らの心次第です。私が出来ることは、穏やかに旅立てる様にお手伝いをすることだけ」
それだけ言うと縁は、
「さて。まだ二人ほど残っているんです。先を急ぎましょう」
と、横を通り過ぎて、部屋から出ていこうとする。
「救世主じゃなくても!」
だから、その後ろ姿に向かって声を張り上げた。その寂しげな顔に、これだけは言っておきたかったから。
「それでも、縁は理衣さんにとっての、ヒーローだったと思うよ」
一瞬だけ、縁の歩調が遅くなった。それでも、結局縁は何も答えず、俺もそれ以上、何も言わない。急いで、縁の隣に追いつくと――
もう振り返ることなく、二人一緒に、理衣さんの部屋を後にした。
次の部屋は、開けた途端に無理だと悟った。
先程の部屋のイメージ色が黒なら、この部屋はピンクだ。しかも毒々しいほど濃厚な。
「この部屋は私一人で対処します。和人君はここで待っていて下さい」
中の様子を確認した縁は、顔を強張らせたまま指示する。
「でも……こんなところへおまえを一人で行かせるわけには」
縁の身を案じる俺に、縁はやや恥ずかしそうに頬を染める。
「家族でドラマを観ていたら、突然濡れ場が出てきて気まずくなった経験ありませんか? あれと同じ気分を味わいたくないんです。それに……正直和人君とここに入った方が、私は身の危険を感じます」
そんな失礼な! と思ったが、正直そんな気がしていたから何も言えない。
「もう……本当にあなたはしょうがないですね……じゃあ、わかりましたね? ここに居てくださいよ?」
そう言って縁は中に入って行った……と思ったら、ものの三十秒ほどで出てくる。
「あれ? 随分早かったね」
「……なるべく、見ないようにしましたから」
「説得は試みなかったの?」
「何ですかそれ……新しい羞恥責めですか? 趣味悪いですね」
縁は半眼でこちらを睨む。今回は本当にそんな気なかったのに……
「さてと……瀬戸紘一(せとこういち)はここにはいないようなので、囚われていそうな人はこれで全部ですかね。最後に家を一周して、紫たちのもとに戻りましょうか」
そうして俺たちは、もう一度各部屋を確認してから、心象領域を後にした。
「お帰りなさい」
やや疲れ気味な表情で現象世界に戻ってきた俺たちを、紫が迎えてくれる。
「ありがとう。そっちは問題なかったか?」
「うん。狸に穴が空いたこと以外は何も」
言われてみると、棚に置かれていた狸の腹に綺麗な小穴が空いていた。丁度、女の子の人差し指が入りそうなくらいの。
どんだけ、ツンツンしてたんだよ……
「きっと、あなたたちのことが心配で仕方なかったのよ」
呆れ顔を隠せない俺たちの背後から声が掛かる。
「ソフィアさん。おつかれさ――」
そう返事をしつつ振り返り……今度は絶句した。
キッチンがピカピカに磨き上げられていた。もはやここを見ただけなら、新築と言われたらきっと信じてしまうだろう。更には、何故かエプロンを身につけているソフィアさんがそこに立つことで、高級一戸建ての新築内覧会みたいな雰囲気になっていた。
「……エプロン、似合いますね」
内心の動揺を押し隠し、男の意地で、何とか服装を褒めることだけには成功する。
「そう? ありがとう」
あくまでクールなソフィアさん。それにしても、この人も一体何をしているのだろう……
「あなたは一体何をしているんですか……」
我慢した俺に代わり、縁がツッコミを入れる。流石、このパーティにおけるツッコミ担当。プライドがある。
「ほら。よく言うでしょう? 試験勉強の息抜きに部屋の掃除を始めたら止まらなくなっちゃったっていう。アレよ、アレ」
「何がアレなのかさっぱりわかりません。そして、紫も。なんで狸のお腹に穴開けてるの」
「だって……よくあるでしょう? 試験勉強してたら、狸のお腹が気になって、それで……」
「「ないわ!!」」
俺たちは同時にツッコむ。
それを聞いた紫は、なんとも嬉しそうに顔を綻ばせた。
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